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メルヘンチック㉚ABCD

    執筆日㉚2026年10月04日

     西武新宿駅の地下へ向かう階段を降りていくと、丁度新宿プリンスホテルの真下ぐらいの位置に、イタリアンレストランのアリタリアがあった。レンガを組み合わせて作ったような壁を見て、素直にいいなと思う。

     ガラスのドアを開き、中へ入る。すぐに二手に通路が分かれているので、どちらへ行ったらいいのか分からなくなった。

     入り口で困っていると、ホテルマンが近付いてくる。

    「あ、あのー……ア、アリタリアはどちらに?」

    「こちら右手になります。よろしければご案内致します」

    「は、はい」

     丁寧なホテルマンのあとをついていく。

     短い通路を通り過ぎると、中は意外に広く、開放的な気分になる。レストラン内を歩いていると、奥の席に靖史が座っているのが見えた。

     ホテルマンは僕のために席を用意しているところだ。

    「あ、あのー、つ、連れがいたんで、い、一緒でいいです」

    「かしこまりました」

     ホテルマンはニッコリ微笑むと持ち場に戻って行った。

     僕が近付くと、靖史が気付いて声を掛けてくる。

    「おーい、結構早かったじゃないか。ランチタイムだからブッフェもあるぜ。それ以外にも何か頼めば?」

    「ブ、ブッフェって、な、何?」

    「バイキング。簡単に言えば食べ放題だよ」

    「へ、へー。い、いいね」

    「まあ立ってないで座れよ。俺はステーキやパスタとかを適当に頼んだから」

     席に座り、タバコに火をつける。灰皿を見ると、煙草の吸殻は一本しかなかった。靖史もアリタリアに来て、まだそんなに時間が経っていないようだ。

    「あ、あれからひょっとしてプリンスに、ず、ずっと泊まっているの?」

    「ああ、おまえは?」

    「あ、あの鳴戸とかいうヤクザみたいのが怖いから、カ、カプセルホテルに泊まってる。そ、そういえば鳴戸に僕、な、殴られたんだ」

     靖史の表情がガラリと変わり、身を乗り出してくる。

    「何だってっ! 何でおまえがあいつに殴られなきゃなんないんだ?」

     僕は恥ずかしそうにはにかんでしまう。

    「い、いやー、街で偶然会ってね。う、後ろ姿見てたら、つい……そ、それで、で、でっぱりを無意識に触ったら、な、殴られたんだ」

    「何でおまえはそんな状況で、でっぱりなんて気になんだよ……ほとんど病気だよ」

    「エヘヘ……」

    「エヘヘじゃねぇって、まったく……そういえば、あのむつきとか言う女はどうしたんだ? おまえが俺に返したダンボールの件でメチャクチャ怒ってたろ?」

    「す、捨てられた……」

     むつきのことを思い出すと涙が出そうになるので、一生懸命に堪えた。僕の前からあれ以来消えてしまったむつき。無性に逢いたかった。でも何の手掛かりもない。

    「そうか、悪かったな……でも何だって鳴戸のでっぱりなんて触ろうとしたんだ?」

     靖史は強引に話題を変える。彼なりの気遣いが嬉しかった。

    「あ、ああいう奴って、ど、どのくらいでっぱっているのかなって思って、さ、触ったらとてもすごかったんだよ」

    「おまえ、昔から色んな奴の後頭部を触っちゃ、その度怒られてたじゃねえか。ほんと、いい加減懲りろよ」

    「で、でも鳴戸のでっぱりは、い、今まで触った人間の中で断トツに、い、一番でっぱっていたんだ。そ、相当今まで人を裏切り騙してきたんだよ」

     鳴戸のあのでっぱり具合は尋常ではなかった。触った時の感触を思い出すと、今でも身震いする。

    「勝男は何でそんなにでっぱりを気にするようになったんだ?」

    「む、昔、小さい頃だけどね。お、おばあちゃんが生きていた時に、お、教えてくれたんだ。に、人間の後頭部は不思議なもので、ま、真ん中を触ると、ちょ、ちょっとしたでっぱりがあるんだって……ひ、人を裏切ったり、だ、騙したりすると、そ、そのでっぱりがドンドン出てくるんだって教えてくれたんだ。だ、だから僕は触れば、あ、ある程度その人が分かるんだ」

     人を平気で裏切る奴は触れば分かるぐらいでっぱりがある。過去にそういう人間を見てきたが、やっぱりそうだった。

    「ふーん……」

    「そ、それにでっぱりという言葉は、ほ、本来、い、陰な言葉でね」

    「陰?」

    「うん、こ、言葉には陰と陽ってあるんだ」

    「陰と陽ね」

    「で、出る杭は打たれるって、き、聞いた事あるでしょ? む、昔からでっぱりというのは、で、でっぱるという意味合いであって、ほ、本来、わ、悪い意味で捉えられてきた言葉なんだよ」

