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FALL-LINE : 4 / 第二章 左腕の種

    ミラはダイブ筐体の座面で、目を覚ました。

    リサの短い作業腕が、筐体の緊急切断口に差し込まれたまま止まっていた。前面の表示器には、四日ぶんの再接続失敗が積み上がっている。ミラが目を開けると、筐体に点滅していた警告表示が消えた。リサは頭部のレンズを彼女の左目へ向け、瞳孔の反応を確かめた。それから作業腕を抜いた。

    足元で、猫が短く鳴いた。ミラは手を伸ばし、名前を呼ぼうとした。だが、呼ぶべき名前が出てこなかった。そもそも、この猫に名前をつけたことがあったのか、それさえ思い出せなかった。猫は気にせず、差し出された指に額を押しつけた。

    青い扉の部屋。へたった革。首の付け根の端子の冷たさ。窓の外では相変わらず酸の雨が降り、看板のネオンが滲んでいる。何も変わっていなかった。何ひとつ。彼女は天井のしみを見上げ、自分が確かにここにいることを、いつもの三つの呼吸で確かめた。一つ目で現実を確かめ、二つ目で仮想を手放し、三つ目で──いつもなら、ここで何も起きない。だが今回は、三つ目の呼吸の途中で、左腕が疼いた。

    彼女は袖をまくった。皮膚に傷はない。注射の痕も、切開の線もない。だが内側に、何かがある。指で押すと、骨でも筋でもない小さく固いものが、皮下をわずかに滑った。ターラの遺跡で、あの光が置いていった種。それが仮想の身体ではなく、現実の腕の中に、物として存在していた。

    ミラはしばらく、その感触を指で確かめ続けた。仮想で負った傷が現実の皮膚に痕を残すのは、神経等価で説明がつく。脳がそう信じるからだ。だがこれは傷ではない。仮想空間で渡された物体が、現実の肉の中に移ってきている。説明する理屈を、彼女は持っていなかった。ラボの医療班に見せれば、たぶん腫瘍だと言うだろう。切れと言うだろう。だがこの種は、ターラで帰る方角を示し、閉じかけた継ぎ目の力を退けた。なぜあの光が自分に渡したのかは、まだわからない。それでも、自分を生きて帰したものを、わからないという理由だけで切り取ることはできなかった。怖くないわけではない。ミラは皮膚の下の硬さをもう一度指で確かめ、袖を戻した。正体がわかるまでは、切らないでおこう。

    端末が鳴った。セレンの父親からだった。表示面の〈映像未接続〉は前と同じだった。違っていたのは、声に加工がかかっていないことだった。

    「娘が目を覚ました。十日ぶりに」

    「どこにいる」

    「医療区画だ。私はベッドの脇にいる」

    声の向こうで、布の擦れる音がした。

    「意識は戻ったようだが、まだ何も話さない。私を見ると涙を流して、手を握ろうとする」

    深い接続から急に引き戻された者は、身体が意識を異物のように拒むことがある。最初に出るのは、嘔吐と痙攣だった。

    「水は」

    「少し飲んだ」

    「吐いたか。痙攣は」

    「どちらもない」

    「なら、ひとまず大丈夫だろう。無理に話させないほうがいい」

    しばらく返事はなかった。遠くで、少女が息を吸う小さな音がした。

    「あなたは、どうやってあの子を」

    「それは、本人が話せるようになってから聞いて」

    「話せるようになると思うか」

    「急がせなければ」

    また、短い沈黙があった。

    「そうか、ありがとう」

    そこで通信は切れた。直後、報酬の入金欄に数字が出た。ひと月分の家賃には少し届かない、端数のついた金額だった。ミラは催促の項目を開きかけ、閉じた。

    リサが作業腕を伸ばし、ミラの腕から電解補液チューブを外した。針を抜いた跡に消毒膜を貼り、前面の表示器へ〈休養推奨〉と出す。端末には、その夜の新しい依頼が一件届いていた。ミラは理由の欄を空けたまま、断る、を選んだ。二十年で初めてのことだった。

    猫が筐体へ飛び乗り、ミラの腿に前脚を置いた。ミラはその額を撫でた。呼ぶべき名前は、やはり出てこなかった。猫はそんなことを気にする様子もなく、喉を鳴らした。リサの表示器には、まだ〈休養推奨〉が残っていた。

