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メルヘンチック㉖酒乱

    執筆日㉖2026年10月04日

     大和プロレスの合宿に入れば、しばらくはたまプラーザで暮らすことになる。それなら祝賀会も兼ねて飲もうと、同級生たちから誘われた。とっくに解散したCPLのメンバーたちだった。

     音頭を取ったのは大田史典。そこに坂東一と小林昌彦を加えた三人が、先に席についていた。

    「あれ、ゴリとチャブーは?」

     俺が訊くと、大田が顔をしかめた。

    「チャブーは連絡がつかない。ゴリは疲れてるからだってさ。冷てえよな、神ヤンがもう行っちゃうってのに」

     大田が、俺の代わりに怒ってくれている。

     チャブーはともかく、ゴリには、これまでどれだけ世話を焼いてきたと思っているんだ。本当に大事な用があるのなら、まだ分かる。だが「疲れた」はさすがにないだろう。あんな屑を、今まで親身になって相手してきた俺がいけなかったのか。

     坊主さんの言葉が、頭に浮かんだ。ゴリと大田は、友達というより、親分と手下にしか見えない。

     本当に、そうだったのかもしれないな。

     それにしても、飼い犬に手を噛まれた心境だった。あの恩知らずの薄情者め。

     ……いや、よそう。せっかく三人が祝ってくれるのだ。その気持ちは、素直に嬉しい。これから過酷な環境に身を置くのだから、少しくらい楽しんでもいいだろう。

     集合したのは、本川越駅前の二階にあったつぼ八だった。最近飲む時は、すっかりこの店が定番になっていた。

    「それでは、神威龍一の大和プロレス入りを祝して!」

     大田の音頭で、ジョッキが鳴る。坂東も小林も、口々に激励してくれた。俺は、横目で大田のジョッキの減り具合を確認しながら、自分のジョッキを傾けた。

     その時、後ろから声がした。

    「あれ、ひょっとして神威君?」

     振り向くと、女の子が三人、通路に立っていた。真ん中の一人が、俺の顔を覗き込んでいる。

    「んー……、緑山?」

    「そう! 緑山希美! うわ、本当に神威君だ!」

     高校時代、たった一か月半でクビになったケンタッキーフライドチキン。その頃、一緒にバイトをしていた緑山希美だった。

    「めちゃくちゃ久しぶりだね。なんか身体、すごく大きくなってない?」

    「毎日、鍛えてるからさ」

    「高校以来だよね? えー、嬉しい。ねえ、一緒に飲もうよ」

     向こうの友達二人も交えて、席をつなげて飲むことになった。

     あの頃の話になるのは、自然な流れだった。

    「神威君、ケンタをクビになった時のこと、覚えてる?」

    「忘れるわけないだろ」

    「え、何それ。神ヤン、何したの?」

     身を乗り出してきたのは、小林だった。

     当時、店長代理の中島は、まだ大学生だった。それなのに、店長が不在なのをいいことに、立場を笠に着て好き放題。女子高生のバイトを強引に飲み会へ誘い、肩に手を回す。膝に触る。帰りは送ってやると言って、しつこく付きまとう。セクハラ紛いの行為を、平気で繰り返していた。

