
荒海うねる極地研究施設で走り回る子どもたちと、そのそばで開かれる結婚式と偲ぶ会に保安官が訪問【マンダラ夢分析】ー外/内、分離/結合、生/滅 不可得モードへ
本記事では筆者が見た夢を、動的マンダラ伸縮モデルにより分析してみようと思う。その夢を仮に「荒海うねる極地研究施設で走り回る子どもたちと、その最中に開かれる結婚式と偲ぶ会と、警察官の訪問」と名付ける。何の話だか意味不明だろうと思われるが、本記事の後段で夢に見た光景を詳述するのでぜひご高覧ください。
はじめに 心の動き方を「マンダラ」状にモデル化する
夢のビジョンにおいて、見られ、記憶され、覚醒後に言葉で報告される不思議な世界。それは心の「深層」の脈動から立ち昇る振動が、表層意識の一番底・感覚印象の記憶の束を震わせたときに、そこから浮かび上がるパターンである。
神話も夢も、人間の心の「深層」の同じ脈動から立ち昇る振動が、表層意識の一番底に、その底面に浮かび上がらせるパターンである。そのパターンが意識によって自覚される相に浮かんできた姿のひとつが、「マンダラ」である。
マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、そしてその四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。

視覚的イメージとしてのマンダラ
語りに現れる「述語」としてのマンダラ
マンダラは四項関係や八項関係のイメージ、いわゆる絵図の曼荼羅のように視覚的なイメージになる場合もあれば、夢の中で自/他の間が近づいたり離れたり、距離感の伸縮として経験される場合もある。
しばしば夢で「私」と私ではない他の登場人物たちとは、ある場所において(円形の空間の中や、四角形の部屋の中、四角いテーブルの周囲)、分離と結合、愛/憎の両極の間を揺れ動く。
夢において、四人の(もちろんこの四人がもっと多くに分かれてもいいし、そのうちの幾人かが省略されてもいい)登場人物が喧嘩したり仲良くなったり、分離したり結合したりを繰り返すようなことである。
結合を分離する動きと、分離を結合する動きの多様な組み合わせのパターンとしての諸々の「心」のあり方
この分離する動き、結合する動きは、夢の中は、自/他の距離感が伸び縮みするような経験として、概ね下記のような2パターンに集約されるようにおもわれる。
分離状態にある相手(物事)と結合したいと望み、
結合しようと動くが・・・
うまく結合できない
あるいは
結合状態にある相手(物事)と分離したいと望み、
分離しようと動くが・・・
うまく分離できない
実際、私たちは、夢ではなく現実の日常生活においても、分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりするときに、不安や怒りを感じ、この不安や怒りを鎮静化するために、結合や分離の動きを触発する相手方との関係の取り方を試行錯誤する(分離しようとしたり、結合し直そうとしたりする)。
夢は、いや、夢として記憶の残像を表層の分別心に残す、深層意識の伸縮する述語的な動きは、この分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりする状態を付かず離れずに均衡させるよう、意識的にではなく無意識的に、意識の立場から見れば<自動的>に動いているようである。
マンダラの円環の上で向かい合い対立する諸項も(この場合は「意識」と「無意識」)、いずれも「運動」である。マンダラや、マンダラの上で対立する諸項は「実体化されず」、つまり固まって輪郭が定まり性質が定まった個物として転がっているものではなく、分離したり結合したりする運動、動き、動き方のパターン、それを表現する「述語」や主語たちの述語的な様相によって記述される。
◇
マンダラと『神話論理』と夢分析
ここで「マンダラ」について説明してこう。

