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君待ちの星霜 第2話

    水谷アス

    前の話はこちらから。


    結婚


    11


    夏の終わりに友情を再開したものの、なんだかんだもうみんな社会人。
    子どもの頃みたいに毎日のように一緒に遊ぶことはない。

    毎日仕事して、疲れて帰って、休日はぐったり。
    ましてや俺は土日休みとは限らないから余計に、きっかけがないと会うこともなかった。

    最後に会った日から1ヶ月以上開けた10月10日、智やんの誕生日。
    肉が大好きな智やんは、中学生ぐらいの頃から『誕生日は毎年焼肉』と決めていた。

    『なんせ、じゅうじゅうの日だからな。肉の申し子なんだよ、俺は』
    妙に得意げに、智やんはよく言っていた。

    学生の頃は家族と焼肉パーティをしていたようだが、社会人になって一人暮らしを始めてからは毎年何となく俺と幸一3人で一緒に焼肉を食べに行くようになった。

    約束しているわけでもないのに、毎年この日は、当たり前に3人共焼肉のために予定を空けている。

    『今年もじゅうじゅうする?』

    10月に入った頃、幸一からメッセージが届く。

    じゅうじゅうする?って。
    幸一はたまにそういう可愛いところがある。

    『もちろん、休み取ってる』

    『いつもありがとな。俺も空けてあるよ』

    そうやって今年も当たり前に、焼肉に行くことが決まった。

    『今年は、佳帆も誘う?』

    智やんが言う。

    そういえば佳帆が何の仕事をしているのか、よく知らなかった。
    突然誘って突然来れるかはわからないけど声はかけてみようという話になった。

    『じゃ、俺から連絡しとくよ』

    そう、メッセージを送ると、俺は佳帆の連絡先を開いてメッセージを送る。

    『10月10日、智やんの誕生日に焼肉行くんだ。
    予定なかったら一緒にどう?』

    ちょうど、スマホを開いていたところだったのかすぐに既読がついて返事が来た。

    『じゅうじゅうの日だ!懐かしい!
    さすが智やん、お祝い焼肉変わってないんだ』

    佳帆はちゃんと覚えていた。
    まぁ、智やんは毎年、肉!って騒いでいたからな。

    連続してもうひとつ、メッセージが届く。

    『でも、残念。
    その日、合コンに誘われちゃった』

    その一文を読んで、背中に何かさぁっと冷たいものが走った。
    …婚活か。

    楽しくないって言ってたのに。
    結婚したいと思ってないって言ってたのに。

    佳帆はどうして婚活なんてするんだろう。

    楽しくない婚活して、無理に結婚する必要なんてある?

    そもそも結婚って、何のためにすんの?

