
Worldline Saturation 〜過去の自分を殺す、因果からの報復〜1/3
あらすじ
大学を追われ、理不尽な町工場で油にまみれる天才科学者・星治。同窓会でかつての同期や研究を盗んだ宿敵・徳永教授から100%の善意で憐れまれ、その圧倒的な格差と惨めさにプライドを完膚なきまでに叩き潰される。
「奪われた未来を力ずくで奪い返す」と誓った星治は、貧しい暮らしのなか健気に自分を愛してくれる妻の奏と娘の葉を横目に、夜な夜な自室で禁忌の研究に没頭。工場の資材を盗み、最高峰の技術で時空の因果律を書き換える手のひらサイズの立方体「キューブ」を完成させる。安全装置の不穏な赤の警告を全能感で無視した星治は、当選番号の分かっている宝くじを手に、美しく狂った青い光のフィールドへゆっくりと手を伸ばした。
第1章:小さな家族の宇宙
キィィィィン――。
耳の奥を電気の針で突き刺すような、超硬合金が削れる高周波が、工場の煤けたスレート天井に反響しては脳漿を揺さぶる。
換気扇が死にかけた狭い工場内には、粘ついた切削油の生臭い匂いと、鉄を削った際に生じる微細な金属粉が白く澱んでいた。吸い込むたびに、肺の奥がじりじりと焼けるように痛む。
「おい、星治! 手が止まってるぞ! 何をぼさっとしてるんだ!」
背後から、鼓膜を破らんばかりの怒声が飛ぶ。工場の班長である肥大した男が、首周りの肉を波立たせ、脂ぎった顔で星治を睨みつけていた。
星治は表情を一つも変えず、首だけをわずかに下げて「すみません」と乾いた声を絞り出した。
求められている寸法公差はコンマ二ミリ。
笑わせる。そんな大雑把な数字、星治の脳内に構築された計算空間を使えば、網膜の残像だけで寸分の狂いもなく削り出せる。だが、この工場ではその「異常なまでの正確さ」すら気味悪がられ、生意気だと叩かれる材料にしかならなかった。
「全く、大学の院まで出ておいて、町工場のボルト一本削るのにどれだけ時間かけてやがる。これだから『元・エリート様』は使い物にならん」
班長は黄色い歯を剥き出しにして、星治の足元にペッと唾を吐き捨てると、わざと大きな足音を立てて去っていった。周囲の作業員たちが、ニヤニヤとした下卑た笑みを星治に投げかける。
星治は何も言わず、ただ黙々とレバーを押し込み、冷たい鉄を削り続けた。
(お前たちには、何も見えていない)
かつて星治は、国家予算が投入された最先端の量子記述数理プロジェクトの筆頭研究員だった。時空の構造を数式で解き明かし、未来の可能性という「確率の器」を計算する。その中心に、確かに星治の頭脳があった。
だが、あの強欲な教授によってすべての研究成果を組織的に盗まれ、学会から永久追放された。今や彼の肩書きは、時給数百円で油にまみれる「冴えない町工場の作業員」だ。
三年間、睡眠時間を三時間に削り、血尿を流しながらキーボードを叩き続けて導き出した「人類史上初となる時間跳躍の可能性を証明する数理記述」は、一週間後、世界最高峰の科学雑誌『ネイチャー』の巻頭を、徳永教授の単著論文として飾った。ノーベル賞確実と囁かれるその発見の影に、「高橋星治」という名は、謝辞の片隅にすら存在していなかった。
結局、星治は大学を追われた。荷物と言えば、自分の頭脳だけ。
――午後七時半。
工場のタイムカードにガチャンと無機質な音を刻み、星治は重い足取りでアパートへと向かった。駅から徒歩十五分、築四十年を超える木造二階建て。外階段を一段上るたびに、ギィ、ギィと錆びた鉄骨が骨の折れるような悲鳴を上げる。
「ただいま」
建付けの悪いアルミのドアを引くと、安価な醤油のツンとした香りと、火の通り過ぎたもやしの土臭い匂いが漂ってきた。
「おかえりーーーっ!!」
ドタドタドタと、古いクッションフロアが激しくしなる音が響き、奥から小さな身体が猛烈な勢いで飛び出してきた。
