
三秒ルールの金賞
近所の唐揚げ専門店には〈唐揚げグランプリ金賞受賞〉の看板が七年前から立っている。赤い看板は日焼けし、オレンジに色褪せているのに、看板はずっと誇らしげに金賞を受賞し続けている。
いつでも行けるやろ、と一度も寄ったことはなかったが、ある日、入口の扉に〈今月末で閉店します〉と張り紙があった。なら閉まる前に一回くらい行っとこか、と高校からの友人の美結と来ていた。
「いつも素通りやったけど、最初で最後やなぁ」
あたしが引き戸に手をかけても、美結は立ち止まって看板を見ていた。
「どしたん?」
「……まだ金賞なんやな。懐かしいな」
「え?入ったことあるん?」
「ない」
ないんかい、と言おうと思ったら、先に美結が店の中に入って行った。
テーブルにはメニュー表がなかった。壁に貼られた油染みだらけの手書きの紙に、「唐揚げ(大・中・小)」とだけ書かれている。飲み物はビールとソフトドリンクだけだった。店内は満席で、かつての常連らしきおっちゃんが、カウンター越しに店主に話しかけていた。
「閉まる思たら、もっと来てたのになぁ!」
「ほな来てくれはったら〜」
「毎日唐揚げはさすがになぁ〜」
確かに。唐揚げ以外に逃げ場がないのはきつい。他にメニューがあれば、おっちゃんももっと来れたのにな。美結も同じことを考えてるような顔で視線を合わせた。
「お待ちど〜」
店員のおばちゃんが運んで来たのは、皿から溢れそうなほど山盛りの唐揚げ。
「あの……頼んだの小なんですけど……」
「もう閉店やから!サービスサービス!」
おばちゃんが笑顔でドン!と皿をテーブルに置き、その勢いで一番上の唐揚げが、テーブルの上に転がった。
「あら!ごめんねぇ〜!三秒ルールでどっちか食べ!」
「は?!」
「ほら、もう三秒たってまうで!さーん、にーい」
反射的に二人同時に唐揚げに手が伸びた。素手で。あたしの手は唐揚げを掴んでいた。ビーチフラッグスなら勝者でも、転がった唐揚げに対しては敗者だった。美結がスッと手を引っ込めた。
「……あげるわ」
「まぁ……ありがと」
あたしは素手で掴んだまま、唐揚げを小皿の端に乗せた。食べる前にベトベトになった手を、おしぼりで拭く。拭いてもまだ少しベトベトだった。
「こんなこと、前もあったな」
美結が、あたしの手を見て目を細めた。
「高校の時、啓太で勝負したやん」
「……したな」
あたしは右手の手のひらを開いて、あの日のことを思い出した。啓太は、文化祭で下手な軽音部の演奏を、汗まみれで盛り上げるようなやつやった。美人の美結まで好きになるとは思わんかったけど。
「恨みっこなしな」って、二人で啓太を校舎裏に呼び出した。美結は、すでに勝ったような顔であたしの隣に立っていた。
「付き合ってください」
同時に手を差し出したとき、勢いでつんのめり、啓太の手を握ってしまった。啓太の手は手汗でベトベトだった。でも手を離す気にはなれなかった。啓太は驚いた顔で、掴んだ手をじっと見たあと、握り返してきた。
その流れで、啓太はあたしの彼氏になった。美結がどんな顔をしていたのかは、見れなかった。
「ほんで、来年結婚? あん時のうち、何やったん。校舎裏の背景か?」
眉間に皺を寄せた美結が、唐揚げを一口で食べて、ビールで流し込んだ。
「あんときは、ほんまごめんて……」
美結は何も言わず、唐揚げを咀嚼する。サクサクと美味しそうな音がした。
「でも啓太の手ベトベトやったって言うたら、『握らんで良かったわ〜』言うてたやん」
「そんなん強がりに決まっとるやん」
「でもすぐ飯田くんと付き合うてたやん」
「当てつけや」
……知らんかった。だって飯田くんの方が啓太よりずっとイケメンやし、みんな羨ましがってた。啓太なんていまだに手汗すごいで?
