メインコンテンツへスキップ
見出し画像
Photo byyakkuru1019

「未来とは何か!?」時間を考えるシリーズ・パートIII最終回💫💫💫


    自分とは時間!
    時間とは自己!!
    ハイデガーは凄いところに辿り着いたのである。

    ヌーソロジーを始めたぼくは自分とは空間、空間とは自分。との空間認識に衝撃を受けたのであるが、それをも上回る衝撃!
    それはつまり全ては自分。全てはワタシというところに繋がってくる。

    しかし、そこでは終わらなかったのがドゥルーズでありヌーソロジーである。
    〈全てはワタシ〉をぶっ壊して先に進んだところに生成の場・生成の時間があるという。



    画像


    前回までの復習💫
    持続、円環する時間。


    画像
    持続空間で起こる対化の等化、その中和作用にて
    現在は現出してくる!
    ドゥルーズはその運動を差異と反復、所与として表した。


    現出してくる現在は一枚一枚のフィルムのように噴き出してくる。それを貫いて〈ワタシ〉として認識させているもの。名を持ち生まれてきて暮らしていると認識させているもの、それがヌーソロジーにおいて持続・奥行きと呼ばれるものだ。


    画像
    前回復習
    持続から出てくる瞬間がぼくらが現在と認識しているところ。瞬間はすぐに記憶として持続に戻っていく。
    3次元の横に流れる時間は未来は思考の中、
    過去は経験された記憶として
    脳にあると考えられている。


    奥へと向かう矢印はドゥルーズが純粋過去とよんだ世界である。


    (純粋過去は持続と同じ意味だが、より存在論的な意味合いをはっきりさせるためだそうである。な、ナンノコッチャ😬💦🤯)



    画像


    奥に向かっていく矢印。この持続世界で記憶は延々と積み重なっていく。カタチ、精神として奥へと行く方向へ積み重なっていくのだ。

    では、未来は何処にあるか?

    思考やイメージの中しかないのか。円環時間の中ではまだ思考によって予期されるものでしかない未来。しかし、未来がやってくる以上、どこかからか生まれてくるのだ。

    ドゥルーズは考えた。考えに考えた。それが哲学者というものの本分だ。精神分析家フェリックス・ガタリとコンビを組んで記憶と精神、さらに生まれてくる前の世界、死んだあとの世界。そして考え尽くした先に降りてきたインスピレーション。

    そして彼は現在(瞬間)をぶち破り、円環する時間を超えて生成の時間へと辿り着いた。


    ドゥルーズの考えた時間
    第一の受動的綜合(現在) 時間の土台
    第二の受動的綜合(過去) 時間の根拠
    第三の受動的綜合(未来) 時間の脱根拠化
    現在を土台にして円環する持続、純粋過去、時間の根拠、さらに円環時間を壊して顕になった《狂った時間》彼は第三の受動的綜合を狂った時間と呼んだのだ。


    生成の時間=未来!?


    3次元的感覚では〈現在〉にいると未来は思考の中にしかないとなるが、ドゥルーズが辿り着いた未来は高次の精神的宇宙。
    そこで行われる宇宙の生成活動における物質と精神の誕生の場所をぼくは未来(純粋未来と呼ぶ)だと思う。
    純粋過去(持続)と現在の隙間。奥行きの一本道。
    「間」(ドゥルーズは中間休止と呼んだが日本語では間、古神道の中今と表現される)。
    ぼくらという存在は高次で生み出されてくる。そこがドゥルーズの言う中間休止、日本語の「間」だ。
    そこで生み出されたものは凝縮化してぼくら人間の活動領域にやって来る。ぼくらの活動領域自体を生み出してくる。そう、未来はやって来るのだ。


    画像




    まるで折口信夫の言った〈マレビト〉である。


    この論文に限りませんが、折口の描いたマレビト信仰は、次のようなものです。
    ――海の彼方(後には山中)の常世の国から、初春や収穫期に異形の姿をしたマレビト(来訪神、力のある霊)が村にやって来て、祝言を与え、饗応を受ける。あるいは、土地の精霊との約束を切り替えに来る。マレビトの性質を祖霊と限定することはできない。

    https://note.com/morfo/n/nd650307fd3d8


    「まれびとのおとづれ」
    祖先の使ひ遺した語で、私どもの胸にもまだある感触を失はないのは「まれびと」といふ語である。「まらうど」と言ふ形をとつて後、昔の韻を失うて了うた事と思はれる。まれびとの最初の意義は、神であつたらしい。時を定めて来り臨む神である。大空から、海のあなたから、或村に限つて、富みと齢と其他若干の幸福とを齎して来るものと、村人たちの信じてゐた神の事なのである。