マンダラは「神話」の語りとして、神話的な神々や超自然的な存在者たちが結合したり分離したり、ぐるぐる回ったり、逃げたり追いかけたり、半分になったりする話として言語的な姿を示現することもある(しないこともある)。
神話の場合は、語りの終わりで、上図におけるΔ1〜4を分けつつも過度に分離しすぎないようにつないでおく、正方形と内接円(外接円)を組み合わせたような曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指している。
神話の語りはじめには、まだ経験的で感覚的に「ある」と分別できる存在者たち、ここでは仮に「Δ」と表記するが、そういうものはない。
何もないところから(ある/ないのペアすら”ない”ところから)、まずΔたちが収まる「余地」を切り開くことから始めなければならない。
Δたちを配することができる「場」を生成することからはじめないといけない。そこに野生の思考の神話論理が動く。そのために活躍するのが両義的媒介項である。経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような、振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(上の図ではΔに対するβ)という。
神話の語りは、まず図で「β」と表記した両義的媒介項二項が、第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きを語る。
これを言語的な語りに託さずにイメージだけで感覚しようとすると、ちょうど一点から螺旋が回転し始め、その回転の渦が拡大して、安定的に円を描くようになる、といった具合になる(ならなくてもいい)。この円の中に(外に)正方形が、Δ四項を四つの角とする四角形が浮かんでくる。
一方、あくまでも言語で語り、「登場人物」たちの動きに託して語る神話では、お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの両義的媒介項(β)たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する、という具合に動く。この"分離を引き起こす軸"と"結合を引き起こす軸"は、高速で入れ替わっていく。
もちろん、神話の語りも言語を用いる以上、はじめにΔはまだないといっても、仮に主語的なもの(つまり経験的感覚的なΔ)を利用して、βを作り出す必要がある。そこで神話の思考は、まず経験的感覚的に区別される二つの事柄を過度に結合して(あるいは経験的感覚的に他から区別された一つのことを過度に引き伸ばして両端を分離して)両義的媒介項βを作った上で、このβ、両義的媒介項二項が、第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きを語る。
分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動き
両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」であるとか、「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」とか、「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」とか、「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている。
そのようなものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話は、この経験的に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出すというやり方で、両義的媒介項を制作(ブリコラージュ)する。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図ではΔに対するβ)という。
このβたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とをバランスさせる。

ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

以上のプロセスを、両義的媒介項βと、その動きが描く振幅の間から浮かび上がってくる経験的感覚的存在者Δとの関係で図式化すると、概ね以下のような展開になる。神話の語りの展開、夢のビジョンの展開を、下記の図式に照らし合わせて読み解いていくと、自心の振れどころ、固まりどころを同定できるようになる。

もちろん、全ての個別の神話や全ての個別の夢が、上の図のように機械的にいつでもどこでもだれにおいても同じ様に1)→6)の展開を見せるわけではないことに注意してほしい。ある夢だけ、ある神話だけであれば、上の1)〜6)の一部分だけが浮かび上がり他のモードには展開しないこともある。また浮かび上がる関係も、上の図式のような定型的な形に当てはまるものではなく、ずれたり、歪んたりする。
そもそも、このような図式を片手に、夢のビジョンについての記憶を想起したり、神話の語りを想起したりする活動自体が、意識的に明晰な分析活動であるというよりも、どちらかと言えば夢の続き、神話の語りの続き(原典が存在しない異文の増殖)を伸縮させる心の動きなのである。
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ちなみに、筆者らが上の図式を思いつくに至った直接のきっかけは、クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』の精読を通じてのことである。
私(この文章を書いている筆者)は、以前から、クロード・レヴィ=ストロース氏が『神話論理』で分析している神話の語りを、八項関係のマンダラ状の図式に照らし合わせて読み直してみようという試みを続けている。ぜひご参考にどうぞ。
このような分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動きを、「夢」のビジョンにもみることができる。世界各地に残る諸々の「神話」は、いま現在ここで生きる私たちからは、時間的に、空間的に遠く隔たった、特別なものと感じられるかもしれない。
しかし神話とおなじ動きが、神話を発生させるのと同じしくみが、今ここでも、私たちの心の深みで動いており、それが毎晩のように、私たちの昼間の意識が分別に固着し分けて選んでこだわっているところを少しづつほぐし、分けるでもなく分けないでもない、選ぶようで選ばない、心の深層のバランスを取り戻そうとしているのである。
* *
伸縮する述語的様相にフォーカスして夢を想起
「何であるか」はとりあえず脇に置いて
「どう動くか」をみる
この神話や夢に表現された心の深層の仕組みが動いた様子を観測するために、おそらくもっとも捉えやすい手がかりは、神話の語りに登場する「述語」である。
特に分離しているところを結合するように距離を縮めたり、結合しているところを分離するように伸ばしたりする述語であり、実際に結合したいところと分離したままになったり、分離したいところと結合してしまうような夢のビジョンの述語的様相である。