    頭の中がざわざわした。

    「結婚って…そんなに必要なのか…?」

    佳帆へのメッセージに何を返信していいかもわからず、部屋でぽつりと俺は呟いた。


    12


    「優太ー!ごはんだよ!」

    母さんの声。実家ぐらしは食事の心配が要らないのでとても助かる。
    俺はあまり料理が得意じゃない。

    慌てて身体を起こし、スマホをベッドの上に放り投げると俺は居間に向かった。

    食卓に座った俺を見て、母さんが、思い出したように言う。

    「そうそう!今日、駅前のスーパーでね、優太が高校のときちょこっと付き合ってた…あの、バレー部だった子。ミカちゃんだっけ。見かけたのよー。

    子ども連れてねぇ、すっかりお母さんしてたわ。
    結婚したのねぇ。

    母さんは優太がリエちゃん連れてきたとき、いよいよ結婚かなって思ってたんだけど…。いい子だったけどねぇ…

    ね、あんたもさ、そろそろいい年だし…」

    母さんが話す言葉が耳に入ってくる度に、口に入れた食べ物の味がしなくなる。

    やめてくれよ。
    なんである程度の歳になったらみんな結婚しないといけないんだよ。

    結婚したら偉いのかよ。
    子ども育てたら偉いのかよ。
    独り身でいるのはダメなことなのかよ。

    佳帆のLINEを見てざわついた胸がさらにざわついて、ついに口が食べ物を拒んだ。

    「ごちそうさま」

    少し乱暴に箸を置くと、席を立った。

    「ほとんど食べてないじゃない」

    母さんがそう言うのを無視して、2階の部屋に上がる。

    智やんが一人暮らしを始めたのも、こういう干渉がめんどくさくなったからだと言ってたな。

    「俺も、そろそろ一人暮らししようかな…」

    部屋に戻ってスマホを手に取った俺は、佳帆に返信することもなく”かんたん自炊入門”という本を注文したのだった。


    迷い


    13


    10月10日。
    智やんがちょっと仕事の都合で遅くなって開始は21時を過ぎた。

    何となく、あの日からずっと胸のモヤモヤが抜けない。

    「佳帆、今日は合コンかぁ。
    いつも上手くいかないってぼやいてたっけ。

    もう1次会は終わってるよな?
    今回は上手く行ったか、冷やかしてやろ」

    智やんが肉を箸先でひっくり返しながら、いたずらっぽく笑ってスマホでなにやらメッセージを送った。

    しばらくすると智やんのスマホに返信が来た。

    「…へぇ」

    智やんは画面を見て、ニヤッと笑った。

    「佳帆、デート誘われたってよ」

    それを聞いた幸一が面白そうに言う。

    「へー、一歩前進じゃん。頑張ったなぁ」

    楽しそうにしている二人と違って、俺は全然それを面白いと思えなかった。

    楽しくない婚活して、無理して知らない男と話して。
    それで、デートに誘われて、付き合って、結婚出来たとして。

    佳帆は、それで嬉しいのだろうか。

    また、食べ物の味が消えていく。
    モヤモヤしたものがどんどん膨らんでいく気がした。

    「佳帆は、楽しくないって言ってたのに、何で婚活してんだろ。

    結婚なんて…別にしなきゃいけないもんじゃないのに」

    幸一と智やんは、思わぬ反応だったのか、キョトンとした顔で俺を見た。

    「結婚に何を求めるかによるだろうなぁ。
    俺は恋愛とか結婚に興味ないからわからんけど。

    佳帆が、将来寂しいからとか、親や周りへの体裁を求めて結婚したいと思ってるなら、楽しくない合コン行って、ちょっと気が合った相手と無難に結婚する形もありなんじゃないの。

    …ま、俺は面倒くさいからずっと独りでいいけど」

    肉をひっくり返しながら、智やんは冷静に言う。

    それを聞いた幸一は、肉を食べる手を止めてタバコをふかした。

    「俺は…結婚は、自分が本当にしたいと思った相手とするもんだと思ってる。
    今はまだ、合コンでたまたまちょっと気があった男かもしれんけど。
    ちゃんと、佳帆が一緒にいて楽しいと思えるような男だといいけどな。
    流されないことを祈るよ」

    タバコを挟んだ幸一の左手の薬指で、指輪が光る。

    「俺は、今の彼女と真剣にずっと付き合っていきたいと思ってて…
    来年籍入れて、式も挙げる。
    招待状送るから、出てくれよ。友人代表で」

    結婚。
    ここ数日で、どれだけこの言葉について俺は考えただろう。

    幸一が結婚して、家庭を持つ。
    今の関係は、きっと変わっていくだろう。
    10月10日、焼肉で当たり前に集まる事も無くなるかもしれない。

    智やんもそれを思ったようだった。

    「…そっか。おめでとう。
    こうやってバカな話できる時間…減りそうだな」

    佳帆がもし、今日出会った男と付き合って、結婚するなら。

    友達としてまた繋がっても、結局、気軽に会える関係では無くなるんだろうと思った。

    結婚は、本人たちだけでなく周りとの関係も大きく変えてしまう。

    目の前の肉がいつしか誰にも触れられなくなって、消し炭のように黒焦げになっていく。
    俺は何も言えずにそれをぼんやり見つめることしか出来なかった。


    14


    「冴木くん、今彼女いないんでしょー。
    うちの孫娘に会ってみない?」

    職場の利用者、田中さんの車いすを押している時のことだった。
    ふとした会話の流れでそんな言葉をかけられた。
    俺のことをとても良く思っていてくれている人で、どこかへ行くときも”冴木くんがいい”と指名してくれる。

    「それで孫娘と冴木くんが結婚したら、私は冴木くんのおばあちゃんになれるじゃない?そうなったら幸せだわぁ」

    ニコニコと微笑んだ田中さんには申し訳ないけど、今の俺に『結婚』が絡んだ話題は鬼門だ。

    どいつもこいつも、何でそんな、結婚、結婚って…。

    「ね、冴木くん」

    「…そうすね」

    イライラして、いつもは軽いノリでかわせる会話がその日はずっと冷たくなった。車いすを押す手に余計な力が入って、少し荒々しくなった。
    田中さんが少し戸惑っていたことには気付いていたけど、自分でもどうしていいかわからなかった。

    統括責任者である越井さんが、後から俺に声をかけてきた。

    「冴木くん、今日は何かあった?」

    「え…」

    「いつもと様子が違ったから。
    田中さんといる時はいつもふたりで楽しそうにしてるのに、今日はあからさまに不機嫌だったよ。田中さんは”きっとわたしが怒らせてしまったのよ”って笑ってたけど、あまりいいことではないね」

    顔が紅潮するのが自分でもわかった。
    端から見てわかるほど、相手に気を遣わせてしまうほど、自分の不機嫌さを誰かにぶつけてしまった事が恥ずかしい。

    「いや…別に、ちょっと、色々あって…

    …イライラしてました。
    八つ当たりです。すいません」

    恥ずかしくて、越井さんの顔が見られない。

    「うん。謝るのは、僕にではないよね」

    叱責するわけでもなく、穏やかに言うその声に、余計恥ずかしさが増す。
    その様子を見て、越井さんは続けた。

    「田中さん、甘いものが食べたいってぼやいてたからさ。
    お詫びにさ、ちょっとコンビニで3つ、冴木くんのお金で好きなもの選んできてよ。
    そんで、田中さんに持っていって」

    「…っえ?あ、はい」

    田中さん、甘いもの好きとはいえ3つも食べるだろうか。

    越井さんが何をさせたいのか、俺にはよくわからなかった。
    コンビニまで行くとスイーツコーナーに向かい、売り場から3つスイーツを見繕うと、それを買って田中さんの部屋に行った。

    「すいません、田中さん。
    今日、俺、ちょっと余裕なくて…。
    感じ悪くしちゃったお詫びに、これ…食べてください」

    田中さんは3つのスイーツを見て、目を丸くして言った。

    「やだわ、越井さんね?ちょっとぼやいただけなのに…もう…」

    ”やだわ”と言いながらも田中さんは3つのスイーツを嬉しそうに眺めた。

    「わたし、3つも食べられないから、1つだけもらうわね。
    冴木くんはプリン好きでしょ。
    …ね、今、こっそり、一緒に食べない?