    「でっぱりね」

     その点、靖史は違う。悪ぶってはいるけど、根は悪くない。

    「や、靖史もこれからは気にするようにしたほうがいいよ。け、結構当たるから」

    「俺はそんな事よりも、気になりだすと急に無関係の人間の頭を触りだすおまえのほうが心配だよ。本当に気をつけろよな」

    「う、うん」

    「それよりブッフェの物、何か取りに行こうぜ。腹減ってんだ」

     僕と靖史は立ち上がり、様々な料理の置いてあるブッフェ卓に向かう。どれもこれもおいしそうな料理ばかりだ。


     ホテルのベッドって何でこんなに気持ちいいんだろう。フカフカしていていい気分だ。靖史はソファーに腰掛けながらテレビを見ている。

     僕も近い内、不動産屋へ行って新しい部屋を見つけないとな。いつまでも主戦場が歌舞伎町なのに、川越まで帰るのは面倒になってきた。

     靖史のあのマンションには絶対に戻りたくない。そういえば、靖史は何であれ程の金額をダンボールに貯められたのだろうか。

    「ね、ねえ。み、店で、ど、どのぐらいお金抜いてたの?」

    「ん、そんなの店の状況にもよるよ。忙しくても回銭ががんでたら難しいとこだしね。うまく状況見ながら抜ける時は抜いてって感じだね。多い時で十万。少ない時はまったく抜かなかったりね。平均すると、一日三万から五万は抜いていたかな」

    「ぼ、僕のお店は、そういうの全然ないからなー……よ、よく分からないよ」

    「まー、俺のとこのオーナーは大馬鹿だったからな。勝男のところみたいに、チェックがそこまで厳しくないんだよ。俺はそういう面では運が良かったんだ。少なくても勝男のところよりはな」

    「だ、だってうちの従業員、す、すごい真面目だもん。そ、そんな売り上げから金を抜くとかは、そ、そういうのとはまったく縁のない店だよ」

    「どんな状況だってケースバイケースでなんとかなるもんだよ。勝男のとこの責任者だって他の連中に分からないように、こっそりと金を抜いてるかもしれないしな」

    「そ、それはないと思うんだけどな」

    「まー、そんな事どうだっていいよ。それよりも早く寝ろって。何時ぐらいに起こせばいいんだ? ちゃんと起こしてやるから安心しろよ」

    「う、うーんとね……く、九時ぐらい」

    「分かったよ。じゃあ、もう寝な」

    「お、おやすみ」

     靖史はまたテレビを見始める。僕はしばらく目をつぶっていたが、何故か眠くならなかった。寝返りを打つふりをして靖史に背を向け、まぶたを開く。目の前には真っ白な壁がある。

     一人で考え事をしていると、最終的にむつきのことを考えている自分がいた。むつきという名前以外に、僕は何も彼女のことを知らなかった。何歳なのか。何の仕事をしているのか。どこに住んでいるのか。分からないことだらけだ。

     動物のように本能的にセックスをしただけの仲。あの時、ちゃんとしたことをきちんと聞いておけばよかった。昼から次の日の昼まで丸一日、ずっと一緒にいたのに僕は何も知らない。自分の愚かさを呪ってしまう。

     昨日むつきに去られ、僕の心はポッカリと大きな穴が開いている。体の真ん中に穴が開いて、冷たい風がその穴を年中通り過ぎているような感じだった。

     寂しい、とても寂しい。目から涙が自然と出て、ベッドのシーツを濡らし始める。

     頭では彼女とは終わったのを理解していても、結局のところ僕は割り切れていない。たった一日で僕はむつきの虜になっていた。美人でそれでいて可愛く、スタイルもいい。僕とつり合わないのは充分承知しているつもりだ。

     でもこの歯痒さは何なのだろうか。彼女とは、永久に逢えないのかな。考えながら眠くなり、自然にまぶたを閉じる。


     新宿プリンスホテル最上階にあるラウンジ『シャトレーヌ』で、僕とむつきは隣り合って座っている。

     むつきがテーブルの上にあるカクテルを手に取り、ゆっくり口に含む。

    「おいしーい。勝男よくこんなカクテル知ってるわねー」

    「い、いやー、エヘヘ」

     むつきの笑顔は最高だ。僕には百カラットのダイアモンドよりも眩しく見える。これもカクテルを教えてくれた靖史のおかげだ。感謝しないといけない。

    「む、むつきちゃん、こ、これも飲んでごらんよ」

     ニッコリ頷いて、むつきは僕の勧めたカクテルを飲みだした。

    「ど、どう?」

    「こんなの飲ませないでよっ!」

     むつきはいきなり怒った顔に変わり、カクテルを僕の顔に引っ掛けてくる。

    「う、うわっ!」

     慌てて起き上がると、目の前に広がる景色が違う。

     どこだ、ここは……。

     何で僕はベッドの上で寝ているんだ?