    その夜、ミラはすぐには眠らなかった。

    ベッド脇の時計は、ガラス管の中に橙色の数字を浮かべていた。午前零時を少し回っている。ミラはしばらく天井を見ていた。それから、簡易ベッドの縁に手をかけ、ゆっくりと立ち上がった。

    ドアに掛けてあった黄色い耐酸ポンチョへ手を伸ばした。途中で手を止め、筐体の脇のリサを振り返った。

    「少しだけ」

    リサの表示器から〈休養推奨〉が消え、代わりに〈外出非推奨〉が出た。しばらくして、表示が一度だけ瞬き、〈濾過マスク〉に変わった。

    ミラは黄色い耐酸ポンチョを羽織った。袖口の折り目だけ、コーティングが剥がれ、酸で薄く白く抜けていた。鼻と口を覆う濾過マスクをつけて部屋を出た。非常階段を下まで降り、建物の出口でフードを深く引いた。

    酸の雨を避けて軒下を歩き、路地を二度曲がった。そこに、看板のない小さな店があった。入口の上には、紫色の殺菌灯が一本点いていた。看板代わりの目印は、それだけだった。ガラスは湯気で白く曇り、内側から古い換気扇の低い唸りが漏れていた。

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    客は少なかった。それでも店内は、煙と沸騰する湯の蒸気で白く濁っていた。外の雨とは違う湿り方だった。肺を削る酸ではなく、誰かが火を使い、湯を沸かし、失われたものの真似をしている匂いだった。

    奥の席に、若い客が三人いた。作り物の皺が入った色落ちデニム。その皺の位置だけが、膝の動きと合っていなかった。妙に新しいワークシャツ。ミリタリージャケット。ここも、アーカイブ趣味の若者が好む場所になってしまったらしい。

    古い生活も、古い服も、いまは若い連中の遊びになっている。二十年若ければ、ミラもセレンのような格好をしていたかもしれない。腹を立てる筋合いではなかった。ただ、自分がもうそちら側ではないことを思い出すと、少し疲れた。

    カウンターの角だけ、何十年も肘を置かれたように木目が鈍く光っていた。ミラは、端にあるいつもの席に座った。

    奥では、マスターが抽出機の金属ノズルを拭いていた。白髪に、長い白髭の痩せた男だった。客の顔より、器具の曇りをよく見ている。布を折り返し、ノズルの縁を一度磨き、角度を変えてもう一度磨く。その手つきだけが、店の中で妙に静かだった。

    店内にはいつも、ジョン、ポール、ジョージ、リンゴの声で、ミラの知らない歌が流れていた。同じ曲は二度とかからなかった。もちろん、彼らが残した曲ではない。合成知性が、その声と癖から、その場で作っているのだ。四人の死後に生成された曲は、すでに彼らが生前に残した曲の数をはるかに超えていた。いまでは、どれがオリジナルだったのかを聞き分けられる者も、ほとんどいない。だから誰も、それを偽物とは呼ばなかった。

    壁には、ダミーメニューの横に、本物の未開封〈ブッチャー・カバー〉が額装されていた。ミラはジャケットに並ぶ四人の顔を順に眺め、最後の一人のところで視線を止めた。

    リンゴ。

    家で待つ白黒の顔が浮かんだ。前に名前をつけたことがあったとしても、もう一度つければいい。

    「リンゴ」と、ミラは小さく声に出した。帰ったら、そう呼ぶことにしよう。

    頼めるものは、実際にはひとつしかなかった。ミラはいつもの〈ブレンドミックス〉を頼んだ。

    コーヒー豆は、この時代にはもうない。ミラが生まれる前に、最後の栽培区が病害で落ちた。いま出されるのは、合成された苦味とカフェインを湯で溶いた代替品にすぎない。それでもマスターは、一杯ごとに湯の温度を測り、抽出機を温め、出し終えたあと必ず金属のノズルを丁寧に拭いた。豆がまだあった頃の手順だけを、誰に頼まれるでもなく守っていた。

    ミラは密封パックを開けた。中身は、大昔にキューバ産葉巻を裁断したときに出た葉屑を、寄せ集めたビンテージものだった。タバコも葉巻も、もう作られていない。貴重品と呼ぶには貧しく、屑と呼ぶには高すぎた。葉屑は、琥珀色に曇った小さな樹脂ケースに入っていた。黒いアルミ蓋には保湿成分表が印刷されていたが、文字は掠れ、縁だけが何度も開け閉めされて塗装が剥げていた。