マンダラ状の図でいえば、Δでもβでも「項」は、人間からみるとなにか固まったもの(主語的なもの)に見えるという意味で仮に「項」と呼んでみているが、これがじつは、どちらかと言えば動き、脈動、振動、振幅を振る…、行ったり来たり、という感じの述語的な様相なのである。
夢の登場人物たちは、主語の位置に据えられて報告される。
つまり夢を見た者・夢見手が分析者に対して報告する場合に、「帽子を深く被った女性が・・」などという具合に語らざるをえない=言語化せざるを得ないのであるが、これが実は述語的様相の残像が共鳴して主語的様相を呈しているのだ、と読んでみたい。
「何が」ではなく「どう動いているか」に注目をしてみよう。
そしてさらに、この「動き」にもいろいろあるわけだが、神話や夢が、つまり人間の心の深層が特に重視する「動き」はどうやら二つ、「分離する動き」と「結合する動き」、そしてその多様な複合らしいのである。
『C.G.ユングのセミナー パウリの夢』の前書きに、監修者の河合俊雄先生が次のように書かれている。
ユングは繰り返しマンダラの中心性に焦点を当てるけれども、その中心を巡っての円環運動が生じてくることも繰り返し指摘している。運動としては、一度上に蒸留されたものが再び下に落ちるというものも興味深い。「無意識は運動でもある」としているように、意識も無意識も実体化されず、運動となっていく。それと同時に対立物の関係や合一は必ずしも意識と無意識の関係ではなくて、いわば抽象的なものになっていく。これは後に最晩年の「結合の神秘」において「結合と分離の結合」として結実していくものである。
+
荒海うねる極地研究施設で走り回る子どもたちと、その最中に開かれる結婚式と偲ぶ会と、警察官の訪問
以上を踏まえ、今回は、筆者自身の夢を対象に分析を試みてみよう。
夢見者は大海原に突き出た岩場のような場所に来ている。
小さなゴムボートのようなもので岩場の横の岩礁に乗り付けており、夢見者の外にも、何人かの人がいる。
子供も複数いるようだ。
海は荒れており、岩場には波が繰り返しぶつかってくる。
突風も吹いている。
気を抜くと、荒れる海に落ちそうで危険だと思う。
*
夢見者は、岩の隙間にキャンプを設営できそうな場所を見つけ、波と風をやり過ごすべく隠れる。
ここにいる限り安全を確保できる。
しかし、私は安全なのだが、一緒にボートで乗りつけた他の人たちは、岩の隙間の隠れ場所に入らず、特に子供たちは、好き勝手に外を走り回っている。
外で走り回っている人たち全員の姿を一望することはできない。
走り回っている子どもたちの姿は、視界に入ったり出たり、見えるようになったり見えなくなったりを繰り返す。
「だれか海に落ちたりしていないだろうか・・」と、夢見者私はずっと気が気ではない。
*
見上げると、岩礁の背後には、かなり大きな岩山がある。
岩だらけの小島といった雰囲気である。
南極の近くの島、という雰囲気もある。
背の高い岩場の絶壁も見える。あれに登るとさらに安全かもしれないが、登るのは危ないだろうなあ、無理だろうなあ、と思う。
その絶壁が崩落して、岩石が海に流れ込んで引っかかったところが、いま夢見者たちがいるスペースなのだろうと思う。
* *
場面が変わって、知らない家に来ている。
いや、家というか、生活スペースと事務所、あるいは研究室が一体化しているような広い部屋である。
もしかすると、大きな船の中なのかもしれない、と思う。
