
メルヘンチック㉖酒乱
執筆日㉖2026年10月04日
大和プロレスの合宿に入れば、しばらくはたまプラーザで暮らすことになる。それなら祝賀会も兼ねて飲もうと、同級生たちから誘われた。とっくに解散したCPLのメンバーたちだった。
音頭を取ったのは大田史典。そこに坂東一と小林昌彦を加えた三人が、先に席についていた。
「あれ、ゴリとチャブーは?」
俺が訊くと、大田が顔をしかめた。
「チャブーは連絡がつかない。ゴリは疲れてるからだってさ。冷てえよな、神ヤンがもう行っちゃうってのに」
大田が、俺の代わりに怒ってくれている。
チャブーはともかく、ゴリには、これまでどれだけ世話を焼いてきたと思っているんだ。本当に大事な用があるのなら、まだ分かる。だが「疲れた」はさすがにないだろう。あんな屑を、今まで親身になって相手してきた俺がいけなかったのか。
坊主さんの言葉が、頭に浮かんだ。ゴリと大田は、友達というより、親分と手下にしか見えない。
本当に、そうだったのかもしれないな。
それにしても、飼い犬に手を噛まれた心境だった。あの恩知らずの薄情者め。
……いや、よそう。せっかく三人が祝ってくれるのだ。その気持ちは、素直に嬉しい。これから過酷な環境に身を置くのだから、少しくらい楽しんでもいいだろう。
集合したのは、本川越駅前の二階にあったつぼ八だった。最近飲む時は、すっかりこの店が定番になっていた。
「それでは、神威龍一の大和プロレス入りを祝して!」
大田の音頭で、ジョッキが鳴る。坂東も小林も、口々に激励してくれた。俺は、横目で大田のジョッキの減り具合を確認しながら、自分のジョッキを傾けた。
その時、後ろから声がした。
「あれ、ひょっとして神威君?」
振り向くと、女の子が三人、通路に立っていた。真ん中の一人が、俺の顔を覗き込んでいる。
「んー……、緑山?」
「そう! 緑山希美! うわ、本当に神威君だ!」
高校時代、たった一か月半でクビになったケンタッキーフライドチキン。その頃、一緒にバイトをしていた緑山希美だった。
「めちゃくちゃ久しぶりだね。なんか身体、すごく大きくなってない?」
「毎日、鍛えてるからさ」
「高校以来だよね? えー、嬉しい。ねえ、一緒に飲もうよ」
向こうの友達二人も交えて、席をつなげて飲むことになった。
あの頃の話になるのは、自然な流れだった。
「神威君、ケンタをクビになった時のこと、覚えてる?」
「忘れるわけないだろ」
「え、何それ。神ヤン、何したの?」
身を乗り出してきたのは、小林だった。
当時、店長代理の中島は、まだ大学生だった。それなのに、店長が不在なのをいいことに、立場を笠に着て好き放題。女子高生のバイトを強引に飲み会へ誘い、肩に手を回す。膝に触る。帰りは送ってやると言って、しつこく付きまとう。セクハラ紛いの行為を、平気で繰り返していた。
「私たち、本当に困ってたの。でも店長もいないし、誰にも言えなくて」
緑山が、グラスを両手で包んだまま言った。
「それで、俺のところに相談が来たんだよ。何とかしてくれって」
「高校二年の神威君に?」
緑山の友達の一人が、目を丸くした。
「当時から、見た目は一番強そうだったからな」
俺は、高校二年の身で、その飲み会に参加した。中島が女の子の肩に手を伸ばすたびに、さりげなく間に入り、話題を変え、席を替わらせた。
「神威君、本当に上手に止めてくれたんだよね。中島、露骨にイライラしてたもん」
「で、トイレに行った時だ」
「出た、トイレ」
坂東が、にやにやしながら合いの手を入れる。
用を足して出ようとしたところで、後ろから中島が入ってきた。
「テメー、ガキのくせに生意気なんだよ」
怒鳴りつけてきた、その顔面に。
「殴り倒した」
「うわぁ……」
「一発で?」
「一発で」
女の子たちが、きゃあっと声を上げた。緑山が、手を叩いて笑っている。
「それで翌日、クビになったんだよね。私、あの時、神威君にちゃんとお礼も言えなくて」
「いいって」
「よくないよ。私たち、あれで本当に助かったんだから」
大田が、感心した顔でジョッキを置いた。
「つまり神ヤンは、昔から殴って解決する人なんだな」
「おまえを殴ってるのは、おまえのためだ」
「ひでえ」
どっと笑いが起きた。