    彼女は葉屑を細長くまとめ、金属メッシュの燃焼筒へ詰めた。それを細いシリンダーに滑り込ませ、後端に吸い口を取りつける。反対側からのぞく葉の先へ火を入れた。最初の煙をゆっくり吐き出すと、薄い煙はすぐに湯気の中へほどけた。

    代替カフェインの苦味を一口飲む。〈バリーズ〉の煮詰まったコーヒーとは、似ても似つかない味だった。

    火が消えると、ミラは吸い口を外し、シリンダーから燃焼筒を抜いた。灰になった葉の束を皿へ落とし、新しい葉屑を詰めて元へ戻す。もう一度、先端へ火を入れた。

    カウンターの奥では、マスターがまたノズルを拭いていた。ミラは何度も繰り返されるその手つきを眺めながら煙を吐き、左腕の内側にある小さな固さを、袖の上からそっと押した。

    部屋へ戻ると、リンゴはダイブ筐体の座面で丸くなっていた。ミラが扉を閉めても、片耳を動かしただけで目を開けなかった。リサはその脇で低く駆動していた。中枢モジュールには、薄い培養パネルを幾層にも重ねた神経培養核が収められていた。補給用の栄養カートリッジは、日本の老舗アミノ酸企業の商標入りだった。滅菌フィルターとともに定期交換が必要な、面倒で古い型だった。ダイバーになった年、ミラは利き目を相棒端末へ預ける処置を受けた。彼女の場合、それは左目だった。左目の視神経は、リサの中枢と低い周期で同期している。右目で見たものは、ミラの記憶に残る。左目で見たものは、リサにも残った。映像ではなく、距離や迷い、怖さの反応として。リサの仕事は地味だった。ダイブ中のミラの生体反応を全部記録し、筐体の角度を微調整し、危ない波形が出ればすぐに帰還処置を準備する。それだけ。だがその「それだけ」を二十年休まず続けた機械は、ミラのどの息継ぎが集中の前触れで、どの肩の落とし方が怖がっている合図かを、本人より正確に知っていた。リサは左腕の種について、何も訊ねなかった。代わりに、淡々と、新しい監視項目を一つ自分のログに足した。〈左前腕・異物・要観察〉。それだけだった。ミラは、それでいい、と小さく頷いた。リサは余計なことを言わない。それが、彼女がリサを手放さなかった理由だった。


    その力に気づいたのは、三日後のまったく別のダイブでだった。

    ありふれた仕事だった。企業の試験区。売り出し前の、空っぽの仮想惑星。岩と、設定をしくじった低すぎる重力と、まだ描かれていない作りかけの地平線しかない。出来上がったものを、売り物になる前に歩いて検める。それが彼女の仕事だった。生き物も天候もない。ミラはいつものように黙々と歩き、地形を測り、報告用の数値を頭に並べていた。退屈で安全な、家賃のための仕事だった。そのはずだった。

    崖の縁で、彼女は足を滑らせた。設定ミスの重力が、その一歩を余計に深く引いた。

    落下が始まった。神経等価。胃が浮く。死にはしない。試験区にも命綱はある。だが骨は折れる。仮想で折れた骨は、現実の彼女を三週間、椅子から立てなくする。三週間分の家賃が、落ちていく速度で頭をよぎった。

    ミラはとっさに手を伸ばした。何もない空間へ。掴むもののない虚空へ。意味のない動きだ。落ちる人間が反射的にやる、何の役にも立たない動き。そのはずだった。

    そして、止まった。

    落下が、止まったのだ。正確には、落下そのものが消えたのではなかった。彼女を引いていた重力の手が、伸ばした掌に押されて、ほんの一瞬だけ彼女から手を引いた──そんな止まり方だった。世界はミラを退かせたのではなく、ミラのほうが世界に向かって、落ちる動きを「退いてくれ」と頼んだ。頼みは聞き入れられた。彼女の身体は岩肌の二メートル上で、宙に浮いていた。伸ばした手の先で、世界そのものが低く軋んでいる。ダイブ世界の物理法則──誰かが書いたはずの規則が──ミラの手の届く範囲だけでいっとき、拒まれていた。彼女自身の意思によって。新しく何かを作ったのでも、書き換えたのでもない。ただ、自分を落とそうとする力だけを退けた。

