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鉄道車両、ストレッチャー、タオル、廊下、バス、本、映画スクリーン…。直方体が伸びたり縮んだり、動いたり止まったり、出たり入ったりする夢【マンダラ夢分析】

    はじめに
    心の動き方を「マンダラ」状にモデル化する

    夢のビジョンにおいて、見られ、記憶され、覚醒後に言葉で報告される不思議な世界というのは、心の「深層」の脈動から立ち昇る振動が、表層意識の一番底・感覚印象の記憶の束に投射されたときに、そこに浮かび上がるパターンである。

    神話も夢も、人間の心の「深層」の同じところの脈動から立ち昇る振動が表層意識の一番底に、その底面の平面に浮かび上がらせるパターンであり、そのパターンを意識が自覚できる相にまで浮かんできた姿こそ、「マンダラ」である。

    マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。
    正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、そしてその四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。

    視覚的イメージとしてのマンダラ
    語りに現れる「述語」としてのマンダラ

    このマンダラは四項関係や八項関係のイメージ、いわゆる曼荼羅として直接ビジュアル化される(視覚的なイメージなる)場合もあれば、夢の中での自/他の距離感が伸び縮みするような経験として現れる場合もある。

    例えば、夢において、四人の(もちろんこの四人がもっと多くに分かれてもいいし、そのうちの幾人かが省略されてもいい)登場人物が喧嘩したり仲良くなったり、分離したり結合したりを繰り返すようなことである。

    夢で「私」と私ではない他の登場人物たちとは、ある場所において(円形の空間の中や、四角形の部屋の中、四角いテーブルの周囲)で繰り広げる分離と結合、愛/憎の両極の間を揺れ動く。

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    神話論理と夢分析

    マンダラは「神話」の語りとして、神話的な神々や超自然的な存在者たちが結合したり分離したり、ぐるぐる回ったり、逃げたり追いかけたり、半分になったりする話として言語的な姿を示現することもある(しないこともある)。

    神話の場合は、語りの終わりで、下図におけるΔ1〜4を分けつつも過度に分離しすぎないようにつないでおく、正方形と内接円(外接円)を組み合わせたような曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指している。

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    神話の語りはじめには、まだΔはない。

    何もないところから(ある/ないのペアすら”ない”ところから)、まずΔたちが収まる「余地」を切り開くこと、Δたちを配することができる「場」を生成することからはじめないといけない。
    そこに野生の思考の神話論理が動く。

    経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。

    神話の語りは、まず図で「β」と表記した両義的媒介項二項が、第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きを語る。

    これを言語的な語りに託さずにイメージだけで感覚しようとすると、ちょうど一点から螺旋が回転し始め、その回転の渦が拡大して、安定的に円を描くようになる、といった具合になる(ならなくてもいい)。

    この円の中に(外に)正方形が、Δ四項を四つの角とする四角形が浮かんでくる。

    一方、あくまでも言語で語り、「登場人物」たちの動きに託して語る神話では、お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの両義的媒介項(β)たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離するという具合に動く。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。


    両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」であるとか、「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」とか、「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」とか、「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている。

    そのようなものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話は、この経験的に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。

    そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出すというやり方で両義的媒介項を制作(ブリコラージュ)するのである。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図ではΔに対するβ)という。

    このβたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とをバランスさせる。

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    ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。

    そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

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    両義的媒介項たちの距離の伸縮を表現する述語

    神話では、お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つのβ項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。

    • 任意のβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり縮んだり

    • 任意のβ二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり縮んだり

    • 2または3、または4つの任意のβ項が中央の一点に集まったり広がったり

    という具合に、β項間の距離を伸縮させる振動(振幅を描く動き)が起こる。

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    私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その名、その主語的なあり方(Δ、「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれらの主語的なものたちは、あくまでも引き離したり近づけたり、分離と結合の伸縮を自在にする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿が浮かび上がってくる、動きの痕跡である。

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    主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている。