    あと1つは、この機会を作ってくれたお礼に、越井さんに」

    まるでデートで一緒にスイーツを選んで楽しそうにシェアするカップルのように、俺と田中さんは部屋で一時のスイーツタイムを過ごした。
    80歳の田中さんは、どらやきを頬張って女子高生みたいにはしゃいでいた。

    「…田中さんは…結婚してますよね。
    何で結婚したんですか?」

    カップルのような空気に流されたからだろうか。
    何となく、聞いてみたくなった。
    突然で、不躾だったかもしれない。

    「えー?私の時代は、結婚して子どもを産むのが女の仕事みたいな時代だったからねぇ…。お見合いよ、お見合い。
    でも付き合ってるうちにだんだん好きになってね、結婚する頃には、もー、ラブラブだったのよぅ」

    頬を赤らめて田中さんは旦那さんとのノロケ話を始めた。
    それはとても幸せそうで、何歳になっても、乙女は乙女なんだな、と思った。

    お見合い。
    今で言う、婚活だよな。

    ぱ、と佳帆の顔が浮かんだ。
    こないだ智やんとのやり取りでデートに行くって言ってたな。

    合コンで出会っても、付き合ってるうちにだんだん好きになって…
    結婚…することも、あるんだろうな。

    話の区切りが良くなったところで、俺は笑顔を作って頷くとプリンを一気に口にかっこんで立ち上がった。

    「…仕事、戻りますね。
    素敵なお話、聞かせてくれてありがとうございました」

    「冴木くん」

    立ち去ろうとした俺に、田中さんが穏やかに声を掛けた。

    「今の時代は、私の頃とは違うから。
    私がさっき言ったことはほんの冗談だからね。

    本当に好きだと思った人と結婚するのが一番いいのよ」

    越井さんといい、田中さんと言い、なんでこう、胸の内を見透かすような事をしてくるんだろう。何だか無性に恥ずかしい。

    「いえ、今日は…
    ほんと、俺が、たまたまイライラしちゃってただけで」

    田中さんの顔を見ないようにして、俺は部屋から出た。

    残ったひとつのスイーツを持って越井さんの元へ行く。

    「越井さん。これ、田中さんが、越井さんにって」

    「やっぱりね。
    冴木くん、ごちそうさま」

    越井さんは得意げに笑った。
    すごいな、この人は全部お見通しで俺に3つスイーツを頼んだんだ…。
    俺は全然意味もわからなかったのに。

    「でも、あの、俺…
    こういう展開になると思わずに選んじゃいました、すいません」

    「何が?」

    「残ったの、おはぎです」

    「…」

    越井さんはあんこのおやつが嫌いだった。
    そこまでは見通せなかったようだ。

    「ちなみに、他には何を買っていったの?」

    「どらやきと、プリンです」

    「うん。田中さんの好み、冴木くんはよくわかってるね。
    こういうのってさ。
    選択肢を作って選んでもらうのが1番なんだよ。

    ひとつしかないと…
    嫌だったとしても…それしか選べないでしょ」

    嫌いなあんこがたっぷりまぶされたおはぎを恨めしそうに眺めて苦笑いすると、越井さんはそれをロッカーのカバンに入れた。

    「嫁さんへのお土産にするよ」

    「…越井さんの奥さんは、きっと幸せですね」

    「え?おはぎのお土産があるだけで?
    冴木くんそんなにおはぎ好きだっけ。
    あ!もしかして狙ってる?」

    「いえ、そういう意味ではないです」

    「じゃあどういう意味?」

    「越井さんみたいないい男と結婚出来たからですよ」

    突然おだてられて、越井さんは怪訝な顔をした。

    「…冴木くん、ほんと、なんかあった?」

    「いえ、何もないッス」

    頭の上にはてなマークが出ている越井さんを残して、俺はまた仕事に戻った。

    とっさにすぐ”奥さんへのお土産”という言葉が出るほどに、越井さんの中に奥さんの存在がある。
    …結婚って、きっとそういうものなんだろう。



    電話


    15


    夜20時。仕事が終わった帰り道、俺はぼんやりと歩いていた。

    最近ずっと『結婚』というフレーズに振り回される事が増えた。
    年齢的に、この言葉を無視出来なくなってきていることを痛感する。

    智やんは多分このまま独り身でいるだろう。
    けど、それは昔からそうするという強い意志があるから出来ることだ。
    俺自身は智やんほど独りで平気と構える余裕はないかもしれない。
    だからといって、無理して結婚相手を探す気もさほどない。

