
彼女が職場を離れる前に、僕たちは連絡先を交換した|Episode2
泣いている彼女を見つけたあの日から、僕たちの関係が急に変わったわけではなかった。
職場で会えば話す。
彼女が愚痴をこぼせば、僕が聞く。
僕が子育てのことで迷えば、彼女が教えてくれる。
それまでと同じような関係が、しばらく続いていた。
でも、僕の中では何かが少しずつ変わっていた。
彼女が疲れていないか気になる。
彼女が無理をしていないか気になる。
彼女が笑っていると安心する。
それを僕は、相変わらず「心配」と呼んでいた。
そんな頃、彼女から転職をしようと考えていると相談を受けた。
応募しようとしている先が、僕が以前働いていた職場と同じ系列だったからだ。
同じ系列といっても、実際に働く部署のことも、今の職場の空気も、詳しく知っているわけではない。
だから、知ったようなことは言えなかった。
それでも、僕に分かる範囲のことは伝えようと思った。
組織の雰囲気。
働くうえで気をつけた方がよさそうなこと。
僕が過去に見てきたこと。
良いところも、分からないところも。
できるだけ正直に話した。
本音を言えば、彼女には転職してほしくなかった。
彼女がいなくなれば、廊下で会うこともなくなる。
仕事の合間に少し話すこともなくなる。
子育ての相談をすることも、彼女の愚痴を聞くことも、今までみたいにはできなくなる。
それは、普通に寂しかった。
でも、彼女の状況を見ていると、その場所に残り続ける方がいいとも思えなかった。
彼女はずっと無理をしていた。
明るく振る舞いながら、仕事でも、生活でも、いろいろなものを抱えているように見えた。
だから僕は、引き止めるようなことは言わなかった。
寂しいから、行かないでほしい。
そんなことを言える立場ではなかった。
僕が言うべきなのは、彼女が少しでも前に進めるような言葉だった。
自分の寂しさよりも、彼女が楽になれる可能性を優先する。
それが、その時の僕にできる一番まともな応援だと思った。
やがて、彼女の転職が決まった。
その知らせを聞いた時、僕の中には二つの感情があった。
よかった。
本当にそう思った。
彼女が今の場所から抜け出せること。
新しい環境に進めること。
それは素直に嬉しかった。
でも同時に、寂しかった。
これで彼女は、この職場からいなくなる。
当たり前のように会えていた日々が、終わってしまう。
そう思うと、胸の奥に小さな穴が空いたような気がした。
彼女の転職が決まってから、僕たちは廊下で会うたびに、少しだけ退職の話をするようになった。
「もうすぐですね」
「寂しくなりますね」
そんな言葉を、僕は何度か口にした。
軽く言っているつもりだった。
でも、たぶん軽くはなかった。
本当はもっと寂しかった。
でも、その寂しさをそのまま出してしまうと、何かが変わってしまう気がした。
だから、冗談のように言った。
何でもないことのように言った。
彼女も、いつものように笑って返してくれた。
その距離感がありがたかった。
近すぎない。
でも、遠すぎるわけでもない。
拒まれているわけではない。
でも、踏み込ませてもらっているわけでもない。
彼女はたぶん、そういう距離の取り方が上手な人だった。
ある日、そんな話の流れで、彼女が言った。
「連絡先、交換しよう」
その言葉を聞いた瞬間、僕は内心かなり嬉しかった。
それまで数年同じ職場で働いていたのに、僕たちはお互いの連絡先を知らなかった。
話しやすい同僚。
愚痴を聞く相手。
子育ての相談ができる人。
そのくらいの距離にはいた。
でも、職場の外につながるものは何もなかった。
会えなくなれば、それまで。
同じ建物の中にいるから続いていた関係。
そんなふうにも思っていた。
だから、彼女の方から連絡先を交換しようと言ってくれたことが、僕には大きかった。
もちろん、表には出さなかった。
嬉しさをそのまま出せば、きっと何かが不自然になる。
僕はできるだけ普通の顔をして、連絡先を交換した。
たったそれだけのことだった。
名前が表示される。
連絡できる場所ができる。
それだけのことだった。
でも、僕にはそれが、職場の中だけだった関係が、ほんの少しだけ外側に広がったように感じられた。
彼女が退職しても、完全には切れない。
そう思ってしまった。
それが嬉しかった。
でも同時に、少し怖くもあった。
連絡先を知っているということは、こちらから連絡できるということでもある。
寂しくなれば、連絡できてしまう。
声を聞きたくなれば、理由を探せてしまう。
何かをきっかけにして、距離を詰めることもできてしまう。
だからこそ、僕は気をつけなければいけなかった。
彼女は転職する。
僕は今の職場に残る。
そして何より、僕には僕の生活がある。
守るべき場所がある。
彼女にも、彼女の生活がある。
僕の寂しさだけで、使っていい連絡先ではなかった。
だから、連絡先を交換したからといって、すぐに何かが始まったわけではない。
用もないのに連絡することはなかった。
彼女はまだ同じ職場にいたし、話したければ職場で話せばよかった。
それに、僕から不用意に距離を詰めるべきではないことも分かっていた。
連絡先は知っている。
でも、連絡はしない。
その状態が、しばらく続いた。
たぶん、それでよかったのだと思う。
彼女の方から差し出してくれたつながりを、大事にしたかった。
大事にしたかったからこそ、雑に使いたくなかった。
連絡できる。
でも、しない。
会いたい。
でも、言わない。
寂しい。
でも、引き止めない。
それが、その時の僕にできる精一杯の距離だった。
僕はまだ、その距離を守れていると思っていた。
けれど、彼女が職場を離れる日が近づくにつれて、僕たちのやり取りは少しずつ変わっていく。
最初は、ただの転職相談だった。
新しい職場のこと。
働き方のこと。
子どもを育てながら働き続けること。
僕が分かる範囲で答えれば、それで終わるはずだった。
でも、彼女が抱えていた不安は、仕事のことだけではなかった。
彼女の言葉の奥に、少しだけ曇ったものが見えた。
その理由を知るのは、もう少し先のことだった。