     少ししてから、ぼやけている頭がだんだん冴えてきた。

    「そ、そうか……ゆ、夢を見ていたんだ……」

     靖史がここに居ていいと言ってくれて、あのままホテルで寝てしまっていたんだ。

     新宿プリンスホテルの一室。周りを見渡しても靖史の姿が見えない。どこかへ出掛けたのかな。時計を見ると夕方の五時だった。

     仕事は夜の十時からだから、起きるにはまだ早過ぎる。そのまま布団を被り、二度寝することにした。また夢でもいいから、むつきに逢いたいな……。

    「む、むつきちゃん……」

     ボソッと声に出して呟いてみた。二度目の睡魔が襲ってくる。

     ちょっとした雑音が聞こえてきて、目をうっすら開ける。テレビの光が見えたので、そこから聞こえてくる音だろう。

    「ガリッ、ガリッ……」

     何の音だろう。上半身を起こし辺りを見ると、ソファーで靖史が座りながらナッツみたいな物を音を立てて食べていた。靖史が僕に気付く。

    「おう、おはよー。自分で起きちゃったか。ちょっとうるさかったか?」

     靖史は酒を飲んでいるからか、話し方が陽気だ。時計を見ると、八時を過ぎていた。

    「お、おはよう」

    「寿司買ってきたから食えよ。腹、減ってんだろう?」

    「あ、ありがとう」

     寝起きですぐに寿司を食べるというのも変な感じだが、靖史の心遣いには嬉しく思う。

     包装紙をとり、寿司を食べ始めた。結構おいしい。特にこのマグロの赤身なんか最高だ。続いて焼きアナゴを食べる。

    「お、おいしいよ、このお寿司。や、靖史、わ、悪いね」

    「気にすんなよ。どこにでもある回転寿司のお土産だ」

    「へー、さ、最近は回転寿司といっても、お、おいしいもんだね」

    「それより仕事の時間まで二時間切っているだろ?」

    「う、うん」

    「じゃあ早く食べて、準備しちゃえよ」

     気持ち早めに寿司を食べる。最後に一番大好きなマグロの赤身を口に入れて食べ終わった。二人前くらい買ってきてくれたので、結構お腹がいっぱいだ。

     ホテルの部屋に常備してあるティーパックで、靖史がお茶を作ってくれた。

    「あ、ありがとう」

    「ぐっすり眠れたか?」

    「う、うん。な、何から何まで悪いね」

    「気にすんなよ。昔からの仲じゃねーか」

    「や、靖史はこれからどうするの?」

    「何も考えないで、ここで一週間ほどくつろぐよ。それからだね、色々考えるのは」

     靖史は僕なんか比べ物にならないぐらい頭いいから、どこ行ってもきっと大丈夫だろう。でも何か困った事があったら、絶対に力になってあげないと……。

    「何ボケッとしてんだよ? 風呂でも入ってくればいいじゃん」

    「う、うん。や、靖史……ほ、本当にありがとね」

    「何、言ってんだって。早く行ってこいよ」

     僕は部屋のユニットバスの蛇口をひねり、お湯を溜め始める。部屋に戻ると靖史が話し掛けてきた。

    「そういえば勝男、あのむつきとか言う女の連絡先とか、全然分からないのか?」

     むつきという言葉が僕の心に響く。とうとう夢の中まで出てくるようになったむつき。

    「そ、それが全然分からないんだ。お、怒って部屋を飛び出してからは、さ、さっぱりなんだ……ぼ、僕は、な、何も彼女の事を知らないんだ」

    「そうか……でもあの女は、俺の金を盗ろうとしやがったんだぜ」

    「あ、あの時は別に……む、むつきちゃんは……」

    「あの時の事はもういいよ。それでもおまえは、まだあの女に惚れていると?」

    「う、うん」

    「確かに魅力のあるいい女だったけど、勝男……おまえきっと後悔するぞ。俺はよく接してはいないから分からないけど、結局は金、金って感じだったんだろ?」

     そう、靖史の言う通りだ。むつきは僕なんかじゃなく、最初からあのダンボールに入っている靖史のお金が欲しかっただけなんだ。

     そんなのはずっと分かっていた。それでも僕はむつきに惹かれ、まだ彼女を求めている。そしてまた夢のような気持ち良さを待ち望んでいた。

     靖史にしてみれば、僕を心配して言ってくれているのは分かる。気持ちは嬉しかったが、それでもむつきに対する想いは何も変わらない。

