
彼女が転職を迷った日。既婚者の僕は、相談相手でいようとした|Episode3
彼女と連絡先を交換した日から、数日が過ぎた。
でも、僕たちの関係がすぐに大きく変わったわけではなかった。
彼女はまだ同じ職場にいた。
会えば話せた。
だから、用もないのに連絡する必要はなかった。
僕も、それでいいと思っていた。
連絡先は知っている。
でも、連絡はしない。
その距離が、僕にはちょうどいいはずだった。
彼女が差し出してくれたつながりを、大事にしたかった。
大事にしたかったからこそ、雑に使いたくなかった。
寂しいから連絡する。
気になるから連絡する。
そんなふうに、自分の気持ちを満たすためだけに使ってはいけないと思っていた。
それでも、連絡先を知っているというだけで、少し安心している自分がいた。
彼女が職場を離れても、完全には切れない。
そう思えるだけで、どこか救われていた。
そんなある日、彼女から連絡が来た。
最初は、これからの働き方についての相談だった。
新しい職場へ行くことは決まっている。
でも、本当にこのまま進んでいいのか。
彼女は迷っていた。
子どもが小さいこと。
体調を崩せば、どうしても仕事を休まなければいけないこと。
家族に頼れる日もあれば、頼れない日もあること。
新しい職場で、そんな働き方が受け入れられるのか。
自分が休むことで、周りに迷惑をかけるのではないか。
そもそも、子どもを育てながら正社員で働くこと自体が、間違っているのではないか。
そんな不安が、彼女の言葉の中にいくつも並んでいた。
僕は、その文章を何度か読み返した。
彼女はいつも、明るく見える人だった。
職場では冗談も言う。
愚痴も言う。
でも、どこか笑いに変えるようなところがあった。
だからこそ、こうして文章で届いた不安は、思っていたよりも重く感じた。
転職が決まった。
新しい場所へ行く。
普通なら、前向きな話のはずだった。
でも彼女の中では、期待よりも不安の方が大きくなっているように見えた。
僕は、分かる範囲で返事をした。
子育てをしながら正社員で働いている人は、たくさんいると思うこと。
新しい職場だって、面接の時点で家庭の事情をある程度分かって採用しているはずだということ。
休むこと自体を、必要以上に悪いことのように考えなくてもいいこと。
もちろん、休めば誰かがフォローしてくれる。
でも、その分は普段の仕事で返していけばいい。
助けてもらう日もあれば、自分が誰かを助ける日もある。
仕事は、そういうものでもあると思う。
僕はそんなことを書いた。
少し長くなった。
伝えたいことが多すぎて、うまくまとまらなかった。
本当は、もっと短く言えたらよかったのだと思う。
大丈夫。
行ってみたらいい。
無理なら、その時また考えたらいい。
きっと、それだけでもよかった。
でも、彼女が不安そうにしていると思うと、言葉を削れなかった。
少しでも安心してほしかった。
少しでも、彼女の頭の中にある不安をほどけたらいいと思った。
彼女は、自分が考えすぎているのかもしれないと言った。
でも、それでも考えてしまうのだと。
子どもの体調。
引き継ぎ。
新しい職場。
働き方。
生活。
いろいろなものが重なって、頭がいっぱいになっているようだった。
僕は、彼女の今いる環境が少し特殊なのだと思うと伝えた。
そこだけを基準にして、自分を責めすぎなくていいと思った。
今の不安が全部正しいとは限らない。
新しい場所に行けば、違う景色が見えるかもしれない。
だから、まずは一つずつ考えればいい。
今いちばん大事なことから、順番に片づけていけばいい。
そう返した。
彼女は、少し落ち着いたようだった。
頭がいっぱいで、パニックになっていたのだと言った。
聞いてもらえてよかった、とも言ってくれた。
その言葉を見た時、僕は少し嬉しかった。
自分の言葉が、彼女の役に立てた気がした。
彼女が抱えていた不安を、ほんの少しだけ軽くできた気がした。