    「私たち、本当に困ってたの。でも店長もいないし、誰にも言えなくて」

     緑山が、グラスを両手で包んだまま言った。

    「それで、俺のところに相談が来たんだよ。何とかしてくれって」

    「高校二年の神威君に?」

     緑山の友達の一人が、目を丸くした。

    「当時から、見た目は一番強そうだったからな」

     俺は、高校二年の身で、その飲み会に参加した。中島が女の子の肩に手を伸ばすたびに、さりげなく間に入り、話題を変え、席を替わらせた。

    「神威君、本当に上手に止めてくれたんだよね。中島、露骨にイライラしてたもん」

    「で、トイレに行った時だ」

    「出た、トイレ」

     坂東が、にやにやしながら合いの手を入れる。

     用を足して出ようとしたところで、後ろから中島が入ってきた。

    「テメー、ガキのくせに生意気なんだよ」

     怒鳴りつけてきた、その顔面に。

    「殴り倒した」

    「うわぁ……」

    「一発で?」

    「一発で」

     女の子たちが、きゃあっと声を上げた。緑山が、手を叩いて笑っている。

    「それで翌日、クビになったんだよね。私、あの時、神威君にちゃんとお礼も言えなくて」

    「いいって」

    「よくないよ。私たち、あれで本当に助かったんだから」

     大田が、感心した顔でジョッキを置いた。

    「つまり神ヤンは、昔から殴って解決する人なんだな」

    「おまえを殴ってるのは、おまえのためだ」

    「ひでえ」

     どっと笑いが起きた。

     その一件で、俺はケンタッキーをクビになった。その後は、ガソリンスタンドの山口油材で働き始めることになったのだ。

     緑山たちから見れば、俺は窮地を救った英雄だった。しかも、その男が、これから大和プロレスへ行こうとしている。

     話が盛り上がるにつれて、俺の話題ばかりになった。その視線が、少し誇らしかった。

    「ねえ、神威君」

     帰り際、緑山が、ちょっと照れたように笑った。

    「有名になったら、『初恋の人は?』ってインタビューで聞かれた時、私の名前言ってね」

     宴もたけなわの頃、緑山が、ちょっと照れたように笑った。

    「ねえ、神威君」

     昔から、ちょっと可愛いなと思っていた緑山だった。ケンタッキーの制服で、フライヤーの油の音に負けないように笑っていた、あの頃の顔が、今も目の前にある。

     気がつくと、俺は席を移って、彼女の隣に座っていた。耳元へ、顔を近付ける。

    「なあ……、初恋じゃなくて、俺の傍にいろよ。二人で抜け出さないか」

     言ってしまってから、自分の台詞に自分で驚いた。

    「もー、神威君のエッチ」

    「いや……そんなつもりじゃ……」

     緑山は、グラスの縁を指でなぞりながら、少しだけ俯いた。

    「でも……前向きに考えとく……」

     いい雰囲気だった。人生で一番、決まった瞬間かもしれない。

     その横では、坂東と小林が、緑山の友達二人の相手をしていた。彼女たちから相手にされず、一人だけ取り残された大田は、焼酎のボトルをラッパ飲みしている。目が据わっていた。酒乱に切り替わる兆候だった。

    「おい、大田! おまえ、毎度毎度、勘弁してくれよ」

    「だってさ……」

    「今日は神威が主役だろ、大田! また警察なんて呼ばれたら、洒落にならねえからな」

     坂東も、睨みつけながら大声で釘を刺す。

     殺伐とした空気で、緑山との雰囲気が壊れるのは嫌だった。俺は、みんなを宥めて場を収めた。大田は、その隙を見て、またボトルに口をつけている。面倒なので、放っておいた。

