
いじめられた夜、私は母とは違う道を選んだはずだった
私は、母とは違うと思っていた。
「あの子は孫の中で一番心根が優しいから。傷つけずに大切に育てるんだよ。」
最近、息子が私の母のところへ泊まりがけで遊びにいくようになってから、帰ってくるたび、母は電話で私に言い聞かせる。
自分はあんなに兄を押さえつけて育てたことを忘れたかのような母の言葉に、私は、受話器越しに適当に返事をする。
「あぁ、そう? うん、わかった。」
──言われなくてもそうしてるよ、とは言わずに。
いつものように包丁を片手に電話を耳に挟み、野菜を切る。夕飯を作りながら、母の話は半分に聞き流している。
話は五十を過ぎてようやく家から出て行った兄の近況へと広がった。
「お兄ちゃん、今度は大阪から高松に転勤が決まったからもうこっちへは戻らないんだってさ。だからこの家も相続しないって。」
ーーそうか、兄は家を出て親ともあれこれ話せる様になったらしい。
私の兄は小学生の頃、とにかくひょうきんで友達の多い人気者だった。
おふざけが過ぎるからなのか、大体の担任の先生からは嫌われて問題児扱いだったらしい。通知表は1だらけ。
そんな長男の将来を案じて、母親はずいぶん過干渉に兄を押さえつけて育てた。そのせいか、中学の反抗期以来、学校で外に出る以外は家庭内引きこもりとなった。
話す言葉は
金、
風呂、
飯。
就職して立派に社会人になってもそれは長いこと変わらなかった。
そんな兄が、突然の異動で大阪へ引っ越し実家を出たのは三年前のこと。
五十をとうに過ぎた男の引っ越しを、両親は手伝わなければ! と大騒ぎしていた。
相も変わらず過干渉な両親に呆れながらも、やっと兄も両親から解放されて自立できるのだな、とほっとしたことを覚えている。
──そして最近気がかりなのはもっぱら私の息子のこと。小学生になってから兄の姿と重なることが良くある。
息子は我が家の家系で兄の次に生まれた唯一の男の子だ。くだらないおふざけが大好きなあたりや、学校へ行ってもみんなから名前を呼ばれると、おちゃらけて見せる姿はまさしく兄にそっくり。
今年から担任になった生活指導主任からは早くも見放されている、そんな似てほしくないところまで似ている。
確かに彼の防災頭巾の袋の中にはゴミの山が詰め込んであって、筆箱にはまともな鉛筆が入ってないこともある。それは生活指導の先生から見たら大きな問題なのかもしれない。
だけど横並びに見たらまだまだ未熟な問題児でも、去年、一昨年からの成長という縦軸で見たなら、彼の中に眠るたくさんの可能性が見えてくる、と私は思う。
「先生、見るべき場所が違いませんか?」
心の中で私はつぶやく。
五年生になった息子は、これまで頑なにやらなかった宿題をやっと毎日やるようになった。
螺旋状に咲く珍しい花を見つけて、母のために丁寧に摘んできてくれる。
休みの日の朝ごはんは、米粉でパンケーキを焼いてくれるし、学校に行く前は必ず、母と父にぎゅうっとハグをしてから満面の笑みで出掛けていく。
そんな日々の小さなことが、大切でかけがえのない彼なのだと私は思う。だから私だけは彼の成長を見失わないでいたい。
そんな息子の様子が変わったのは五年生になって一学期が終わる頃だった。
ある日を境にぱったり友達と遊ばなくなった。
「なんかみんなで勉強会してるから無理なんだって。」
「定員オーバーで無理だって言われた。」
放課後遊びに行かなくなった日から、度々息子はそう言うようになった。涙が流れないように必死で目に力を込めて、それでも溢れそうになる涙を腕でゴシゴシと擦るようにして堪えていた。
みんなに配るために買ったお菓子が、机の上に目的を果たせないままでとり残されていた。私の胸はギュッと固く絞られたように痛んだ。
リビングのソファで一人テレビを見る横顔が、心ここに在らずに映る。
私はひどく動揺しつつ、
「そっか、辛かったね」
そう言って抱きしめることしかできない自分に、もどかしさと悔しさが込み上げてきて、泣きそうになるのをやっとのことで堪えていた。
