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無味メシ 第6話【意識の占有】

     全治二ヶ月の入院生活。それは美食家・馬淵にとって、何よりも過酷な「味覚の軟禁状態」であった。

     出汁の香りも、醤油の鋭さも、脂の暴力的な旨味も、すべてが徹底的に排除された灰色の病院食。それをすするたび、摂取した栄養と反比例するように、馬淵は自分の魂が少しずつ削り取られていくのを感じていた。
     しかし、そんな暗黒の日々にもついに終わりが訪れた。順調な回復を見せていった馬淵は、ようやく、明日、晴れて退院の日を迎えることになったのだ。

     さらに馬淵を歓喜させたのは、見舞いに訪れたプロデューサー・佐伯からの言葉だった。
    「おい、退院祝いだ、馬淵。明日病院を出たら、その足で神田の老舗蕎麦屋に連れてってやるよ。あそこの手打ち蕎麦と、キリッと冷えた濃いめのつゆは、入院明けの五臓六腑に染み渡るぞ」

     蕎麦。そして何より、濃口醤油と鰹節が強烈に主張する、あの黒々とした「つゆ」。
     その言葉を聞いた瞬間、馬淵の干上がった脳内に強烈なドーパミンが迸った。二ヶ月間、徹底的に塩分を制限されてきた馬淵の身体は、今やそばつゆという言葉を聞いただけで、大量の脳内麻薬を分泌するようになっていた。
     エッジの立った見事な細打ちの蕎麦を、少しだけつゆに浸し、一気に空気ごと啜り上げる。鼻腔を抜ける蕎麦の香気と、舌を焼くような醤油のキレ。
     想像しただけで、馬淵の口内はパブロフの犬のごとく決壊し、とめどなく溢れる唾液を飲み込むことができなかった。でへへ、でへへと顔が勝手にニヤケてしまう。

    「……明日の昼。俺はついに、人間の形を取り戻すんだ」

     退院前夜。消灯時間を過ぎた暗い病室で、馬淵は血走った目を見開いたまま、ただひたすらに明日の「最初の一啜り」のシミュレーションを繰り返していた。
     箸の角度、つゆにつける深さ、啜る際のリズム、そして喉越し。
     もはや遠足前の小学生以上の興奮状態に陥った馬淵の脳は完全に覚醒しきり、ようやく浅い眠りについた頃には、窓の外の空が少し白み始めていた。しかしそんな馬淵の寝顔は、この二ヶ月でもっとも安らかで、穏やかな笑みをたたえていた。

     翌朝。荷物をまとめ、私服に着替えた馬淵は、生まれ変わったような晴れやかな気分で病室を後にした。あれだけ呪っていた空間に、今では感謝すら言える。
     残すは、退院手続きの前に組み込まれている「最後の担当医との面談」のみだった。
     馬淵は、羽根が生えたような軽やかな足取りで診察室のドアを叩いた。

    「ええ、骨の癒合も順調ですね。今日から普通の生活に戻っていただいて結構ですよ」
     担当医がカルテから顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
    「ありがとうございます! 本当にお世話になりました!」
     馬淵は深々と頭を下げ、椅子から立ち上がろうとした。さあ、とっととこんなところは飛び出して、鰹節と濃口醤油の海へダイブだ。そう足が勝手に出口へと向かいかけた、その時だった。

    「ただですね」
     担当医が、ふとパソコンのモニターの隅に視線を移し、マウスのホイールをカリカリと回しながら、独り言のように呟いた。

    「念のために撮っておいた精密検査の画像なんですが……肺に影があったんですよね。おそらく何でもないとは思うんですけど、ちょっと形が、気になるなあ——」

     ブツン、と。
     馬淵の脳内で鳴り響いていた歓喜のファンファーレが、不自然な音を立てて強制終了した。

    「……え?」
     馬淵は間抜けな声を漏らし、宙に浮かせた腰を再び椅子へと下ろした。
    「影、ですか……?」
    「ええ。まあ、昔の炎症の跡とか、ノイズの可能性が高いですから。今すぐどうこうというものではないんですけど。三ヶ月後の定期検診で、もう一度経過を診てみましょう。それではお大事に」
     担当医はあっさりとカルテを閉じ、次の患者を呼ぶ準備を始めた。医者にとっては、よくある話なのだろう。

     しかし、馬淵にとってはその「気になるなあ——」という軽快な語尾の響きが、致死量の毒のように脳髄へと染み渡っていた。
     会計を済ませ、病院の自動ドアを抜けても、冬の澄みきった青空は馬淵の心に一切届かなかった。

    「おおっ、馬淵! 退院おめでとう! さあ、約束通り神田に直行するぞ! 腹ペコだろう!」
     正面玄関にタクシーを停めて待っていた佐伯プロデューサーが、馬淵の肩をバンバンと叩く。
    「……あ、はい。ありがとうございます……」
     馬淵は引き攣った愛想笑いを浮かべ、タクシーの後部座席に乗り込んだ。

     車窓から流れる東京の景色。いつもなら、これから待ち受ける極上の蕎麦に向けて、胃袋のコンディションを最終調整する至福の時間だ。
     だが、今の馬淵の脳内は、先ほどの診察室での光景が、まるで壊れたビデオテープのように無限ループで再生されていた。

    (おそらく何でもない……何でもないなら、なぜ口に出した? なぜ『気になる』んだ。プロの医者が気になる影って、なんだ。……癌か? 悪性腫瘍なのか? 俺は死ぬのか?)