    そうやってのほほんとしている間に、身近な人は結婚して、少しずつ離れていってしまう。漠然とした不安が胸にこみ上げてくる。

    楽しくないし、結婚したいわけでもないけど婚活をする…
    佳帆の気持ちが少しだけわかった気がした。

    友達は結婚することでどこか遠くへ行ってしまう。そんな気がする。
    実際男友達で、今まで結婚した奴は自然と疎遠になっている。

    ―――俺は…結婚は、自分が本当に好きだと思った相手とするもんだと思ってる―――

    ―――本当に好きだと思った人と結婚するのが一番いいのよ―――

    幸一と田中さんの言葉を、ふと思い出す。
    同じようなこと言うよな。

    そんな事言ったって…本当に好きな人なんて、欲しいと思ったから出来るものでもないじゃんか。

    「…寂しい、な。」

    友達が結婚するなら、それを祝福出来る男でありたかった。
    結局俺は自分が寂しいということを一番最初に考えてしまっている。
    それがひどく自分で惨めだ。

    …そうか、ここ数日のイライラは、寂しさからだったんだ。
    寂しさで周りに八つ当たりするとか、子どもかよ…。

    自分の大人気なさに気付いて恥ずかしくなった。

    「…とはいえ!みんなまだ結婚してないわけだし」

    数日間胸の奥にあった自分のモヤ付いた気持ちの正体に気付いて、どこかスッキリし、思わず大きめの独り言が出た。

    幸一が独り身でいるうちに、佳帆が独り身でいるうちに。
    とりあえず今の友達どうしの関係を楽しんでおこう。
    うじうじしてたって仕方がない。
    俺は元々、根っこは結構ポジティブなのだ。

    家に帰り、スマホ片手にベッドに寝転がる。
    デートがいつかわからないけど、佳帆がそれで相手と付き合い始めるならその時点でもう遊びには誘えないだろうな。

    とりあえず佳帆に電話して、様子を探って…
    大丈夫そうだったら遊びに誘ってみるか。

    そんな軽い気持ちで、ダイヤルをタップした。

    その電話が、ようやく落ち着いた自分の気持をまた大きく揺さぶるなんて考えもせずに。


    16


    スマホのスピーカーからコール音が聞こえる間、どう会話を切り出すか、考えていた。

    ”合コン相手とデートするんだって?
    もうデートしたの?付き合うの?”

    なんかどこぞのおばちゃんみたいだな。

    ただシンプルに、遊びに誘えばいい。
    付き合うことになってたら多分断ってくるだろう。

    ぐるぐると考えていたらコール音が切れた。
    とりあえず普通に話そう。

    自然に――

    『…もしもし』

    「あ、もしもし、佳帆ぉ?今、電話大丈夫?」

    俺は努めて自然に、明るい声を出した。

    『…うん…だいじょ…ぶ』

    佳帆の声が震えている。

    『あれ…?あ、ごめん…
    ちょっと…待って…』

    絞り出すような佳帆の声。
    ベッドに寝転がっていた俺は思わず身体を起こしもう一度言った。

    「佳帆…?
    今、大丈夫…?」

    『…わ、わかんな…
    何でだろ、急に、なみだ…っく』

    …泣いている。全然、大丈夫じゃない。

    「ちょ、どうしたの。何があったんだよ」

    『きっ、今日ね、前に合コンした人とっ、デートだったんだ…
    あ!あのね、何されたとかじゃ、全然ないから。
    だいじょうぶだから。

    ただ…
    嫌なことがあっても…食べたいものがあっても…
    観たい映画も、慣れないヒールが痛いことも…

    言いたいこと…っ、何も言えなくて…
    だって、言ったらきっと、嫌われ…っ』

    途切れ途切れに喋る声の間に、嗚咽と鼻を啜る音が交じる。

    心臓がばくばくした。

    何に対してなのかわからないけど、新しいモヤモヤしたものが胸の奥で生まれたことがわかった。

    『すごくいい人だから、絶対付き合ったほうがいいって…
    会社の人が”大当たりだよ”って。

    だから、付き合いたいって思ってもらわなきゃ、って。
    ずっと、誤魔化して笑ってた。
    そしたら、相手の人、すごく私のこと…気に入ってくれて…

    それで…帰したくない、って…
    冗談っぽく言われたとき、怖くなって。

    …そ、そう、言ってもらうためにっ…
    頑張ってたはず、なんだよ…

    でも…突然逃げちゃった…

    ねぇ、私、何がしたいんだろ…?
    嘘ついて誤魔化して、笑って。

    望んだ結果になったのに、なんで逃げちゃったんだろ…
    もう…きっと嫌われちゃったよ…
    わかんない…もう、自分がどうしたいのか、わかんな…っ』

    最後の方の声はもう、絞り出すような声だった。
    聞いていて苦しくなった。

    何か言おうと思ったが、咄嗟にどう声をかけていいか思いつかなかった。
    一瞬の沈黙のあと、佳帆がまた喋りだした。

    『…っあ!

    ご、ごめん…!
    優太から電話してきたのに、わたしが話しちゃ…っぅぅ』

    「いいよ」

    「話して楽になるなら、聞く」

    『ごめんね…

    …ごめん………』

    そう言ったあと、佳帆は黙り込んだ。
    しゃくりあげる声と、グスグスという音だけが聞こえる。

    嫌なことを嫌って言えずに、食べたいものを食べたいって言えずに、観たい映画を見たいって言えずに、足が痛いことも言えずに、何で笑うんだよ。
    ウソの自分を好きになってもらったら、ずっとウソをついてないといけないじゃないか。

    無理したくないんじゃなかったのかよ。
    流されたくないんじゃなかったのかよ。

    どうして、そんな、辛い思いしてまで、誰かと付き合おうとするんだよ。


    無理してまで婚活続ける必要なんかないだろ?

