メインコンテンツへスキップ
見出し画像

第六話 半袖で富士山より高い山に登った話

    Nevado de Tolucaと品のいい猫

    トルーカという町に、三年ほど住んでいたことがある。

    当時、私は陶芸を中心とした芸術を教えるセンターで、アシスタントのようなことをしながら生計を立てていた。

    そこに、Wさんという五十代の日本人女性の先生がいた。

    ロマンスグレーの髪。
    大きな目。
    話す内容は、ときどき少しスピっている。

    全体として、まるで品のいい猫のような方だった。

    ある休日、そのW先生から連絡が来た。

    「知り合いの日本人芸術家が家に泊まりに来ているから、遊びに来ませんか?」

    ということだった。

    行ってみると、なかなか濃いメンバーがいた。

    一人は、自然石を粉にして絵画に使っている四十代くらいの男性。仮にAさんとする。

    もう一人は、絵画制作や美術館の展示員などをされている、同じく四十代くらいの男性。Bさんとする。

    さらに、メキシコシティーで引きこもりながら絵を描いている五十代くらいのCさん。

    そこに、貧乏な三十歳の彫刻家だった私が加わった。

    かなり偏った日本人会である。

    Wさんは言った。

    「これからNevado de Tolucaに行きましょう」

    Nevado de Toluca(ネバド・デ・トルーカ)は、トルーカ近郊にある山である。

    画像
    ネバド・デ・トルーカ遠景(ウィキペディアより抜粋)

    友人の三人は、「はあ」という感じだった。
    一方、私は乗り気だった。

    貧乏で、なおかつ暇を持て余していたからである。

    それに、私はWさんに時々食べ物を恵んでもらっていた。
    つまり、ちゃっかり餌付けされていたのである。

    とりあえず、Wさんのセダンに乗り込み、出発した。

    Wさんはテンション高めだった。

    「帰りにどこかでケサディージャでも食べましょうよ。山だから、きっと売店とかあるんじゃない?」

    今思うと、この時点で少しおかしい。

    標高の高い山に、半袖で、売店目的で向かっている。

    Nevado de Tolucaは、当時、開山したばかりだった。
    ところどころに、まだ雪が残っていた。

    Wさんも初めて来るらしく、入口から車で登れるところまで行ってみよう、ということになった。

    はじめは緑が茂った、美しい景色だった。

    しかし車で登っていくにつれて、景色が変わっていった。

    木が低くなり、少なくなり、やがて草木がほとんど見えなくなった。

    最終的には、黒っぽくざらざらした石だけが、ごろごろ転がっているような場所になった。

    妙に静かだった。

    途中で何度か車を降りた。

    Aさんが、使えそうな石がないか値踏みしていた。

    「使えますか?」

    と聞くと、Aさんは石を見ながら言った。

    「見た目は黒っぽいけど、この程度だと顔料にしてもちゃんと色が出ないですね。」

    なるほど。

    石にも、使える石と使えない石があるらしい。

    そうこうしているうちに、車で行ける最終地点にたどり着いた。

    そこには、小さな無人の小屋があるだけだった。

    そして、寒い。

    すごく寒い。

    そこで、たまたま日本人の集団に遭遇した。

    五十代、六十代くらいの方々で、トレッキングクラブとして世界の山を制覇して回っているそうだった。

    当然、装備が違う。

    トレッキングシューズ。
    リュック。
    長袖シャツ。
    帽子。
    杖。
    防寒具。

    完全に「山に来た人たち」だった。

    一方、こちらは、私を含めて全員、半袖にスニーカーである。

    なんか、間違ってないか。

    トレッキングクラブの方々は、戸惑った顔を隠しきれていなかった。

    どうやら、ここからさらに三十分ほど登ると、山頂付近の湖に着くらしい。

    Wさんは、半袖のブラウスに薄手のショールを羽織っていた。

    それでもテンション高めに言った。

    「せっかくだから行きましょうよ。」

    私は迷わず参加した。

    こういう場面では、限界まで試してみないと気が済まない。

    AさんとBさんも、渋々参加した。
    Cさんは、車で休憩すると言って動かなかった。

    今思えば、Cさんが一番正しかった。

    そこから砂利道を歩いて登っていった。

    しかし、すぐにおかしいことに気づいた。

    あれ。

    なんか、息が苦しい。

    疲れているのかなと思ったが、他のメンバーも同じ状態だった。

    十メートル歩いて、三分休憩する。

    そんな感じでしか進めない。

    そこで、ようやくわかった。

    これ、空気が薄いんだ。

    「遭難」という言葉が、少し頭をよぎった。

    降りようにも、もうだいぶ進んでいる。

    寒い。
    息が苦しい。
    耳がキーンとなるほど静か。

    Wさんのショールが、急にものすごく上等な装備に見えてきた。

    トレッキングクラブの方々の困惑した顔が、頭をよぎる。

    ああ、だからか。

    ここは、半袖と運動靴で来る場所ではない。

    それでも、少しずつ登った。

    そして、やっとのことで湖に着いた。

    湖は、さらに山に囲まれた場所にあった。
    火山口にできた水たまりのようでもあり、異世界の入口のようでもあった。

    水は驚くほど澄んでいた。

    そして、魚がいた。

    こんな標高の高い場所に、魚がいる。

    私は寒さに震えながら、その景色を見ていた。

    日本にいたら、こんな風景は見られない。

    そう思うと、確かに感動した。

    画像
    当時、ここまで雪はなかった。

    ただし、感動していても寒いものは寒い。

    しばらくして、私たちは来た道を戻り始めた。

    後で調べたところ、Nevado de Tolucaの標高は4680メートルだった。

    富士山よりも、九百メートルほど高い。

    だからか。

    だから、あんなに空気が薄かったのか。

    ちなみに、そんな場所に売店などなかった。

    帰りにケサディージャを食べることもなく、最終的にWさんの家で、Wさんの手料理を食べて終わった。

    標高4680メートルまで半袖で行き、売店もなく、ケサディージャもなく、最後は品のいい猫に餌をもらう。

    トルーカ時代の休日は、ときどきそういう方向に転がった。

    あなたへのおすすめ