その一件で、俺はケンタッキーをクビになった。その後は、ガソリンスタンドの山口油材で働き始めることになったのだ。
緑山たちから見れば、俺は窮地を救った英雄だった。しかも、その男が、これから大和プロレスへ行こうとしている。
話が盛り上がるにつれて、俺の話題ばかりになった。その視線が、少し誇らしかった。
「ねえ、神威君」
帰り際、緑山が、ちょっと照れたように笑った。
「有名になったら、『初恋の人は?』ってインタビューで聞かれた時、私の名前言ってね」
宴もたけなわの頃、緑山が、ちょっと照れたように笑った。
「ねえ、神威君」
昔から、ちょっと可愛いなと思っていた緑山だった。ケンタッキーの制服で、フライヤーの油の音に負けないように笑っていた、あの頃の顔が、今も目の前にある。
気がつくと、俺は席を移って、彼女の隣に座っていた。耳元へ、顔を近付ける。
「なあ……、初恋じゃなくて、俺の傍にいろよ。二人で抜け出さないか」
言ってしまってから、自分の台詞に自分で驚いた。
「もー、神威君のエッチ」
「いや……そんなつもりじゃ……」
緑山は、グラスの縁を指でなぞりながら、少しだけ俯いた。
「でも……前向きに考えとく……」
いい雰囲気だった。人生で一番、決まった瞬間かもしれない。
その横では、坂東と小林が、緑山の友達二人の相手をしていた。彼女たちから相手にされず、一人だけ取り残された大田は、焼酎のボトルをラッパ飲みしている。目が据わっていた。酒乱に切り替わる兆候だった。
「おい、大田! おまえ、毎度毎度、勘弁してくれよ」
「だってさ……」
「今日は神威が主役だろ、大田! また警察なんて呼ばれたら、洒落にならねえからな」
坂東も、睨みつけながら大声で釘を刺す。
殺伐とした空気で、緑山との雰囲気が壊れるのは嫌だった。俺は、みんなを宥めて場を収めた。大田は、その隙を見て、またボトルに口をつけている。面倒なので、放っておいた。
それが、間違いだった。
すっかり酒乱化した大田が、緑山の隣へ、チョコンと座った。
「おい、大田! おまえ、本当にいい加減にせいよ?」
睨むと、大田はしょんぼりと小さくなった。
俺は、再び緑山へ話しかけた。その途中だった。
「ワンプッシュ」
そう言いながら、大田が、緑山の胸を、いきなりつついた。
「何この人? ねえ、神威君、この人に今、胸触られた……」
「テメー、何やってんだよ!」
酔った大田に、俺の声は聞こえていなかった。嫌がる緑山へ強引に抱きつき、手を伸ばしてくる。
「おい、大田! やめろって言ってんだろ! 緑山、会計は俺が持つから、友達連れて帰りな」
「うん……、ごめんね、神威君」
しつこい大田を力ずくで引き剥がし、まず緑山たちを外へ逃がした。
「おい、貴様……、洒落にならんことしてくれたな?」
しかし大田は、彼女たちを追って、外へ飛び出していった。
「おい!」
追いかけようとすると、店員に勘定を請求された。仕方なく払ってから、階段を駆け下りる。
外へ出ると、彼女たちの姿は、もう見えなかった。代わりに、道端で、大田が三人組の男たちへ絡んでいる。慌てて間に入り、頭を下げた。
その間に、大田は奇声を発しながら、道路へ飛び出した。対向車が、急ブレーキを踏む。停まった車に、自分からぶつかって、道路へ倒れる大田。
運転席のおばさんは、目を真ん丸に見開いて、身体を震わせていた。
「気にしないで行っていいですから! 悪いのは、こちらなんで……」
大田は、起き上がりながら、また奇声を発して、別方向へ走っていく。俺が怒鳴っても、一切聞こえていない様子だった。
まったく……。
前方の飲み屋のビルから、柄の悪い男たちが、ぞろぞろと出てきた。ヤクザ者が、十数名。全員が、パンチパーマだった。
「ワーッ!」
その一人に向かって、大田は突進した。両肩を掴み、ガラスの壁へ、思い切り叩きつける。
衝撃で、ガラスの壁が割れた。
「いきなり何してんじゃ、このガキァーッ!」
突然の暴行に、ヤクザ者たちは怒り狂った。十数名が、大田を殴り、蹴り飛ばす。
もちろん、悪いのは、悪酔いした大田だ。
しばらく、その様子を眺めていた。だが、一方的な暴力は、一向に止む気配がない。
気がつくと、身体が前に進んでいた。
俺は、もうレスラーになるんだぞ?