娘の葉(よう)だ。まだ幼稚園に通う小さな身体が、星治の膝へと遠慮なく激突する。
「パパ! おそい! 葉、お腹すいちゃった!」
「ごめん、ごめん。ちょっと仕事が長引いちゃってな」
星治が床に膝をつき、小さな身体を抱き上げると、葉は星治の首に細い腕をぎゅっと回し、クンクンと鼻を鳴らした。作業着は切削油と古い金属の匂いで最悪に臭うはずだった。だが葉は、その匂いなど気にも留めず、むしろ愛おしそうに頬を擦りつける。
「んー、パパのにおい! 葉、このにおい、だーいすき!」
「油臭くて、友達に嫌われちゃうぞ」
「ううん、パパが頑張ってお仕事したにおいだもん! 葉、全然平気!」
汚れなき純粋な笑顔。葉が着ているピンク色のトレーナーは、近所のリサイクルショップの「100円カゴ」から見つけてきたものだ。袖口は擦り切れ、正体不明のシミが薄く残っている。彼女が小さな手に握りしめているおもちゃの車も、星治が工場の隅で拾ったアルミの端材を、昼休みにヤスリで少しずつ削って作ってやった手作りのものだった。それでも葉は、それを世界で唯一の宝物であるかのように、片時も離さず持っていた。
「ほらほら、葉。パパ、疲れてるんだから、玄関で通せんぼしちゃダメでしょ」
奥のキッチンから、使い古されたエプロンの紐を直しながら、妻の奏(かなで)が顔を出した。
「星治くん、おかえり。今日も遅くまでお疲れ様。ご飯、できてるよ!」
四畳半の居間に置かれた角の剥げたローテーブルには、大盛りのもやしと、申し訳程度に混ざった薄切りの豚肉の炒め物が並んでいた。100円ショップの悪目立ちする黄色いプラスチック皿に盛りつけられた、奏の懸命な工夫の結晶だった。
パシッ――。小気味いい音を立てて、背中に温かい衝撃が走った。奏がいつもの屈託のない笑顔で立っていた。
「なんとかなるでしょ! ほら、そんな暗い顔してたら、せっかくのご飯が台無しだよ? 大丈夫、お家のことは私に全部任せておいて!」
「……ああ。いつもすまない、奏」
箸を動かしながら、星治の胸の奥には、チリチリとした苦い酸のような劣等感が溜まっていく。
こんなにいい妻に、これほど愛くるしい娘に、自分はなんて惨めな思いをさせているのだろうか。自分の才能が正当に評価されていれば。あの教授にすべてを奪われなければ、今頃は都心のタワーマンションで、何不自由ない暮らしをさせてやれていたはずなのに。
「パパ、これね、今日幼稚園で作ったの!」
葉が、星治の顔の前に、歪に折られた折り紙を突き出してくる。星治はなんとか口角を引き上げ、娘の頭を優しく撫でた。
奏が笑い、葉がはしゃぐ。
この狭い、爪に火をともすような暮らしの空間には、間違いなく世間一般で言う「幸福」の縮図があった。だが、星治の脳細胞は、それを幸福として完全に受け入れることを、狂気的なまでに拒絶していた。
満たされてはいけない。ここで満足してしまえば、俺の人生は本当に「ただの町工場の落ちこぼれ」として終わってしまう。
夜が更け、時計の針が午前零時を回る。隣の寝室から、奏と葉が川の字になって眠る、規則正しく静かな寝息が聞こえ始めた。
――その瞬間、星治の「本当の時間」が始まる。
デスクライトの小さなスイッチを入れる。狭い照射範囲の中に浮かび上がったのは、この貧しい木造アパートにはおよそ不釣り合いな、異様極まる光景だった。机の上には、国家機密レベルの量子物理学や時空記述論の専門書が地層のように積み上げられ、その傍らには手書きの複雑な数式で埋め尽くされた何冊ものノートが乱雑に散らばっている。さらにその隙間を埋めるように、工場から「製造不良の廃棄パーツ」として毎日少しずつ作業着のポケットに忍ばせて持ち帰ってきた、超伝導素子や特殊な多層基盤が、電子の臓物のように生々しく転がっていた。