     両手を開いて手の平をじっと見た。

     まだ僕のこの手には、彼女の感触がいっぱいに残っている。しばらく自分の手の平を眺めた。そんな事をしたってむつきは、もう戻って来ないのに……。

    「おい、勝男。大丈夫か?」

    「う、うん。ぼ、僕ね、そ、それでもむつきちゃんの事が好きなんだ」

     靖史はとても寂しそうな視線を僕に向けてくる。

     何ともいえない空気が部屋に流れた。

    「悪かったな、勝男……言い過ぎたみたいだ」

     靖史は申し分けなさそうに謝ってくる。

    「そ、そんな……あ、謝んないでよ。ぼ、僕は馬鹿だからしょうがないんだ……し、心配してくれてるのに、ご、ごめんね。ふ、風呂行ってくるね」

     靖史は下を向いて酒を飲み始めていた。僕は風呂場に行き、熱い湯の溜まった湯船に浸かり、静かに泣いた。


     仕事を終えてから行く宛てもなく、歌舞伎町の街をうろつく。正月二日目の朝だから、さすがに人通りも少ない。

     靖史はまだ寝ているかな。仕事がいつも終わるのは朝十時だから、靖史がダークネスで働いていた頃の時間帯とまるっきり逆だった。

     今、靖史はのんびりしているから起きているかもしれない。

     だけど、僕はカプセルホテルに向かった。これ以上、靖史に迷惑は掛けられない。

     そういえば、今日の夜から新人が一人入ってくる予定だ。いい感じの新人だったら、仕事終わったらご飯でも連れてってあげようかな。

     どうせ行くならあの東通りの変な喫茶店がいい。

     そういえば正月はやっているのだろうか。歩く進路を変え、東通りに向かう。

    「おにーさんー」

     ポン引きが近付いて来るが、無視して先を進む。

     いつもは人混みで賑わう歌舞伎町も、正月で人がいないからか、ポン引きも必死で数少ない通行人に声を掛けている。

     僕はコマ劇場の横を過ぎ、東通りにぶつかる。右を見ると、あの例の喫茶店は正月も関係なしに営業していた。

     ガラス越しにあの太った女の店員が働いている姿が見える。その光景を見て僕は思わずニヤけてしまう。

     太った店員は相変わらず乱暴に、水をテーブルに置いていた。よく見ると、水がテーブルにこぼれている。今後もあの接客態度は変わってほしくないと願ってしまう。わざとじゃなくて、素でやっているから面白い。

     明日、仕事が終わってからが楽しみだ。

     カプセルホテルに着き、チェックインを済ませる。ここのカプセルの風呂場はジャグジーがあるから好きだった。荷物をコインロッカーに入れ、そのまま風呂場へ直行する。

     風呂場の入り口でアカ擦りと剃刀をとって中に進む。頭を洗い、髭を剃る。アカ擦りで体を綺麗に洗ってシャワーを浴びる。ここのシャワーは水圧が強いせいか、お湯の勢いが非常に強く、浴びていて気持ちがいい。

     基本的にゲーム屋は立ち仕事なので、疲れが体に残る。仕事後の疲れた体をジャグジーに入り癒す。この環境が整っているからカプセルホテルへたまに行くのが、癖になっているのかもしれない。

     ジャグジーの泡が気持ちいい。気の済むまでジャグジーの中にいてから、風呂場をあとにした。

     僕が寝る二段ベッド場所は下だったので、頭を低くしてカプセルの中に入る。小さなカーテンみたいなものをおろした。本当はサウナに泊まったほうが値段的にも安く済み、経済的なんだけど、カプセルみたいに個室じゃないのが難点だ。寝る場所がみんな同じところでザコ寝なので、落ち着かない。

     以前サウナに入って寝ていたら、ホモに遭った事があった。くすぐったいような変な感じがして起きたら、僕の股の辺りをゴソゴソ弄っていた男がいた。あの時は思わず悲鳴をあげてしまった。

     それ以来僕は泊まる時、絶対に割高でもカプセルホテルを選ぶようになった。

     この街での思い出なんてロクなものがない。

     いや、そんな事ないだろう。むつきと出会ったのは、歌舞伎町の道端だ。そのあとで靖史のマンションで会い……ん、待てよ……。

     エレベーターで偶然一緒に乗り合わせた時のむつきの台詞を思い出す。

    「すいませんでした……はぁ、はぁ……あのー、はぁ……十二階で、おねが……! あっ!」

     そうだ!

