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声を聴く宿 第三話 透明な器

あらすじ

水瀬は、白石から占いコーナーを任されることになり、喜びと同時に「認められたい」という不安を抱えたまま、新月の夜に宿を訪れる。そこへ、ガラス工芸の会社を営む倉橋が現れる。彼はホテルとの商談を前に、職人の作った美しいグラスが広告用にだけ使われ、実際には安価な品で済まされることに苛立っていた。だが主人との対話の中で、倉橋は本物を守りたい思いの奥に、「価値を認めさせたい」という自分の欲が混じっていたことに気づいていく。夜、倉橋と水瀬は藍色の布の向こうへ導かれ、倉橋の魂に刻まれたガラス工房の記憶を見る。そこで彼は、美しさを売ることではなく、受け取ったものを曇らせずに渡すことこそが本当の商いだと知る。朝、水瀬もまた、自分の手が少し開いていることに気づく。



一 新月の夜

いつの頃からか、私は新月の夜を気にするようになっていた。

月が見えない夜。

空のどこにも白い輪郭がなく、ただ暗さだけが静かに降りてくる夜。

最初は、それが新月だからだとは思っていなかった。ただ、あの宿では、そういう夜に限って、空気の奥行きが少し変わる気がした。

廊下の明かりも、庭の石も、湯呑みに残ったお茶の色までも、昼間より深く沈んで見える。

休みが取れる新月の夜には、私はできるだけ、あの宿へ足を向けるようになった。

何かが起こると決まっているわけではない。

宿に泊まったからといって、あの藍色の布の向こうへ近づけるわけではなかった。

客室で一人、お茶を飲み、遠くの水音や風の音を聞いているうちに、そのまま夜が明けることもあった。

それでも何度か、夜の奥で、誰かがあの布の向こうへ通されたのだと感じることはあった。

けれど私は、いつも少し離れた場所にいた。

足を踏み入れるには遠く、忘れてしまうには近すぎる場所に。

だからこそ、もしまた、あの藍色の布の向こうで何かが始まるのだとしたら、きっとこういう夜なのだろうと、いつの間にか思うようになっていた。

それが習慣と呼べるほど確かなものになったのは、白石さんから連絡が来るようになってからだった。

白石さんは、雑誌の編集者だった。

最初に会った頃の私は、白石さんの言葉の一つひとつに、どこか身構えていた。何気ない確認のメールにも、裏を探した。短い返信には、拒絶の気配を見つけようとした。

けれど、あれから少しずつ、白石さんとのやり取りは変わっていった。

変わったのは、白石さんの言葉ではなかったのかもしれない。

私の受け取り方が、ほんの少し変わっただけだったのかもしれない。

白石さんが前に話していた占いコーナーの企画は、正式に通った。

その連絡を受けたのは、雨上がりの午後だった。

スマートフォンの画面に白石さんの名前が表示されたとき、私はいつものように少しだけ息を止めた。けれど、その緊張は以前ほど鋭くはなかった。

『企画、通りました。占いコーナーの件です。水瀬さんにお願いしたいです』

短い文章だった。

けれど、その短さが、今度は冷たくは見えなかった。

私はしばらく、その画面を見つめていた。

うれしい、と思った。

それは間違いなく、うれしかった。

自分の中にあるものを、誰かが必要としてくれたこと。

言葉にしてきたもの、感じてきたもの、これまで自分でも扱いきれずにいたものに、場所が与えられたような気がした。

けれど、そのうれしさの奥から、すぐに別のものが顔を出した。

ちゃんとしなければ。
期待を裏切ってはいけない。
今度こそ、価値のある人間だと思われたい。

私は、しばらく返信ができなかった。

何を書けばよいのか、わからなかったからではない。

むしろ、いくらでも丁寧な言葉は浮かんだ。

でも、その言葉を並べようとすると、どこかで自分がきれいに整えられすぎていくような気がした。

私は本当に、占いを届けたいのだろうか。
それとも、占いを通して、誰かに認められたいのだろうか。

その二つは、似ているようで、どこか違う気がした。

結局、私は何度も書き直したあと、短い文章を画面に残した。

『ありがとうございます。大切にお受けします。どうぞよろしくお願いいたします』

送信ボタンの上で、指が止まった。

まだ、押せなかった。

その言葉が丁寧であるほど、どこかで自分をよく見せようとしている気がした。

私はスマートフォンを伏せた。

受け取る、という言葉を使ったのは、偶然ではなかったと思う。

白石さんからの依頼を、ただ仕事として引き受けるのではなく、何かを渡されたのだと感じたかった。

けれど同時に、その「受け取る」という言葉の中に、自分を良く見せようとする気持ちが混じっていないかも、私は気になっていた。

その夜も、新月だった。

私はその日、仕事を少し早めに切り上げた。

白石さんからの連絡を受け取ってから、どうしても一度、あの宿に行きたくなっていた。