    https://ihatov.cc/blog/archives/2010/11/post_725.htm



    此まれびとなる神たちは、私どもの祖先の、海岸を逐うて移つた時代から持ち越して、後には天上から来臨すると考へ、更に地上のある地域からも来る事と思ふ様に変つて来た。古い形では、海のあなたの国から初春毎に渡り来て、村の家々に一年中の心躍る様な予言カネゴトを与へて去つた。此まれびとの属性が次第に向上しては、天上の至上神を生み出す事になり、従つてまれびとの国を、高天原に考へる様になつたのだと思ふ。而も一方まれびとの内容が分岐して、海からし、高天原からする者でなくても、地上に属する神たちをも含める様になつて、来り臨むまれびとの数は殖え、度数は頻繁になつた様である。私の話はまれびとと「常世トコヨの国」との関係を説かねばならなくなつた。

    https://ihatov.cc/blog/archives/2010/11/post_725.htm


    生成と凝縮化


    ぼくらの感覚ではわかりづらいが、無意識の世界、潜象世界に近づいていくほど物質は微分化していく。細かく微細になっていく。それは肉体も意識も同じだ。
    そして向こう側の世界、微分化した世界の方がマクロなのだ。
    こちらがミクロであちらがマクロ。
    さらには精神はメビウスの輪のように捻れている。いやそれがメビウスの輪なのだ。その捻じれの括目で等化が起きた時、生成が起こる。その反映として未来はぼくらのところにやって来る。マレビトは自己として他者として、その表裏一体と化したモノとしてぼくらのところにやって来る。


    ぼくら自体が未来からやって来る。ぼくら自体が時間として生まれてくる。ぼくらは時間の中にいるのではなくて

    時間として生きているのだ。

    ぼくらはいろんなもので出来ている。
    時間、言語、感性、精神、それらは高次元における自己と他者、超越論的自己と超越論他者の交わりで生まれてくる。言葉を変えれば神と神、霊と霊の交わり、宇宙的なまぐわいである。
    そしてそこから凝縮化されて生まれてきたぼくら人間としての〈意識領域、身体、物質的領域〉(ヌーソロジーでは元止揚と呼ぶ)はまた螺旋を描いて高次へと還っていく。また、螺旋を描いて別の場所へと還っていくのだ。
    そしてドゥルーズはそれを「永遠回帰」と呼んだのである。



    画像



    ぼくの考える「時間」
    現時点での最終イメージ。


    画像
    いつものように自己側を考えたら
    他者側も考えてみるの図。


    縦にすると



    画像
    自己と他者のメビウス時間💫∞💫
    純粋過去と純粋未来も捻れているのか!?
    進化とは純粋過去に向かうことなのか!?
    凝縮化とは純粋未来未来からやってくることなのか!?
    存在論的自己と他者の間には
    13000年の時差があるという・・・
    マニア向けな話をすると
    自己Ψ5の後ろには他者Ψ*11の時間
    他者Ψ*5の後ろには自己Ψ11の時間が
    流れてるってことかな~💫💫💫💫💫
    さらにマニアックな話をすると
    Ψ*11の後ろにはΩ5Ψ11の後ろにはΩ*5が
    ってことに・・・
    あ、ここはスルーしてください〜😆💦💦💦


    ぼくらは他者の過去を生きていて
    他者はぼくらの未来を生きているのか!?😳😳😳


    56億7000万年後にやって来ると云われる弥勒菩薩、56億7,000万という数字は3次元的感覚の時間表現。弥勒菩薩がやって来るのも生成の「間」の世界からであろう。そこはぼくらの時間感覚では測れないトキトコロなのだ。もしかすると既に弥勒世は噴き出して来てるのかもしれないのだ。


    純粋未来とは、物の到来とともにやってくる。西田の言葉で言うところの「物来たりて、われを照らす」——そのような"物"の到来である。そして、それは、純粋過去の向こうにある世界でもある。そのような純粋未来の存在があるからこそ、時は流れるのだ。


    純粋未来とは、物の到来とともにやってくる。西田の言葉で言うところの「物来たりて、われを照らす」——そのような"物"の到来である。そして、それは、純粋過去の向こうにある世界でもある。そのような純粋未来の存在があるからこそ、時は流れるのだ。

