
「ママ」で終わる恐怖。34歳専業主婦の「自己投資」|実話|私の物語
こんにちは、とひみかです😊
私の今の仕事は、「通訳案内士」。
富裕層の外国人のお客様を観光案内するのが、主な業務。
今アラフィフの私は、
34歳までほぼ英語力がゼロだった。
「アフター5の暇つぶし」から始まった私の英語人生。
当時の私は、まさかこれが未来の国家資格に繋がるなんて、
夢にも思っていなかった。
2000年代前半。
軽度の子宮内膜症を患っていた
29歳だった私。
約2年の辛い不妊期間の果てに、医師から「自然妊娠は無理」と宣告された。
にもかかわらず、
宣告されたその3か月後、
奇跡的に、自然妊娠した。
当時私は、家から近く、残業がゼロ、福利厚生が完璧のホワイト企業で、フルタイムの仕事をしていた。
こんな良い条件のホワイト企業を辞めるつもりはなく、出産後もこんないい職場なら続けたいと思った。
妊娠を報告すると、
上司も同意してくれた。
そして、私が休む1年間は、
人材派遣会社から1年限定の派遣スタッフに来てもらい、その後はまた私が復帰するということに
してもらえた。
~~~
私たち夫婦は、妊娠中に子供の性別を聞かず、出産当日までのお楽しみにしていた。
いよいよ出産予定日。
全然生まれない。
1週間過ぎても生まれない。
よって、産婦人科に強制入院。
入院中は、マタニティーヨガやら階段上りやら、いろんなことをやらされたけど、
それでも生まれてこない。
医師から、入院から1週間後、
出産予定日から2週間たったら
帝王切開で出すと言われた。
「我が子よ、早く出てきて!!」
入院3日目。
病院には優しい助産師さんが複数いたのに、
口調がきついイラッとさせる人が、その日の私の担当だった。
「我が子よ、今日はダメ!
この人が担当する時間に出てきてはダメ!」
この助産師さんが夜10時に
次の夜勤の助産師さんと
交代して帰って行った1時間後に、
破水し陣痛が来た!
「我が子よ、ナイス!」
でも、そんなことを思う余裕は
すぐになくなった。
私は本当に痛いときは、
「痛い」と言うことができないのだとこのときに知った。
人生で最も痛かったことは?
と聞かれたら、
今でも「陣痛」と答える。
夫は、前夜22時から夜通し付き添ってくれていたが、
朝8時になっても生まれない。
医師からあと5時間は生まれないと言われ、夫は、一時的に病院を離れて仕事に向かった。
そしたら、
その1時間後に生まれた。
夫は、結局
その瞬間には立ち会えず……
~~~
産婦人科を退院し、
我が子が我が家にやってきた。
久しぶりに自宅に帰ってきた私。
自分の部屋の机の上に、
プレゼント包装された、
高級ブランドバックがあった。
ん?
何、これ???
「大変な思いをして、
産んでくれてありがとう」
と、夫からのメッセージカードが
挟まっていた。
その夫の気持ちが余りに嬉しく、
私は、一時の嬉しさなのに、
我が子の命名権を
夫に譲ってしまった。
なので、我が子は
完全な夫の趣味で名付けられた。
~~~
そして、まず、
夫から言われた。
・赤ちゃんができた報告を写真付きでしない
・我が家の年賀状には、今後一切家族写真を載せない
私も同感だった。
私たちは、不妊治療はしなかったが、2年間の不妊期間を経て赤ちゃんを授かった。
でも、その2年間は、
本当に本当に辛かった。
一方、周囲には何食わぬ顔で
「夫婦二人の生活を楽しんでます!」と装っていた。
不妊で苦しんでいるカップルは、
どこに潜んでいるのかわからない。
一見、夫婦二人で楽しそうに見えても、「私たちは子供はいらない」と言っていても、実は不妊治療をしている人が結構いる。
そんなカップルへの配慮と、
私たちは「そんな浮かれた家族ではない」という意味不明な優越感から、赤ちゃんが生まれた報告を
デカデカと写真付きでしないと決めた。
そして、ふわふわの赤ちゃんは想像以上に愛おしかった。
そして、我が子生後3週間で、
「この子を自分の手で育てたい。
保育所に預けたくない。」
と思ってしまった。
私の仕事の代わりなんて、
いくらでもいる。
でも、この子の母親は世界中で私だけ。代わりはいない。
そして、嫌でもすぐに大きくなってしまう。この貴重なふわふわの赤ちゃん時代を、
100%悔いなく満喫したい!
私の手で育てたい!!!
