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北に向かった理由【連載⑱】枯れる

    東北の冬は厳しく凍てつく。
    近くの温泉に毎日は足を運べないので、タオルで体を拭き、頭は洗面所で洗わせていただく。

    冬場、今にも凍りそうな冷水を頭に浴びると、皮膚が一気に縮むのか、張りつめた痛みが頭皮を包む。
    頭の中の真っ白なスクリーンへ、どこからともなく黒い点が現れる。
    次第に黒い点はざわめき始め、雨粒のように降り注ぎ、白いスクリーンを黒く染めてゆく。

    歯を食いしばっているものの、押し殺した胸のつかえには抗えない。
    声を殺しているつもりでも、抑えきれずに口から漏れた。

    静かに… できるだけ静かに、言葉がこぼれる。

    冷たい水は、頭の先から感覚を失わせ、黒く染めたスクリーンを少しでも洗い流してくれる。

    時折仕事はあるものの、請負業務のため収入は安定しない。
    求人紙に目を通し、何度もトライするが、住所不定、保証人なしの身分では、電話口の沈黙が、すべてを物語っていた。

    実入りは少ないが、在籍中の業務をこなしていくしか収入は見つからない。
    ここでの生活で自分に何かできることはあるのだろうか……。

    会社から注文の電話が鳴り、生かさず殺さずの仕事を受ける。

    車両引き取りの現場まで、よく電車を利用する。
    電車の中で何度も何度も悔しい思いをしてきた。
    何もできない悔しさのあまり、俯くしか出来ない自分がいた。

    そんな中、ありがたい事に注文が入った。
    電車にのり現場に向かう。

    時折見かける、白い杖を手に持った人。
    下車しようと席から立ち上がるが、近くの人はイヤホンから流れる音楽とスマホの画面に夢中で、そのことには誰も気づかない。
    いや、誰も気づけない。

    大丈夫かと、見ていると、
    電車のドアは開き、杖で確認しながら車両からホームへ下りてゆく。

    幼い頃、電車とホームの隙間が怖かったことを思い出した。
    白い杖を頼りに、一人駅のホームを歩く後ろ姿を見送る。
    自分の苦労など取るに足らないこと。

    午前11時。
    まだ夏の日差しを残す秋の晴れた日、駅に隣接する歩道広場で、地元の祭りを模したカラクリ時計を眺めていた。
    祭りは終わり、静かに扉が閉まってゆく。

    電車へ向かおうとすると、白い杖をついた人が、何やら点字通路の上で困っている様子だった。
    突き当たりの柵の外は三階ほどの高さがあろうか、気が気ではない。
    何度も柵の方へ向かっては引き返す。

    「お手伝いしましょうか?」と声をかけた。

    「助かります」と、右の肩に手を置いてくれた。

    どうやら駅構内へ向かわれるらしく、そのまま一緒に向かっていく。
    途中、「私は目を患い、まだ間もないのですよ…… 最初は怖くて一歩も外へ出ることはできませんでした」
    「そうなのですね……」
    「今でも光は見えますが…… 全て普通に見えていたのですが、七年ほど前から見えなくなりました」と。

    電車かバスに乗るのかと尋ねると、訓練がてら自分の足で歩いて行くという。
    エスカレータの前までゆき、ベルトにつかまるのを見届けた。

    還暦を過ぎて初めての経験だった。

    しかし偽善な自己満足は、すぐに打ち消されるものだ。
    現実は果てしなく重く、容赦がない。

    朝から笑ってしまう、天は面白いものを見せてくれる。

    枕元に数匹のウジ虫が這い回っていたのだ。
    布団をめくり、体から湧いていないか確かめた。
    まだ幸いなことに腐ってはいないらしい。

    大丈夫。まだ大丈夫だ。

    ウジ虫などは、かわいいものだ。釣りの餌に出来る。
    頭の真上にある、両開きの戸で仕切られた台所のゴミ箱から這い出てきたようだ。雨風を凌げる場所に寝起きができ、ウジ虫に食われていないことが、ありがたい。

    今にも抜け落ちそうな床の上にブルーシートを貼られた場所や、路上生活では軟弱者の僕では今頃、骨だけになっていた。

    運が良かった。どうやら、また一つ厳しい冬は越えることができたようだ。

    偽物は腐り、本物は枯れると聞く。願わくは、枯れてゆきたいものだ。
    腐っていたなら、喜んでウジ虫の餌になろう。

    夜にはいきつけの温泉で息抜きが出来る。
    風呂から聞こえる笑い声が、ただそこにあるだけで心が和んでゆく。

    露天風呂へ行くと、野良猫がこちらを伺っている。
    小さな声で鳴き、喉をならして静かに近づき、足元をかすめてゆく。
    上屋がかかっている露天風呂に身を沈める。

    「生きている… かぁ‥」

    猫はいつの間にか露天の淵に背を向けて座っている。

    静かな夜空に月が浮かんでいた。

    親子連れの旅行客に話しかけられ、他愛もない挨拶程度の話をしていると、よく見かける常連客が話に加わる。
    それとなく場も和み、サウナへ向かうと先ほどの常連さんと、いつも見かける顔ぶれが汗を流している。