     エレベーターに駆け込んできた時、むつきは確かに十二階でと言っていた。僕の推理が正しければ、あのマンションの十二階にむつきは住んでいる。

     そうじゃなければ僕が強引に部屋に連れて行ったあと、長い時間一緒にいたのはおかしい。

     もし友達のところに遊びに来たのなら、僕の部屋から出たあとすぐに十二階へ行くか、常識的に連絡ぐらいは友達にしているはずだ。

     あの時約一日一緒にいて、むつきは誰にも連絡をしていなかった。

     一度でいいからむつきちゃんの顔が見たい。マンションに行って、もし鳴戸に出くわしたら嫌だけど、それ以上にむつきちゃんに会いたい。あの時マンションで会ったのは、確かお昼ぐらいの時間だった。

     今行けば、ひょっとしたら会えるんじゃないか。

     自分の想いがどんどん膨れ上がる。

     駄目だ……こんなところでじっとなんかしていられない。急いでカプセルホテルから出て、この間までいた靖史のマンションへ向かうことにした。


     どのくらい時間が経ったのだろう。時計を見ると、もう夜の九時を回っていた。そろそろ店に向かわないといけない時間だ。

     新大久保のマンションに行き、むつきが来ないかずっと待っていた。

     鳴戸が来たらどうしようと怖いが、むつきに会いたいという気持ちのほうが強かった。さすがに八時間ほど待ち続けて何の収穫もないと、心が挫けそうになる。

     僕の推理は単なる勘違いだったのだろうか……。

     でも彼女に関する手掛かりは、ここで待つ以外に方法もない。待っている間はとても時が経つのを遅く感じる。

     仕方なしに今日は諦め、重い足取りで店へと向かうことにした。

     今日から新人が入ってくるんだよな。

     大久保から新宿は歩いて充分にいける距離だが、徹夜の状態だととても辛かった。

     もしむつきが今、マンションに帰ってきたら……。

     交差点を渡り歩いたぐらいでマンションを振り返って見た。

    「ゲッ!」

     ちょうどその時、マンションの入り口に白いコートの男が入っていくのが見えた。

     一気に冷や汗が吹き出す。

     あれは遠目から見ても、鳴戸だった。あの場所から離れるのがちょっとでも遅かったら危ないところだった。

     まだ正月なのに、鳴戸は靖史を探しにチェックをしに来ている。蛇のような執念深さだ。

     靖史がマンションを出て、新宿プリンスホテルに一時避難したのが分かる。あのマンションのエレベーターでぶつかった僕の顔など覚えてないかもしれないが、もう絶対に関わりたくない。

     街で会って、つい触ってしまった鳴戸の後頭部……。

     恐ろしいほどでっぱっている後頭部。鳴戸のでっぱりを触った時の感触が右手に蘇り、僕は鳥肌を立てながら新宿へ逃げるようにして向かった。

     外の空気はまだまだ冷たい。むつきと腕組んで一緒に歩けたら、幸せで寒さなんて吹っ飛んでしまうんだろうな。

     現実にありえない想像をして、虚しくなる。

     歌舞伎町のエリアに入ると、イソベ焼きを売っている屋台が見えた。辺りいっぱいに醤油の焦げた香ばしい香りが充満している。

     僕は堪らなくなり屋台に向かう。

     珍しく屋台には働く人が二人もいた。見るとメガネを掛けた四十代ぐらいの親方みたいな人と、オドオドしながら餅を焼いているまだ若い見習いの小僧の組み合わせだった。

     ねじり鉢巻きを巻いたらとても似合いそうな小僧が一生懸命餅をひっくり返している。

     親方は口うるさく横であれこれ指導していた。

    「す、すいません、ひ、一つ下さい」

     百円玉を渡しながらイソベ焼きを一つ注文する。

     親方がお金を受け取り、横にいる見習いの小僧は餅を醤油にひたしていた。それを見た親方が、突然怒鳴りだした。

    「おいっ! それじゃ、餅は柔らかくなんねーんだよ。お客さんに失礼だろ。霧吹きが最初だろっ! 同じ事、何度も言わせんなよ。分かってんのかよ」

    「は、はい、すいません」

    「謝る前に、早く霧吹きだよ。ここのタイミングで、餅がここで柔らかくなる瞬間なんだよ。早く、霧吹き、霧吹き!」

     小僧の頭を親方が引っ叩く。

     餅の焼き方一つですごい情熱のある屋台だ。

     親方と小僧の気持ちの籠もったイソベ焼きを口に入れる。トロッと口に入れた瞬間、とろけるような餅だった。作り手のこだわりが感じられ、僕の舌は感動を覚える。

    「ありがとうございます」

     小僧が僕にお礼を言うと、親方はまた小僧の頭を引っ叩く。

    「馬鹿野郎。そんなんじゃ気持ち籠もってねーんだよ。いいか、餅を渡して料金を頂戴したら、腹の底から毎度ーっ……ってありったけの感情を込めて客に言うんだ。分かったか? やってみろ」

    「毎度ーっ!」

    「い、いえ……ど、どう致しまして……」

     小僧の目に涙を溜めながら言われる礼に、僕は圧倒されまくりだ。ここまでこだわるイソベ焼きの屋台は歌舞伎町……いや、日本一だと言えよう。

     十時十分前に店に着くと、やはり正月のせいか客も少ししかいない。職場のスタッフに挨拶をして店のユニフォームに着替えようとすると、背後からいきなり声を掛けられた。

    「どうも初めまして、今日から遅番で働く赤崎と言います。よろしくお願いします」

     どこかで最近見たような顔だな?