でも、それは働かないということであり、収入も減る。
それでも、夫に伝えた。
「俺も、仕事辞めて家でこの子と
一緒にいてほしいと思ってた」
価値観が同じ人と結婚することは、本当に大切だと思う。
そして、私が専業主婦になっても生活できる経済力を持っている夫には、本当に感謝しかなかった。
そして、早速、
ホワイト企業に連絡。
「赤ちゃんが可愛すぎたので、
やっぱり辞めます!」
~~~
子育て中は、もちろん辛いこともたくさんあったけど、それ以上に幸せな生活を満喫していた。
肌の弱い我が子は、紙おむつでよく肌が荒れたので、思い切って布おむつにした。洗濯は大変だったけど、それすら苦にならなかった。
春には鴨川にお花見に行き、夏には海やプール、秋は仮装してハロウィンパーティー、冬はママ友たちと手作りお菓子を持ち寄ってクリスマスパーティーをしたり、存分に子育てを楽しんでいた。
~~~
そして、我が子が3歳になったころ。
私は、子育てだけの専業主婦生活に
完全に飽きた。
そして、いつのまにか自分が
「〇〇さんの奥さん」
「〇〇ちゃんのママ」
でしかない存在になってしまっていることに、
恐怖を覚えた。
そして、同窓会にも行けなくなっていた。
専業主婦で働いていない分際で、
第一線で活躍する友達に合わす顔がない。
会っても話も合わないし、
働いていないことが後ろめたかった。
でも、もうフルタイムで働きたくない。
自分で勤務時間を決めたい。
よし、何か資格を取ろう!
という結論に至った。
ふと、本屋さんで
「通訳案内士」という資格が
世の中にあることを知った。
私が住む京都は、
当時は欧米人の観光客がちらほらいるくらいだったが、それでも、外国人観光客を見ない日はなかった。
そこで、私は思いついた。
「せっかく京都に住んでるんやし、外国人に観光案内する仕事って、めっちゃ素敵やん✨✨」
今思うと、英語力ゼロで、
よくこの思考回路になったと
我ながら感心する。
無知って最強。
数か月後には、我が子は幼稚園に入園することが決まっていた。
私は、夫に宣言した。
「私は、国家資格を取ります!
幼稚園入園と同時に、
私も通訳学校に入学します!
学費は、出産前までに稼いだ自分のお金を使うので、
金銭的には一切迷惑はかけません!」
「自分のお金でやるんやったら、ええんちゃう」
自分の英語力がゼロなのは
わかっていたので、
「独学で勉強する」という選択肢はなかった。
子育て中でもあったので、
・最短で合格したい!
・試験に出るところだけを覚えたい!
・最小の努力で合格したい!
そう思った私は、
お金を払って通訳学校という
「プロの力」を借り、
有料のノウハウを使うことにした。
さっさと合格して働いたら
こんな学費なんてすぐに回収できる、とも思った。
そう、学費は先行投資!
~~~
当時、私が住む京都市内には
通訳の学校がなかった。
自宅から 1 時間半かけて、
大阪にある通訳専門学校の
入学説明会に参加した。
・通訳案内士試験対策コース
10か月 、33万円。
・入学資格 TOEIC 600 点以上
・次の開講は、半年後
学費は何とかなりそう。
問題は TOEIC 。
出産してから3年以上英語は
まったく勉強していなかったけど、何の根拠もなくイケる気がして、TOEIC を受けた。
そんなに甘いわけない。
スコア 380点。
絶望的だった。
その日からまた
NHKラジオ英会話を始め、
TOEIC の問題集も買った。
翌月、450 点。
幼児を抱えながらの勉強はつらかったけど、「妻」でも「母」でもない「個人の私」を取り戻すには、
頑張るしかない。
3か月後。
やっと、630 点が取れた。
そして、学費を一括納入して、
私は、我が子の幼稚園入園と
同時に通訳学校に入学した。
このときの私、
34歳。
【今の私が思うこと】
1)専業主婦になった選択は大正解だった
当時、ホワイト企業を辞めて専業主婦になった私を、周囲は「もったいない」と言った。
でも、あの「ふわふわの赤ちゃん」との時間に100%浸りきったからこそ、我が子が成人した今も、あの3年間は私にとって「母」としての私を確立させ、家族との絆も深まったように思う。
2)無知は最強
TOEIC380点からのスタート。
今思えば、自分の実力を知らなさすぎたからこそ、夢を見ることができた。「無知」は時に、最強のエンジンになる。
3)自己投資
自分への投資は、いつからでも、どんな低いスタートラインからでも「大逆転」の始まりになる。
さて、次回のお話は、
いよいよ通訳学校での地獄の受験勉強生活が始まります。
死ぬほど勉強しました。
死ななかったけど、
死ぬ思いで勉強しました。
私が人生で最も勉強したのは、
この34~36歳の2年間です。
もともとTOEIC 380点の私が、
通訳案内士国家試験にどうやって合格していったのか。
次回、お楽しみに!
※ちなみにこの通訳学校、
今は閉校してしまいました。

⇨⇨⇨次回【私の物語】
子育て主婦の国家試験受験生活を綴っています。
⇦⇦⇦前回の【私の物語】
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