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【短編連載小説】水槽①

    ※救いのない話です。疲れてる方はご注意を。 


     ある日の夕暮れ時、私は一人で森の中を駆けていました。季節は冬に近づき、辺りの木々の葉は色あせ、地面に大量の枯葉を散らしていました。頬を過ぎる風は冷たく、私は詰襟の上に着た外套の襟を手繰り寄せ、襟巻をきつく締め、学生帽を目深にかぶって走っていたのです。
     それというのも、今晩は大手製糸会社の会長が我が家にいらして晩餐を楽しまれるにもかかわらず、私は大学の図書館で外国の面白い小説を見つけ、読みふけるうちに時を忘れ、出迎えの時刻に遅れそうになっていたからでした。
     私の父は繰糸機の製造会社の社長を務めており、今日の会食次第では大口の受注が得られるかもしれないと期待に胸を膨らませていました。父、母と共に私も同席し、会長ご夫妻をおもてなしすることになっていたのです。
     私の家の裏手には広大な森林地帯が広がっていました。普段はその森を避けて遠回りして家の正門へ向かうのですが、幼い頃から森で遊びなれた私は森を突っ切って家の裏門に出る近道を知っていました。ですから、その道を通れば十分ご夫妻の出迎えに間に合わせることができるはずでした。
     ところが奇妙なことに、見慣れたいつもの道は見つかりません。走っても走っても同じ所をぐるぐる回っているようで、一向に裏門どころか森の出口も見当たらないまま辺りは闇に包まれていきました。もうとっくに会長ご夫妻はお着きになって、食事を始められているに違いない。私は晩餐に遅刻するという失態に恥じ入り、近くの木の幹に腰を下ろしてしばらく頭を抱えました。
     そんな時急に強い風が吹き、私は頬に当たる風の冷たさに驚いたのです。そして、風に舞い上げられた枯葉のかさかさという音の中に、気味の悪い鳥の声や獣の遠吠えが混じっているのに気が付きました。私は我に返りました。この状況下で一番心配すべきは我が身の安全でした。この夜の外気の冷たさの中で一晩過ごすのは厳しく、その上森の中には危険な猛獣がいるかもしれないのです。  
     私は焦って無我夢中で走りました。とにかく早く森を出たい一心でした。木々が開けて一本の道のようになっていたため、私は誘い込まれるようにその道をたどっていったのです。
     すると、一軒の小屋を見つけました。木造の古めかしい作りでした。これでとりあえず一晩は凍えず過ごすことができると安堵しました。恐らく木こりが仕事のために使っている小屋か何かなのでしょう。森の風鳴りがうめき声のように響く中、私は小屋に近づいてゆきました。

     戸を叩いて、
    「すみません。道に迷ったもので、今晩この小屋で暖を取らせていただきたいのですが」
    と尋ねても返事はありません。私は恐る恐る引き戸を開け、中を覗き込みました。何も見えません。闇と静寂が小屋の中を支配していました。
     私はおずおずと足を部屋の中に踏み出しました。しかし、そこには床がなかったのです。体勢を崩し、闇の中へと倒れ込んだ次の瞬間、激しい水音と共に私の身体は水中へと沈みました。
     驚きのあまり大量に息を吐き出してしまい、私は残り少ない酸素を体内に留めようと必死に息を止めました。
     一体何が起こっているのでしょう。
     どうしてこんな小屋の中に深い水が蓄えられているというのでしょう。
     そして、その水の冷たいこと。身体の芯まで凍りつくようです。
     私は両手をかいて水面に上がろうともがきました。しかし、もがけばもがくほど身体は下へ下へと沈んでゆきます。 
     苦しみの中、何とか呼吸を止めようと両手で鼻と口を覆いましたが限界でした。わずかな空気を一気に吐き出すと、鼻と口の中に水がどんどん入り込み、気道がみるみる塞がってゆきます。
     苦しい、なんとか水から這い上がって呼吸をしたい。その一心で必死に手をかいても、身体は底があるのかも知れぬ深い水の中へとゆっくり落ちてゆきます。

     苦しい。一体どうすればいい。誰か助けて—―――。

    次第に視界は薄れ、指先を空へと伸ばしたまま、私は意識を失いました。

                                                                                                                   (続く)

    次話: 【短編連載小説】水槽②

     
     
    凍頂桂花と申します。 翻訳家志望なのですが文の流れを読む力の弱さを痛感し、力を付けるために大学時代ぶりの小説を書き始めました。 感想等いただけましたら嬉しいです😊

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