    私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている。

    *

    私(この文章を書いている筆者)は、以前から、クロード・レヴィ=ストロース氏が『神話論理』で分析している神話の語りを、八項関係のマンダラ状の図式に照らし合わせて読み直してみようという試みを続けている。ぜひご参考にどうぞ。

    このような分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動きを、「夢」のビジョンにもみることができる。ことによると神話は、いま現在ここで生きる私たちからは時間的に空間的に遠くへだったものと感じられるかもしれない。しかし神話とおなじ動きが、神話を発生させるのと同じしくみが、今ここでも、私たちの心の深みで動いており、それが毎晩のように、私たちの昼間の意識が分別に固着し分けて選んだ方にこだわっているところを少しづつほぐし、分けるでもなく分けないでもない、選ぶようで選ばない、心の深層のバランスを取り戻そうとしているのである。

    * *

    主語たちの述語的様相にフォーカスする

    「何であるか」はとりあえず脇に置いて
    「どう動くか」をみる

    この神話や夢に表現された心の深層の仕組みが動いた様子を観測するために、おそらくもっとも捉えやすい手がかりは、神話の語りに登場する「述語」、特に分離しているところを結合するように距離を縮めたり、結合しているところを分離するように伸ばしたりする述語であり、実際に結合したいところと分離したままになったり、分離したいところと結合してしまうような夢のビジョンの述語的様相である。

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    マンダラ状の図でいえば、Δでもβでも「項」は、人間からみるとなにか固まったもの(主語的なもの)に見えるという意味で仮に「項」と呼んでみているが、これがじつは、どちらかと言えば動き、脈動、振動、振幅を振る…、行ったり来たり、という感じの述語的な様相なのである。

    夢の登場人物たちは、主語の位置に据えられて報告される。

    つまり夢を見た者・夢見手が分析者に対して報告する場合に、「帽子を深く被った女性が・・」などという具合に語らざるをえない=言語化せざるを得ないのであるが、これが実は述語的様相の残像が共鳴して主語的様相を呈しているのだ、と読んでみたい。

    「何が」ではなく「どう動いているか」に注目をしてみよう。

    そしてさらに、この「動き」にもいろいろあるわけだが、神話や夢が、つまり人間の心の深層が特に重視する「動き」はどうやら二つ、「分離する動き」と「結合する動き」、そしてその多様な複合らしいのである。

    『C.G.ユングのセミナー パウリの夢』の前書きに、監修者の河合俊雄先生が次のように書かれている。

    ユングは繰り返しマンダラの中心性に焦点を当てるけれども、その中心を巡っての円環運動が生じてくることも繰り返し指摘している。運動としては、一度上に蒸留されたものが再び下に落ちるというものも興味深い。「無意識は運動でもある」としているように、意識も無意識も実体化されず、運動となっていく。それと同時に対立物の関係や合一は必ずしも意識と無意識の関係ではなくて、いわば抽象的なものになっていく。これは後に最晩年の「結合の神秘」において「結合と分離の結合」として結実していくものである。

    河合俊雄「監修者によるまえがき」,『C.G.ユングのセミナー パウリの夢』p.8

    分離したり結合したり伸縮する述語

    この「どう動いているか」の「動き」とは、夢の中は、自/他の距離感が伸び縮みするような経験として、もっと細かく言えば、概ね下記のような2パターンに集約されるようにおもわれる。

    <<分離状態にある相手(物事)と結合したいと望み、結合しようと動くが、うまく結合できない>>

    あるいは

    <<結合状態にある相手(物事)と分離したいと望み、分離しようと動くが、うまく分離できない>>

    実際、私たちは、夢ではなく現実の日常生活においても、分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりするときに、不安や怒りを感じ、この不安や怒りを鎮静化するために、結合や分離の動きを触発する相手方との関係の取り方を試行錯誤する(分離しようとしたり、結合し直そうとしたりする)。