     ちょっと思い出せないが、礼儀のしっかりしたいい新人という印象は受ける。

    「は、初めまして。ゲ、ゲーム屋の経験はあるの?」

    「はい、一ヶ月ぐらいですけど……頑張りますのでよろしくお願いします」

    「い、いえいえこちらこそ」

     今日仕事が終わったら、早速この赤崎という新人をあのすごい喫茶店に連れてってあげようじゃないか。新年早々なかなかいい感じの新人が入ってきたものだ。


     仕事が終わり着替えをしている時、新人の赤崎に声を掛けてみた。

    「あ、赤崎君。きょ、今日仕事初日だから疲れたでしょ?」

    「いえいえ、幸いにお店が暇だったみたいですし、本当にお店の人たちも親切に接してくれているので助かりますよ」

     行動もキビキビして客受けもいい。本当にいい新人が入ってきてくれたものだ。

    「お、お腹減ってない? ち、近くに面白いお店あるから良かったら行かない?」

    「そうですね。構わないですよ。でもその前に一つ質問があるんですけど、よろしいでしょうか?」

    「な、何?」

    「あの自分、まだお名前伺ってないんですよ。良かったらこれからも一緒に仕事する訳ですし、教えてもらいますか」

    「あ、ああ、ご、ごめんね。ぼ、僕は鈴木勝男。よ、よく考えてみたら名前言ってなかったよね。み、みんな勝男って呼ぶから勝男でいいよ。シ、シンプルな名前でしょう」

    「そんな事ないですよ。勝男さんですね。あっ、自分の名前をフルネームで言うと、赤崎隼人と言います。これからもよろしくお願いします」

    「へー、は、隼人って言うんだ。か、格好いい名前だよね」

    「そんな事ないですよ」

     非常に好感度の高い新人だ。普通こういうゲーム屋の業界に来る新人なんて、どんな奴か分からず、平気で店を飛んだり裏切ったりするケースが多い。

     この赤崎は見て話した感じ違う。不思議と信用を置ける人間である。

     店を出て、赤崎と二人で東通りに向かう。

     今日はもう一月の三日。あの喫茶店は昨日も営業していたから今日もやっているだろう。

    「こ、これから行く店ってすごいんだよ」

     思わず思い出し笑いをしてしまう。

     赤崎はキョトンとした顔で僕を見ている。僕は自然とニヤけてくる。

    「すごいって?」

    「い、行けば、わ、分かるから」

     目前に例の喫茶店が見える。僕は赤崎をうながして店に入った。まだ朝の十時過ぎなので、モーニングメニューも置いてあった。適当に空いている席を探し座る。

    「あ、赤崎君は何にする?」

    「自分、ハンバーグ大好きなんです。もう迷わずこのハンバーグセットですね。あと、恥ずかしい話ですけど、クリームソーダのアイス抜きが好きなんですよ」

    「メ、メロンソーダの事? ソ、ソーダ水とも言うけど」

    「そうです。本当は甘いの嫌いなんですけど、そのメロンソーダだけは大好きなんですよ。何か男のロマンを感じますよね。本物のメロンは嫌いなんですけど……メロンソーダって言うよりも、ソーダ水って言い方のほうが格好いいですね」

     礼儀正しく真面目な雰囲気からは、想像もつかないユニークさを持っている。独特の言いまわしを聞いていて、素直に面白かった。

     遠くから例の太った女の店員が近付いてくる。また今日も何かしでかしてくれるだろう。

    「そ、そういえば、赤崎君は彼女とかいるの?」

    「え? ええ、まぁ……勝男さんはどうなんですか?」

     むつきのことを思い出す……。

     一日一緒にいただけじゃ、彼女とは呼べないだろう。彼女は金の匂いを感じ取り、僕と一日一緒にいただけなんだ。そう考えると虚しくなる。

    「どうかしました?」

     赤崎が心配そうに僕を見ている。

    「い、いや……ぼ、僕はこの間、フラれたばかりなんだ……」

    「すいませんでした。変な事聞いてしまい……」

     初対面なのに赤崎はいい奴だ。

    「ぼ、僕が最初に聞いたのが悪いだけで、ぜ、全然気にしないでよ」

     精一杯の作り笑顔を見せた。

    「いらっしゃいっ!」

     ドンッ! ドンッ!