夕方の電車を乗り継ぎ、宿の最寄りの駅に着いた頃には、空はすっかり暗くなっていた。

ロータリーに停まっていたタクシーに乗り、宿の近くまで、と告げると、運転手さんは小さく頷いた。

車はゆっくりと駅前を離れていった。

窓の外には、まばらな街灯と、夜の中に沈んだ山の輪郭が流れていく。

月のない夜だった。

この道は、もう何度か通っている。

それなのに、月のない夜にこの道を進むときだけは、道をたどっているというより、見えない流れの中で、どこか深い場所へ運ばれていくように感じた。

明かりの少ない道を進むほど、車内の静けさが深くなっていくようだった。

私は膝の上で鞄を押さえながら、白石さんからのメールを思い出していた。

企画、通りました。
水瀬さんにお願いしたいです。

その言葉を思い出すたびに、胸の奥が少し温かくなり、すぐその下から、薄い不安が浮かんでくる。

失敗したら、どうしよう。
期待外れだと思われたら、どうしよう。
やっぱり頼まなければよかったと思われたら。

そう考えた瞬間、私は窓に映る自分の顔を見た。

まただ、と思った。

まだ起きてもいない拒絶を、私は先回りして探している。

でも、以前と少し違っていたのは、そのことに気づけたことだった。

拒絶されるかもしれない。
認められたい。
失望されたくない。

それらの気持ちを、私は否定できなかった。

ただ、それがあることを、前よりは少し静かに見ていられた。

やがてタクシーは、宿へ続く細い坂道の手前で止まった。

ここから先は車が入りにくい。

礼を言って降りると、冷えた空気が頬に触れた。私は鞄を持ち直し、宿へ続く細い道をゆっくり登った。

坂道の先に、小さな灯りが見えてきた。風が吹くと、木の葉が擦れ合い、その音だけが夜の中で細く響いた。 門の前まで来て、私は一度だけ空を見上げた。月は、やはりなかった。

けれど、何もないその空を見ていると、不思議と、何かが欠けているようには思えなかった。

見えないだけで、そこにあるもの。
まだ形にならないだけで、動き始めているもの。
そんなものが、夜の奥に沈んでいる気がした。

私は戸に手をかけた。

そのとき、自分が白石さんの依頼を受けた喜びだけでここへ来たのではないことに気づいた。

私は、確かめたかったのだと思う。

占いコーナーを任された私は、本当に何かを人に渡せるのか。
それとも、ただ誰かに認められたいだけなのか。

戸を開けると、宿の中から、外の冷えた空気とは違うやわらかな温もりが流れてきた。

奥に、主人の姿があった。

主人は、私を見ると、いつものように静かに頭を下げた。

「お越しでしたか」

「はい」

 私は靴を脱ぎながら答えた。

「今日は、新月なので」

言ってから、自分で少しおかしくなった。

まるで、それがここに来る理由として、もう十分に通じると思っているようだった。

主人は、特に驚いた様子もなく、ただ少しだけ目を細めた。

「そうですか」

その一言だけだった。

けれど、その声を聞いたとき、私はまた胸の奥に小さな熱を感じた。

それは、白石さんからのメールを読んだときの熱とは少し違っていた。

認められたいという熱ではなく、何かに呼ばれているような、けれどまだその意味を知らされていないような、静かな熱だった。

私はその熱を抱えたまま、宿の中へ入った。

二 予約のない客

夕食の支度が始まる少し前だった。

宿の中には、外の冷えた空気とは違う、やわらかな温もりが満ちていた。私はカウンターの端の席に腰を下ろし、出してもらったお茶を両手で包んでいた。

鞄の上には、伏せるように置いたスマートフォンがある。

白石さんからのメールは、もう何度も読み返していた。

企画が通ったという短い連絡。

水瀬さんにお願いしたいです、という言葉。

何度読んでも、うれしい。

けれど、その奥にはまだ、薄い不安があった。

期待に応えたい。
失敗したくない。
今度こそ、価値のある人間だと思われたい。

私は画面を閉じたまま、湯呑みの中を見ていた。

そのとき、玄関の戸が少し強めに開いた。

外の冷たい空気が、一筋流れ込んでくる。

「すみません」

低い男性の声だった。

顔を上げると、入口に一人の男性が立っていた。

五十歳前後だろうか。濃い色のコートを着て、片手に革の鞄を持っている。もう一方の手には、細長い黒いケースを抱えていた。

背筋は伸び、身なりも整っていた。

ただ、その顔には、隠しきれない疲れと苛立ちがあった。

言葉遣いは丁寧だった。

けれど、その丁寧さの奥に、細い棘のようなものがあった。

「突然で申し訳ありません。こちらに泊まれると聞いて来たのですが」

主人が奥から静かに出てきた。

「お入りください」

それだけだった。

男性は、一瞬だけ言葉を探すように主人を見た。事情を聞かれると思っていたのかもしれない。あるいは、自分がどれほど困っているのかを、誰かにわかってほしかったのかもしれない。