    ミラはゆっくりと、岩の上へ降りた。膝が震えていた。恐怖ではない。恐怖なら、夜の獣で味わったばかりだ。これは別の何かだった。彼女は両手を目の前にかざし、長いこと見ていた。火傷の痕のある、見慣れた自分の手。その手が、世界の動きをひとつ、退けた。退けた、というのが、いちばん正確だった。動かしたのではない。退いてもらった。

    「……いまのは何だ」と、彼女は誰もいない試験区で呟いた。左腕の種が、答えるように、かすかに疼いた。返事のように。

    そのあと、頭の奥に奇妙な鈍さだけが残った。痛みではない。疲労でもない。何かを考えようとすると、輪郭だけが少し遅れてついてくる。理由はわからなかった。ミラはダイブを切って椅子に戻り、その夜、いつもより一時間早く眠った。

    翌朝、ミラは、ターラから戻った直後に猫を呼べなかったことを思い出した。あの夜、リンゴと名づけた。だが失われたのは猫の名前ではない。以前に名前をつけたかどうか、それさえ思い出せなかった。二度とも、何かを退けたあとだった。


    彼女はその力を注意深く試し始めた。独りで、誰にも知られない場所で、少しずつ。

    最初に確かめたのは、何ができないか、のほうだった。

    ミラは試験区の岩に、手をかざして「動け」と命じた。岩は動かなかった。何度やっても、何ひとつ起きなかった。次に岩のすぐ脇の砂に手をかざし、「ここに、新しい石をひとつ作れ」と頼んだ。やはり、何も起きなかった。試しに地面の石ころをひとつ拾い上げ、空中で離し、それから「落ちるな」と頼んでみた。石は宙にとどまった。ふたたび「落ちろ」と命じても、今度は落ちなかった。動きを退けてしまったあとは、その動きはもう、退いたままだった。ミラが「やっぱり落ちてくれ」と頼み直しても、聞き入れられなかった。退けたものは、後から取り消せない。それが、最初にわかったことだった。

    ミラはダイブ世界の中で、岩を地面に押さえる重さを退けた。岩は浮いた。流れる水の、流れるという動きを退けた。水は鏡のように止まった。崩れかけた足場の、崩れるという動きを退けた。足場はしばらく止まったままになった。最初のうちは、ひと掬いの砂を退けるだけで、こめかみの奥が鈍く痛んだ。だが痛みは情報だ。彼女はその痛みの読み方もすぐに覚えた。繰り返すうちに、両手で抱えるほどの岩を地面が引き戻す動きから、まるごと退かせられるようになった。回数を数えるのをやめた頃には、頭痛が消えていた。

    頭痛が消えたとき、ミラは喜ばなかった。喜ぶ代わりに、注意深くなった。頭痛が情報だったなら、頭痛が消えたあとは、別の場所が、情報を出さないまま黙って減っているはずだった。彼女は試した。記憶のいくつかの隅を、わざと点検した。子供の頃に住んだ街の名前。最初に死んだ同業者の顔。火傷の痕がついた日の天気。──いくつかが、ぼんやりとしか戻ってこなかった。覚えていたはずのものが、輪郭だけになっていた。失われたものは、消えているのではなく、どこかへ流れているのかもしれない。ミラは試すのを、いったんやめた。

    その夜、ダイブから戻ったミラは、ノートに自分の手で五行だけ書いた。後にも先にも、彼女が能力について紙に書いたのは、その一度だけだった。

    1. この種は「退ける」ことしかできない。動かす・作る・書き換える・殺す、はできない。

    2. 退けた力と同じ重さの何かを、代償として自分の中から失う。

    3. 代償は物質ではない。皮膚、視力、記憶、時間、帰り道。失われる場所は、私のほうでは選べない。

    4. 種の脈は世界の継ぎ目と同じ拍を打つ。継ぎ目から遠い場所ほど、退ける力は弱い。

    5. 一度退けたものを後から退けなかったことには、できない。

    書き終えると、ノートを閉じ、寝台の下の引き出しにしまった。

    椅子の脇で、リサが低く駆動していた。小さなレンズは、ノートの文字ではなく、ミラの指先を見ていた。ログに残したのは、書いているあいだの心拍と、指の震えだけだった。

    翌日、ふたたび試験区へ降りたとき、彼女は目の前に広がる谷を畳みたい誘惑に駆られた。向こう岸までの距離を、退け、と頼めば、たぶん退いた。だが退いたあとに何が失われるかは、頼んでみるまでわからない。彼女は、まだ自分の何が残っているのか、把握しきれていない人間が、見栄で大きな取引をしてはいけないということを、二十年の仕事で覚えていた。だから、谷は、谷のままで置いておいた。大きすぎるものを退けるのは、退かさないと誰かが死ぬ動きだけ。そう自分に決めた。