慌てて自問自答して、足を止める。
まだ、大勢にいたぶられている大田。俺は、その姿を、ただ立って眺めていた。
いくら何でも、やり過ぎだろう。
もう少しで、合宿が始まる……。
しかし、悪いのはこちらでも、このまま暴行を受ける同級生を、見捨てて帰ってもいいのか?
俺は、何の為に、強さを求めたのだ?
相手がヤクザだから、知らんぷりをする?
それは、違うだろう。
足を、前へ出した。
「おい、いい加減にしろよ」
止めに入った。
こちらは、まだ手を出していない。それなのに、ヤクザは殴り掛かってくる。
「何じゃ、貴様はコラッ!」
「やり過ぎだ。もうやめろ」
頬に、一発、パンチを喰らった。
これで、正当防衛だよな……。
それでも殴り掛かってくるので、仕方なく足払いをかけ、大田から一人ずつ引き離した。
まだプロではないが、素人との体力差は歴然としている。俺は、一切殴らず、大田をヤクザから守ることだけに専念した。
それでも、相手は十数人だ。数名を止めている間に、誰かが大田の顔面を蹴飛ばす。
さすがに、見ていられなかった。大田の上に覆い被さり、全身を、無差別に殴られ、蹴られた。
人が無抵抗なのをいいことに、いい加減にしろよな……。
右の拳を握り締め、親指を、真横に伸ばす。この打突で、ぶち殺してやるか、こいつら……。
その時、急に攻撃の手が止んだ。
起き上がろうとすると、けたたましいサイレンを鳴らして、パトカーが到着した。
警官が飛び出してくる。逃げ足の速いヤクザ者は、もう辺りにいなかった。
残されたのは、割れたガラスの壁と、血まみれで伸びた大田。そして、その上に覆い被さったままの、俺。
合宿を前に、警察沙汰か……。
俺は殴っていない。喧嘩を止めただけだ。
必死にそう訴えても、無駄だった。両手に手錠をかけられ、強引にパトカーへ押し込まれ、そのまま警察署へ連行された。
隣のシートで、大田は、まだ何かを喚いていた。
取調室は、蛍光灯の白い光が妙に眩しい、殺風景な部屋だった。机を挟んで、制服の警官が座る。俺は、ことの発端から捕まるまでを、できるだけ冷静に話した。手は出していないことも、懸命に説明した。
その間も、壁の向こうの取調室から、大田の怒鳴り声と、何かを蹴飛ばすような音が聞こえていた。
「酒を飲んでいるだろ、おまえは」
「お巡りさん、俺は至って冷静ですから!」
「隣の奴は、相当酔っているだろうが」
「……」
言い返せなかった。酒が入っている以上、俺の話などまるで信用されない。
「職業は?」
「……。今は無職だけど、もうちょいで大和の合宿へ行く身だ」
「何だって?」
「先日、大和プロレスのプロテストに受かって、これから合宿所入りする予定のレスラーだって言ったんだよ! だから、これでもプロ意識はある。手なんて一回も出しちゃいねえよ! 一緒にいたヤクザ者に聞いてみろ」
言ってから、足払いは「手」に入るのだろうか、と、一瞬だけ頭をよぎった。
「レスラー? おまえが? ……なるほど、それで身体がデカいのか」
警官が、机の上に、ハガキを置いた。所持品検査で、ポケットから出てきたものだ。峰さんが、裏に住所と連絡先を書いてくれた、あのハガキだった。
「捕まえたのは、おまえと、あの酔っ払いの二人だけだ」
「は? あれだけ無抵抗の俺を殴る蹴るしといて、警察は一人も捕まえられてねえのかよ!」
「少し待っていろ」
警官は、ハガキを持って、部屋を出ていった。
「……」
しばらく、一人で待たされた。
隣では、変わらず大田が暴れている。あの馬鹿のせいで、とんだ目に遭ってしまったものだ。
変に正義感など出さず、放っておいて、とっとと帰ればよかった。何度注意しても、酒乱の治らない大田。まさか、入門前に、こんな形で足を引っ張られるとは思いもしなかった。
深い溜め息をついていると、先ほどの警官が戻ってきた。
「ほら、代われ」
「え、何を?」
「早く出ろ」
「チッ……、分かったよ!」
差し出された受話器を、乱暴に奪い取る。一体、誰に電話したんだ?