星治は引き出しの奥の奥から、ボロボロになった一冊のノートを取り出した。
――大学時代、あの教授にすべてを奪われ、研究室を叩き出される直前、命がけで手書きで書き写した『量子メモ』の原本。
ノートを開いた瞬間、星治の脳の温度が、一気に沸点へと達した。昼間の工場での理不尽な罵倒が、脳内から急速に洗い流されていく。
「……ここだ。ここの数理モデルの歪みを補正すれば、時空の因果律に直接干渉する静電場が形成できる……!」
星治は机の上の書類を両腕で一気に端へと押し退け、激しい音を立ててパーツが床に崩れ落ちるのも無視して、猛烈な勢いでペンを走らせた。紙が破れんばかりの筆圧で、数字と記号が虚空を埋めていく。
デスクライトの暗がりの隅。鈍い銀色の輝きを放つ、手のひらサイズの金属製のキューブの試作体が、冷たい光を反射して静かに佇んでいた。
「俺は、こんなところで終わる男じゃない……。絶対に、終わらせない」
すやすやと眠る奏と葉の寝息が、微かに聞こえる。
愛している。二人を幸せにしたいという気持ちに嘘偽りはない。だがそれ以上に、星治の胸の奥でドロドロと燃え盛っていたのは、自分の才能を世界に証明したい、自分を憐れんだ奴らを全員見下し、奪われた未来を力尽くで奪い返したいという、凶悪なまでのエゴと執念だった。
(第1章・終)
第2章:同窓会と崩れた未来
スマートフォンの画面に届いた一通の通知が、星治の凍りついた日常を激しく揺さぶった。
大学時代の同期が集まる、大規模な同窓会の案内だった。ゲスト欄に記載されたその名を見た瞬間、星治の呼吸が止まった。
――徳永教授。
研究を盗み、星治を業界から永久追放したあの男が、名誉教授としての格式を引っ提げて出席するというのだ。
行くべきではない。惨めな思いをするだけだ。頭では分かっていた。だが、あの男の顔をもう一度拝んでやりたいという歪んだ衝動に抗えず、星治はクローゼットの奥から、数年間袖を通していない、少し型崩れしたスーツを引っ張り出した。
会場は、都内の高級ホテルの高層階にあるスカイラウンジだった。きらびやかなシャンデリア、お洒落なジャズのBGM、そして場違いなほどに高級なローストビーフの匂い。
「おお、星治じゃないか! 久しぶり!」
かつての同期たちが、仕立ての良いスーツを着こなし、高収入といえば浮かんでくる企業の名刺を掲げ、眩しいほどの自信に満ち溢れて集まってきた。そこは、あの事件さえなければ、星治が当然のように中心に座っているはずの席だった。
「星治、今はその……埼玉の方の、精密機械の工場にいるんだって?」
星治が「町工場でフライス盤を使って部品を削り出す仕事だ」と極力声を潜めて答えた瞬間、ラウンジの洗練された空気が、一瞬だけ目に見えない形で凍りついた。
(ああ、気を遣われている)
星治の鋭すぎる頭脳は、周囲のわずかな視線の揺らぎを、本人の意志に関わらず瞬時に察知してしまう。それが、何よりも惨めだった。
「でもさ、それってめちゃくちゃ大事な仕事だよな」
大学院の准教授になった高木が、濁りのない100%の善意がこもった瞳で星治の肩をポンと叩いた。
「俺たちの量子計算だって、お前たちのところみたいな町工場がナノ単位の超伝導素子を削り出してくれないと、実験すら始められない。日本のものづくりを底辺で支えてくれてるわけじゃん。マジで尊敬するよ。それに、もし頭脳を使いたいって思うなら、いつでも俺に声かけて。うちの研究所、中途の外部契約枠なら紹介できるからさ」
悪気など、微塵もなかった。
高木たちにとって、星治はもう、同じ地平で競い合うライバルですらなかったのだ。自分たちが上り詰めた高い場所から、はるか奈落の底にいる可哀想な友人を無邪気に見下ろし、慈悲の手を差し伸べている。
その圧倒的な格差と、逃げ場のない「純粋な優しさ」が、星治の肉体に残っていた最後のプライドを、完膚なきまでに叩き潰した。