    夢は、いや、夢として記憶の残像を残す深層意識の伸縮する述語的な動きは、この分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりする状態を付かず離れずに均衡させるよう、意識的にではなく無意識的に、意識の立場から見れば<自動的>に動いているようである。

    マンダラの円環の上で向かい合い対立する諸項も(この場合は「意識」と「無意識」)、いずれも「運動」である。マンダラやマンダラの上で対立する諸項は「実体化されず」、つまり固まって輪郭が定まり性質が定まった個物として転がっているものではなく、分離したり結合したりする運動、動き、動き方のパターン、それを表現する「述語」や主語たちの述語的な様相によって記述される。

    以上を踏まえ、この分離と結合が伸縮する述語的様相に着目して、実際の夢を分析してみよう。


    長方形が色々なものに変容していく夢

    これは筆者自身の夢である。

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    夢見者(私)は鉄道に乗っている。
    いや、鉄道の形をした遊園地の子ども用の乗り物かもしれない。

    線路は複線になっていて、レールが4本並んで、一直線に遠くへ伸びている。
    その上を軽快に走る車両の中から、私は前方に伸びるレールを眺めて居る。
    私は車両の先頭に乗っていて、行く先にまっすぐ伸びるレールを眺めているのである。

    *

    不意に、レールが三本になっているのが見える。

    四が三へ。

    どうやら、真ん中の一本を上下線で共有しているらしい。
    珍しいものだと感心する。
    信号システムはどうなっているのだろうか、などと考える。

    さらに進むと三本の線路が土の地面の中に埋もれるようにして、途切れているのが見える。
    その三本の線路が途切れたあと、1メートルくらいの間隔を開けたところから、また新たに二本のレールが引いてある。
    ようするに「単線」になるのである。

    このレールが引かれていないギャップを、いまこの私が乗っている車両はうまく渡ることができるのだろうか、と不安になる。
    ひっくり返って放り出されでもしたら、あぶない、と思う。

    車両はいよいよ、ギャップに差し掛かる。
    車両はガタガタとレールが敷かれていない土の上に走り込み、そして1メートルほど砂利の上をガリガリと走行したかと思うと、うまく、新たに始まった二本のレールにのって、走り続ける。

    車内の誰かが「日本の鉄道技術はすごい」という声が聞こえる。

    *

    さて、行先に小さなトンネルのようなものが見えてきた。
    トンネルというか、線路の上に大きな、穴の開いた機械が被せてある。
    よく見るとそれは病院にあるMRIの機械のようであった。

    あの、寝台に横になって、ドーナツ状のマシンの中にはいるやつである。

    私の乗っていた車両は、いつのまにか、布団くらいのサイズに小さく縮んでいた。そしてそのまま、MRIの中に滑り込んでいく。

    *

    奇妙だなと思いつつ、気がつくと、夢見者私は、いつの間にか、意識しないうちに、車両(布団くらいのサイズに縮んだ車両)から降りていて、そして、病院の検査室のような室内で、MRIの機械が設置されているのと、そのMRIの中にストレッチャーくらいのサイズ感の模型のような車両が走り込んでいくのを、傍から眺めている。

    よく見ると、その車両は、昭和の初め頃の茶色に塗られた電車である。
    鉄道の博物館に収蔵されているような代物である。

    「古い車両のようだから、点検が必要なのかな」

    と思うが、どうも的外れだなという気もする。

    *

    私は、MRI検査室の扉を開けて外に出る。
    病院の廊下らしい。
    人の気配がするので、この廊下をずんずんと歩いていく。
    廊下はまっすぐに伸びている。

    ずいぶんと年季の入った建物である。
    昭和の初め頃に建てられたコンクリート建築といった感じである。

    廊下を進むと、その先に、ストレッチャーが置いてあるのが見える。

    よくみると、ストレッチャーの上には、なにか白い布がかけられたものが載せてあるようである。

    私は遠くから眺めつつ、この布の下にあるのは、さきほどの模型のようになった車両なのではないか、という気がするのであるが、勝手に布を捲るのは躊躇われるなあ、と思う。
    もし、白い布をめくって、出てくるのが蝋人形のように硬くなった人体だったら申し訳ないな、と思う。