そう思いながら耳に当てると、相手は、チョモランマ大場社長だった。
血の気が引いた。それでも、必死に状況を説明した。一切、暴力行為はしていない。身の潔白を、声を張り上げて叫んだ。
受話器の向こうは、静かだった。
やがて、一言だけ、低い声が返ってきた。
「もううちには来ないでいい」
「え……、社長!」
通話が切れた。
ツー、ツー、という電子音だけが、耳に残った。
冷たい言葉が、心を切り裂く。
「社長っ!」
聞こえもしない相手に向かって、俺は、何度も受話器に叫んでいた。
こんなことで、今まで頑張ってきたものが、崩壊?
「……」
手から、受話器が落ちた。机の上で一度跳ねて、コードに吊られたまま、ぶらぶら揺れている。
隣の大田の喚き声が、急に、遠くなった。
頭が真っ白になり、俺は、しばらく放心状態だった。
隣の取調室から響く大田の怒鳴り声と、それを制する警官の声で、我に返った。
「……」
あの馬鹿のせいで、すべてが台無しになった。
本当に、洒落にならんことをしてくれたもんだ。
「おい、何を勝手に立ち上がってんだ?」
気がつくと、俺は椅子から立ち上がっていた。
隣の取調室へ向かおうとすると、数名の警官が止めに入ってくる。
「どけよ……」
邪魔だったので、まとめて跳ね除けた。
廊下に出かかった俺の姿に気付くと、大田が、手を振り回しながら叫んだ。
「神ヤン、あいつらやりに行こうぜ!」
まだ言うのか、こいつは。
この馬鹿のせいで、俺が目指してきたものが、すべて壊れてしまった。
「おい、どこへ行く!」
「止まれ!」
警官の制止も聞かず、大田のほうへ近付く。
数名の警官が、力ずくで、俺の身体に覆い被さってきた。身体の自由を奪われ、取調室から強引に引きずり出される。
どけよ、コイツら……。
このままじゃ、あの馬鹿を殺せないだろうが。
すべて払いのけ、再び隣の部屋へ向かう。また、数名の警官が、俺の身体を押さえつけてきた。
今度は、抵抗しなかった。そのまま、自分の取調室へ連れ戻される。
このままで、いいのか?
いいはずがないだろうが!
俺は、床に落ちた受話器を見つめた。コードに吊られたまま、まだ、わずかに揺れている。
もううちには来ないでいい。
チョモランマ大場社長の言葉が、心を抉った。これまで頑張ってきたものすべてが、音を立てて崩れていく。
視界が、狭まった。
なぜだ。暴力を振るわず、喧嘩を止めに入っただけの俺が、なぜこんな目に遭わなきゃいけない?
悪いのは大田史典だろうが!
もちろん、十数人で寄ってたかって痛めつけたヤクザも、やり過ぎだ。だから止めた。ただ、それだけだ。
警察が来て、奴らは逃げた。捕まったのは、俺と大田だけだった。
仲裁しただけの俺は、問題ないと思っていた。堂々としていたのだ。
それが、なぜ、こんな深夜に、警察は大場社長へ連絡など入れた?
なぜ、俺のプロレス入りが、なくならなければならない?
