
人や地方・地域を知るには物語が必要だ|ちくま日本文学「太宰治」・太宰治「津軽」読書感想
人間を描くのは小説が向いているのだと思う。ちくま日本文学「太宰治」に収録されている「津軽 抄」を読む中で、ふとそんな想いを抱いた。
ふだんは人一倍はにかみやの、神経の繊細な人らしい。これもまた津軽人の特徴である。生粋の津軽人というものは、ふだんは、決して粗野な野蛮人ではない。なまなかの都会人よりも、はるかに優雅な、こまかい思いやりを持っている。その抑制が、事情によって、どっと堰を破って奔騰する時、どうしたらいいかわからなくなって、「ぶえんの平茸ここにあり、とうとう」といそがす形になってしまって、軽薄の都会人に顰蹙せられるくやしい結果になるのである。
生粋の津軽人は、中途半端な都会人よりも遥かに優雅で思いやりを持っているけれど、ふとした瞬間に田舎者丸出しのようになってしまって、そうした都会人の顰蹙も買ってしまう結果になる。
粗雑に文意を拾うならばこのような解釈になると思われるが、これを論文や評論のように解説し、語ってしまったならば、どことなく批難するような、差別的なニュアンスが感じられるようになるだろう。
物語ーー小説として描けばこそ、ユーモラスで和か、温かな印象を与えつつ、津軽に暮らす人々はどのような特性を持っているのかを読み手が感じ取れるようになる。ここに太宰治の才と小説の力を感じられる。
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太宰治の作品群に触れる|ちくま日本文学「太宰治」読書記録
ちくま日本文学「太宰治」は、太宰治の作品が17作収められている作品集であり、次の作品が収められている。

魚服記
ロマネスク
陰火
満願
黄金風景
津軽 抄
女生徒
千代女
十二月八日
新釈諸国噺より
貧の意地
破産
吉野山
お伽草紙より
カチカチ山
親友交歓
トカトントン
桜桃
ヴィヨンの妻
有名な作品が数多く並んでいるため、多くの人々にとって、一度は読んだ経験があると思える作品があるのでなかろうか。
津軽への愛を感じつつ津軽の魅力を汲み取る|太宰治「津軽」読書感想
「津軽 抄」は、津軽地方で生まれた作家が、故郷を旅で訪れ、そこで旧知の人々と出会い、語らう様子とともに津軽の地の景色が細やかに描かれている作品である。太宰治が津軽地方に生まれた作家であることから、重なるところが多いというか、そうした面でも有名な作品だ。
果たして登場人物と太宰治を重ね合わせて好いものかどうか判断に悩むけれども、本作において描かれる津軽地方は、決して魅力的な土地とは言えないし、そこで暮らす人々もまた魅力的と言い難い。一方で、冒頭で引用した箇所で描かれているように、何も不出来な人々として描かれているわけではない。
表面をなぞると太宰治は、出生地である津軽地方に対して陰鬱な感情を持ち、その発露として本作を書いたのでないかと感じさせられるけれど、さりとて綴られている文章の端々から津軽地方や津軽人に対する愛情のようなものを汲み取れる。
ある種、そうした屈折した愛情表現、”はにかみや”なところが津軽人の魅力なのだと、書き手である太宰治の文章表現を以って体現して魅せている作品とも言えるかもしれない。
また、都会人への対抗心のようなものを感じさせるところからは、津軽地方に生まれ育った津軽人としてのプライドのようなものも窺え、そうした人間臭さが醸し出されている点が、本作「津軽 抄」及び太宰治の魅力として感じられるのだ。
ところで、「津軽 抄」で描かれている津軽に暮らす人々は、全員がそうだと言わないまでも、心温まるほどに温かな人々が多い。それは奇しくも4月につがる市を訪れて感じられた人々の温かさに通ずるところがあり、読んでいて胸が熱くなった。
その結果として、読んでいて「津軽 抄」よりも津軽地方に対する良さ、魅力を感じたものである。昨今は何かと地方、とりわけ閉鎖性を持った地域やそこで暮らす人々が理不尽に否定され、批判されてしまうけれども、どうしたところで人間とは一面的な存在ではない。
閉鎖性は繋がりの深さと表裏一体であったりするし、厳しい環境での暮らしは必然的に人々の心を尖らせる。けれど誰もが協力して生活しなければならないから、尖ってばかりもいられない。温かさや和かさが必要だ。つまり多面性が求められる。一面的ではいられない。
また地方の習慣や特徴を時代に合わない因習と唾棄するのは簡単だけれども、因習が因習として成立する過程には当然ながら理由や合理性があり、時代の変化がいくら起ころうと背景が変わるものではないのだから、時代にそぐわないと否定するのはどうしたところ安易安直と言わざるを得ない。
時代がどうあれ、地域での暮らしは過去から地続きの現実である。最先端を謳歌する東京での生活がどれだけ便利であろうと、その最先端がすべての地域の利便性を高められるかというと存外そうではない。
どうにも温故知新が軽んじられ、新しきこそ正しく絶対的であるとでも言わんばかりの言動が目に入り、目に余るけれど、新しさとは点だ。前述の通り、地域での暮らしは過去から地続きの現実であり、線である。点をいくら大事にしたところで、線でない以上は、成り立たない。
そして、そうした暮らしを構成しているのは、そこにいる一人一人の人間であり、彼ら彼女らの営みである。外様の人々が机上で描いた夢との乖離は大きいし、机上で描かれた夢は、所詮夢でしかない。つまり、批判も否定も所詮は言葉に過ぎないのだ。
だから、人を見る必要がある。太宰治の「津軽 抄」は、まさにその人にフォーカスしながら津軽地域を描き出した作品だ。人を通して地域を知り、人の良し悪しを通じて地域の良し悪しを感じる。そんな作品なのだ。そしてそれは、小説だからこそ自然かつ巧妙に描き出せたのだと思う。
これこそが太宰治の力であり、小説の力なのだろう。これが論文であったならば、あるいは評論ならば、きっと津軽地方の良さを感じるのは難しかったはずだ。太宰治の愛のある物語だからこそ、津軽地方の良さを感じられる。人も地域も過去から連綿と続く線上の存在だ。そうした存在を知るには、物語が最適に違いない。
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