    近づいてストレッチャーの上に載っている白い布がかけられた物体をまじまじとみる。
    布の下は妙に角張っており、おそらく箱が載せてあるか、あるいはタオルやシーツをたたんで重ねたものの上に、シーツを一枚かけてあるらしかった。

    *

    その時、廊下に面した部屋のひとつから、一人の女性が走り出してくる。
    急いで廊下を走って、廊下の先にある、この病院の建物自体の出入り口から外へ出ていく。

    病院の建物の外には、廊下と並行に道路が走っているのがみえる。
    女性はこの道路に走り出ていく。

    この女性、私の現実世界の知人の誰かではない。
    私はその女性が誰であるか知らないが、しかし、なぜか、彼女が「婦長さん」と呼ばれている人だということは知っている。
    とはいえ、この人物は、看護師の制服ではなく、私服で退勤する様子である。

    *

    鉄道の様子といい、病院の風情といい、「婦長」という言い方も、昭和の時代を思わせる。

    *

    さて、私は、この「婦長さん」が何をそんなに急いでいるのか気になり、追いかけて、大声で「婦長さん!!」と呼び止める。

    彼女は私のことをよく知っているらしく、急いでいるのにわざわざ呼びかけに応じて振り向いて、止まってくれる。

    聞けば、急いでバス停に向かっているという。
    何か本の筆者のサイン会か、映画の試写会か何かに行くところであり、次のバスに間に合わないと遅刻するから急いでいるのだ、という。

    私は、そんなに急いでいるなら、私と喋っている場合ではないでしょう、と言い、早く行くように促す。
    そして「婦長さん」が大急ぎで走り去っていくのを不思議そうに眺める。

    夢はここまでである。

    さて、これもなかなか不思議な夢である。

    この夢は大きく二つの別々の場面から構成されている。

    第一の場面は鉄道車両の先頭に乗って、全面展望を眺めている情景。
    第二の場面は昭和風の病院の建物の内外で展開する情景である。

    鉄道と病院。
    一見すると、その主語的な様相においては、直接的な関連はないようにおもわれる二つの場面である。

    しかし、抽象度を上げてみてみよう。
    昭和初期風の鉄道車両も昭和風の病院の廊下も、実は、どちらも「人がその中を動き回れるサイズの四角形の長い管」である点は同じである。

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    人がその中を動き回れるサイズの四角形の長い管

    さてこの導波管のような四角形の長い管の内外で、夢見者は動き回る。

    前者、昭和初期風の電車では、電車が動いている一方、夢見者を含む人間は自走してはおらず、電車に運ばれている状態である。

    後者、昭和風病院の廊下では、建物自体は動かず、人間が自走している。

    *

    「人がその中を動き回れるサイズの四角形の長い管」と「その中の人間」とが相対的に、一方が他方に対して動いている関係になっているが、その動く役と止まる役とが夢の前半後半で入れ替わっている。

    昭和風鉄道車両 / 乗客私
    ↑    ↑
    動いている / 止まっている
    ||     ||
    「人がその中を動き回れるサイズの四角形の長い管」/「その中の人間」
    ||     ||
    止まっている / 動いている
    ↓    ↓
    昭和風病院 / 私+婦長さん 

    つまり、電車の夢と病院の夢、まったく別々の二つの場面が偶然連続しているのではなく、電車の場面と病院の場面は、「人がその中を動き回れるサイズの四角形の長い管」と「その中の人間」という二項の関係が、動いている/止まっている、の対立関係と重なり合いつつ、その重なり合う向きが逆転しているのである。