それは、ただの同僚としては嬉しいことだった。
でも、僕にとっては、それだけではなかった。
彼女が自分に相談してくれたこと。
長い不安を、そのまま言葉にして送ってくれたこと。
そして、聞いてもらえてよかったと言ってくれたこと。
その全部が、僕の中のどこかを静かに満たしてしまった。
頼られると嬉しい。
役に立てると嬉しい。
彼女が少し楽になったと言ってくれると、報われたような気持ちになる。
その感情は、とても危うかった。
僕は相談に乗っているだけだ。
そう思おうとした。
仕事のことを聞かれたから答えているだけ。
働き方の不安を聞かれたから、分かる範囲で返しているだけ。
彼女が少し落ち着くなら、それでいい。
そうやって、自分の気持ちに名前をつけないようにしていた。
でも、僕はもう知っていた。
以前、泣いている彼女を見つけた時も、僕は同じようなことをしていた。
気になる。
心配になる。
何か力になりたい。
その全部を、僕は「心配」と呼んでいた。
今回も同じだった。
僕はまた、自分の気持ちを別の言葉で包もうとしていた。
相談に乗っているだけ。
同僚として助けているだけ。
前に少しだけその職場を知っているから、アドバイスしているだけ。
そう思い込もうとしていた。
でも本当は、彼女に頼られることが嬉しかった。
彼女の不安を、自分にだけ少し見せてくれているような気がした。
彼女の人生の端に、自分がまだ残れているような気がした。
そこに入り込みすぎてはいけない。
そのことは分かっていた。
彼女の人生を支える役目は、僕ではない。
彼女の不安を全部受け止める立場でもない。
僕には僕の家庭がある。
彼女には彼女の生活がある。
僕ができるのは、分かる範囲で答えること。
必要な時に、少しだけ言葉を返すこと。
そのくらいの距離でいなければいけなかった。
だから僕は、あえて少し冗談も混ぜた。
真面目になりすぎないように。
重くなりすぎないように。
彼女の不安を受け止めながらも、自分が深く入り込みすぎないように。
家族にもちゃんと受け止めてもらった方がいい。
そんな意味のことも伝えた。
それは彼女のためでもあった。
そしてたぶん、僕自身のためでもあった。
僕が受け止めすぎてはいけない。
僕が彼女の一番近くにいる人の役目を、奪ってはいけない。
その線を、自分に言い聞かせるためでもあった。
新しい職場のこと。
子どものこと。
そして、働き方のこと。
彼女はいろいろな場所で、少しずつ息苦しさを抱えているように見えた。
僕は、その言葉に踏み込まなかった。
踏み込めなかった。
聞きたい気持ちはあった。
何があったのか。
どれくらいしんどいのか。
本当は誰に受け止めてほしいのか。
そんなことを聞きたくなる自分がいた。
でも、そこで聞いてしまえば、僕はもうただの相談相手ではいられなくなる気がした。
だから僕は、いつでも相談して、とだけ返した。
彼女は、助けられていると言ってくれた。
その一言が、嬉しかった。
嬉しかったからこそ、怖かった。
僕は彼女を支えたいわけではない。
いや、本当は支えたいと思っていたのかもしれない。
でも、支えてはいけないと思っていた。
支えるという言葉は、近すぎる。
寄り添うくらいでいい。
必要な時に、少しだけ隣に立つくらいでいい。
それ以上を望めば、きっと何かが壊れる。
この時の僕は、まだそうやって自分に言い聞かせていた。
彼女の転職は近づいていた。
職場で当たり前のように会える時間は、少しずつ減っていた。
連絡先は知っている。
相談も来る。
彼女は僕の言葉に、少しだけ安心してくれる。
それは嬉しいことだった。
でもその嬉しさは、僕が守ろうとしている距離を、少しずつ曖昧にしていった。
彼女を新しい場所へ送り出す日は、もうすぐそこまで来ていた。
その前に、僕はもう一つ、彼女のために動くことになる。
彼女がこの職場を寂しい形で去らなくて済むように。
彼女を送り出すための、小さな送別会を考えることになる。