壁の向こうから、相変わらず、大田の暴れる声が聞こえてくる。
限界だった。
俯いたまま、静かに立ち上がる。
「おい、貴様! 何、勝手に立ち上がってんだ!」
肩に手をかけてきた警官の腕を捻り、投げ飛ばした。
行くべき場所は、一つしかない。すべての元凶のもとだ。
大和の合宿があると知っていながら、この凶行をしてくれたのだな……。
部屋を出ようとすると、別の警官が、掴み掛かってきた。左腕を固定し、力任せに壁へ叩きつける。
俺を止めようとする人間すべてを、破壊したい衝動に駆られた。
黙って大人しくしていれば、随分と調子に乗りやがって……。
「神ヤン! あいつらやりに行こうぜ! おい、離せよ!」
俺の姿が目に入った大田は、警察官に取り押さえられながらも、振り解こうと大声を出す。
目の前にいる同級生が、人間に見えなかった。
もっと早く、縁を切っていれば。こんな屑を放っておけば、こんなことには……。
警官が数名、俺の身体に群がってくる。指を掴み、そのまま投げ飛ばした。
せっかく辿り着いた檜舞台を、こんな奴のせいで……。
「何やってんだ、貴様!」
近付いてくる警官を、そのまま跳ね飛ばす。
コイツのせいで……。
明確な殺意だった。
黒い何かに、全身を乗っ取られたような感覚。もはや、視界に映るのは、大田ただ一人だった。
蠅のように群がる警官を、一人、また一人と、ちぎっては投げる。
親分と手下。
坊主さんの言葉が、一瞬だけ、頭をかすめた。だが、それすらも、すぐに黒い感情に塗り潰された。
「お……、大田っ!」
瞬間的な、感情の爆発。
ヤクザに向けるのを堪えた、あの右の拳が、怒りを込めて、大田の顔面に突き刺さった。
身長百九十センチの大きな身体が、吹っ飛ぶ。
力を解放し終えた俺は、呆然と立ち尽くした。
その背中へ、数名の警察官が、一斉に飛び掛かる。
床へ叩きつけられた。一切の身体の自由が、奪われた。
冷たいリノリウムの床に、頬が押し付けられる。
もううちには来ないでいい。
チョモランマ大場社長のその言葉だけが、頭の中で、絶えずリフレインしていた。
全身の力が抜けた。抗うこともなく、警察のされるがままになる。
終わってしまった……。
何もかも、これで、終わってしまったのだ……。
自然と、大粒の涙が溢れた。視界が滲む。
俺は、その場に突っ伏して、大泣きすることしかできなかった。
気がつくと、牢屋の中だった。
肌寒い。
同じ房の中には、暗い表情の男たちが、何人か座り込んでいる。
目の前には、鉄格子。
世界の終わりを見たような気がした。
俺は、牢屋の中にいるのか?
ここは、留置所というところだろうか?
拳で、自分の頭を殴った。力任せに、二度、三度。
少しだけ、頭がスッキリしてきた。
なぜ、こんなところにいる?
大田を助けに行ってからだ。
警察に捕まったんだよな?
だから、取り調べで、自分の潔白を証明しようとした。
大場社長の言葉は、夢?
現実逃避するなよ。
どう考えても、現実じゃねえか……。
大和プロレスは、終わり?
もう来ないでいいと、言われたじゃねえかよ……。
何でこうなった?
どこで、こうなった?
俺の何が、悪かったのだ?
整理しろ。
合宿前に、飲みに行ったのが軽はずみだったのか?
酒乱だと分かっていながら、大田と飲んだのが失敗だったのか?
ヤクザ者にボコボコにされていた大田など、放って帰っていれば……。
いくら後悔したところで、もう遅い。
すべては、無に帰してしまったのだ。
拳を握り、壁を殴った。
「うるせえ」
同じ房の男が、ぼそりと呟いた。目を見開いて睨み付けると、男は視線を逸らし、口を閉じた。
血だらけになっていく拳。
鉄格子の外にいる警官が、「静かにしろ」と事務的に言った。
俺は、大声を張り上げながら、壁を殴り続けた。
どのぐらい、そうしていたのか分からない。
気がつけば、言いようのない虚無感と絶望感に包まれて、牢屋の中で項垂れていた。
隣の房から、大田の声は、もう聞こえてこなかった。
一人の警官が、鍵を開けた。
「出ろ」
夜中だというのに、目の前に、おじいちゃんが立っていた。
警察官に向かって、何度も何度も、頭を下げている。平謝りだった。白髪の頭が、蛍光灯の下で、小さく揺れていた。
身元引受人として、親父は来なかったらしい。
……まあ、そうだろうな。
代わりに、おじいちゃんが来てくれたおかげで、俺は釈放された。
おじいちゃんの目が、一瞬だけ、俺の血だらけの拳に落ちた。何も言わなかった。それが、かえって胸に刺さった。
それなのに。
「おい、今回の件、俺は納得いかないからな。おまえら、覚えておけよ?」
警察官に向かって、凄みを利かせた。
法律など関係なければ、この場で皆殺しにしてやりたい気分だった。
「止めないか、龍一!」
おじいちゃんに諫められ、仕方なく、その場を引いた。
警察署の外へ出ると、夜明け前の冷たい空気が、頬に刺さった。
隣には、大田史典と、その両親が立っていた。大田の口元は、俺に殴られて、お化けのように腫れ上がっていた。
「神ヤン……、本当にごめん……」
「ごめんじゃねえよ……。何をしてくれたんだよ、おい?」
「本当に、ごめん……」
「そんなもんで済むのかよ、クソ野郎!」
大田へ掴み掛かろうとすると、横から腕を取られた。おじいちゃんだった。
「龍一、やめなさい!」
その時だった。
「ガラス代は、うちで弁償したんだ。君も、いい加減落ち着きなさい」
メガネをかけた、厳格そうな大田の父親だった。俺を睨みつけながら、口を開いている。母親は、その斜め後ろで、ずっと俯いたままだった。
辺りの景色が、真っ赤になっていった。
うん、もうどいつもコイツも、殺してしまおう……。
「はあ? おい……、おまえ今、何て言ったんだ、おい……」
「止めないか、龍一!」
間に入るおじいちゃん。それがなければ、確実に殴っていた。
「落ち着きなさい」
父親が、もう一度、同じ台詞を繰り返す。
おまえが精子をぶっ放して作った息子のせいで、こんな目に遭った俺に対して、何て言い草だ?