けれど主人は、それ以上何も言わなかった。

「予約していたはずのビジネスホテルに、部屋が用意されていなかったんです」

男性は、革の鞄を持ち直しながら言った。

「確認したところ、予約が入っていないと言われまして。こちらには記録もあります。ですが、先方では確認できないと。満室でどうにもならないという話でした」

主人は、少しだけ頷いた。

「そうでしたか」

誰が悪かったのか。
どちらに落ち度があったのか。
なぜそうなったのか。

主人は、そういうことを確かめようとはしなかった。

「こちらは仕事で来ていますので、予定が狂うと困るんです」

困る、という言葉に、抑えた怒りが混じっていた。

主人は、その怒りをなだめるでもなく、掘り下げるでもなく、ただ静かにそこにいた。

「こちらの宿は、どなたから」

主人が短く尋ねた。

「そのホテルに泊まっていた方です。ロビーで少し話したら、この先に小さな宿があるから、行ってみたらどうかと」

男性は、そこで少しだけ眉を寄せた。
「運が良くなる宿だとか、知る人ぞ知る宿だとか言っていました。仕事で来ているなら、なおさら行った方がいい、と」

少し間を置いて、男性は付け加えた。

「正直、何を言っているのかと思いましたが、他にあてもありませんでしたので」

主人は、ただ頷いた。

「そうですか」

「ただ、車が入れない道だと言われましてね。途中までしか送ってもらえず、そこから歩いてきました」

男性は、靴についた土を気にするように足元を見た。

それは、土がついたことへの不満というより、自分の予定から外れた場所に立たされていることへの苛立ちのようだった。

主人は少し間を置いてから言った。

「今夜は、一部屋空いております」

男性の肩から、わずかに力が抜けた。

「助かります」

言葉は素直だった。

けれど、すぐに続いた。

「本来なら、こういう形で宿を探す予定ではなかったのですが」

私は、その一言に少しだけ胸が引っかかった。

本来なら。
予定では。
こちらに落ち度はない。

その人の言葉の端々には、自分の立っている場所を守ろうとする力が入っていた。

主人は何も言わず、男性を中へ招いた。

男性は靴を脱ぎ、コートを腕にかけた。その動きには無駄がなく、普段から人に見られることに慣れている人のようだった。

近くで見ると、顔立ちは端正だった。眉は濃く、目は鋭い。けれど、その鋭さは人を威圧するためというより、物事の粗さを見逃せない性質から来ているようにも見えた。

「倉橋慎吾と申します」

男性は名刺入れを取り出した。

主人は名刺を受け取り、静かに頭を下げた。

「倉橋様ですね」

主人は、それ以上は名刺の内容に触れなかった。

少しの沈黙が落ちる。

その沈黙を埋めるように、倉橋さんの方が口を開いた。

「ガラス工芸を扱う会社を経営しております」

主人は、ただ頷いた。

「はい」

「うちは、手吹きのグラスや酒器を作っています。職人は多くありませんが、腕のいい者たちがいます。私は主に、経営と販売の方を見ています」

倉橋さんは、そこで自分の手にある黒いケースに目を落とした。

黒い布張りのケースには、角ごとに革の補強があり、短い取っ手がついていた。商談用の道具というより、何か壊れやすいものを運ぶための入れ物のように見えた。

「明日、近くの大きなホテルで商談があります。改装に合わせて、新しく高級バーを作るそうで、そこにうちのグラスを入れる話が出ています」

主人は、静かに頷いた。

倉橋さんは続けた。

「決まれば、大きい案件です」

大きい、という言葉だけが、少し重く響いた。

それは喜びというより、何かを証明しようとする力を含んでいるように聞こえた。

倉橋さんは、そこで初めて、カウンターに座っている私に気づいたようだった。

「ああ、失礼しました」

「いえ」

私は湯呑みを両手で包んだまま、小さく頭を下げた。

主人が、私の方へ少しだけ目を向けた。

「水瀬さんです」

それだけだった。

「今夜、泊まらせていただいています」

私が言うと、倉橋さんは丁寧に頭を下げた。

「そうでしたか。お邪魔してしまいました」

その礼儀は、きちんとしていた。

けれど、不思議と近寄りやすさはなかった。

相手と自分の間に、薄いガラスの壁を置いているような人だった。

主人は、カウンターの空いている席に静かに手を向けた。

「こちらへ」

倉橋さんは一瞬だけ迷ったようだった。すぐ部屋へ案内されると思っていたのかもしれない。

けれど主人がそれ以上何も言わないので、倉橋さんは私から少し離れたカウンターの席へ移った。

腰を下ろす前に、倉橋さんは黒いケースをカウンターの端へそっと置いた。

置き方だけは、とても丁寧だった。

さっきまでの苛立ちとは違って、そのケースに触れる指先には、かすかな緊張のようなものがあった。

主人は、倉橋さんの前に温かいお茶を置いた。

倉橋さんはそれを受け取り、一口飲んだ。

そこでようやく、表情が少しだけほどけた。

「失礼。少し取り乱していたかもしれません」

主人は、何も言わなかった。

その沈黙を責められていると感じたのか、それとも許しと感じたのか、倉橋さんは自分で言葉を続けた。

「予定と違うことは、仕事ではよくあります。ただ、今回はこちらにも事情がありまして」