    *

    四→三→(零)→二

    さて、鉄道乗車の場面である。
    夢見者は電車の先頭、運転席のすぐ後ろに乗っており、いわゆる全面展望を楽しんでいる。ここで印象的なのは、車両がまっすぐ安定的に走行し、ある地点から別のある地点へ一直線に移動していること、そして前方に見えるレールの本数が、

    四→三→(零)→二

    と減っていくことである。

    4本見えるレールの上を(厳密には、その4本のうちの2本の上を走っているのであろうが)高速移動していく。これは通常の感覚では、車両が動いて、大地に敷かれたレールは止まっているのであるが、ここは夢なので相対的にひっくり返してみれば、“止まっている私の方へと4本のレールが次々と流れてくる”、という動きと等価である。

    動く四

    マンダラである。

    この四が、次第に三になり、そして一旦全て消えてしまったかと思えば、二になる。しかしその「二」は鉄道線路のようであって鉄道線路ではなく、病院にあるストレッチャーの車輪がつくる轍のようなものと等価になる。

    Δ Δ Δ Δ
    ↓
    Δ→β←Δ
    ↓
    β
    ↓
    β β

    分節のモードが続々と変化していく。もともとはっきりと経験的な世界と同様に分別されていた四つのレール(Δ Δ Δ Δ)が、3本に減ると同時に、中央の一本が、上下線で共有されるという形で2本分の役割を担う。中央の一本のレールは、一であるが二、一即二なのである。この状態を Δ→β←Δ と表現してみよう。

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    そしてその先で、一時的に全てのレールが消えてしまうが、しかし車両はなんとか、いや、何事もなかったようにそこを通り抜ける。

    ここでは車両が走行できるという点で、レールは「ない」けれども「ある」のと変わらないことになる。

    ないけれどもある。

    有/無 不可得。

    これをβひとつで表現する。

    そこからまたβが伸びて広がって、2本になるわけであるが、その2本のレールの幅は、伸縮自在である。

    ←β→←β→

    車両のサイズ、横幅が、布団やストレッチャーくらいにまで縮むということは、当然、その車両が載っているレールの幅も、縮んでいるということになろう。

    冒頭、進行方向に一直線に長く伸びるレールのイメージが展開するところでは、車両自体の長さや横幅は縮むことはなかった。それが途中から、進行方向と直交(90度に交わる)する軸上での、車両の横幅は縮み、おそらく車両の長さも縮んでいる。

    βーーーーーーβ
    →|       |→
    βーーーーーーβ

    ↓

    βーーβ
    βーーβ

    いくつもの異界を分離したり結合したりする穴

    さて、ここで電車の場面から、病院の場面への転換がある。

    この転換の鍵を握るのは病院に設置されたMRIの機械である。

    MRIのドーナツ状の形は、鉄道のトンネルに似ている。

    この似ている、異なるが同じ、でもって、経験的に分けられたさまざまなものを自在に繋ぎ、繋ぎ変えていく。この分離と結合の伸縮こそが心の深層で自在に動く、新しい意味を生成する、意味するものと意味されることとを分離したり結合したりする。

    こうして鉄道トンネルのようでもあり、MRIでもあるような、述語的様相としての「穴」を介して、ふたつの、いや、いくつもの、場面が、世界が、相互にくるくると転換しながら姿を表すようになる。

    *

    車両は先ほどまで元気よく走り続けていたはずだが、ここへきて、MRIトンネルの中に入っていくところになると、ストレッチャーの上に寝かされている、いや、置かれている。

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    その時、いつの間にやら車両は小さく「縮んで」いる。

    そしてストレッチャーが動いているのか、あるいは固定された寝台の上をドーナツ上の磁気共鳴装置自体が動いているのか、検査する側と検査される側、どちらが動いて、どちらが止まっているのか、まったく不可得、判別できない感じになるのである。