    その力は、確実に彼女を変えていった。仕事のうえでは、それは恵みのように見えた。

    受ける依頼の質が変わった。これまで業界で死地と呼ばれ、誰も近づかなかった深度から、ミラは平然と歩いて戻ってくるようになった。生還率ゼロと札を貼られた崩壊区から、迷い込んで動けなくなったダイバーを、立て続けに二人連れ帰った。三人目は、別の街から来た中年の女だった。四人目は、まだ十二の少年だった。少年は救出されたあと、ミラの顔を見上げても、礼は言わなかった。代わりに、こう訊いた。

    「あなた、人間?」

    ミラは答えなかった。少年の母親が泣きながら少年を抱き上げ、何度も礼を言った。ミラはその礼を、うまく受け取れなかった。礼を言われるたびに、少年の問いのほうが、胸の奥で大きくなっていった。


    その夜、ミラは雨の音のする部屋で眠れずにいた。

    窓を流れる水の筋を見ていた。ネオンの滲みを見ていた。左腕の種を、指の腹で、ゆっくり押していた。

    問いが頭の中で、ひとつからふたつ、ふたつから無数へと増殖していった。この力は、本当に自分のものなのか。自分が鍛え、自分が手に入れたものなのか。それとも、ただ外から置かれただけのものを、自分は身につけたと勘違いしているだけなのか。種が勝手に芽吹いただけのことを、自分の手柄と呼んで、救った人間の数を数えているだけではないのか。

    もっと嫌な問いもそこにあった。ターラから戻ってきた自分は本当に、ターラへ降りていった自分と同じ人間なのか。ダイブの帰り道で、自分の中の何かが、知らないうちに入れ替わっていないと、いったい誰が保証してくれるのか。記憶は、貼っても剝がれる。書き換えられる。消される。彼女が長年、壁に何ひとつ貼らずに生きてきた本当の理由を、このとき初めて、はっきりと言葉にできた。怖かったのだ。貼ったものが自分の過去だと、信じられなくなる日が来るのが。

    ミラは目を閉じた。まぶたの裏に、ターラの生きた雨が降ってきた。緑の匂い。崩れた壁の、爪で削ったような線。そして、現実と仮想の継ぎ目で揺らいでいた、あの輪郭。言葉のない理解。光が空中に作った「歩け」の形。

    あの一度きりの、言葉を介さない通じ合いだけが、奇妙なことに、彼女のいちばん確かな足場として、胸の底に残っていた。力よりも確かだった。記憶よりも、名前よりも確かだった。あのとき自分は、正しく理解されたわけではなかった。言葉も通じていなかった。ただ、あの光は、ミラが何を恐れ、何を守ろうとしているのかを、必死にたどろうとしていた。わかってもらえたのではない。わかろうとしてもらえた。その手触りだけは、書き換えようのないものとして、そこにあった。それだけは、本物だと言い切れた。

    そのとき、机の端に置いたコップがかすかに鳴った。ミラが目を開けると、コップの水面が揺れていた。縁を越えた水が側面を伝い、透明な水滴がひとつガラスの外側に残っていた。机の上にも少しだけ水がこぼれている。椅子の脇でリサのレンズが静かに動いた。何も表示しなかった。リンゴが机へ飛び乗り、鼻先を近づけた。それから、こぼれた水を少し舐めた。

    ミラは決めた。まず、この世界そのものが何なのかを知ろう。ダイブの中だけではない。戻ってくる先の現実も含めて。自分が何者かを問う前に、自分がいま立っている床が、そもそも何でできているのかを確かめる。順番を逆にすると、足を踏み外す。それは、彼女がこの仕事で学んだいちばん古い掟だった。床を知らずに跳ぶ者は、必ず落ちる。

    彼女は身を起こし、椅子の脇で静かに待つリサのレンズへ目を向けた。

    「ターラの座標を出して」

    リサの表示面に、古い座標が呼び出された。リサは何も訊ねなかった。ミラはその数字をしばらく見ていた。

    今度は、誰かを捜索するためではなかった。自分が立っている床の下に何があるのかを、確かめるためだった。

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