倉橋さんの視線が、カウンターの端に置いた黒いケースへ落ちた。

「それは」

主人が、短く言った。

尋ねたというより、そこにあるものを確認しただけのような言い方だった。

「サンプルです。明日の打ち合わせで見せる予定のものです」

その時、倉橋さんの声が、ほんの少し柔らかくなった。

「手吹きのグラスに、切子のような細かな彫りを入れたものです。光を受けた時の表情が、普通のグラスとはまったく違います」

その言葉には、先ほどまでの苛立ちとは別の力があった。

大切なものについて話す人の声だった。

けれど、その柔らかさは、長くは続かなかった。

「ただ、ホテル側は広告やパンフレットの撮影には、その最高級品を使いたいと言うんです。ホームページにも載せたい、と」

主人は、ただ聞いていた。

「でも、実際にバーで使う分は、それより安価なものでいいから、大量に納めてほしいと」

倉橋さんの声が、また硬くなった。

「高級バーを作ると言いながら、見せるためのものと、実際に客に出すものを分ける。私は、それがどうにも引っかかっているんです」

それは、怒って当然のことのようにも思えた。

職人が時間をかけて作った美しいものを、ただ広告の見栄えのためだけに使う。そう聞けば、私でも胸の奥が少しざわつく。

けれど、倉橋さんの言葉には、それだけではない響きがあった。

「価値が伝わっていないんです」

彼は低く言った。

「本物を使いたいのではなく、本物に見えるものを使いたいだけなんでしょう」

主人は、何も言わなかった。

倉橋さんは、その沈黙に気づいたように、少しだけ口調を整えた。

「もちろん、先方にも予算があります。それはわかります。ホテル側の事情も、理解しているつもりです」

そう言いながら、その声は、理解している人の声には聞こえなかった。

「ですが、職人の仕事を、飾りのように扱われるのは困るんです」

困る。

その言葉は、さっきも聞いた。

もちろん、本当に困っているのだと思う。

でも、その奥には、誰かへの小さな責めが隠れているように感じた。

ホテルが困らせる。
担当者がわかっていない。
予定が狂わされる。
価値が伝わらない。

私は、倉橋さんの横顔を見ながら、ふと自分の胸に手を置きたくなった。

人の言葉に隠れた責めは、思ったよりも聞こえる。

では、私の言葉にも、そういうものが混じっていたのだろうか。

白石さんの短いメールを読んで、勝手に拒絶を探していた時。

認められたいと思いながら、それを隠して「大切にお受けします」と書いた時。

私は、誰を責めていたのだろう。

白石さんだろうか。

それとも、認めてもらえないかもしれない自分自身だろうか。

倉橋さんは、そんな私の内側など知るはずもなく、もう一度お茶を飲んだ。

「明日の打ち合わせまでに、気持ちを整えなければなりません」

彼はそう言って、少しだけ息を吐いた。

「そのためにも、今夜は静かに休める場所があって助かりました」

助かった。

その言葉も、本当なのだと思う。

けれど、彼はまだ、自分が何に助けられたのかまでは見ていないように見えた。

主人は静かに立ち上がった。

「お部屋へ」

その一言で、倉橋さんも立ち上がった。

「お願いします」

その時、倉橋さんのスマートフォンが短く震えた。

彼は画面を見て、わずかに眉を寄せた。表情が、また仕事の顔に戻っていく。

「すみません。あとで折り返します」

電話には出なかった。

けれど、その一瞬で、彼の注意はもう黒いケースから離れていた。

倉橋さんは革の鞄を持ち直し、主人の後についていった。

カウンターの端には、黒いケースが残されていた。

私はそれを見つめた。

さっきまで、あんなに大切そうに置かれていたもの。

それが今、置き去りにされている。

主人も気づいているようだった。

けれど、何も言わなかった。

その沈黙が、ただの見落としではないように、私には思えた。

三 透明な器


夕食のあと、私は部屋へ戻らず、しばらくカウンターでお茶をいただいていた。

部屋に戻っても、すぐには眠れない気がした。

白石さんからのメールのことも、占いコーナーのことも、まだ胸の奥で静かに動いていた。

カウンターの端には、黒いケースがまだ置かれていた。

布張りの細長いケース。

角には革の補強があり、短い取っ手がついている。

倉橋さんが部屋へ向かう時、スマートフォンが震えた。

画面を見た瞬間、彼の表情はまた仕事の顔に戻った。

そのわずかな間に、このケースのことだけが、そこに置き去りにされた。

あんなに大切そうに触れていたものなのに。

あんなに丁寧に置いたものなのに。

人は、心が乱れた時ほど、本当に大切なものから先に、手を離してしまうのかもしれない。

主人は、ケースのことに気づいているはずだった。

けれど、相変わらず何も言わなかった。

気づいていないふりをしているというより、そこに置かれている時間ごと、静かに見ているようだった。

しばらくして、廊下の奥から足音がした。

倉橋さんだった。

夕食を終え、一度部屋へ戻ったのだろう。コートは脱いでいた。けれど、顔の硬さはそれほど変わっていなかった。手にはスマートフォンがあり、画面を伏せるように握っている。