    電話の向こうのすすり泣きの音を聞きながらたくさんの「なんで」「どうして」が浮かんだ。
    頭の中でそれが溢れてついに口に出しそうになったそのとき、越井さんが言っていた言葉が不意に頭をよぎった。


    ”ひとつしかないと…
    嫌だったとしても…それしか選べないでしょ”

    俺は、思わず言葉を飲み込んだ。
    下唇を強めに噛んで、鼻から深く息を吸う。

    今の佳帆には、他の選択肢が無いのかもしれない。
    佳帆は”いつか結婚するしかない”のだと、思いこんでいる。
    それを選ぶために、自分が我慢するしかないと思っている。

    でも、結婚することが絶対なんかじゃないはずだ。

    それは佳帆に言いたいことでもあり…
    俺自身に言い聞かせたいことでも、ある。


    「……佳帆」

    「遊びに行こっか」

    重い沈黙を破るにはあまりに呑気な言葉だったことはわかっていた。

    『…へっえ?』

    予想外の俺の言葉に、思わず佳帆から変な声が漏れる。
    そりゃそうだろうなと思う。
    俺も、何言ってんだよと思っている。

    「幸一がさ、来年結婚するらしいんだよ。
    そしたら多分、今よりもっと会える時間とか遊べる時間とか、きっと減ると思うんだ。

    佳帆、俺たちと遊ぶときは、無理しなくていいから楽しいって言ってたろ?

    ヒールの靴なんてはかなくていいよ、スニーカーでいい。
    食べたい物食べていいし、バカな話していいよ。
    観たい映画あるなら観に行こうよ。

    俺たちには今更、ウソとか誤魔化しとかしても、仕方ないんだから。
    気楽に遊べばいいよ。

    きっとそういう「友達同士」の楽しい時間ってさ…
    俺たち、年齢的にこれからどんどん当たり前じゃなくなっていくと思う。

    だから当たり前でいられるうちに遊んでおきたいと思って、今日は電話したんだ。みんなでパーっと遊んでさ…嫌な気持ちふっ飛ばそ」

    重い空気を少しでも軽くするつもりで、俺は出来る限りの明るい声で話した。佳帆はしばらく黙っていて、まずいことを言ってしまったかとハラハラした。

    でも、鼻をすする音はいつしか止んでいた。

    『…優太…ありがと。

    いいねぇ…全部一緒に笑い飛ばしてよ』

    佳帆が少し明るい声になっていて、思わずホッとした。

    いつなら遊べるだろう、と俺は壁にかけたカレンダーのシフトを確認して祝日で休みの日を提案してみる。

    「…11月3日、空いてる?」

    『…えっと、うん、大丈夫』

    その場で何を確認するわけでなくすぐに返事が貰えた。
    多分祝日休みの職種なんだな。
    幸一と智やんも休みが不定期なので4人揃うかはわからないけど…。

    「じゃあ、俺、幸一と智やんにも空いてるか確認してみるよ。
    大丈夫でも大丈夫じゃなくても、後から連絡するから」

    『わかった。楽しみにしてるね』

    電話を切る前の佳帆の声はすっかり落ち着いていた。
    良かった。泣いていたときは、どうしようかと思った。

    電話を切ったあと幸一と智やんにも連絡したら、アッサリ大丈夫だという返事が返ってきた。3人で休日が合うことはあまりないのでこんなにサクサク決まる事は珍しい。

    佳帆に「2人とも来れるってさ」とメッセージを送ったあと、ひと仕事した気持ちになって俺はベッドに倒れ込んだ。

    「…上手くいかなくて良かった」

    天井を見上げながら俺はぽつりとつぶやいた。

    やっぱり俺は友達の幸せを祈れない。
    自分で自分に呆れてしまう。

    「…図体ばっかデカくて…小せえ男だな、俺」

    スマホを持った片手で顔を覆っていたら、佳帆から「たのしみ!」という文字がうさぎと一緒に踊っているスタンプが返ってきた。

    それを見たらなんだかホッとして、俺は思わず笑ってしまった。


    11月3日


    17


    駅の近くの静かな公園で俺は随分長いことひとりで立っている。

    待ち合わせの時間は11時半だというのに、11時前に待ち合わせの場所についてしまったのだ。
    まぁ、待つことは昔から苦手じゃない。

    汗ばむ季節も過ぎて、頬に触れる秋風はそこそこ冷たい。

    「…早く来すぎたなぁ」

    ダウンベストのポケットに冷えた片手を入れる。
    スマホを見ると2件通知が来ていた。

    ”今日中に片さないとヤバい仕事が入って行けない!ごめん”

    ”式場との打ち合わせ今日だったわ、忘れてた。悪い”

    スマホを見ながら俺は思わず眉をしかめる。

    「えー…二人揃ってドタキャンとか…」

    気分屋の幸一は結構おなじみなのだが、スケジュール管理が完璧な智やんのドタキャンは珍しい。
    腹いせに俺は微妙なキャラのスタンプを返した。

    「……ふたりきり、じゃん」

    男の人と一緒にいると緊張するとか言っていたけど、大丈夫だろうか。
    ましてやつい最近、泣きながら電話してしまった相手である。さすがに佳帆的にも二人きりは気まずくないだろうか。

    ああ、なんで二人してキャンセルするんだ。
    二人きりなんて想定してなかった。俺が気まずい。
    急に心臓がバクバクしてきた。どういう顔して待ってればいい?

