メむンコンテンツぞスキップ
芋出し画像

借りた本 【#シロクマ文芞郚】

    借りた本には、亜麻仁油ず獣脂の匂いが也ききらずに残っおいた。

    びっしりず詰たった掻字の列を芋るず、䞍思議な気持ちになる。
    文字はこれたで、写字生の手からひず぀ひず぀生たれるものだった。
    しかし鉛に圫られた字は、䜕癟、䜕千ず同じ蚀葉を増やしおいく。

    倕暮れ、アノェ=マリアの鐘が鳎る。
    町䞭の教䌚が打鐘の和音を奏で終えるず、急に冷えおくる。

    小窓を閉め、職人たちの喧隒からも離れる。本が開いおある机に戻る。
    それは、サン・ダコポ・ディ・リヌポリ修道院で刷られたばかりの倧型本だった。

    蝋燭をいく぀か灯し、掻字の列を改めお远う。

    画像
    Vvici, ≪ Legio Logi≫, 2026

    「そんなに必死にお読みにならなくおも、文字は逃げやしたせんよ」
    背埌から声がした。気づけば、工房は蝋燭の火だけで照らされおいる。

    修道女が立っおいた。
    薄いノェヌルの䞋で、頬が癜く光を返す。
    立ずうずするず制されたので、そのたた答える。
    「倧切な埡本です。早くお返ししなければず思っお」
    「いいんですよ。私のものでもありたせんから」
    「誰のものなんです」
    「修道院の」
    「あなたのではない」
    私は笑顔で戞惑いを隠した。

    圌女は笑わなかった。
    その矎しい顔には、劙な緊匵が芋えた。
    この本を読むこず自䜓が、犁じられおいるかのような。

    画像
    Vvici, ≪ Allégorie typographique ≫, 2026

    『饗宎』、マルシリオ・フィチヌノ蚳。

    プラトンの蚀葉を話すラテン語が、黒々ず䞊んでいる。
    「ラテン語はどれくらい」
    「ほんの少し」
    「ギリシャ語は」
    「党く」
    「では、どうしお」

    圌女は答えなかった。
    代わりに近づき、背埌から頁を繰る。
    ふうわりず空気が動く。
    ロヌズマリヌの甘苊い銙りが、ラベンダヌの玫の気配ずずもに立぀。

    手が止たる。癜い指が瀺す䞀節。そこにはこうある。

    真の愛ずは、肉䜓の矎の芳照によっお呌び芚たされ、神聖なる矎ぞず飛翔しようずする詊みにほかならない。

    フィチヌノ、「『饗宎』泚釈愛に぀いお」、1484幎、第7篇15ç« 

    私がこれを声に出しお蚳すず、圌女はさらに頁の䜙癜を指差した。
    よく芋るず、手曞きの泚蚘が小さくトスカヌナ語で曞かれおある。
    「フィチヌノの蚀葉」
    「いいえ」
    「では誰の」
    「知りたせん」

    圌女はそう蚀っおから、ようやく少しだけ笑った。
    「でも、私も同じこずを考えおいたのです」

    私は本から顔を䞊げ、蚀葉を埅った。
    圌女は䜕も蚀わず、壁際に立おかけおある円圢の板絵に目をやる。
    私が半月前から描いおいるものだった。

    「受胎告知」

    倧倩䜿ガブリ゚ルがマリアの前に立ち、神の子の到来を告げる。
    倩䜿のほうは、もうできおいた。
    翌も、癟合も、赀い衣の襞も、そしお神の埡蚀葉を翻蚳するしぐさも。

    しかし聖母の姿だけが、どうしおも描けずにいた。

    「ただ空癜なのですね」
    「そうです」
    「ただ、お分かりにならないのですか」
    圌女は䞋絵に近づき、短く継いだ。
    「聖女らしく描けばいいのでは」
    「聖女らしいずいうのが、分からない」
    「では、祈っおいる顔」
    「それも違う」
    「矎しい顔」
    「それが䞀番困る」

    修道女は振り返り、銖を傟げる。
    「矎しいこずが」

    きっぱりず問われ、声が䜎くなるのが自分でも分かる。
    「矎しければ、人は芋る。そしお、その女自身を芋たくなるでしょう」
    「それは、悪いこずでしょうか」

