
半額の紳士
凝り固まった肩を鳴らしながら、夜の公園を通り抜ける。ベンチの下からガサリと音がして、パンの食べかすと、妙に丸い柴犬が目に入った。ここに住み着いてるやつや。近くにいたカップルが、犬をスマホで撮っていた。
「こいつ絶対エンペラーやって。顔がエンペラー」
「わかる。エンペラーやわ」
何がどうエンペラーやねん。
カップルが歩いて行ったのを見て、ベンチに座り、しばらく犬のむっちりとしたフォルムを見ていた。ピンと立った茶色い耳が、イカのエンペラに見えてくる。エンペラーやなくて、エンペラやろ。撫でようと手を伸ばすと、香ばしい獣臭が漂い、手を引っ込めた。こいつ、どれくらい風呂に入ってないんやろ。
「おるだけで飯食えるなんて、ええご身分やな、エンペラ」
俺はゆっくり腰を上げ、犬の顔を覗き込んでから、公園を後にした。
公園を抜けてすぐにある、そこだけやけに眩しいスーパーエンドウの自動ドアに吸い込まれていく。夜九時過ぎの閑散とした店内に、部屋着の女性とサラリーマン、それから、さっきのカップルがいちゃつきながら歩いていた。俺は青果売り場をすり抜けて、まっすぐに惣菜コーナーへと足を早めた。
弁当は残り二個。海苔弁当のみ。すでに二割引のシールが貼られていて、528円が423円になっていた。
俺はちらりと腕時計を見てから、周囲を見渡す。もうすぐ九時半。この店の弁当に半額シールが貼られるまで、あと五分。
部屋着の女性は豆腐売り場。家に米がある顔や。カップルはシチューの箱を見ながら、肩をぶつけ合っていた。サラリーマンの汗染みがついた襟元は、明らかに独り身の装いや。敵はリーマン一人。なら、あと五分くらいカゴに入れんでも大丈夫やろ。
俺は、背後で商品を前出ししている店員のおばちゃんが、ハンドラベラーを持つ気配に全神経を集中させながら、「別にシールなんて待ってませんけど?」という顔で、隣の棚のサラダパックを手に取った。
九時二十七分。
予想通り、リーマンがこちらに歩いてくる。カゴにはエビスビールと、半額シールが貼られた刺身パックが入っていた。お、ええな。戦利品ですやん。刺身が半額やから、豪勢にエビスでキメるっちゅーわけでしょ。そんなことを思っていると、リーマンと目が合い、なぜかお互い愛想笑いをして会釈した。日本人やね。お疲れ様です。
リーマンのビジネスバッグから栄養ドリンクが覗いていて、残業仲間としても一体感が芽生えてくる。彼は周囲の棚を眺めつつも、店員の一挙手一投足を目の端で捉えていた。ほう、ええ目つきや。
九時二十九分。
店員がハンドラベラーを構え、近づいてきた。俺とリーマンは、ラベル貼りの邪魔にならないよう、スマートに一歩退いた。訓練された動きだった。周囲には俺たち二人だけ。もう勝利は確信していた。
九時三十分。
ガチャン、と決定的な音がした。
この瞬間、528円の海苔弁が264円になった。
「……あ、半額か……」
俺は「今気づきました」という態度を崩さず、呟いた。
「……ほんまや……」
リーマンもノッてきた。なかなかの手練れや。ここで焦りは禁物。獲物を目の前にして、紳士は慌てない。
店員が惣菜売り場からハケるのを見届け、俺たちは視線を合わせ、頷いた。リーマンの顔は凛としていた。俺たちは同時に、涼しげな表情で海苔弁に手を伸ばした。
これで俺の夕飯は264円や。俺もエビス買うて帰ろ。
そう思ったとき、あと少しで掴めたはずの海苔弁が、目の前から忽然と消えた。
「ハァんっ?」
妙に色っぽい声が出た。視線をゆっくり横にずらすと、カップルの女が海苔弁を掴んでいた。
「264円やって!エンペラーにあげよ!」
「優しいやん、さーちゃん」
おい待て。それは野良犬のエサちゃう。俺の夕飯や。俺の口はもう海苔弁とエビスになっとんねん。それに海苔弁は塩分高過ぎや。「犬に悪いですよ」言うたら返ってこんかな。こんわな。
カップルはいちゃつきながら遠ざかっていく。俺の海苔弁も遠ざかっていった。
隣のリーマンは俺の顔を見て、素早く海苔弁をカゴに入れた。カゴの中には、刺身パックとエビスと海苔弁。半額シールが蛍光灯でやけに光っている。……ええな。刺身か海苔弁、どっちか分けてくれへんかな。
「あの……」
さっきまであんなに視線で語り合っていたリーマンは、俺の声に肩を跳ねらせ、後ろ手にカゴを隠した。それからレジに向かうまでの動きは早かった。髪が一束細く揺れていた。
惣菜売り場は空になり、鮮魚売り場もハケていた。
「……公園、行ってみよ」
俺は「別に犬なんて気になってませんけど?」という顔で、エビスとエンペラの乾き物をカゴに入れた。

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