そこは、かなり大きな空間で、極地の海を観測する施設(あるいは船)であるらしいことが、室内に置かれた海洋関係の機材の様子から推定される。
人は大勢いる。
先ほどの岩礁にいた人たちが、大勢こちらに移動しているようだ。
相変わらず走り回っている子供たちも多く、この室内も、ものが多く乱雑でごちゃごちゃしている。
岩礁から救助されてここに避難してきたのか、あるいはこの極地研究所が主催する体験キャンプか何かで、わざわざ小舟で先ほどの岩礁に渡ったのかもしれない、と思う。
とにかく先ほどの岩礁を、この研究施設のような場所は、別々に分かれているが、往来することは可能なようである。
集まった人たちの中には、何やらこの室内で、パーティのようなことをしているグループもいる。
話を聞いていると、結婚式をやっているのだという人もいれば、今は亡き過去のメンバーを偲ぶための会だという人もいる。
夢見者私はゲストなので、一体だれとだれの結婚なのか、過去のメンバーというのが誰なのか、全くわからない。
結婚式と偲ぶ会を同じ場所で同時に開催するのは不思議な感じがした。
料理も次々と運ばれてきて、書類や文房具などが雑然と置かれたテーブルの上に所狭しと並べられていく。
とはいえ、子どもたちは走り回るのに忙しく、大人もその結婚式と偲ぶ会を営むのに忙しいようで、落ち着いて料理を食べるという雰囲気ではない。
* * *
ふと、体格のいい警察官か自然保護当局のレンジャーといった様子の官憲の男性たちが、何人か外から室内に入ってくる。
そして、はしゃいで走り回っている子供達やその親たちの横を一瞥もすることなく素通りすると、奥の部屋に進み、この施設の責任者のような人と丁寧な挨拶を交わしている。施設の責任者の人と官憲の人たちは、丁寧に、礼儀正しくやり取りをしている。施設の責任者は官憲の人たちを、食事へご招待する、と申し出ているようだ。
夢見者私はその様子を、雑然と置かれた料理たちの横を子供たちが走り回る部屋から、眺めている。そして施設の責任者が官憲の皆さんに提供するという食事は、いま私の目の前に雑然と並べられた料理のことなのだろうか、それとも別に何かコース料理でも用意するのだろうか、どちらなのだろう、と思う。そして内心、おそらく後者だろうし、後者であるべきだろう、と思う。
終わり
夢の全体的な構造
この夢は大きく二つ(ないし三つ)の場面からなっている。
場面①:岩礁
荒れた海に突き出た岩場。夢見者は隙間に隠れて安全を確保するが、他の人たち(特に子供)が外を走り回り、海に落ちないか気が気でない。場面②:極地研究所(船?)
岩礁から移動した広い室内。乱雑。結婚式と偲ぶ会が同時に開かれている。料理が次々と運ばれる。場面③:官憲の登場
そこへ、レンジャー風の男性たちが入室し、子供たちを一瞥もせず素通りして奥の責任者と礼儀正しく挨拶を交わす。夢見者は料理の横からその様子を眺める。
この夢は均衡に向かう途上の状態を描いている、と読める。
岩礁は内外の区別でいえば「外」であり、風雨にさらされるという形で「開かれて」いる。荒れる海が絶えず岩礁を侵食している。
それに対して、極地研究施設は内外の区別でいえば、寒風吹き荒ぶ外から「内」を守るものである。完全防寒の局地研究施設は、外と内を分けて、閉じられた内の方である。
この夢では、最初に外の岩礁に居た人々が、次の場面では局地研究施設の内に移動する。