     店員がいつもと同じようにテーブルに水を乱暴に置く。相変わらず、すごい音だ。二人分の水を乱暴に置いた衝撃でこぼれ、テーブルは濡れている。

     赤崎にはインパクトが強過ぎたのか、目の前で起きた光景を見て唖然としていた。

     水を出すだけという行為だけでここまで客を唖然とさせる喫茶店は、日本広しと言えどもここぐらいだろう。

    「勝男さんの言っていたすごいって意味が分かりました……ウェイトレスが日本人じゃないんですね。以前に何かしたんですか?」

    「す、すごいでしょ? ふ、普通のスタンスでこういう店なんだ」

     得意そうな顔をして赤崎を見た。彼の表情を見ていると、連れて来た甲斐があったと、ちょっとした快感に変わる。

     そういえば、僕も早くメニューを決めないと……。

     モーニングメニューを見てみる。

    【A トースト ゆで卵 サラダ コーヒー 六百八十円】

    【B ジャム付きトースト ベーコンエッグ コンソメスープ 七百三十円】

    【C ピザトースト サラダ コーヒー 六百八十円】

    【D フレンチトースト ゆで卵 コンソメスープ 七百三十円】

     以上の四つのモーニングセットメニューがあった。結構迷ったが、無難にAを選ぶ。これだけじゃ足りないので、ミートソースも頼むことにする。

    「勝男さん、決まりましたか?」

    「う、うん。モ、モーニングのAと……ミ、ミートソースにするよ」

    「じゃー、頼みますよ」

    「う、うん」

    「すいませーん。注文いいですかー」

     赤崎が大きな声で店員を呼ぶ。あの店員はこちらを振り向こうともしない。

    「あれ、聞こえないんですかね? すいませ~ん!」

     動かざる事、山の如し。彼女のでーんとした様子を見て、武田信玄の言葉を思い出した。

    「すいませーん! 店員さ~ん」

     しばらくして、例の店員がノソノソと歩いて来た。僕にはこっちに向かってくる女店員が、大きな山のように見えた。

    「や、山が動いた……」

    「はあ、山? 何の事ですか、勝男さん」

     赤崎が不思議そうな表情で話しかけてきた。その間にも山は、どんどん近付いてくる。

    「何する」

     赤崎は驚いたように振り返る。彼女は大地に足の根が張り付き、堂々と山のようにそびえ立ち、上から彼を見下ろしていた。

    「何する」

     続けて店員は、以前とまったく変わらないトーンで繰り返し注文を聞く。

    「え、えーと……ハンバーグセットとミートソースとモーニングのAをお願いします。そ、それとソーダ水一つ」

     赤崎は明らかに圧倒されながら注文を言った。

     巨大な山脈は返事もせずに、ノソノソと奥へ消えて行く。

    「何なんですか、あれは?」

     赤崎はちょっとムッとしているようだ。ここはもうちょっと大人になって、この状況を楽しまなければいけない。それがこの店で楽しむ為のルールでもある。

    「こ、こういうお店なんだよ」

    「でもあの店員の態度、ちょっと酷くないですか?」

    「で、でも次にあの店員が来た時に、ど、どんなリアクションをするか楽しみじゃない? し、視点変えて見ると面白いもんだよ」

    「うーん……ですね……そういえば、コマ劇場の中にある定食屋は、味もそこそこうまいし、そこにいるおばあちゃんもメチャクチャ味があるんですよ」

    「へー……じゃ、じゃあ今度そこにも行ってみようか。こ、ここも、りょ、料理の味だけは、な、何故か結構いけるんだよね」

    「でも、自分を満足させるハンバーグを出す店ってなかなかないんですよ。自分の地元だったら、美味しいハンバーグを出すお店があるんですけどね」

    「そ、そんなに何故、ハ、ハンバーグが好きなの?」

     僕が尋ねると、赤崎は下を向いてしまい黙ってしまった。どうやら言いたくない辛い過去がきっと彼にはあるのだろう。とても寂しそうな顔をしていた。

    「すいません……急に……」

    「き、気にしないでよ。ご、ごめんね……へ、変な事、き、聞いてしまったみたいで……ご、ごめんね」

     ハンバーグにとてもこだわり堂々と好きだと言えるのに、理由を聞くと塞ぎ込む赤崎の姿を見て、人間臭さがちょっとだけ垣間見えたような感じがする。

     僕は何故か分からないけど、この赤崎という人間に好感を覚えていた。

    「いえ、自分のほうこそ場の空気壊してしまいまして……あっ……あの店員が料理持って来てますよ」

     振り向くと、あの店員が僕たちの席に料理を運んでくるところだった。両手に持っているのは何だろう。この位置からじゃよく見えない。

     店員はテーブルの前まで来ると、料理を置こうとした。

     カシャーンッ。

     料理を置く前に、何かがテーブルの上に落ちてくる。反射的に、僕も赤崎もビックリして体を仰け反った。

     何がいきなり落ちてきたんだ。よく見てみるとそれはフォークだった。店員が置く前に滑らせ落としたのだろう……。

    「あ、ごめん」

     客の目の前でフォークを落とすという粗相をしながら、その店員はたった「あ、ごめん」のひと言で済ませてしまった。想像を絶する応対。

     僕も赤崎も目前で起こった光景に対し、何も言えずに固まっている。

    ドンッ! ドンッ!