     それが、間違いだった。

     すっかり酒乱化した大田が、緑山の隣へ、チョコンと座った。

    「おい、大田! おまえ、本当にいい加減にせいよ?」

     睨むと、大田はしょんぼりと小さくなった。

     俺は、再び緑山へ話しかけた。その途中だった。

    「ワンプッシュ」

     そう言いながら、大田が、緑山の胸を、いきなりつついた。

    「何この人? ねえ、神威君、この人に今、胸触られた……」

    「テメー、何やってんだよ!」

     酔った大田に、俺の声は聞こえていなかった。嫌がる緑山へ強引に抱きつき、手を伸ばしてくる。

    「おい、大田! やめろって言ってんだろ! 緑山、会計は俺が持つから、友達連れて帰りな」

    「うん……、ごめんね、神威君」

     しつこい大田を力ずくで引き剥がし、まず緑山たちを外へ逃がした。

    「おい、貴様……、洒落にならんことしてくれたな?」

     しかし大田は、彼女たちを追って、外へ飛び出していった。

    「おい!」

     追いかけようとすると、店員に勘定を請求された。仕方なく払ってから、階段を駆け下りる。

     外へ出ると、彼女たちの姿は、もう見えなかった。代わりに、道端で、大田が三人組の男たちへ絡んでいる。慌てて間に入り、頭を下げた。

     その間に、大田は奇声を発しながら、道路へ飛び出した。対向車が、急ブレーキを踏む。停まった車に、自分からぶつかって、道路へ倒れる大田。

     運転席のおばさんは、目を真ん丸に見開いて、身体を震わせていた。

    「気にしないで行っていいですから! 悪いのは、こちらなんで……」

     大田は、起き上がりながら、また奇声を発して、別方向へ走っていく。俺が怒鳴っても、一切聞こえていない様子だった。

     まったく……。

     前方の飲み屋のビルから、柄の悪い男たちが、ぞろぞろと出てきた。ヤクザ者が、十数名。全員が、パンチパーマだった。

    「ワーッ!」

     その一人に向かって、大田は突進した。両肩を掴み、ガラスの壁へ、思い切り叩きつける。

     衝撃で、ガラスの壁が割れた。

    「いきなり何してんじゃ、このガキァーッ!」

     突然の暴行に、ヤクザ者たちは怒り狂った。十数名が、大田を殴り、蹴り飛ばす。

     もちろん、悪いのは、悪酔いした大田だ。

     しばらく、その様子を眺めていた。だが、一方的な暴力は、一向に止む気配がない。

     気がつくと、身体が前に進んでいた。

     俺は、もうレスラーになるんだぞ?

     慌てて自問自答して、足を止める。

     まだ、大勢にいたぶられている大田。俺は、その姿を、ただ立って眺めていた。

     いくら何でも、やり過ぎだろう。

     もう少しで、合宿が始まる……。

     しかし、悪いのはこちらでも、このまま暴行を受ける同級生を、見捨てて帰ってもいいのか?

     俺は、何の為に、強さを求めたのだ?

     相手がヤクザだから、知らんぷりをする?

     それは、違うだろう。

     足を、前へ出した。

    「おい、いい加減にしろよ」

     止めに入った。

     こちらは、まだ手を出していない。それなのに、ヤクザは殴り掛かってくる。

    「何じゃ、貴様はコラッ!」

    「やり過ぎだ。もうやめろ」

     頬に、一発、パンチを喰らった。

     これで、正当防衛だよな……。

     それでも殴り掛かってくるので、仕方なく足払いをかけ、大田から一人ずつ引き離した。

     まだプロではないが、素人との体力差は歴然としている。俺は、一切殴らず、大田をヤクザから守ることだけに専念した。

     それでも、相手は十数人だ。数名を止めている間に、誰かが大田の顔面を蹴飛ばす。

     さすがに、見ていられなかった。大田の上に覆い被さり、全身を、無差別に殴られ、蹴られた。

     人が無抵抗なのをいいことに、いい加減にしろよな……。

     右の拳を握り締め、親指を、真横に伸ばす。この打突で、ぶち殺してやるか、こいつら……。

     その時、急に攻撃の手が止んだ。

     起き上がろうとすると、けたたましいサイレンを鳴らして、パトカーが到着した。

     警官が飛び出してくる。逃げ足の速いヤクザ者は、もう辺りにいなかった。

     残されたのは、割れたガラスの壁と、血まみれで伸びた大田。そして、その上に覆い被さったままの、俺。

     合宿を前に、警察沙汰か……。


     俺は殴っていない。喧嘩を止めただけだ。

     必死にそう訴えても、無駄だった。両手に手錠をかけられ、強引にパトカーへ押し込まれ、そのまま警察署へ連行された。

     隣のシートで、大田は、まだ何かを喚いていた。

     取調室は、蛍光灯の白い光が妙に眩しい、殺風景な部屋だった。机を挟んで、制服の警官が座る。俺は、ことの発端から捕まるまでを、できるだけ冷静に話した。手は出していないことも、懸命に説明した。