    動いている/動いていない

    この区別は、経験的感覚的に意味ある世界を分節する、もっとも基本的な二項対立関係のひとつであるが、これがどちらがどちらか不可得にな担っている。

    Δ動いている→動いているでもなくいないでもなく←動いていないΔ
    ↓
    β

    そして車両の「内」にいたはずの私は、いつのまにか、気がつけば車両の「外」に出ている。

    内 →/→ 外
    大 →/→ 小

    経験的区別を反転させる伸縮を経て、「人がその中を動き回れるサイズの四角形の長い管」と「その中の人間」の対立と、動いてる方/止まっている方との対立、この二つの対立を重ね合わせる向きが逆になる。

    「四角形の長い管」/「その中の人間」
    ||         ||
    動いてる方 / 止まっている方

    ↓

    「四角形の長い管」/「その中の人間」
    ||         ||
    止まっている方 / 動いてる方

    内外大小、経験的にははっきりと安定的に区別されているはずの二極の間がくるくると入れ替わる。分けるがどちらか一方だけを選ぶことをない、β脈動である。

    病院の廊下とストレッチャー

    さて、夢見者は、この車両が入っていったMRIから離れて、病院の廊下に出る。

    この廊下の作りは、学校の校舎の廊下のように一直線である。
    つまり夢見者は、今度は建物内の廊下というこれまた「四角形の長い管」の中を動くかたちになる。

    *

    この「四角形の長い管」、廊下を進んでいくと、夢見者はそこでは、ストレッチャーが置いてあるのを見つける。ストレッチャーもまた「動く長方形」である。

    *

    このストレッチャーは、先ほどMRIの中に入って行ったきり姿が見えなくなっている、縮小した車両と等価のものである。車両とストレッチャーは、長方形の台の下に、四つくらいの車輪が付いていることが似ている(鉄道車両であれば車輪自体の数は四つではなく八つの場合が多いだろうが)。

    車両のようなストレッチャーのような。

    夢見者私は現に、このストレッチャーを遠目に眺めては、そこに「模型のようになった車両」が積まれている、という感じを覚える。

    動く中身(乗客)/動かない中身(乗客)?!

    と同時に、夢見者は、ストレッチャーに積まれているのが「動かなくなった」人間の体なのではないか、つまり車両の「中身」に相当する「止まっている」「人間」なのではないか、とも思う。

    ストレッチャーの上で止まっている人間、動かなくなってしまった人間というと、どうも不穏な気配を感じる。

    ここで、下記の二つの二項対立関係をなす四つの項が、どれがどれだか不可得に、ぎゅっと凝集している。

        β「四角形の長い管」=β「その中(上)の人間」
    ||         ||
    β止まっている=β動いてる

    ・
    ・
    ・
    ↓

    ββ
    ββ

    乗客=中身が走る

    さて、このストレッチャー=電車の不可得な感じは、その上に積まれているものが、止まっている人間の体でもなく、車両の模型でもない、ということが判明した時点で、消えていく。積まれていたのはタオルやシーツだったのだ。

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    ここに至り、「四角形の長い管」は「動くもの」と結合する位置から外れるのである。「四角形の長い管」は「動かないもの」の側に結合して固定されたようなものである。

    そうすると、「四角形の長い管の中(上)の人間」が「動いてる方」と結合して固定されることになる。

    そういうわけで、激しく動く人間、廊下の中を大急ぎで走り抜けていく人間が出現するのである。「婦長さん」と呼ばれる人物である。

    婦長さんが廊下を走ることで、冒頭の私が車両の先頭でレールを眺めている状態に対して、動/静が裏返しになった状態が成立する。

    * *

    さて、夢は、夢を浮かび上がらせている心の深みの運動は、この「四(角形)」の中で動き回るものたちとの関係において、夢見者「私」の自我が収まる位置をとりあえず定めないといけないと願うらしい。

    ここで次なる動きが出てくる。

    「婦長さん」が、すごい勢いで病院の廊下を走る。

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    そして病院の建物の外へと走り出ていく。

    外には、病院の廊下と並行に道路がある。
    婦長さんはこの道路を走る形になるのだが、ここで、この夢で一貫して登場していた「長い四角形」(この場合では病院の建物、その廊下)から、婦長さんは分離しすぎてしまう。