ペンギンとのマッチ度が高い。
この際、どちらにしても、多くの人と物がぎゅっと集まって詰め込まれている感じがある。どちらの場面も「整然と秩序立っていない」という点で共通している。岩礁では人々が制御できない危険の中に放り出されており、施設の中では子供たちが走り回り、料理と書類が混在し、結婚式と偲ぶ会が同時進行している。カオスである。
そして、最後に、制服を着込み「秩序」を象徴する姿をした人がやってきて、極地研究施設の偉い人と、丁寧、丁重、慇懃な挨拶を礼儀正しく交わす。そうして彼らに供される食事は、夢見者の前に広がる雑然と並べられた料理ではなく、なにやらもっと格式の高そうな、ちゃんとした料理であることが予感される。
夢の最後で、秩序、つまり安定した分別、分節体系が確立される気配を感じることができる。

この夢全体を貫く運動は、過度な分離(荒れる海に飲み込まれそうな危険:下図の2)または3))から、過度な結合(すべてが混在する施設内の乱雑:下図の1))への移行であり、その果てに、安定した分節体系へと落ち着いていく(下図の4)5))、という動きである。
詳しくみていこう。
岩礁
まず岩礁である。

海から空高く突き出た岩礁は、
空 / 海
この対立二極のどちらでもない中間領域である。
この岩礁、高い波に洗われ、いまにも海に没しそう=海の一部になりそうでありながら、同時に絶壁で空へ空へとそびえ、空に溶けていきそう=空の一部になりそうである。
この岩礁は、空と海の対立に対して、空であるでもなく海であるでもない、というあり方をしている。中間的で両義的、冒頭のマンダラの図でいうと「β」の局面である。
両儀的な領域における分離と結合の伸縮
この岩礁において展開する述語的様相として、内/外を分け、「内」に入り=隠れようとする夢見者の動きと、「外」へ出よう出ようとする子供たちの動きの対立が際立つ。
夢見者私は、岩の隙間に安全な場所を見つけて隠れる。
波と風を遮る、内に閉じた場所を確保する。一方、子供たちは岩礁の外を走り回る。
危険を顧みず、開かれた外部空間を自在に動き回る。
ここに、
内に隠れる夢見者(私)β / 外を走り回る子供たちβ
|| ||
内へ / 外へ
|| ||
入る / 出る
という、述語的様相の対立をみることができる。
そして夢見者私は、特に、子どもたちが海に落ちていないか「ずっと気が気ではない」。高波に飲み込まれてしまっては、もう二度と戻って来ることはできないのではないか、と不安になる。
結合しておきたいものたちと(子供たち)、過度に分離されてしまうことを予感して、不安を感じているのである。
結合 ←/→ 分離
これが夢の第一場面における夢見者の分離と結合の伸縮の述語的様相である。
++
岩礁の両義性
この不安を感じつつ、その伸縮が展開される岩礁という場所の様相が、あらためて意識される。「絶壁が崩落して、岩石が海に流れ込んで引っかかったところ」というように、この岩礁はかつての崩壊の痕跡である。かつては一体だったものがバラバラと分離し、しかし、完全に海の中に没して流されていくののではなく、海という境界を越えて引っかかった場所。
かつての結合
↓
崩壊による分離
↓
海に引っかかった付かず離れず
という分離と結合の伸縮の痕跡が、この岩礁という空間そのものに刻まれているのである。
さらに夢見者私は、その絶壁を見上げながら「あれに登るとさらに安全かもしれないが、登るのはかえって危険だろう」といったことを思う。絶壁の上の安全を取ろうとすると逆に危険であり、絶壁の下でで危険にさらされていることが逆にむしろ安全である。
安全 / 危険
この二極が不可得。
安全は「結合しておきたい」、危険は「分離したい」、ということなので、
分離を結合へ / 結合を分離へ
この二つの様相が不可得である。
夢見者たちがいるのは、まさにその「分離したまま引っかかった(結合した)」、無分節と分節が分離するでもなく結合するでもなくなった、絶対無分節が分節しつつある「場所」なのである。

極地研究施設における分離と結合の振動
場面が変わって現れる極地研究施設もまた、独特の両義的様相を持っている。
「生活スペースと事務所、あるいは研究室が一体化している」という描写は、私的な生活空間/公的な仕事空間という経験的にしばしば分離されている二つが、ひとつに結合している様相である。
「大きな船の中なのかもしれない」という夢見者の直観も重要である。
建物なら不動であるはずだし、船なら動いているはずである。
動いているのか止まっているのか、どちらかよくわからなくなっている。分けたり、選んだりすることが曖昧になっている。
そしてこの場所自体が「乱雑でごちゃごちゃしている」。
書類と料理が混在し、子供たちが走り回る。仕事と遊びも渾然一体である。
秩序が固まっておらず、あらゆるものが分離しつつも結合し、結合しつつも分離している様相である。
そこで夢見者は、ゲストという立場で、その場の内輪の人間でもなければ完全な部外者でもなく、内/外の境界上で動いている。