    同じ東北で、同じような訛りではあるが、所々は聞き取れずにいたが、そんな語りが少しずつ彼らとの距離を近づけてくれた。

    四十代の後半であろうか、常連の一人が
    「最近よく来られますね。近所にお住まいなんですか?」

    「はい、仕事でこっちに… 皆さんはご近所ですか?」

    「私は、近所と言えば近所ですが、隣にある新郷村からなんですよ」

    新郷村というと、キリストの墓や、ピラミッドのような遺跡らしきものが在るとは聞いていた。まさか、こんな近くに新郷村があるとは思わなかった。

    「キリストの墓がYouTubeとかで話題になっていますよね」

    「そうなんですよぉ。ナニャドラヤって知っていますか? どこかユダヤ語のようにも聞こえる歌と踊りで… 僕は太鼓を叩いているんですよ。」

    彼は村の消防団の話や、キリスト伝承の話などを教えてくれた。
    もっと聞いていたいものだが、サウナの熱気を冷ましに出ていった。
    少し頭をさげてサウナ室から出るその背中が、どこか頼もしく見えた。

    別の夜、たまに顔を合わせる三、四十代の男性常連客がいる。
    鍛えているのか、仕事柄か体つきが良く髭を蓄えて髪は短め。
    直接は一度も話したことはなかったが、ある時、彼が声をかけてくれた。

    「どちらから来られたのですか?」

    話しぶりから、彼は訛りが少なく、関東の方から来ている事がすぐにわかった。
    「私は隣の県からです。どちらから?」

    「僕は東京です。いろいろとありまして、仕事や人間関係が嫌になってこちらへ来ました。ここ、いい所ですよね」
    歳は違えど彼とは、なにか同じような匂いがした。

    彼も同じように感じていたのか、

    「仕事は何をなさっているのですか?会社勤めですか?」

    「私は自営で車を運んでいるんです。」

    「自営なんですね。自営は大変ですよね。僕も東京で自営をやっていて… さて、今日のところは、お先に失礼します」

    彼の目は、なにかと戦っている様に見えた。彼とは、いつかゆっくりと話したいものだ。

    最近、温泉の駐車場に軽トラが止まっているのに気づいていた。

    エンジンはかけっぱなしで、窓にもたれて、どうやら眠っているようだった。何やら狭い助手席には目一杯の荷物が積まれていた。

    さほど気にはしていなかったが…… 
    サウナではその軽トラックの話をしていた。

    「あの爺さん大丈夫だべが……」

    「春さなって、暖ったげくなったから大丈夫だべぇ」

    さっき食堂で大の字に寝ている老人がいた。
    軽トラックの運転席では足を伸ばして眠ることも出来なかっただろうに……

    「そういえば、この間さ、救急車来てさ…… 畑の真ん中によ。新郷さ救急車来れば目立つべじゃ……」

    小さな山間の集落。

    「新郷、あるあるでよぉ、みんな家から出はって来て、野次馬の人だかりになってらっけ」

    野次馬と言うよりは顔見知り、皆が一人一人を案じて支え合っているように聞こえた。

    「畑さ倒れでらっけ、家の人、救急車呼んだど、そしたらさぁ、ただの貧血だったどさ!良かったじゃなぁ!」

    そんな話を聞きながら、湯気の向こうに、この村の空気がゆっくりと見えてきた気がした。

    依頼が入り割りに合わない仕事ではあるが、フェリーに乗り北海道へと渡る。その日、フェリーの中は、人の流れが速く、前を向いていないとぶつかってしまうほどだった。雑魚寝の二等室へと案内され、狭いマットを伸ばし、とりあえずは腰をおろす。
    隣の老人は、天井を見上げながら何度も「疲れたぁ」とつぶやいていた。

    用を足そうと立ち上がると、部屋の入口に乗務員が立って、お客を案内していた。部屋の出口付近に立っていた杖をついた老人は僕を見上げていた。

    なかなか中に入ろうとしないので、廊下に出ると、杖をついた老人の後ろに、更に年老いて小さくなった老人が手を引かれていた。
    それとなく察するところ、どうやら親子のようだ。

    用を足して戻ると、息子と思しき老人は、さらに年老いた老人との仕切りに頭をもたげて目をつむっていた。彼は、いつまでも横になろうとしなかった。さらに年老いた老人は、杖と一緒に眠っている。
    老人は仕切りに頭をもたげて、年老いた父親を気遣っていたのだろう。

    船のデッキに出ると、下北半島は、今にも落ちてしまいそうな、脆くも淡い、線香花火のような夕日で覆われていた。

    目を閉じると、グレートバリアリーフの夕日を思い出す。
    いつまでも一緒にいようと、教会で神との誓いを立てたあの日を。
    誓いを守り切ることが出来なかった。

    どこで道を間違えたのか、愚かな自分がここにいた。

    せめて親父の死に目には立ち会うべきだったかな……



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                        枯れる            撮影/はなぶさ

    この連載は、今も書き続けています。

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    はなぶさ




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