
無味メシ 第5話【肉体の悲鳴】
馬淵が次に目を覚ましたのは、薬品の匂いが立ち込める無機質な白い天井の下だった。
トラックとの接触。普通なら命を落としてもおかしくない事故だったが、不幸中の幸いか、奇跡的に当たり所が良く、馬淵は「全治二ヶ月の骨折と全身の激しい打撲」で済んだ。さらに、売れない役者である彼のスケジュール帳は向こう数ヶ月にわたって見事なまでに白紙であり、降板や違約金といった仕事上の迷惑をかけることもなかった。ただバイト先に平謝りすればいい。シフトなんて、代わりはいくらでもいる。
それよりも、命があった。それが何より嬉しかった。役者としての未来も繋がり、最後の食事があの「味のしないネギ玉牛丼」にならなくて済んだ。馬淵にはそれが涙が出るほど嬉しかった。
だが、安堵したのも束の間。馬淵にとって、この清潔で安全な病室は、これまでのどんな悲劇よりも長く、真綿で首を絞められるような地獄の始まりであった。
「はい、馬淵さん。お昼ご飯ですよ。しっかり食べて治しましょうね」
看護師が明るい声で置いていくプラスチックのトレイ。
そこに乗っているのは、徹底的に塩分とカロリーを計算し尽くされた病院食だった。米の形を失いかけた糊のような粥。出汁の気配すら感じられない、ただお湯で茹でただけの白身魚。そして、醤油を一滴も許されていない、水っぽいほうれん草のお浸し。
栄養学的には完璧なのだろう。だが、馬淵の舌にとって、それは食事ではなく「生命維持のための苦痛な作業」でしかなかった。
……味が、しない。
(いや、味がついていないのだから当然か……)
馬淵は一人病室の天井を見つめ、自分の数奇な運命を呪った。
入院して三日目。馬淵の味蕾は、すでに干上がった砂漠のようにカラカラになっていた。これから二ヶ月、毎日三食、この灰色の食事を飲み込まなければならないのかと、気が遠くなるような絶望を感じていた。そこに、不意に病室の入り口から陽気な声が飛び込んできた。
「馬淵さーん、生きてますかー?」
軽いノリで顔を出したのは、先日のあの狂乱のクラブパーティーを主催していた後輩の役者、レンだった。相変わらずハイブランドのロゴが入ったパーカーを着こなし、病室には不釣り合いなほど華やかな香水の匂いを漂わせている。
「お前、わざわざ見舞いに来てくれたのか……」
「当たり前じゃないっすか! 事故ったって聞いて、マジでビビりましたよ。この前のパーティーで挨拶できなかったし、どうしてるかなーって思ってたところだったんで。まあ、元気そうで何よりっす!」
レンは屈託なく笑うと、背中に隠し持っていた大きな紙袋を「ドサッ」とサイドテーブルに置いた。
「これ、差し入れです。この前のお詫びも兼ねて」
レンが紙袋から取り出したのは、重厚な桐の箱だった。
馬淵の目が、限界まで見開かれる。
レンによって箱の蓋が開けられた瞬間、病室の消毒液の匂いを一掃するように、むせ返るほどに甘く、芳醇で、暴力的なまでの「果実の香り」が辺りを支配した。
「千疋屋の、クラウンメロンですよ。店員に『今この瞬間が一番の食べ頃』ってやつを見繕ってもらいました。俺、病院のお見舞いって初めてなんで、果物を持ってくってことしかわからなくて」
馬淵はなんとか首だけ起こし、レンが持つ箱の中のメロンを覗き込んだ。その網目模様は芸術品のように美しく、エメラルドグリーンの果皮からは、完熟を告げる極上の甘い香りが絶え間なく溢れ出している。
その瞬間、干上がっていた馬淵の口内に、パブロフの犬のように大量の唾液が溢れ出した。
「食わせろ……」
「え?」
レンが素っ頓狂な声をあげる。
「お願いだ。食わせてくれ……」
馬淵は点滴の繋がれた腕を震わせながら、桐の箱の中の果実を、まるで神仏を拝むような目で見つめた。
捨てられた犬のように痛ましい声をあげる馬淵に、レンはヘラヘラ笑いながら、紙袋の中をまさぐった。
「やっぱり。そう言うと思って、ちゃんと切り分け用のプラスチックナイフと紙皿も買ってあるんすよ。気が利くでしょ?」
レンはそう言って得意げに笑うと、サイドテーブルの上に紙皿とメロンを取り出した。柔らかそうな果皮に、手際よくナイフの刃をスッと差し込む。
ジュワッ……。
刃先が果肉に沈み込んだ瞬間、瑞々しい音が響いた。エメラルドグリーンの果肉から、宝石のように輝く黄金色の果汁が溢れ出し、紙皿の上に水たまりを作っていく。網目模様の皮のギリギリまで熟れた、まさに「今この瞬間」を逃せば崩れ落ちてしまうような、奇跡のバランスを保った完熟の果実。
馬淵は、ゴクリ、と大きく喉を鳴らした。