その時、会場の奥から、上品な笑い声と共に一塊の人だかりが近づいてきた。
輪の中心にいるのは、仕立てのいいスーツを着た徳永教授だった。かつて星治から奪った論文で世界的な地位を不動のものにし、今や学会の重鎮として君臨している。
徳永の目が、輪の端に立つ星治を捉えた。
星治は身体を硬直させ、怒りで拳を血がにじむほど強く握りしめた。だが、徳永の顔に浮かんだのは、焦りでも罪悪感でもなかった。
「おや、高橋くんじゃないか。元気かね?」
徳永は、まるで少し素行の悪かった昔の教え子を見るかのような、完璧に善良な温和な笑みを浮かべて星治の肩を叩いた。
「風の噂で聞いたよ。今は工場で真面目に働いているそうだね。いや、素晴らしいことだ。学問の道だけが人生じゃない。現場で汗を流して社会に貢献するのも、等しく尊い生き方だよ。過去のことは水に流して、これからの人生を強く生きなさい」
「……っ」
星治は、あまりの衝撃に声が出なかった。
この男は、自分が一人の天才の人生を徹底的に破壊したことすら、すでに忘れているのだ。悪意のない、100%の善意による「赦し」の言葉。それが、星治のプライドを完璧に粉砕した。
逃げるようにホテルを飛び出し、夜の冷たい街頭に吐き出された瞬間、星治の視界がぐにゃりと歪んだ。
悔しさと、惨めさと、自分の無力さ。押し寄せる劣等感に奥歯を噛み締め、血の味が口の中に広がるほど強く噛み潰した。
(なぜ自分が、工場の油と金属粉にまみれて、あいつらのためにネジを削らなければならないのか。なぜ愛する奏に貧しい食卓を囲ませ、娘に他人の古着を着せなければならないのか)
全部、あの男のせいだ。
ガチャリ、とアパートの扉を開けると、部屋の奥で、奏と葉が川の字になって静かに眠っていた。小さな葉の手には、あの手作りのおもちゃの車が今も握られている。
星治は上着も脱がず、ネクタイを乱暴に引きちぎって床に捨てると、狂ったような足取りで仕事机へと向かった。
もう迷いはなかった。世界が俺から未来を奪ったのなら、俺は時間のルールそのものをぶち壊して、すべてを力ずくで奪い返してやる。
デスクライトの青白い光が、鈍い銀色の「キューブ」の試作体を冷たく照らし出す。
星治はボロボロの『量子メモ』のページを、激しい音を立ててめくり始めた。
(第2章・終)
第3章:タイムマシン開発の夜
キィィィィン――。
深夜二時。誰もいない精密機械工場の奥深くで、超硬合金を削る超音波旋盤の甲高い風切り音が、暗闇を裂いていた。
星治は防護メガネの奥の目を血走らせ、油に汚れた手元を凝視していた。ミリ単位どころか、ミクロン単位の精度が要求される超微細な加工。手動レバーを握る星治の指先は、まるで熟練の外科医のように微細な振動すら完全にコントロールしていた。
削り出しているのは、工場の発注リストにも生産計画書にも存在しない、チタン合金の特殊超微細構造フレーム。手のひらサイズの「キューブ」の骨格となるコアパーツだ。
昼間の星治は、班長の罵倒に機械的に頭を下げ、死んだ魚のような目でルーティンワークをこなす「作業員」の記号を完璧に演じている。だが、他の作業員たちが居酒屋やパチンコ店へ消えて工場が完全に静まり返った夜、彼は世界の物理法則を裏口から書き換える「悪魔」へと変貌を遂げた。
星治は工場の最新鋭の五軸加工マシニングセンタを無断で起動し、自宅では不可能な極限の切削加工を行った。逆に、顕微鏡を使えば自宅でも組めるような超伝導チップや精密な多層基盤は、工場の在庫管理システムのログをわずかに改ざんし、「製造不良による廃棄品」として毎日少しずつ作業着の深いポケットに忍ばせた。
脳には、かつて国家プロジェクトで磨き上げた世界最高峰の時空記述理論がある。手には、落ちこぼれた町工場で嫌というほど叩き込まれた、最高峰の金属加工職人の技術がある。