「少し、強い酒はありますか」

倉橋さんは主人にそう言った。

主人は短く頷いた。

「ございます」

そう言って、奥の棚へ向かった。

倉橋さんは、カウンターの席に腰を下ろした。

その時、ようやく端に置かれた黒いケースに気づいた。

ほんの一瞬、動きが止まった。

「あ……」

その声は、昼間の苛立った声とは違っていた。

自分の隙を見つけてしまった人の、小さな声だった。

私は思わず言った。

「あの、それ……大切なものなんじゃないですか」

倉橋さんは、こちらを見た。

責められたと思ったのかもしれない。

一瞬だけ、目元に硬さが戻った。

でも、私がただケースを見ているだけだとわかると、その硬さは少しだけゆるんだ。

「ええ。大切なものです」

倉橋さんは静かに答えた。

「置き忘れるなんて、らしくないですね」

その言い方には、自分を笑うような響きがあった。

けれど、本当に笑っているわけではなかった。

「ずっと気になっていました」

私は言った。

「とても大切そうに持っていらしたので」

倉橋さんは、黒いケースに手を置いた。

指先だけが、さっきとは違うほど丁寧だった。

「明日の商談で見せるものです」

「グラス、ですよね」

「ええ」

その時、主人が戻ってきた。

手には、白い陶器の瓶があった。

古いものなのか、瓶の肩のあたりに、わずかなくすみがある。

倉橋さんは、その瓶を見た瞬間、目を細めた。

「……これは、珍しいですね」

その声には、驚きがあった。

私には、その酒が何なのかわからなかった。

けれど、倉橋さんの目が変わったことはわかった。

知っている人の目だった。

主人は何も言わず、小さなグラスにほんの少しだけ注いだ。

琥珀色の酒が、静かに器の底に満ちる。

香りが、かすかに立った。

甘いようで、深い。

果実のようでもあり、古い木の箱を開けた時のようでもあった。

倉橋さんは、その香りを確かめるように、一度だけグラスを近づけた。

けれど次の瞬間、何かを振り切るように、一息で飲み干した。

グラスが、カウンターに置かれる。

小さな音だった。

けれど、その音だけが妙にはっきり聞こえた。

主人は空になったグラスを見た。

何も言わなかった。

ただ、もう一杯注ぐこともしなかった。

倉橋さんも、それを求めなかった。

少しだけ気まずそうに、手元を見た。

私は、酒の価値などわからない。

けれど、今の飲み方が、何かを受け取った人の飲み方ではなかったことだけ、なぜかわかった。

味わったのではない。

押し流したのだと思った。

苛立ちも、焦りも、明日の商談への不安も。

自分の中で騒いでいるものを、その酒で一度沈めようとした。

その時、カウンターの端に置かれた黒いケースが、また目に入った。

大切なものを守ろうとしている人が、差し出された大切なものを、味わわずに飲み干している。

そのことを、私は言葉にはできなかった。

けれど、胸の奥に、小さな違和感として残った。

倉橋さんは、黒いケースに視線を戻した。

「ご覧になりますか」

少し間を置いて、彼は言った。

私は少し驚いた。

「いいんですか」

「見るだけなら」

そう言ってから、倉橋さんは少しだけ表情を変えた。

「いえ、見ていただいた方がいいのかもしれません。言葉で説明するより、その方が早い」

主人は何も言わなかった。

倉橋さんは、ケースを自分の前に引き寄せ、留め具を外した。

小さな金具の音がした。

それだけで、カウンターの空気が少し変わった気がした。

ケースの内側には、深い灰色の布が敷かれていた。

その中央に、ひとつのグラスが収まっていた。

私は思わず息を止めた。

手吹きのグラスだった。

けれど、ただ透明なだけではなかった。

薄い器の表面には、細かな線が刻まれている。江戸切子のように、規則正しく、けれど機械的ではない模様。線と線が交わるところで、光が小さく砕けていた。

宿の明かりは決して強くない。

それなのに、そのグラスは、自分の内側に光を持っているように見えた。

透明なのに、深い。

軽やかなのに、どこか重みがある。

私は、それをどう言えばいいのかわからなかった。

「きれいですね」

結局、出てきたのは、そんな言葉だけだった。

けれど倉橋さんは、その言葉を雑には受け取らなかった。

少しだけ、目元が柔らかくなった。

「ありがとうございます」

その声には、さっきまでの棘がなかった。

「これは、手吹きの器に、あとから彫りを入れています。形を作る人間と、彫る人間が別にいます。どちらか一方が強すぎても駄目なんです」

「強すぎても、ですか」

「ええ。吹く方が自分の形を主張しすぎると、彫りが生きません。彫る方が線を入れすぎると、ガラスそのものの呼吸が消えます」

ガラスの呼吸。

その言葉が、耳に残った。

倉橋さんは、グラスには触れなかった。

ただ、ケースの横に手を置き、少し身を寄せるようにして話した。

「手吹きのグラスは、完全な均一ではありません。口の厚みも、底の重さも、ほんのわずかに違う。けれど、そのわずかな違いが、手に持った時の感覚になります」

倉橋さんの声は、静かだった。

低く、落ち着いていて、どこか誇らしさもあった。

「この彫りも、ただ模様を入れているわけではありません。酒を注いだ時、光がどこを通るか。手に持った時、指の影がどこに落ちるか。そこまで考えて線を入れています」

私は、もう一度グラスを見た。

たしかに、線はただ美しく並んでいるのではなかった。

光の通り道のように見えた。

そこにあるものを飾っているのではなく、そこに通るものを待っている。

そんな印象があった。

「職人さんが作られたんですか」

私がそう尋ねると、倉橋さんは頷いた。

「はい。もう三十年以上、ガラスに触れている人です。若い頃から、ずっと同じ工房にいます」

そこで、倉橋さんの声は少しだけやわらいだ。

「無口な人でね。こちらが十まで説明しても、返事は一つあるかどうかです。でも、次に会うと、こちらが言わなかった部分まで形にしてくる」

その言い方には、敬意があった。

私は少し意外だった。

倉橋さんは、ずっと怒っている人のように見えていた。

予定を狂わされ、ホテルに腹を立て、価値が伝わらないと苛立っている人。

でも、グラスについて話す時の彼は違った。

その人の中には、本当に美しいものを見てきた目がある。

職人の手を、ただ利用しているのではなく、どこかで深く尊敬している。

それがわかったからこそ、次の言葉は少し痛かった。

「だからこそ、軽く扱われるのが嫌なんです」

倉橋さんの声が、また硬くなった。

「このグラスを写真に使いたいという気持ちは、わかります。見れば、誰でも美しいと思うでしょう。バーの広告にも映える。ホームページに載せれば、印象も変わる」

そこで、倉橋さんは一度口を閉じた。

グラスを見ていた目が、どこか遠くを見る目に変わる。

「でも、実際にお客様に出すものは、もっと安いものでいい。大量にそろえられるものがいい。そう言われると、結局、これは飾りなのかと思うんです」

主人は、黙って聞いていた。

「職人の仕事は、見せるための小道具ではありません」

倉橋さんは言った。

「手に取って、使われて、そこで初めて生きるものです。写真の中だけで美しく見えればいいというものではない」

その言葉は正しいように聞こえた。

少なくとも、私はそう思った。

美しいものを、ただ人を呼ぶための飾りにする。

本物の光だけを借りて、実際には別のものを差し出す。

それは、たしかにどこか寂しい。

けれど、倉橋さんの声には、寂しさだけではないものが混じっていた。

 怒り。

 不満。

 そして、わからせたいという力。

「ホテルの方は、どうおっしゃっているんですか」

私は思わず尋ねた。

倉橋さんは、少しだけ私を見る。

私が踏み込みすぎたと思った時には、もう遅かった。

でも倉橋さんは、答えた。

「予算の問題だそうです。高級品を全席分入れるとなると、どうしても金額が上がる。破損のリスクもある。現場の管理も難しい。だから、広告用には最高のものを使い、実際の営業では扱いやすいものを使いたいと」