    ”傷ついた友達 慰める”
    ”泣いた相手 話し方”

    ぐるぐる考えてたくさんのネット記事を読みふけった。
    頭はまとまらない。

    随分と待っている気がして、腕時計を見る。12時だ。
    …待ち合わせ時間、伝え間違えたかな?
    送信したメッセージを確認する。
    特に間違えてない。

    もう一度腕時計を見る。特に狂っていない。

    時計から視線を外したとき、前方からこちらに向かって走ってくる佳帆が見えた。

    …ああ、そういえば、佳帆は昔からあまり待ち合わせに時間通り来たことはなかったな、と苦笑いがこぼれた。

    それにしたって30分は遅れすぎだろ。
    遅れるなら遅れるで連絡ぐらい…

    「お、おくれて、ごめん………
    あのね…言い訳、していい…?」

    息を切らせながらこちらが承諾するのも待たずに佳帆は続きを話し始める。
    こういうとこ、変わってない。

    「バス、乗り違えて…
    ぼんやり乗ってたから、しばらく、気づかなくて…
    気付いたら…全然、違うとこ、行っちゃって。

    戻ろうと、思ったんだけど…
    戻る、バスに…乗るバス停、うまく探せなくて…」

    肩で息をしながら、呼吸の合間合間に喋る佳帆を見ていたら、何を話そうとか、どういう顔をしてようかとか、緊張しながら待っていたあの時間がすっかりバカバカしくなっていた。

    上半身を膝に当てた手で支えるような体制で、少しずつ呼吸を整えながら佳帆は話し続ける。

    「…もう、考えるの嫌になって。
    本町から、走ってきた!

    …すごいでしょ!?」

    そしてしまいには、このドヤ顔。
    額の汗がキラキラ光って笑顔を爽やかに見せる。
    いやいやいやいや、オマエは遅刻してきたんだろ!?

    思わずふはっ、と息が漏れた。
    佳帆も息を切らしながら笑った。

    「…何はともあれ…おまたせ」

    「昔からあったよね、遅刻癖…
    治らないもんだね」

    「はー、ちゃんと早く、家は出たんだよぉ…」

    ようやく少し落ち着いてきた佳帆に、二人のキャンセルを告げる。ふたりとも忙しいんだね、仕方ない!とアッサリ言う佳帆に拍子抜けした。
    案外なんともないもんなのかな。

    「なんか、デートみたいになっちゃったけど…。
    俺と二人きりで大丈夫かな?」

    念を押すように一応言ってみたら、佳帆は、いかにもそんなこと全く考えてもいなかった…という顔をした。

    「大丈夫、大丈夫、優太だし」

    佳帆は俺の肩をぽんぽん、と叩くと笑った。
    優太だし、か。別にいいんだけど、何か複雑。

    18


    「はーーー。めっちゃ走ったからお腹すいちゃったよ」

    「昼、まだ食べてないよね?モクドでも行く?」

    「行きたい行きたい!
    今、限定月見出てるよね、食べたーい」

    あっさりランチが決まり、駅前のモクドに入った。
    子どもみたいにほっぺにソースを付けてハンバーガーを頬張っている佳帆にぼんやり見入る。なんか…美味そうに食うなぁ。

    「…食べないの?」と聞かれて、俺は慌ててコーラを手に取った。

    「こないだのデートさ、何かおっしゃれーなカフェに行ったんだよ。
    美味しそうって思ったケーキがあったから頼もうと思ったら”俺のおすすめはこれだよ”なんて言われてさー。
    そんなこと言われたら、それを無視して自分の食べたいケーキなんて食べられないじゃん?」

    さっき、俺が勧めた月見プラスは頼まなかった気がするけど。
    普通の月見より、プラスは肉が多くてさ…ソースもスペシャルで…

    そんな言葉を返そうか考えてる間に「私には、こういうお店で好きなもの食べるのが合ってるな、うん」なんて、佳帆は勝手に自己完結した。
    何やら満足げだからいいことにする。

    「そしてね!映画なんだけど!
    ゼブリ観たいって言ったら”アニメかぁ”ってちょっとバカにしたような口調で言われたんだよぉおおおお」

    喋りたかった言葉がきっと溜まっていたんだろう、俺が何も言っていないのにずっと一人で喋っている。一方的に話を聞いているうちに、コーラは気づけば空になっていた。

    あの日相手に、素直にその感情を返せればよかったんだろう。
    佳帆はすべて腹に押し込めてしまった。
    食べたいケーキも観たい映画も上手に伝えられず、最後に決壊するまで相手に合わせてずっと笑っていた。

    あの日電話で聞いた声を思い出して、胸が痛んだ。

    「だからね!!」

    少しぼんやりしていたところ、佳帆の大きな声で現実に引き戻される。

    「今日はゼブリが観たいんだ!!いいかな!?」

    佳帆は先日のデートの失敗や後悔を全て取り返すつもりのようだ。
    まぁ、今日遊ぶのはそういう意味もあったんだし、とことん付き合ってやろうと思う。

    「…いいよ。
    ゼブリといえばさー。やっぱり俺は『空の風』が一番好きだな」

    「え!!!!優太何言ってんの!!
    ゼブリは『犬の配達員』一択でしょうが!!!」

    ゼブリ名作『空の風』は、空の上にある国を目指す男女の物語。
    二人が空の国に向かって風に乗って飛び立つシーンは鳥肌ものだ。

    犬の配達員は…とにかく犬が可愛い。

    …でも、それだけだ、と俺は思う。

    「佳帆…空の風のロマンがわかんないの…?」

    「だって、可愛いは正義だよ!!!
    特に!犬のマールがさ、おばあちゃんにお弁当を配達するとこ!