(皮肉なものだな、教授。あなたが俺をこの泥底の工場に突き落としたからこそ、国家予算級の実験室を、誰の目にも留まらぬまま四畳半の自室に再現するルートが完成したんだ)
削り出されていく美しいチタンのフレームを見つめながら、星治は口角を歪めた。昼間の屈辱と夜の執念が、完全に噛み合っていた。
数時間後、アパートへと戻った星治は、上着も脱がず顕微鏡を覗き込み、極細のハンダゴテを握って超伝導チップの回路を接続し始めた。
「……星治くん、まだ起きてるの?」
午前三時。背後から、眠そうな、けれどどこまでも優しい声がかけられた。振り返ると、古びて膝の抜けたパジャマの袖をまくった奏が、湯気の立つマグカップを両手で大切そうに抱えて立っていた。
「インスタントだけど、温かいコーヒー淹れたよ。あんまり無理しないでね」
奏は机の上に並ぶ、異常な電子機材の山や剥き出しの基盤を見ても、何も咎めなかった。「仕事に必要な難しい国家資格の勉強をしているんだ」という星治の下手な嘘を、ただ純粋に信じ、健気に応援してくれていた。
受け取ったマグカップから、チープなインスタントコーヒーの香りと、確かな熱が星治の指先に染み渡っていく。
星治は視線を隣の寝室へと向けた。大の字になって無邪気な寝息を立てている葉の小さな手には、あのアルミのおもちゃの車が今も握られている。
(待ってろよ、奏、葉。もうすぐ、お前たちをこんな湿気臭い木造アパートから連れ出してやる)
それは間違いなく、家族を想う純粋な愛だった。だが同時に、二人の意志や平穏を完全に無視した、星治の傲慢極まる独りよがりの決意でもあった。
奏が寝室に戻り、再び静寂が訪れる。
星治は冷めかけたコーヒーを一気に飲み干すと、机の真ん中に「それ」を据えた。
数ヶ月に及ぶ背徳の果てに完成した、鈍い銀色に光る手のひらサイズの金属立方体――キューブ。
星治はボロボロの『量子メモ』に記された最後の起動キーとなる数理記述を、ノートPCの画面からキューブの超伝導コアへと転送した。
――ジ、ジジ……。ジジジジジッ。
静まり返った四畳半に、空間が軋む奇妙なノイズが響き始める。
カチャ、カチャカチャ、カチャリ。
精密な高級時計の仕掛けのように、金属の立方体が内側から幾何学的にスライドし、「四角く展開」を始めた。チタンのフレームが次々と反転し、複雑極まる三次元構造体へとトランスフォームしていく。
そして――キューブの物理的な中心点から、波紋のような光が広がった。
空間そのものをカミソリで綺麗に切り取ったかのような、美しく、どこまでも透き通った「青いフィールド」。フィールドの内側の空気は、真夏の陽炎のように、わずかにぐにゃぐにゃと揺らいでいる。
「成功……だ……。俺の理論は、正しかった……!」
星治の全身が、脳の芯から突き上げるような狂喜で震えた。自分は神の領域に達したのだという全能感が、全身の血管を駆け巡る。
ふと見ると、キューブの底面に仕込んだインジケーターが、青い光に混ざって、不穏な「赤」のシグナルをチカチカと不規則に明滅させていた。星治が自ら組み込んだ、時間記述の許容量を監視する安全装置だった。
「赤の点滅……。まだ想定しているセーフティの許容範囲内だ。何の問題もない」
星治はその警告を、脳を麻痺させる全能感の前に、あっさりと無視した。
引き出しの奥から、あらかじめ用意していた「あるもの」を取り出す。数日前に発売された、すでに当選番号の分かっている宝くじの控えだ。
「まずは、小さな実験から始めよう」
歪んだ笑みを浮かべ、星治は激しく明滅するインジケーターを無視し、目の前の青い光のフィールドへと、ゆっくりと手を伸ばした。
隣の寝室では、葉が小さなおもちゃの車を握りしめたまま、無邪気な寝息を立て続けていた。
(第3章・終)