「それも、わからなくはないです」

言ってから、自分でも少し驚いた。

倉橋さんの眉が、わずかに動いた。

私は慌てて言葉を足した。

「すみません。グラスのことは、私には詳しくわかりません。でも、ホテル側にも事情があるのかなと」

「もちろん、事情はあるでしょう」

倉橋さんは言った。

丁寧な言葉だった。

けれど、その丁寧さの奥で、何かが閉じる音がした気がした。

「私も、それは理解しています」

理解している。

その言葉が、また少し硬かった。

理解していると言いながら、倉橋さんは、本当は許していない。

そう感じた。

けれど、その感覚は、すぐに自分の中にも返ってきた。

私も、そういう言い方をすることがある。

わかっています。
大丈夫です。
気にしていません。

そう言いながら、心の中では相手を責めている。

親切のつもりだった。

でも、返ってこないと、私は心の中で相手を責めていた。

そして、その責める気持ちを隠すために、もっと丁寧な言葉を使っていた。

私は、湯呑みを持つ手に少し力を入れた。

倉橋さんの話を聞いているはずなのに、胸の奥では、別の記憶が少しずつ動き始めていた。

主人は、グラスを見ていた。

いや、グラスだけを見ていたのではないのかもしれない。

その透明な器を挟んで、倉橋さんと私の間に流れているものを見ていたのかもしれない。

倉橋さんは、ケースの中のグラスを少しだけ傾けた。

宿の明かりを受けて、切子の線がふっと光った。

小さな光が、カウンターの上に落ちる。

その光は、思っていたよりも繊細だった。

美しさというものは、こんなに静かなものなのだと思った。

大声で価値を主張しなくても、そこにあるだけで、何かを伝えてくる。

けれど、だからこそ、人はそれをわかってもらえない時、苦しくなるのかもしれない。

「このグラスを作った方は、ホテルの話を知っているんですか」

私は尋ねた。

「ええ」

「何とおっしゃっているんですか」

倉橋さんは、少し黙った。

「任せます、と」

「任せます」

「はい。あの人は、いつもそうです。売り方は私の仕事だ、と言います」

倉橋さんは、小さく息を吐いた。

「だから余計に、雑には扱えないんです」

その言葉には、今度は責めよりも、重さがあった。

職人から何かを預かっている人の重さ。

私はそれを感じた。

倉橋さんは、ただ売りたいだけではない。

ただ成功したいだけでもない。

この人は、何かを預かっている。

でも、その預かったものを守ろうとするあまり、いつの間にか周りを責めている。

ホテルを責め、担当者を責め、価値をわからない客を責める。

そして、おそらく自分自身も責めている。

そう思った時、胸の奥が少しだけ冷えた。

それは、倉橋さんの話が他人事ではないと感じたからだった。

私も、何かを預かった気でいた。

白石さんから、占いコーナーを任された。

誰かの役に立つかもしれない場所をもらった。

そのことは、たしかにうれしい。

でも、そのうれしさの奥に、私を見てほしい、私を認めてほしい、私の価値をわかってほしいという気持ちが混じっている。

もしうまくいかなかったら、私は誰を責めるのだろう。

白石さんだろうか。

読者だろうか。

それとも、私を見つけてくれない世界そのものだろうか。

倉橋さんは、ゆっくりとグラスをケースに戻した。

蓋を閉める前、もう一度だけ、その透明な器を見た。

「美しいものは、難しいですね」

倉橋さんが言った。

誰に向けた言葉なのかわからなかった。

主人はしばらく黙っていた。

それから、短く言った。

「美しいものは、静かです」

倉橋さんが顔を上げた。

主人は続けなかった。

ただそれだけだった。

でも、その一言は、しばらくカウンターの上に残った。

美しいものは、静かです。

倉橋さんは何か言おうとしたようだった。

けれど、言葉は出なかった。

ケースの蓋が閉じられた。

金具の音が、小さく鳴った。

その音で、私はようやく息を吐いた。

倉橋さんは、黒いケースを今度は自分の膝の近くに引き寄せた。

もう置き忘れないようにするかのように。

けれど私には、その人が本当に置き忘れていたものは、ケースではないように思えた。

もっと奥の方にあるもの。

職人から受け取った思い。

美しいものを初めて見た時の静かな感動。

それを誰かに渡したいと願った、最初の気持ち。

そういうものを、どこかに置き忘れてきた人のように見えた。

倉橋さんは、もう一度、空になったグラスを見た。

主人は、やはり何も注がなかった。

その横顔には、まだ苛立ちが残っていた。