    — 半田広宣 (@kohsen) March 21, 2024



    ふぅ💦ふぅ💦ふぅ💦
    ヌーソロジーサロンにおける「時間」の学びを記事にさせてもらいました。インプットしたてのアウトプット😆🙏💫いつもに増してわかりにくかったのではないでしょうか〜😬💦💦💦

    🌟幅的平面画面の現在〈3次元〉
    🌟それを包む円環する持続時間、純粋記憶〈4次元〉モノ(空:くう)の中。 
    🌟さらにそれを包括し生成する高次の精神的宇宙、魂の霊の交わりの世界〈5次元〉
    モノの中(空:くう)から出て更に先へ行ったところ。
    🌟そして、交わりからモノが生成されてくるさらなる高次元。ここをぼくは《未来》と書きましたがドゥルーズ、それを研究した後に続いた哲学者達もはっきりとしないところのようです。

    自分が生きている宇宙が自己と他者のメビウスの輪だということともに時間というものも多少なりともイメージ出来てきましたが、さらに理解を深めていきたいと思います💫💫💫


    空間認識の反転
    時間認識の反転


    まだまだ学ぶべき事、やるべき事は多いようです。


    時間や自分という存在、そしてこの世界、宇宙を考えることはいと楽しき!


    西洋哲学シリーズこれにて終了。
    こんがらかった頭に甘く切ない恋の結末を
    お口直しにどうぞ♪♪

    AYAさん宜しくお願いいたします✨
    (ぼくの記事と違ってサクッと読めます)

    始まらなかった恋は決して終わることのない恋なのか!?死と記憶にまつわる恋物語〜!!







    第一話から読みたい方はこちらから✨



    追記

    ぼたん師匠🐦のお言葉🐦


    画像

    新たな時間概念の獲得は新しい自己認識の獲得!


    過去現在未来の横軸で生きるか
    円環する持続で生きるのか
    生成の時間まで意識・純粋思考を拡げていくかはぼくら次第!


    「時は金なり」から
    「時は吾なり」への
    変換を!!



    最終イメージはコメダシロノワールとともに!🤤


    画像
    まさに円環持続(デニッシュ)を突き抜ける
    直交奥行き(ソフトクリーム)!!


    以上です!💫💫💫💫💫💫💫💫💫💫💫💫💫


    ナマステ✨🐉🐉🐉🐉✨






    参考💫💫💫


    ベルクソンの持続をドゥルーズは純粋過去と呼び変え存在論な性格を浮き彫りにした。

    1.純粋過去は現在と同時だということ。
    2.純粋過去自体は過ぎ去らないし、到来もしない。
    3.純粋過去は"存在した"ものではなく、存続し、存在するものである。
    4.純粋過去は、過ぎ去る現在に先立って前存している。

    — 半田広宣 (@kohsen) October 6, 2021



    1.純粋過去は現在と同時だということ。
    記憶される内容は確かに過去だが、無時間としての記憶の場自体は常に現在に寄り添っているということ。人間の外面(持続)がなければ、人間の内面(時空)もないということ。

    — 半田広宣 (@kohsen) October 7, 2021


    ⚫︎他者は未来からやってくる

    SU(2)を主観空間とみなした場合、過去の場所はそれなりに見当がつくのだが、未来はどのように見ればいいのだろうか。… pic.twitter.com/QfJeHaVrtf

    — 半田広宣 (@kohsen) December 15, 2023


    ヌーソロジーでも、純粋未来はSU(2)×SU(2)の構成によってやってくると考えますから、そうなりますね。

    — 半田広宣 (@kohsen) March 25, 2024



    ドゥルーズの時間論とヌーソロジーの時間論の対比は、今のところ、次のような感じになるのではないかと考えています。

    ・第一の時間の総合(現在)………感性的時間
    ・第二の時間の総合(過去)………思形的時間
    これら二つで時間構造は円環化する。…

    — 半田広宣 (@kohsen) March 21, 2024



    この中にはどこにもない領域こそがドゥルーズが「蝶番の外れた時間」である「狂った時間の形式」と呼んでいた「純粋未来」ではないかと。

    — Φ=WHY? (@whyanywhere) March 23, 2024




    画像
    ヌーソロジーサロンより
     
     
    神奈川出身、沖縄移住6年の後、鹿児島大隅半島にて生息。 ヌーソロジー研究中! 《ものの中》へ行ってみたいと思いつつ、ヌーソロジー的な《他者》との関係性を実感に落としたい🌟∞🌟 勿論、noteを書いているのはTERUTERUという自我です。どうぞ宜しく💫

    あなたへのおすすめ