感情が、また爆発しそうになった。
「オメーの息子が勝手にガラスを割っただけだろうが! 偉そうに抜かすな、ボケが!」
「黙れ、龍一!」
おじいちゃんの声が、夜明けの空に響いた。
それから、おじいちゃんは、大田の両親に向かって、深々と頭を下げた。白髪の頭が、パトカーの赤色灯に照らされて、小さく揺れていた。
俺は、何も言い返せなかった。
ただ、涙が溢れてくるのを、止められなかった。
どうやって家に帰ったのか、まるで覚えていない。
このくだらない一件で、俺はすべてを失った。
それだけは、間違いなかった。
何をしていいのか、まったく分からなかった。
レスラーになろうとした、この一年間。そのすべてが、あの一夜で無になった。俺の存在価値など、もう、どこにも残っていなかった。
部屋の隅には、ベンチプレスのバーが、そのまま転がっている。握る気にもなれなかった。台所には、炊きかけのタイ米が、鍋の中で固まっていた。
死にたかった。
どの面下げて、生きていけばいいのか。
畳の上で、天井を見つめたまま、何時間が過ぎたのかも分からなかった。
その時、玄関のドアが開いた。
坊主さんだった。
何も言わずに上がり込んで、俺の前に、どさりと座る。いつもの、ジミードーナツの紙袋は持っていなかった。
「龍一……、何であんな奴と酒なんて飲みに行っちゃったんだよ?」
「……」
だから言っただろ、とは、坊主さんは言わなかった。
それが、かえって苦しかった。正論すぎて、何一つ言い返せない。あんな男と、つるんでいたから、こうなってしまったのだ。
「……で、大和は、どうなったんだ?」
「……。大場社長から、来ないでいいって……、言われました……」
「これから合宿だろ?」
「……」
「行ってこいよ」
「だって……、来ないでいいって……」
言葉が詰まった。喉の奥から、何かが込み上げてくる。
俺は、声を上げて、大泣きした。
どのくらい、そのままでいたのか、分からない。
坊主さんは、黙って、傍にいてくれた。煙草に火をつける音が、一度だけした。
「もう……、死にたいですよ……」
「今、何て言った?」
「もう、死にたいです! 何の価値も、なくなりました……」
「……」
嗚咽を漏らしながら、みっともなく、畳に突っ伏して泣いた。何度も、泣きながら、「死にたい」と連呼した。
「死んじゃ駄目だ! 生きろ!」
「生きて、どうしろって言うんですか!」
「チョモランマ大場から、来なくていいって言われたかもしれないけど、明日、大和の合宿所へ行け」
「無理ですよ!」
「いいから行ってこい」
「どうやって? どんな面して、行くんですか?」
坊主さんが、俺の顔を、まっすぐに見た。
「死ぬつもりだったんだろ? だったら、行ってから死ね。嫌なら、生きろ」
「……」
どんな慰めよりも、その一言が、胸に刺さった。
本気で死ぬつもりだったのか。ただ、口で言っていただけなのか。自分でも、分からなかった。
それなら、合宿所まで行く。
行って、それから、死ねばいい。
一度は、捨てた命だ。
少しだけ、光が見えたような気がした。
……いや、光などではない。
門前払いを喰らって、追い返されるだけだ。そんなことは、目に見えている。
それでも、駄目元で、大和プロレスへ行ってみよう。
そこに、一筋の光もなかったが、俺には、それしかなかった。
もう一度、俺は、大声で泣いた。
坊主さんは、俺の肩を、力強く、ポンポンと二回、叩いた。
峰さんに、叩かれた肩。氷川さんに、叩かれた肩。
あの時とは、まるで違う重さだった。
もう一回立ち上がろう。その先に光などない。それでも……。