けれど、さっきよりも少しだけ、疲れが見えていた。

怒っている人というより、長い間、何かを守ろうとして張りつめてきた人の顔だった。

四 受け取ることと、認めさせること

倉橋さんは、黒いケースを自分の膝の近くへ引き寄せたまま、しばらく黙っていた。

空になった小さなグラスは、まだカウンターの上にある。

主人は、それを下げなかった。

もう一杯を注ぐこともしなかった。

ただ、そこに置いていた。

倉橋さんも、何も言わなかった。

自分が一息に飲み干した酒のことを気にしているのかもしれない。

あるいは、もう明日の商談のことを考えているのかもしれない。

私は、閉じられた黒いケースを見ていた。

その中に収められていた透明な器の光が、まだ目の奥に残っていた。

美しいものは、静かです。

主人の言葉が、カウンターの上に薄く残っているような気がした。

美しいものは、静か。

それなら、私はどうなのだろうと思った。

私はいつも、心のどこかでざわついている。

受け取ったものを静かに抱えているよりも、それを誰かに見せたくなる。

誰かにわかってほしくなる。

認めてほしくなる。

その時、主人がふいに私を見た。

「水瀬さんも、何か置いてきましたか」
 私は、すぐには答えられなかった。

「え」

思わず、そんな声だけが出た。

主人は、いつものように、それ以上言葉を重ねなかった。

私がわかるまで待つように、ただそこにいた。

倉橋さんが、少しだけこちらを見た気配がした。

けれど、すぐに視線を伏せた。

聞いていないふりをしているようだった。

何か置いてきたもの。

私は、もう一度黒いケースを見た。

倉橋さんが置き忘れていたもの。

それは、あのケースだけではなかったのかもしれない。

では、私が置いてきたものは何だろう。

白石さんからのメールが、ふいに胸の奥で開いた。

企画、通りました。
占いコーナーの件です。
水瀬さんにお願いしたいです。

うれしかった。

それは本当だった。

けれど、そのうれしさのすぐ奥に、別の声があった。

ちゃんとしなければ。
期待に応えなければ。
今度こそ、価値のある人間だと思われたい。

私は湯呑みに視線を落とした。

「白石さんから、占いコーナーの話をいただいたんです」

主人は頷いた。

その話は、前にも少ししていた。

けれど、今夜は少し違うところから言葉が出てきた。

「企画が通ったそうです。私にお願いしたいと、連絡をいただきました」

「そうでしたか」

「はい」

私は小さく息を吸った。

「うれしかったんです。本当に」

そう言ってから、言葉が止まった。

うれしかった。

それだけで終われたら、どんなに楽だろうと思った。

「でも、うれしいだけじゃありませんでした」

主人は、何も言わなかった。

「期待に応えなきゃと思いました。失敗したくないと思いました。白石さんに、やっぱり頼まなければよかったと思われたくないとも思いました」

私は、自分の声が少し小さくなっていくのを感じた。

「それに……」

その先を言うのが、少し恥ずかしかった。

けれど、言わないままにしておくと、その言葉はまた自分の中で濁っていく気がした。

「認められたいと思いました」

言ってしまうと、胸の奥が少し痛んだ。

けれど、それは責められた痛みではなかった。

隠していたものに、少しだけ光が当たった時の痛みに近かった。

主人が言った。

「混じっているのですね」

それだけだった。

否定でも、肯定でもなかった。

混じっている。

私は、その言葉を胸の中で繰り返した。

相手のために動きたい気持ち。

ありがとうと言われたい気持ち。

誰かの役に立ちたい気持ち。

価値ある人間だと思われたい気持ち。

それらは、きれいに分けられてはいなかった。

「私、人のために動くのは嫌いじゃないんです」

私は続けた。

「誰かが困っていたら、手伝いたいと思います。話を聞いたり、できることをしたり、少しでも楽になってほしいと思うんです」

そこまでは、嘘ではない。

それは本当に、私の中にある気持ちだった。

「でも、あとから苦しくなることがあります」

「あとから」

「はい」

私は、湯呑みを両手で包み直した。

「あんなに手伝ったのに、と思ってしまうんです」

声に出すと、その言葉は思っていたよりも小さく、情けなく聞こえた。

「私はあの人のために時間を使ったのに。相手の誘いには行ったのに。どうして私の時には来てくれないんだろう。どうして同じだけ返してくれないんだろうって」

倉橋さんの指が、黒いケースの上で一度だけ止まった。

ほんの小さな動きだった。

けれど私は、それに気づいた。