    いい匂いに耐えながら、よだれ垂らして配達するじゃん?

    よだれまみれのお弁当…想像すると、ちょっと、ウッ、ってなるけど。
    でも、マールが可愛いから…もし私がおばあちゃんでも許せる…」

    佳帆は握りこぶしを作って、犬のマールの可愛さについて熱弁を奮う。
    その一生懸命さが、作中のマールみたいでどこか健気だった。

    「うーん。でも、俺は空の風のほうが好き。
    何度観てもドキドキする」

    「もーー!優太はぜんっぜんわかってないな」

    「でもさぁ、今回の新作は、可愛いのじゃなさそうだよ。
    可愛いが正義なら、今回のは佳帆好きじゃないんじゃないの」

    「いいの、ゼブリ作品なら今のとこ全部好きだから。
    予告編もみたけど、絶対いいと思ってるんだ」

    「えー?さっき犬の配達員一択って言ったじゃん。
    なんだ、空の風も好きなの?」

    「…ん?うん、好きだよ」


    ”好きだよ”


    ふわっと笑って、まっすぐ俺の目を見て言われたその言葉。
    不意に胸の奥がぎゅうっとした。

    え、なんだよ。なんで。
    俺は慌ててスマホに目をやって、映画情報を検索した。

    「次の上映は…2時10分からだね」

    「ちょっと時間あるね。じゃ、食べ終わったら少し本屋行っていい?
    …あれー?優太、全然食べてないじゃん!
    コーラばっか飲んでー。子どもみたい」

    相変わらずほっぺにソースを付けたまま、佳帆は二カッと笑った。
    …子どもみたいなのは、どっちだよ。

    俺は空になったコップを置くと、手つかずだった月見プラスを大口あけて頬張った。
    通常版と違うスペシャルソースのはずなのに…
    何故か、今日の月見プラスは味気なく感じた。

    雨のち晴れ


    19


    本屋で長いことお互いが好きな本の話をしていたら思った以上に盛り上がった。慌てて劇場に向かい、開場直前、二人並んで座席に座る。


    ゼブリの新作『雨国の姫』は、涙を流すことで国に雨を降らせる『雨の巫女』と呼ばれる姫の話だ。ある時から巫女はぱたりと涙を流せなくなる。
    国が干ばつに襲われ、国の人々は何とか色んな手で巫女に涙を流させようとする。
    でも、巫女はなかなか涙を流さない。

    干ばつにより豊かさを失っていく国。
    だが、最後に、巫女はついに涙を流す。『国に雨が降るとき、劇場にも涙の雨が降る』なんて、そんなキャッチコピーがついていた。


    映画は、すごく、良かった。

    ふと横目で佳帆を見た。頬が濡れている。

    見てはいけないものを見てしまった気がして目を逸らした。
    なんだかそこから、上手く映像が頭に入ってこなかった。

    上映が全て終わり、劇場が明るくなっていく。佳帆は鼻をずずっとすすりながら、カバンからティッシュを出して涙と鼻を拭いた。

    「…いやー…泣けた…
    やっぱゼブリに外れは無いな…」

    満足そうな表情を浮かべて佳帆は笑う。
    「そんなに泣いたら、雨が降っちゃうよ」と返したら「何言ってんの」と冷めた目で見られた。…キャッチコピーを知らないのだろうか。

    劇場から外に出たら、道路に水たまりが出来ていた。

    「え!ほんとに雨降ってるし!
    予報、雨だったっけ?
    やだ、傘持ってきてないよ…あ、もう、降ってないっぽい?
    通り雨かな、晴れてて良かった」

    地面と空をせわしなく見ながら佳帆は笑った。
    今日の佳帆は、ずっと笑っている。今日は、言いたいことも言えているんだろうし、きっと、この間のデートみたいにしんどい気持ちを抱え込んではいないだろう。

    でも、今日が終わったらまた、佳帆は婚活をするのだろう。
    そしてまた楽しくない場で笑って、ウソで固めた自分で取り繕って、したくもない結婚のために頑張り続けるのだ。

    「…佳帆の心は、晴れた?
    今日は結構笑えてたから、大丈夫かな」

    何故か上手く佳帆の顔が見れなくて、俺は暮れていく空を見ながら佳帆に声をかけた。明るいトーンの声で「うん、ありがと。すっかり楽になったよ」と佳帆は返す。きっと、笑っている。
    俺は視線を合わせられないまま「そりゃ、何より」と小さく呟いた。

    俺となら、佳帆はずっとこうやって笑っていられるんじゃないだろうか。無理しないと、頑張らないと一緒にいられない相手をわざわざ探すぐらいなら、一緒にいて楽しい相手といる方が佳帆にとっていいはずだ。

    取り繕う事が泣くほど苦しいなら婚活なんてやめてしまえばいい。
    苦しい思いをしてまで、そんなことやる必要なんてないだろ?