     続け様に店員は、ハンバーグとミートソースをいつものように派手な音を立てながらテーブルへ置く。

     綺麗に盛りつけてあったはずの料理は、その衝撃で見事に崩れている。料理を並べ終ると、彼女は奥へ引っ込んでしまった。

     粗相をして普通なら客に怒鳴られてもしょうがない事をあの店員は堂々とした態度で封殺してしまう。すごい肝っ玉の持ち主だ。でも女だから肝っ玉ついてないか。何と言ったらいいか分からないが、とにかくすごい事には変わらない。

    「勝男さん、ちょっとおかしくないですか?」

    「ま、まー、あ、あの店員は……」

    「違いますよ。出てくる料理の順番が、おかしいと思いません?」

    「な、何で?」

    「だって普通、モーニングメニューって言ったらすぐ作れるように、ある程度の仕込みはしてあるはずなんですよ。どこの店だって……例えば勝男さんが頼んだモーニングメニューだと、トーストは切って焼くだけだからいいとして、ゆで卵はあらかじめ茹でて作っておく、サラダは使う野菜を刻んでおくとか、そのぐらいしてる訳じゃないですか?」

    「う、うん」

    「じゃあ、何で先にハンバーグやパスタが出てくるんだって思いませんか? どう考えてもトーストのほうが早く作れるはずですよね」

     確かに赤崎の言う通りだった。よくよく考えてみると、不自然な料理の出し方だ。

    「た、確かにそうだよね」

    「まあ、こんな事、言い合ってても、しょうがないですよね」

    「さ、冷めない内に食べよう」

    「そうですね」

     僕はミートソースを、赤崎はハンバーグセットを食べ始める。結局食べ終わっても、モーニングは出てこない。

    「勝男さん、ひょっとして……あの店員が注文を忘れているだけかもしれないですね」

    「う、うん……」

    「ちょっと自分、あの店員に言いますよ」

    「そ、そう」

    「すいませーんっ!」

     赤崎が店員を呼んだ。店員が気付き、こちらに向かってきた。

    「あのー、ソーダ水とモーニング頼んだの、まだ来てないんですけど……」

    「なに」

     相変わらずすごい対応だった。注文したものが来てないと客が文句を言っているのに、この店員は「なに」のひと言で切り返している。

    「いやー、あのー……なにじゃなくてさー、モーニングがまだ来てないの」

     赤崎の言い方が荒っぽくなっている。身振り手振りでゼスチャーを加えながら、一生懸命に説明していた。

     店員はじっと赤崎を見ている。僕は二人の様子を交互に見守るだけだ。

    「だからモーニングがまだなの!」

    「Aかー、Bかー、Cかー、Dかー」

    「はぁ?」

     僕も赤崎も声を揃えて口にする。

     一体、この店員は何なのだろうか。意味不明な事を言い始めた。もはや理解できない……。

    「Aかー、Bかー、Cかー、Dかー」

     繰り返し店員は、意味不明の言葉を言い続けた。向こうの言葉なのだろうか。AやBの意味がまったく分からない。赤崎の顔色がだんだん赤くなってきている。

    「何だよ、そらー? トーストだよ。ト・オ・ス・トッ!」

    「Aかー、Bかー、Cかー、Dかー」

     店員は相変わらず同じ台詞をいい続ける。表情もまるで変わらない。まさに動かざること山の如しだ……。

     多分ここまでAやBを言うって事は、何かしらの意味があるのだろう。僕はちょっと考えて閃く。そうだ。きっとモーニングメニューのAか、Bかって、聞いているんだ。

    「て、店員さん、え、A」

     店員は僕がAと言うと、理解してくれたのか、そのまま回れ右をして奥に消えていった。

    「勝男さん、今、あれをどうやって理解させたんですか?」

     赤崎が不思議そうな顔をして聞いてくる。

    「い、いや、ただね……か、彼女にしてみたら、メ、メニューのAセットなのか、ビ、Bセットなのかをき、聞いてきただけの事なんだよ」

    「はぁ……」

     何となく今日入ったばかりの新人、赤崎とはうまくやっていけそうな気がした。




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