     その間も、壁の向こうの取調室から、大田の怒鳴り声と、何かを蹴飛ばすような音が聞こえていた。

    「酒を飲んでいるだろ、おまえは」

    「お巡りさん、俺は至って冷静ですから!」

    「隣の奴は、相当酔っているだろうが」

    「……」

     言い返せなかった。酒が入っている以上、俺の話などまるで信用されない。

    「職業は?」

    「……。今は無職だけど、もうちょいで大和の合宿へ行く身だ」

    「何だって?」

    「先日、大和プロレスのプロテストに受かって、これから合宿所入りする予定のレスラーだって言ったんだよ! だから、これでもプロ意識はある。手なんて一回も出しちゃいねえよ! 一緒にいたヤクザ者に聞いてみろ」

     言ってから、足払いは「手」に入るのだろうか、と、一瞬だけ頭をよぎった。

    「レスラー? おまえが? ……なるほど、それで身体がデカいのか」

     警官が、机の上に、ハガキを置いた。所持品検査で、ポケットから出てきたものだ。峰さんが、裏に住所と連絡先を書いてくれた、あのハガキだった。

    「捕まえたのは、おまえと、あの酔っ払いの二人だけだ」

    「は? あれだけ無抵抗の俺を殴る蹴るしといて、警察は一人も捕まえられてねえのかよ!」

    「少し待っていろ」

     警官は、ハガキを持って、部屋を出ていった。

    「……」

     しばらく、一人で待たされた。

     隣では、変わらず大田が暴れている。あの馬鹿のせいで、とんだ目に遭ってしまったものだ。

     変に正義感など出さず、放っておいて、とっとと帰ればよかった。何度注意しても、酒乱の治らない大田。まさか、入門前に、こんな形で足を引っ張られるとは思いもしなかった。

     深い溜め息をついていると、先ほどの警官が戻ってきた。

    「ほら、代われ」

    「え、何を?」

    「早く出ろ」

    「チッ……、分かったよ!」

     差し出された受話器を、乱暴に奪い取る。一体、誰に電話したんだ?

     そう思いながら耳に当てると、相手は、チョモランマ大場社長だった。

     血の気が引いた。それでも、必死に状況を説明した。一切、暴力行為はしていない。身の潔白を、声を張り上げて叫んだ。

     受話器の向こうは、静かだった。

     やがて、一言だけ、低い声が返ってきた。

    「もううちには来ないでいい」

    「え……、社長!」

     通話が切れた。

     ツー、ツー、という電子音だけが、耳に残った。

     冷たい言葉が、心を切り裂く。

    「社長っ!」

     聞こえもしない相手に向かって、俺は、何度も受話器に叫んでいた。

     こんなことで、今まで頑張ってきたものが、崩壊?

    「……」

     手から、受話器が落ちた。机の上で一度跳ねて、コードに吊られたまま、ぶらぶら揺れている。

     隣の大田の喚き声が、急に、遠くなった。

     頭が真っ白になり、俺は、しばらく放心状態だった。


     隣の取調室から響く大田の怒鳴り声と、それを制する警官の声で、我に返った。

    「……」

     あの馬鹿のせいで、すべてが台無しになった。

     本当に、洒落にならんことをしてくれたもんだ。

    「おい、何を勝手に立ち上がってんだ?」

     気がつくと、俺は椅子から立ち上がっていた。

     隣の取調室へ向かおうとすると、数名の警官が止めに入ってくる。

    「どけよ……」

     邪魔だったので、まとめて跳ね除けた。

     廊下に出かかった俺の姿に気付くと、大田が、手を振り回しながら叫んだ。

    「神ヤン、あいつらやりに行こうぜ!」

     まだ言うのか、こいつは。

     この馬鹿のせいで、俺が目指してきたものが、すべて壊れてしまった。

    「おい、どこへ行く!」

    「止まれ!」

     警官の制止も聞かず、大田のほうへ近付く。

     数名の警官が、力ずくで、俺の身体に覆い被さってきた。身体の自由を奪われ、取調室から強引に引きずり出される。

     どけよ、コイツら……。

     このままじゃ、あの馬鹿を殺せないだろうが。

     すべて払いのけ、再び隣の部屋へ向かう。また、数名の警官が、俺の身体を押さえつけてきた。

     今度は、抵抗しなかった。そのまま、自分の取調室へ連れ戻される。

     このままで、いいのか?