    俺と一緒にいることで笑えるなら…


    「…なぁ佳帆。

    つらい思いして、婚活頑張るぐらいなら、さ。」


    こんな言葉、言うつもりなんてなかった。
    何でか、ごく自然に。

    言葉が口からこぼれてしまったんだ。


    「俺と…付き合おうよ」


    20


    自分で自分の発言に驚いた。俺は何を言っているんだろう。


    さっきまで笑っていた佳帆の顔から、笑顔が消えていた。

    「え…。なんで…。」

    絞り出すような声だった。
    自分でするつもりもなかった突然の告白に、俺自身が戸惑っていた。
    でも”なんで”に何も返さないわけにもいかなかった。

    「や…あんな電話…もらったら…
    ほっとけないでしょ…」

    佳帆の顔に、頑張って貼り付けたような歪んだ笑みが浮かぶ。

    「やだ…

    やめてよ…

    婚活頑張るぐらいなら、俺と付き合おうなんて…

    結婚前提みたいな言い方だし…」

    楽しく遊んで、嫌な記憶を笑い飛ばす予定だった。
    確かに数分前までは…間違いなく今日はそんな日だった。

    俺…どうして…。

    佳帆が独り言のように言う。

    「結婚で誓う愛ってさ、案外、脆いんだよ。
    私の周り…離婚してる人も結構いるし。

    結婚する時はお互いのこと、大好きになって結婚するはずなのに、それが壊れたあとに想い出ごと全部大嫌いに変わった話、たくさん聞いた。

    ノロケ話として聞いてた話が忘れたいものになったって話、たくさん聞いた。

    好きって言ってた相手に、嫌悪感しか感じなくなってるような人、たくさん見た。

    好きの上に、嫌いが…上書き保存されちゃうんだって。

    私、優太のこと嫌いになんてなりたくない。
    友達なら、そういう別れ方ってそんなにないでしょ。

    …だから、私、優太とは…友達がいい」


    なら、なんで婚活なんてしてるんだよ、と思った。
    佳帆の言葉はたくさんの矛盾を孕んでいる。

    好きになってもいない相手を嫌いになることまで考えて好きになろうとしていることも、結婚する前に離婚を想定していることも、そんな気持ちを持って婚活していることも、全部おかしい。別れることを前提にしたいから友達のままがいいなんて、そんな理屈もおかしい。
    腹の底にモヤモヤした感情が湧き上がってくる。

    思わずこぼれおちるような告白をした後、そしてそれを拒まれた後から、思考がうまく定まらない。
    普段なら感情的な言葉を発することなんてないのに、俺は思わず声を荒らげてしまった。

    「…っじゃあ…佳帆は、上書き保存しても平気な想い出しか作れない相手と、結婚したいってこと?
    嫌いになっても大丈夫なように保険をかけながら相手を好きになるなんておかしいよ。

    そんな恋、したって苦しいだけだろ?
    佳帆は何のために婚活してんの?
    いつか嫌いになっていいと思えるような結婚に、一体何を求めてんだよ」

    佳帆はうつむいたまま、一歩後ろに身を引いた。
    しまった、言い過ぎた。…だめだ、俺、なんだか変だ。
    そう思っても、もう後の祭りだった。

    「なんのためかなんて、自分でもわかってないんだよ。
    周りがどんどん結婚して…親も、友達も、まだ結婚しないの、って。
    そうやって言われてたら、結婚しないとダメな人間みたいな…そんな気持ちになるんだよ。

    婚活はね、結婚しようとしてない女だって思われたくないから。
    それだけの理由だよ。
    頑張ってるフリをして、周りに責められないようにしてるだけ。
    本当は、結婚なんて全然したいと思ってない。

    わたし…智やんの家でさ。
    『男とか女とか、そういうの抜きで』また友達として仲良くしたいって言ったよね?

    恋とか、付き合うとか…そういうこと意識したら…もう友達として仲良く出来ないよ。

    気楽な友達同士でいられなくなるなら…やっぱりあのとき…友達としてまた仲良くしようなんて言わなきゃ良かった。

    ……もう…私…

    ずっと、独りでいい」

    弱々しく話していた佳帆が、最後の「独りでいい」の言葉だけは、強く言った。それだけ、強く思ったんだろう。
    そして、そのまま俺に背を向けて駆け出した。

    「…っ、佳帆…」

    俺は、追いかけようと思ったけど、追いかけられなかった。
    だって、追いかけて一体何を言う…?

    佳帆が俺たちと恋愛関係になることを望んでないことなんて、嫌ってほどわかっていたはずだった。
    俺は、そんな、友達でいたいと望んでいた相手との関係を、わざわざぶち壊すようなことをした。しかも恋愛が上手く出来ずに傷ついている、そのタイミングで。

    「…何やってんだよ………俺」


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    思いの丈を文章と漫画で書き殴る人。 音声配信もやってます。 ほとんどの記事をメンバーシップ向け記事に変えていく予定です。 ASD当事者。 アマゾンアソシエイト・プログラム参加してます。

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