     神田の老舗蕎麦屋に到着し、風格ある暖簾をくぐる。
     店内には、二ヶ月間馬淵が狂おしいほどに渇望していた、鰹出汁のふくよかな香りと、かぐわしい蕎麦の香りが充満していた。本来ならば、この匂いを嗅いだ瞬間に馬淵の味覚中枢は歓喜のスタンディングオベーションを巻き起こすはずである。

     しかし、状況は違った。

    「すいません、天ざる二つ! 馬淵、ここの天ぷらは胡麻油が香って最高なんだ。つゆもキリッと辛口でな」
     上機嫌な佐伯が注文を通す。
     しかし、馬淵の鼓膜には、佐伯の声も、周囲の客が蕎麦を啜る粋な音も、ほとんど届いていなかった。

    (気になるなあ——。気になるなあ——。)

     目の前に、朱塗りのせいろが置かれた。
     氷水でキリッと締められた、エッジの立った細打ちの蕎麦。艶やかに光を反射するその姿は、馬淵が病院のベッドで夢にまで見た「完璧な炭水化物」だった。傍らには、香ばしく弾ける車海老の天ぷら。そして、佐伯が徳利から注いでくれた、漆黒のつゆ。

    「ほら、食え食え! 退院おめでとう、馬淵!」
     佐伯は豪快に笑い、さっそく自身の蕎麦を勢いよく啜り上げた。ズルズルッ、という小気味良い音が響く。

    「……いただきます」
     馬淵は、微かに震える手で箸を割った。
     意識を、蕎麦だけに集中させろ。影のことは忘れろ。肺のレントゲン画像など、今の自分には関係ない。今はただ、この二ヶ月間渇望し続けた、アミノ酸と塩分を細胞の隅々に叩き込むんだ。

     馬淵は息を吸い込み、箸で蕎麦を持ち上げた。
     作法通り、蕎麦の先端の三分の一だけをつゆに浸す。そして、空気を巻き込むようにして、一気に啜り上げた。

     ズズッッ!

     唇を滑り、口内へと飛び込んでくる細い麺。鼻腔を突き抜ける新蕎麦の香気と、舌を震わせる濃口醤油と鰹出汁の爆発的な旨味が――。

     …………。

     馬淵の咀嚼が、ゆっくりと止まった。
     彼の見開かれた目は、目の前の朱塗りのせいろではなく、虚空の彼方、ある一点を完全に凝視していた。

     味が、しない。

     二ヶ月間、一切の塩分と旨味を絶たれ、スポンジのように乾ききっていたはずの味蕾が、完全に沈黙していた。

    『——おそらく何でもないと思うんですけど、気になるなあ』

     鼻腔を抜けるはずの蕎麦の香りの代わりに、脳内で爆音で響き渡ったのは、あの担当医の無責任で軽快な声だった。「気になるなあ——」
     舌の上にあるのは、ただの「冷たくて細長い、ゴムのような繊維」だった。老舗が誇る極上のつゆは、ただの「色のついた冷たい水」。
    「気になるなあ——」
     馬淵は絶望的な思いで、揚げたての車海老の天ぷらを齧った。サクッという物理的な音は頭蓋骨に響いたが、「気になるなあ——」海老の甘みも胡麻油のコクも、一切感知できない。ただ、「油をまとった塊」が胃に落ちていくだけだ。

    「気になるなあ——」

    (……俺の肺には、影がある。それは癌細胞で、今この瞬間も俺の体を蝕んでいるのかもしれない。三ヶ月後には手遅れになっていて、俺はもう舞台に立つことも、生きることも……)

     「死の恐怖」という、最大級のノイズ。
     それが馬淵の意識の100パーセントを黒く塗りつぶし、味覚という「生きる喜び」が入る隙間を完全に消し去ってしまっていた。

    「どうだ馬淵、美味いだろう! ここのつゆは格別だからな。塩分が体に染み渡るだろ!」
     無邪気に笑う佐伯の言葉が、遠い宇宙の彼方から聞こえてくるようだった。

    「……ええ。本当に……染み渡ります……」
     馬淵は、死人のような青白い顔で引き攣った笑みを浮かべ、無心で「冷たいゴム」を啜り上げた。

     極上の蕎麦屋の喧騒の中、馬淵の魂だけが、冷たくて暗いレントゲン室の中にポツンと取り残されていた。退院の喜びも、美食の感動も、すべてはあの一言のブラックホールに飲み込まれ、二度と帰ってくることはなかった。

    「気になるなあ———」


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