     いいはずがないだろうが!

     俺は、床に落ちた受話器を見つめた。コードに吊られたまま、まだ、わずかに揺れている。

     もううちには来ないでいい。

     チョモランマ大場社長の言葉が、心を抉った。これまで頑張ってきたものすべてが、音を立てて崩れていく。

     視界が、狭まった。

     なぜだ。暴力を振るわず、喧嘩を止めに入っただけの俺が、なぜこんな目に遭わなきゃいけない?

     悪いのは大田史典だろうが!

     もちろん、十数人で寄ってたかって痛めつけたヤクザも、やり過ぎだ。だから止めた。ただ、それだけだ。

     警察が来て、奴らは逃げた。捕まったのは、俺と大田だけだった。

     仲裁しただけの俺は、問題ないと思っていた。堂々としていたのだ。

     それが、なぜ、こんな深夜に、警察は大場社長へ連絡など入れた?

     なぜ、俺のプロレス入りが、なくならなければならない?

     壁の向こうから、相変わらず、大田の暴れる声が聞こえてくる。

     限界だった。

     俯いたまま、静かに立ち上がる。

    「おい、貴様! 何、勝手に立ち上がってんだ!」

     肩に手をかけてきた警官の腕を捻り、投げ飛ばした。

     行くべき場所は、一つしかない。すべての元凶のもとだ。

     大和の合宿があると知っていながら、この凶行をしてくれたのだな……。

     部屋を出ようとすると、別の警官が、掴み掛かってきた。左腕を固定し、力任せに壁へ叩きつける。

     俺を止めようとする人間すべてを、破壊したい衝動に駆られた。

     黙って大人しくしていれば、随分と調子に乗りやがって……。

    「神ヤン! あいつらやりに行こうぜ! おい、離せよ!」

     俺の姿が目に入った大田は、警察官に取り押さえられながらも、振り解こうと大声を出す。

     目の前にいる同級生が、人間に見えなかった。

     もっと早く、縁を切っていれば。こんな屑を放っておけば、こんなことには……。

     警官が数名、俺の身体に群がってくる。指を掴み、そのまま投げ飛ばした。

     せっかく辿り着いた檜舞台を、こんな奴のせいで……。

    「何やってんだ、貴様!」

     近付いてくる警官を、そのまま跳ね飛ばす。

     コイツのせいで……。

     明確な殺意だった。

     黒い何かに、全身を乗っ取られたような感覚。もはや、視界に映るのは、大田ただ一人だった。

     蠅のように群がる警官を、一人、また一人と、ちぎっては投げる。

     親分と手下。

     坊主さんの言葉が、一瞬だけ、頭をかすめた。だが、それすらも、すぐに黒い感情に塗り潰された。

    「お……、大田っ!」

     瞬間的な、感情の爆発。

     ヤクザに向けるのを堪えた、あの右の拳が、怒りを込めて、大田の顔面に突き刺さった。

     身長百九十センチの大きな身体が、吹っ飛ぶ。

     力を解放し終えた俺は、呆然と立ち尽くした。

     その背中へ、数名の警察官が、一斉に飛び掛かる。

     床へ叩きつけられた。一切の身体の自由が、奪われた。

     冷たいリノリウムの床に、頬が押し付けられる。

     もううちには来ないでいい。

     チョモランマ大場社長のその言葉だけが、頭の中で、絶えずリフレインしていた。

     全身の力が抜けた。抗うこともなく、警察のされるがままになる。

     終わってしまった……。

     何もかも、これで、終わってしまったのだ……。

     自然と、大粒の涙が溢れた。視界が滲む。

     俺は、その場に突っ伏して、大泣きすることしかできなかった。


     気がつくと、牢屋の中だった。

     肌寒い。

     同じ房の中には、暗い表情の男たちが、何人か座り込んでいる。

     目の前には、鉄格子。

     世界の終わりを見たような気がした。

     俺は、牢屋の中にいるのか?