「さあ、馬淵さん。多分病院の人にバレると面倒なことになるんで、サクッとやっちゃいましょう」
レンが、果汁の滴る一切れをフォークに刺して、馬淵に差し出す。
馬淵はその輝く果肉を見つめ、ポロポロと涙を流した。
「ああ、ありがとう、ありがとう……」
「泣いてる場合じゃないっすよ。ほら、早く」
レンに促され、馬淵は歓喜に打ち震えながら、その至高の一口を迎え入れようと、ベッドから自力で身体を起こそうと前傾姿勢をとった。
――その瞬間。
「……ッッッ!!!!?」
馬淵の口から、声にならない凄まじい絶叫が漏れた。
メロンへ向かって手を伸ばそうとした刹那、肉体の「現実」が、容赦なく馬淵に牙を剥いたのだ。
コルセットで固定されているはずの折れた肋骨が、肺を突き破らんばかりの鋭利な激痛を放つ。筋肉を動かした途端に全身の打撲痕が一斉に発火し、血管に焼け火箸を突っ込んだような痛みが全身を駆け巡った。
三十代。役者としても、男としても、すでにピークを過ぎた肉体。
二十代の頃とはワケが違う。物理的に破壊された細胞のひとつひとつが、もはや再生が追いつかずに限界の悲鳴をあげているのだ。
「ぐっ……あ、あああ……ッ!!」
馬淵は顔面を蒼白にさせ、シーツを握りしめてベッドの上にうずくまった。呼吸をするだけで、折れた骨が神経をガリガリと削り取っていく。
「ま、馬淵さん!? 顔色真っ青じゃないっすか! すぐナースコール押します!」
レンがパニックになり、ベッドの柵にかけられたナースコールのボタンへと手を伸ばす。
「待て……! 押すな……!!」
馬淵は、激痛で視界を明滅させながら、血の滲むような声でレンの腕を掴んだ。
「馬淵さん、でも痛いんでしょ……!?」
「いいから……」
馬淵は、夜叉のような、あるいは飢えた亡者のような凄まじい形相でレンを睨みつけた。
「そのメロンを、俺に食わせろ………!」
看護師が来れば、この極上のメロンは勝手な持ち込みとして没収されるか、あるいは冷蔵庫の奥深くに封印され、この完璧な「食べ頃」を永遠に失ってしまう。
血走った目で凄む馬淵の気迫に、レンは完全に圧倒されていた。普段の不器用で冴えない先輩俳優の面影はそこにはなく、ただ「美食」という名の獲物に飢え狂った修羅の姿だけがあった。
「わかりました! 動かないでください、俺が口まで運びますから!」
レンは気圧されつつも少し愉快そうな顔で頷き、果汁が滴り落ちる一切れを刺したフォークを、馬淵の口元へとゆっくり近づけた。
病室の蛍光灯の下、キラキラと光る果肉がまるで本物の宝石のように見えた。鼻先を掠める、むせ返るような芳醇な甘い香り。
馬淵は、全身の骨が軋み、筋肉が断裂するような激痛に耐えながらも、大きく口を開けた。額からは滝のように脂汗が流れ落ち、シーツに黒い染みを作っていく。
(……痛い。痛い痛い痛い痛い痛い……!! だが、この痛みの向こう側にこそ、至高の甘味が待っているんだ……!!)
馬淵は、痛覚のすべてを気合いでねじ伏せ、差し出されたメロンにバクリと食らいついた。
ジュワァッ……。
口いっぱいに、完璧に熟れきった果肉が崩れ落ちる。噛む必要すらない。舌と上顎で挟み込んだだけで、繊維は滑らかに解け、黄金色の果汁が洪水のように口内を満たしていった。
温度、水分量、そして柔らかさ。それらは、このメロンがこれ以上ない「完璧な状態」であることを馬淵の脳へと告げている。
しかし。
…………。
……………………。
「……あ、あ……」
馬淵の頬を、つーっと涙が伝った。
味が、しない……。
痛みのせいでも、旨味のせいでもない。それは、あまりにも残酷な、完璧な絶望の涙だった。
「ま、馬淵さん……? ど、どうすか……? 最高に甘いでしょ?」
レンがおそるおそる尋ねる。
馬淵は、口の中にある無味の液体をゆっくりと飲み込んだ。喉を通っていく感触はある。しかし、そこに喜びは一切存在しない。
彼は、激痛で動かない首をわずかに傾け、虚空を見つめたまま、枯れ果てた声でポツリと呟いた。
「……水だ」
「えっ?」
「ただの……甘い匂いのする、水だ……」
馬淵はそのまま力なくベッドに崩れ落ちた。
枕元には、誰も手をつけることのできない、最高級の完熟メロンが残されている。その暴力的なまでの芳香が、灰色の病室に漂い続ける。
馬淵は、またしても己の肉体という「絶対に逃れられないノイズ」の前に、完全な敗北を遂げたのだった。
病室に入ってきた看護師が、サイドテーブルの上で果汁を滴らせるメロンと、プラスチックナイフを持って佇むレンを見つけて怒声をあげるのをよそに、馬淵はベッドに体を預け、完全に気絶していた。