結婚式と偲ぶ会の同時開催——生と死の短絡
ここでさらに、結婚式と偲ぶ会が同じ場所で同時に開催されていることがわかる。
結婚式は、新たな生の始まりの始まり、分離と結合の祝祭である。
新たな関係が生まれる結婚において、新郎新婦は元の家族から「分離」して、新たな家族として「結合」する。
偲ぶ会は要するに死の終わり、分離の悼みである。
いなくなった者を記憶の中に呼び戻しつつ=つまり分離しながらも結合し、しかしあくまでも分離していることを確認する。
生 / 死
始まり / 終わり
結合 / 分離
これらは経験的に最も鮮明に対立するはずの二極である。
ところがこの夢では、その二極が同じ空間で同時に開催されている。
「結婚式と偲ぶ会を同じ場所で同時に開催するのは不思議な感じがする」と夢見者私は思う。この違和感は、表層意識の分別心が「これは奇妙だ」と察知しているということである。しかし「夢」は、つまり心の深層は、この二極の短絡を不思議だなあと思いつつ、眺めることができている。「経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもない」様相がみごとに展開している。
官憲の登場—食卓作法が分離と結合の伸縮を安定したパターンへと転換する
さて、夢の末尾に登場する警察官・レンジャーたちの様相も象徴的である。
彼らは、走り回る子供たちやはしゃぐ人々を素通りして、つまり子どもたちと一緒になって走り回って遊ぶことはせずに、奥の責任者のもとへ直行する。
ごちゃごちゃと混じり合った混沌には関与せず、「秩序」へと向かう。
官憲たちが制服を着用した人々である、ということが、この秩序を象徴している。
そして、この極地研究施設の責任者が制服を着た官憲たちを食事に招待するという結末も意味深い。食事とは、外のものを内に取り込む行為、分離しているものを結合に転じる行為である。この食事を、ごちゃごちゃとして部屋でぐちゃぐちゃのまま行うのではなく、食卓作法が求められるような席で行おうというのである。
食事は、分離と結合を激しく伸縮させる動きであるが、その食事を「食卓作法」によって制御することで、そこから安定的な意味分節体系、Δ四項関係を、自在に発生させることもできる、という話は、レヴィ=ストロース氏の『神話論理3 食卓作法の起源』の主題でもある。
この官憲たちと施設責任者との礼儀正しい挨拶や、マナーに則った食事という動きは、β-Δモデル、動的マンダラ伸縮モデルで言えば、β的たちが分離と結合の両極の間で激しく振動する様相(子供たちが走り回るごちゃごちゃした様相)から、Δ四項の対立関係が安定する様相が浮かび上がり始める瞬間であると言えるかもしれない。

*
ただし、ここで重要なことは、夢見者私は、制服を着た官憲たちが、食卓作法に則って食事をする様子を目撃したわけではない。夢見者の目の前に展開しているのは、相変わらず雑然と並べられた料理、その横で子供たちが走り回り、ろくに手をつけられていない料理があるかと思えば、歩き回っている人たちにがつがつと食べ散らかされた残り物であったり、というカオスな料理たち、食卓作法の真逆にあるような料理たちである。
夢見者にとって、食卓作法に則った料理は、あくまでも予感というか、気配に止まっている。
+
四機能と転識得智の観点から
ユングによる意識の四機能モデル
ユングによる意識の四機能モデルに触れておこう。
ユングは人間の意識の機能を「感覚」「思考」「感情」「直観」の四つに整理する。