     ここは、留置所というところだろうか?

     拳で、自分の頭を殴った。力任せに、二度、三度。

     少しだけ、頭がスッキリしてきた。

     なぜ、こんなところにいる?

     大田を助けに行ってからだ。

     警察に捕まったんだよな?

     だから、取り調べで、自分の潔白を証明しようとした。

     大場社長の言葉は、夢?

     現実逃避するなよ。

     どう考えても、現実じゃねえか……。

     大和プロレスは、終わり?

     もう来ないでいいと、言われたじゃねえかよ……。

     何でこうなった?

     どこで、こうなった?

     俺の何が、悪かったのだ?

     整理しろ。

     合宿前に、飲みに行ったのが軽はずみだったのか?

     酒乱だと分かっていながら、大田と飲んだのが失敗だったのか?

     ヤクザ者にボコボコにされていた大田など、放って帰っていれば……。

     いくら後悔したところで、もう遅い。

     すべては、無に帰してしまったのだ。

     拳を握り、壁を殴った。

    「うるせえ」

     同じ房の男が、ぼそりと呟いた。目を見開いて睨み付けると、男は視線を逸らし、口を閉じた。

     血だらけになっていく拳。

     鉄格子の外にいる警官が、「静かにしろ」と事務的に言った。

     俺は、大声を張り上げながら、壁を殴り続けた。

     どのぐらい、そうしていたのか分からない。

     気がつけば、言いようのない虚無感と絶望感に包まれて、牢屋の中で項垂れていた。

     隣の房から、大田の声は、もう聞こえてこなかった。

     一人の警官が、鍵を開けた。

    「出ろ」

     夜中だというのに、目の前に、おじいちゃんが立っていた。

     警察官に向かって、何度も何度も、頭を下げている。平謝りだった。白髪の頭が、蛍光灯の下で、小さく揺れていた。

     身元引受人として、親父は来なかったらしい。

     ……まあ、そうだろうな。

     代わりに、おじいちゃんが来てくれたおかげで、俺は釈放された。

     おじいちゃんの目が、一瞬だけ、俺の血だらけの拳に落ちた。何も言わなかった。それが、かえって胸に刺さった。

     それなのに。

    「おい、今回の件、俺は納得いかないからな。おまえら、覚えておけよ?」

     警察官に向かって、凄みを利かせた。

     法律など関係なければ、この場で皆殺しにしてやりたい気分だった。

    「止めないか、龍一!」

     おじいちゃんに諫められ、仕方なく、その場を引いた。


     警察署の外へ出ると、夜明け前の冷たい空気が、頬に刺さった。

     隣には、大田史典と、その両親が立っていた。大田の口元は、俺に殴られて、お化けのように腫れ上がっていた。

    「神ヤン……、本当にごめん……」

    「ごめんじゃねえよ……。何をしてくれたんだよ、おい?」

    「本当に、ごめん……」

    「そんなもんで済むのかよ、クソ野郎!」

     大田へ掴み掛かろうとすると、横から腕を取られた。おじいちゃんだった。

    「龍一、やめなさい!」

     その時だった。

    「ガラス代は、うちで弁償したんだ。君も、いい加減落ち着きなさい」

     メガネをかけた、厳格そうな大田の父親だった。俺を睨みつけながら、口を開いている。母親は、その斜め後ろで、ずっと俯いたままだった。

     辺りの景色が、真っ赤になっていった。

     うん、もうどいつもコイツも、殺してしまおう……。

    「はあ? おい……、おまえ今、何て言ったんだ、おい……」

    「止めないか、龍一!」

     間に入るおじいちゃん。それがなければ、確実に殴っていた。

    「落ち着きなさい」

     父親が、もう一度、同じ台詞を繰り返す。

     おまえが精子をぶっ放して作った息子のせいで、こんな目に遭った俺に対して、何て言い草だ?