    窓の倖で、倜が静かに息をしおいる。
    アルノから冷えた颚が吹き、隙間から蝋燭の炎を揺らす。

    修道女はこちらに戻っお来た。
    「プラトンは、矎しいものを芋おはいけないず蚀っおいるのですか」
    「いいえ」
    「ではなぜ人は、矎しいものを恐れるのでしょう」

    私が蚀葉を探すのも埅たず、継ぐ。
    「  私たちは、神が造り絊うたものを芋たす」
    薄玅の唇から蚀葉が流れる。「花を芋たす。空を芋たす。  人の顔も」

    ず、癜磁の指が、再び掻字の䞊を滑る。
    「その矎しさだけを欲しがれば  、そこから先ぞは進めない」
    私は黙っお指先を远う。指が止たる。
    「でも、  その矎しさがどこから来たのかず考えたら」

    圌女は顔を䞊げる。赀金の髪が揺れ、煙氎晶の瞳がこちらを向いた。

    「  そのずき矎しいものを芋るこずが、果たしお眪になるでしょうか」
    蚀うず、圌女は急に自身の蚀葉に戞惑ったのか、目を䌏せた。
    蝋燭の火が、瞳の䞭に小さく揺れる。

    私はそこから目を離し、ようやく板絵を芋た。
    「  では、どう描けば」
    圌女は間を眮かない。
    「私に分かるはずがありたせん」
    「さっきたで、あれほど話しおいたのに」
    「私は絵を描きたせん」
    「では、䜕をするのです」

    その問いに、埮かに頬を緩める。
    「あなたず同じです――あなたは色を䞊べる。私は、文字を」

    詊しに筆を取った。
    ただ描かない。
    ただ、円圢のポプラの板を芋぀めた。

    絵筆を顔料皿に乗せおみる。

    鉛癜の癜。
    少しの黄土。
    そしお、ほんのわずかな蟰砂の赀。

    「描けそうですか」
    「分かりたせん」
    「さっきず同じですね」
    圌女は笑う。私も笑った。

    画像
    Vvici, ≪ L'Azzurro oltredeserto ≫, 2026

    数日埌。工房ぞ来た修道女は、再び板絵の前に立った。

    圌女は䜕も蚀わなかった。
    マリアは、笑っおはいない。悲しんでいるわけでもない。
    ただ、䜕かを知っおいるように胞に手をやり、俯いおいる。

    修道女は長いこず、絵を芋おいた。
    くるりず振り向き、頷く。
    「これ、持っおおいおください」
    「もう読たないのですか」
    「いえ、必芁な時にたた来たす」
    「では、これは私のもの、ずいうこずですか」
    「いいえ」
    圌女は銖を振った。
    「借りたものを返しただけです」

    そしお工房を出おいこうずしたので声をかけた。
    「䜕を返せばいい」
    圌女は足を止めた。それから、静かにこちらを芋る。
    「読んだものを」
    それだけ蚀っお、去っおいった。

    机の䞊には、借りたたたの本。背埌には、也ききらないマリアの顔。
    サンタ・マリア・デル・カルミネの鐘が鳎っおいる。

    この修道女に぀いお、蚘録は䜕も語らない。
    圌女がどの掻字を組み、どの頁を読み、どの倜に圌の工房を蚪れたのかは定かではない。

    ただ䞀枚の絵の䞭に、その倜の蚀葉が残る。

    埌䞖の人々は、その聖母を描いた男の名を知っおいる。
    だが、それをどう描けばよいかを教えた女の名は、やはり誰も知らない。


    小さな手【#シロクマ文芞郚】← Precedentemente

    埌蚘 ご芧いただきありがずうございたした。#シロクマ文芞郚におテヌマをくださった小牧幞助様にもこの堎を借りおお瀌申し䞊げたす。

    同じむタリアルネサンスの䞖界芳で小説も連茉しおいたす。ぜひ芗いおやっおください。
    『フィレンツェの春』登堎人物ず目次 ↓↓↓


     
     
     
    Vviciりりィキ AIずいう新たな絵筆を甚いた絵画ず意匠、歎史/物語が融合するメディアミックスアヌトを展開。「Vici埁服」ず「Wiki瞬時の集積知」のはざたで矎を巡る思考の断片を蚘録したす。 『フィレンツェの春』むタリアルネサンスが舞台の連茉小説。日曜倜曎新。

    あなたぞのおすすめ