「思考Denken」:なにであるか/なにでないか、を分別
「感覚Empfinden」:ある/ない、を分別
「感情Fühlen」:好き/嫌い、を分別
「直観Intuieren」:現れてくる/消えていく、を分別
この四つの機能がバランスよく、つかずはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は大いに安定した調和のとれた状態になる。
一方、四つの心的機能間の「距離」が遠く離れすぎたり、また過度に近づきすぎてある機能が対立する別の機能を飲み込んでしまったりすると、四機能の調和は達成できない。
私たちは、何気なく意識的に日常を生きていると、しばしば、どれかひとつの機能ばかりに頼り切りになり、他の機能を無視するようなことが起きる。
例えば、私たちの自我は「思考」ばかり使って「感情」を沈黙させたり、逆に「感情」ばかりに頼り「感覚」を沈黙させたりする。例えば、「感情」が「好きではない」「嫌い」「行きたくない」と判断している職場や学校なのに、「思考」が「行くべきところである」と判断し無理を強いる、といったことである。そのような状態は、しばしば人間の心を疲労させるのである。
+ +
この夢の四機能はそれぞれ何に対応するか、仏教の「八識」の考えと照らし合わせながら、順に見ていこう。
「感覚」(前五識) :
感覚は、ある/ないの分別であるが、この夢の場合、波、風、走り回って姿が見えなくなったかと思えたまた現れる子どもたち、乱雑に置かれた食べ物などなど、何があって/何がないのかを、はっきりと分別することができない様相が続く。
夢見者は、感覚に基づく分別、なにがあってなにがないのかをはっきりと分別できないまま、ただ「そういうものだ」と受け流していく。
すなわち、感覚=前五識が分けるでもなく分けないでもない、選ぶでもなく選ばないでもない、「成所作智」への道を開くモードに切り替わりつつあるようにも思う。「思考」(第六意識) :
「あれに登るとさらに安全かもしれないが、無理だろう」「岩礁から救助されたのか、体験キャンプなのか」「結婚式なのか偲ぶ会なのか」「この料理を官憲に出すのか、別にコース料理があるのか」などなど、夢見者は一貫して状況が「なにであって/なにでないのか」判断・推量しようとし続けるが、どれも「かもしれない」という不確定な推定のままに放っておいている。
どれが正しいとは決めない。「全くわからない」「不思議な感じがする」という具合に、なにであるかを確定せずに保留し続ける。ただ眺めている。
これは第六意識が妙観察智的に「なにかであることに固着しない」状態に転じつつある様相であろうか。妙観察智的な不可得の気配が感じられる。「感情」(第七末那識):
感覚的分別の中でも、波にの見込まれそう、絶壁に登ったら落ちそう、走り回る子どもたちの姿が見えなくなるとと海に落ちたのではないかと「気が気ではない」不安になること、と言ったところで「感情」の分別、すなわち好き/嫌い(好ましいと思う/嫌だと思う)が動いている。
その感情は不安感や緊張感として経験されるが、夢見者はこの感情に突き動かされて、実際に「嫌=分離したい」ものから分離しようと動いたり、「好=結合したい」ものへと結合しようと動いたりはしない。分離を結合に転じようと走り回る子どもたちを静止しに行くこともなく、結合を分離に転じようと雑然としたテーブルを片付けることもしない。どちらかと言えば感情の動きをただ眺めている、観察しているようなモードである。感情の動きを、自/他の境界を激しく動かし「自」の輪郭の安定性を脅かされることとは捉えていない。平等性智的な不可得さが感じられる。「直観」(第八阿頼耶識) :
この夢における、現れてくる/消えていく、直観の様相は、激しい波に洗われて崩れ落ちた岩という、極めてダイナミックな分離と結合の伸縮が切り開く隙間を動き回るモードから、研究施設だか船だかのしっかりと守られた室内空間の中、安全に保護された中で適度にごちゃごちゃと色々なものが注意を引いたり引かなかったりする様相へ流動性の様相の変容(減速)として意識にその消息を伝えている。
そして夢見者私は、その変容を統御しようとせず、ただ「眺めている」という受動的な観察者の位置に留まる。これは大円鏡智が、現れてくるものも消えていくものも、選ばずに映し続けている様相を思わせる。

まとめ
この夢では、荒れる海という過度な分離の脅威から、生と死が混在する施設という過度な結合の混沌へ、夢見者私は移動していく。そのいずれにおいても、夢見者は、感覚、思考、感情、直感の分節を働かせつつ、しかし分けられたものからどちらかを選んでこだわることはせず、分かれたり分かれなかったりする様をただ眺めている。
一見すると、この夢見者のただ眺める態度は消極的なものに見えるが、しかしこれはむしろ積極的な心のあり方である。Δを固めない、確定しないところへ踏みとどまり続ける。Δに固まるのは表層の心にとっては楽なことであるが、そうはしない。Δに固まることは、分かった・決まった・終わった、という安堵を、つまり分離と結合の伸縮の停止あるいは限りない低速化をもたらすが、その安堵を求めず、気配のまま・予感のまま・表層意識にとっての「不安」のままに留まり続ける。
夢見者がずっと「〜かもしれない」「〜なのだろうか」という推量のモードで終始しているのは、単なる情報不足や理解不足、分別が弱いのではなく、確定しないことへの踏みとどまり、とみたいところである。
ぼんやり眺めているようで、実はそれが第六意識(思考)や第七末那識(感情)の分別モードを脱線させる転識得智への入口にいるのかもしれない。

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この夢が示すのは、激しい分離と結合の伸縮が続くなかで、夢見者の自我が「選ばない・こだわらない・眺める」という述語的様相に留まり続けることで、マンダラ状の均衡が自ずと浮かび上がってくる、というプロセスである。
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