     感情が、また爆発しそうになった。

    「オメーの息子が勝手にガラスを割っただけだろうが! 偉そうに抜かすな、ボケが!」

    「黙れ、龍一!」

     おじいちゃんの声が、夜明けの空に響いた。

     それから、おじいちゃんは、大田の両親に向かって、深々と頭を下げた。白髪の頭が、パトカーの赤色灯に照らされて、小さく揺れていた。

     俺は、何も言い返せなかった。

     ただ、涙が溢れてくるのを、止められなかった。

     どうやって家に帰ったのか、まるで覚えていない。

     このくだらない一件で、俺はすべてを失った。

     それだけは、間違いなかった。


     何をしていいのか、まったく分からなかった。

     レスラーになろうとした、この一年間。そのすべてが、あの一夜で無になった。俺の存在価値など、もう、どこにも残っていなかった。

     部屋の隅には、ベンチプレスのバーが、そのまま転がっている。握る気にもなれなかった。台所には、炊きかけのタイ米が、鍋の中で固まっていた。

     死にたかった。

     どの面下げて、生きていけばいいのか。

     畳の上で、天井を見つめたまま、何時間が過ぎたのかも分からなかった。

     その時、玄関のドアが開いた。

     坊主さんだった。

     何も言わずに上がり込んで、俺の前に、どさりと座る。いつもの、ジミードーナツの紙袋は持っていなかった。

    「龍一……、何であんな奴と酒なんて飲みに行っちゃったんだよ?」

    「……」

     だから言っただろ、とは、坊主さんは言わなかった。

     それが、かえって苦しかった。正論すぎて、何一つ言い返せない。あんな男と、つるんでいたから、こうなってしまったのだ。

    「……で、大和は、どうなったんだ?」

    「……。大場社長から、来ないでいいって……、言われました……」

    「これから合宿だろ?」

    「……」

    「行ってこいよ」

    「だって……、来ないでいいって……」

     言葉が詰まった。喉の奥から、何かが込み上げてくる。

     俺は、声を上げて、大泣きした。

     どのくらい、そのままでいたのか、分からない。

     坊主さんは、黙って、傍にいてくれた。煙草に火をつける音が、一度だけした。

    「もう……、死にたいですよ……」

    「今、何て言った?」

    「もう、死にたいです! 何の価値も、なくなりました……」

    「……」

     嗚咽を漏らしながら、みっともなく、畳に突っ伏して泣いた。何度も、泣きながら、「死にたい」と連呼した。

    「死んじゃ駄目だ! 生きろ!」

    「生きて、どうしろって言うんですか!」

    「チョモランマ大場から、来なくていいって言われたかもしれないけど、明日、大和の合宿所へ行け」

    「無理ですよ!」

    「いいから行ってこい」

    「どうやって? どんな面して、行くんですか?」

     坊主さんが、俺の顔を、まっすぐに見た。

    「死ぬつもりだったんだろ? だったら、行ってから死ね。嫌なら、生きろ」

    「……」

     どんな慰めよりも、その一言が、胸に刺さった。

     本気で死ぬつもりだったのか。ただ、口で言っていただけなのか。自分でも、分からなかった。

     それなら、合宿所まで行く。

     行って、それから、死ねばいい。

     一度は、捨てた命だ。

     少しだけ、光が見えたような気がした。

     ……いや、光などではない。

     門前払いを喰らって、追い返されるだけだ。そんなことは、目に見えている。

     それでも、駄目元で、大和プロレスへ行ってみよう。

     そこに、一筋の光もなかったが、俺には、それしかなかった。

     もう一度、俺は、大声で泣いた。

     坊主さんは、俺の肩を、力強く、ポンポンと二回、叩いた。

     峰さんに、叩かれた肩。氷川さんに、叩かれた肩。

     あの時とは、まるで違う重さだった。

     もう一回立ち上がろう。その先に光などない。それでも……。



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