彼の姿が私に重なっていく。
私も小学生の頃、いじめを受けていた。
ある日突然無視が始まり、私は恐怖で身体中が痺れ息が吸えなくなった。
永遠に感じたひとりぼっちの時間。のちに相手から謝ってきた時には
「良かった!私が悪い訳じゃなかったんだ」
と世界から霧が晴れていくようだった。
学校から帰宅すると、私はキッチンにいる母のもとへと真っ直ぐに駆け寄った。
母の姿が見えるや否や口から言葉が溢れ出し止まらなくなっていた。
いじめられていたこれまでの経緯と、そして私が悪くなかったと言うことをとにかく早く母に報告したかった。
そのときの母は怒ったようなひどく強張った顔でフライパンを手に無言で料理をしていた。
野菜の焼けていく音だけがキッチンに響いて、しばらく世界が止まっているかのようだった。
私は母の返事をしばらく待っていた。しかし一言も反応せず、ただフライパンを一心に見つめている母を見て、あぁそうか。いじめられたことは恥ずべきことなんだ、私は恥ずかしい人間なんだ。と理解した。
私はこの時一つ心の中にあざがついてしまった。
本当は一緒に喜んでもらいたかった。私は悪くなかったんだと言って欲しかった。
だから私は振り向かなかった母とは違う道を選ぼうと思った。それは息子のためというより、あの時の小さな自分のためなのかもしれなかった。
それからの私は、頭の中を何倍速にも回転させて
「親として自分には何が出来るのか」
を必死に考えた。
辿り着いた答えは、彼の帰ってくる家を最高に安心できる基地にすること!
まず初めに、息子の部屋を一緒に大掃除した。彼が心地よく大好きな工作に取り組めるように、大きなテーブルを置いた。
それから庭の草むしりと、そして夕方には一緒に料理をした。
とにかく傷ついた心に向かわず、手を動かして無心になれる事を必死に探した。
中でもトランプの効果はテキメンだった。夕飯の後、姉たちも加わり大貧民に興じて、真剣に勝負をする。夫が「革命」を起こし、娘たちが悲鳴をあげる。
それまでの強弱は逆転して、最後の最後で追い上げるように息子がカードを切って、ドヤ顔で上がっていく。
久しぶりに我が家の食卓に賑やかに灯りが灯ったような笑い声が響く。そんな夜がわずかに一週間も続くと、それだけで息子の目に光が戻ってくるのを感じた。
そうして翌週の朝。
「行ってきます」
と背中を向けたまま、息子は玄関を開け駆け出すように家を出ていくようになった。もうハグという充電行為は必要ないようだった。
母が選ばなかった道を、私は開拓していく。
あの日傷んだ私は、逞しくなって息子のために新しい道を切り開いてゆく。
そうしてきっと、子育ては世代を超えて進化していくはずだ。
母はあの時、振り返ることができなかった。でも私はこの手で息子を抱きしめ、トランプをして一緒に大笑いした。
ほらね、私は今日も母とは違う道を見つけた。
ーーそう誇らしく思った時、トランプのカードに重なるように私の脳裏に古い記憶がふわりと立ち上った。
それは兄がまだ反抗期を迎える前の記憶だった。
私たちは毎晩のように、家族でトランプをしていた事を。
まだ小さかった私は、大貧民のルールが難しくて母の後ろから見ていた事を。賑やかに声を上げながら何度も何度も勝負に夢中になっていた兄や姉を、母の背中にもたれながら見ていたことも。
私は母とは違う育児の答えを探してきた。息子には兄のような思いはさせたくない、そう強く思ってきた。だけどその思いが、母のしてきた前向きな選択の記憶まで消してしまったのかもしれない。
もしかしたらあの日の母も。娘がいじめられていた事実に私と同じように胸を締め付けられて動けなかったのかもしれない。
そう気がついてから、私の中の母の輪郭は次第に変化していった。一筋縄では行かない私に必死に向き合う、記憶の奥に消し去っていた母の姿が浮かんでは消えた。
息子が五十を過ぎた時、
「あんたもまだまだ息子に必死な姿は私と同じだね!」
と母は受話器の向こう側で笑うかもしれない。
育児に正解なんて無いんだから、って。