    ここでこの婦長さんを「四角形の長い管」の中に入れようとする心の深みの動きが、新たなイメージを与えてくる。「バス」である。

    *

    夢見者私は、わざわざこの婦長さんを追いかけて、呼び止め、そしてお互い立ち止まって等距離を保った状態で、これからバスに乗るのだ、という会話をする。

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    この婦長さんという「動く人間」は、バスという、これまた鉄道車両とそっくりな「四角形の長い管」の中に入ろうと目論みつつ、まだ入れていないのである。

    さらにダメ押しのように、婦長さんが最終的に結合しようとしているのは「本」あるいは「映画館」である。本も、映画のスクリーンも、どちらも長方形をしている。

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    夢見者私は、私と会話をしているせいで、この「動く人間」=「四角形の長い管」の中身たる婦長さんが、バスに乗り損ねるのではないかということを非常に不安に感じる。

    「四角形の長い管」状のものであるバスは、いままさにバス停に向かって動いている。そしてそのバスの中身になる予定の婦長さんもまた、バス停に向かって動いている。それを夢見者「私」は止まって見ている。

    「四角形の長い管」と「その中身であるべき人間」とが、過度に分離した状態から、結合状態へと転じようとしつつあるが、ここではまだ結合していない。いや、婦長さんはもしかすると、バスに乗り遅れるかもしれない。
    私が呼び止めておしゃべりをしたせいで・・・。

    ここで最終的に、婦長さんがバスに乗り込む場面を見ることはなく、夢見者は目覚めてしまうのであるが、しかし、婦長さんはちゃんと夢見者私を残して走り去っていく。私と婦長さんの間の距離は、分離→結合→分離、とうまく伸縮していることからして、乗り遅れるような事態にはならないのであろう。

    まとめー伸びたり縮んだり、動いたり止まったりする、四角形の長い管

    鉄道車両、ストレッチャー、タオル、廊下、バス、本、映画スクリーン…。

    長方形ばかり出てくる夢である。

    しかもこの長方形、そのサイズが大きくなったり小さくなったりする。

    そしてこの長方形、動いてたり、止まっていたりする。

    長方形が動きいているとき、その中身の人間は止まっている。
    長方形が止まっている時、その中身の人間は動いている。

    内/外
    ×
    動/静

    経験的で感覚的な意味ある世界を分節する、基本的な二項対立関係である。
    そういう対立関係ふたつを重ね合わせる向きが、くるくると入れ替わっていく
    。

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    経験的区別をブリコラージュして、分離と結合の伸縮、マンダラ状の対立関係の対立関係の関係である八項関係の伸縮を、表層意識の主観的印象に残る形にするのである。

    私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その名、その主語的なあり方(Δ、「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれらの主語的なものたちは、あくまでも引き離したり近づけたり、分離と結合の伸縮を自在にする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿が浮かび上がってくる、動きの痕跡である。

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    主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている。

    私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きが、決して止まることなく動き続けている。

    鉄道車両、病院の廊下、ストレッチャー、バス、映画のスクリーン、本、などなど、はっきりと「何であるか」が明確な主語的な様相を全面に際立たせつつ、その主語的なものが「四」であり、この「四」の間の距離は伸びたり縮んだりするし、その伸縮の動きは動いたり動かなかったりするのだ、ということを、この夢は教えてくる。

    ちょうど下記の図の6)の様相を揺らして、5)よりも手前の動きの消息を伝えているかのようである。

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    観測装置としての分別識をリバースエンジニアリングする


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    意味ということの謎に憑かれ濫読の途上で博士(学術)号取得。コミュニケーションを考える法人の代表兼大学非常勤講師。主な業績はコロナ禍の遠隔授業を乳幼児2名在宅中に実施したこと。高専出身柔道初段 https://note.com/way_finding/n/n5af3a19375b7

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