「……なんで今になってそんな話するん?」
美結はまた一つ唐揚げを口に入れた。再びサクサクといい音をさせながら、入口の方を見た。
「あんたらが付き合ってすぐ、この店、金賞の看板出したやろ?」
美結が入口を見たまま、唐揚げを一口かじった。
「……一回だけ啓太誘ったんよ。一緒に行かへん?って、LINEで」
「えっ?!」
声がひっくり返ったあたしを見て、美結が苦笑いする。
「納得いかんかったんよ。うちが呼んだら来ると思ってたのに」
あたしは何も言えず、テーブルの下で薬指の指輪を親指で擦った。強気や。昔から美結はそうやった。そりゃそう。みんなも啓太は美結を選ぶと思ってた。一番びっくりしたのはあたしやで。
「でもな、既読になったのに、こーへんかった」
美結がジョッキを握りしめて、泡がほとんど消えたビールへと視線を落とした。あたしは一呼吸置いてから、唐揚げで少しテカった美結の口の端を見て言った。
「……啓太な、唐揚げ苦手やねん」
美結が顔を上げて、目を見開いた。
「あの人『汗が余計脂ぎる』言うて、謎に揚げ物全般食べへんねん。
文化祭のときも、啓太だけポテト食べなかったやろ?」
美結は口を開けたまま、しばらく何も言わなかった。ジョッキの底に残った泡が、ゆっくり消えていった。
「……なんやそれ」
美結がぼそりと呟いて、口が歪んだ。あたしは視線を唐揚げに向けた。何か言わなきゃいけないのに、口の中が乾いていた。潤そうとしたら、言葉の代わりに唾が出てきた。
そうや、あたしはまだ一個も食べてない。美結は動かへんし、もう食べてええかな。
恐る恐る箸を唐揚げに伸ばしたとき、急に美結が笑い出した。
「あーっはっは!うち、唐揚げにも負けたんか!」
美結はバンバンとテーブルを叩いた。皿も揺れて、やっと掴んだ箸から唐揚げが落ちた。テーブルに突っ伏して美結が笑っている。
笑ってくれたなら良かった。
美結が誘ったのが回転寿司だったら、啓太は行ったかもしれん、とは言わなかった。あたしはちょっとだけ苦くつられ笑いをして、唐揚げと目を合わせた。ずっと唐揚げはこちらを見ていた。両想いや。
もう、食べてええよな。
もう一度、箸で掴もうとした。美結は笑いすぎて目尻を拭いながら、残った唐揚げを見た。
「なぁ、この唐揚げ、持ち帰ってええ?」
美結の一言に、あたしの箸が止まる。
「うちの子、揚げ物好きやん?負けっぱなしも癪やし、金賞くらいもらってもええやろ」
美結の子、もうすぐ三歳。あの、いつも両手で揚げもの握りしめてる子。誰も取らへんのに、胸に抱え込むみたいに食べる。
あたしは唐揚げを凝視した。美結がいいペースで食べたおかげで、残り四個。食べてもない唐揚げの味が口の中にするような気がする。
あんたらもあたしと心中するより、三歳児の未来ある細胞になった方がええかもしれんな。辛いけど、お別れや。
あたしは箸を引っ込めて、頷いた。
「ええよ、持っていき」
「おばちゃーん!これ包んでー!」
美結が食い気味に叫んだ。
「はいよー!」
おばちゃんが手際よく透明パックに詰めていく横で、あたしは最初に転がった、小皿の上の唐揚げを見つめた。あたしが素手で掴んだやつ。とうに三秒ルールは無効になっていた。カラッと揚がっていたはずの衣に、油が染み出している。
なんや、啓太みたいやな。
あたしはちょっとだけ迷ってから、ゆっくり口に運んだ。
ちょっとしなってたけど、美味かった。
指先はまだベタついていた。
「金賞やわ」
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