たぶん、私の話のどこかが、倉橋さんの中の何かに触れたのだと思った。

「親切にしているつもりでした。でも、返ってこないと、心の中で相手を責めていました。私はこんなにしてあげたのに、って」

風が吹いた。

窓のどこかが、小さくカタッと鳴った。

普段なら気づかないような音だった。

けれど、その時は妙にはっきりと耳に残った。

自分の中に閉じ込めていた言葉が、外の空気に触れたような気がした。

「そう思う自分が嫌なんです」

私は言った。

「だったら、最初からしなければいいのに。見返りを求めるくらいなら、やらなければいいのに。そう思うのに、その時は本当に親切のつもりなんです」

自分で言いながら、胸の中にあった絡まりが少しずつ見えてくる気がした。

親切のつもり。

でも、どこかで返事を待っている。

ありがとう、と言われたい。

あなたのおかげです、と言われたい。

私のことも大切にしてほしい。

私は、与えているつもりで、心のどこかに「返ってくるはずのもの」を置いていたのかもしれない。

主人は、静かに言った。

「返ってくるものを、待っていたのですね」


私は頷いた。

「はい」

その一言だけで、胸の奥が少し熱くなった。

責められたわけではない。

ただ、見つけられただけだった。

「待っていました。ずっと」

自分でも驚くほど、素直にそう言えた。

「相手から返ってくるものを待っていたし、本当は、もっと前から誰かに認めてもらうのを待っていたのかもしれません」

倉橋さんは、空になったグラスを見ていた。

もう、聞こえていないふりはしていなかった。

でも、口を挟むことはなかった。

主人が、少しだけ視線を落とした。

「責めている間は、受け取れません」

その言葉は、とても静かだった。

けれど、私はすぐに返事ができなかった。

責めている間は、受け取れない。

その言葉が、胸の中のどこかにゆっくり沈んでいく。

「相手を責めていると、受け取れないんですか」

私が尋ねると、主人は答えた。

「手が、閉じていますから」

手。

私は、自分の両手を見た。

湯呑みを包む手に、知らないうちに力が入っていた。

そのことに気づいて、少しだけ指をゆるめた。

主人は続けた。

「返してもらうことを待っている時、人は相手を見ているようで、自分の足りなさを見ています」

その言葉は、少し痛かった。

けれど、嫌な痛みではなかった。

「自分の足りなさ……」

「はい」

主人は頷いた。

「足りないものを埋めてほしい。認められていない自分を、認めてほしい。その手で差し出すものには、相手への思いと、自分の空白が混じります」

私は黙っていた。

混じる。

また、その言葉だった。

相手のために動いているつもりだった。

でも、その奥で「私も見てほしい」と願っている時、私はもう相手だけを見てはいなかった。

親切の形をしていても、そこには小さな寂しさが混じっていた。

「では、どうしたらいいんでしょう」

私は聞いた。

主人は、すぐには答えなかった。

その沈黙の中で、私は自分の問いが少しだけ幼いことに気づいた。

どうしたらいいんでしょう。

その問いの奥にも、答えをもらいたい気持ちがある。

正しい方法を教えてもらい、もう責めない人間になりたいという願いがある。

けれど、きっとそういうことではないのだろう。

主人は、しばらくしてから言った。

「まず、責めていることに気づくことです」

「気づくこと」

「はい。責めないようにするのではなく、責めている手を見ます」

責めている手。

私は、自分の手をもう一度見た。

「その手が何を握っているのかを見ます」

「何を握っているのか」

「はい」

主人は、そこで言葉を止めた。

私は、自分の胸の中を探るように、ゆっくり息をした。

私が握っているもの。

それは、たぶん、期待だった。

 返ってくるはずだった言葉。
 返ってくるはずだった時間。
 返ってくるはずだった関心。
 返ってくるはずだった愛情。

私は、それらを握りしめたまま、人に何かを差し出していたのかもしれない。

だから、相手が受け取ってくれないと苦しくなる。

返してくれないと責めたくなる。

私の手は、差し出しているようで、ずっと閉じていた。

「……私、与えていたつもりでした」

私は言った。

「でも、本当は、返してほしかったんですね」

主人は頷いた。

倉橋さんが、小さく息を吸う音がした。

そちらを見ると、彼は黒いケースに手を置いていた。

けれど、何かを言うことはなかった。

「受け取りたい心も、与えたい心も、どちらもあります」

主人が言った。

私は顔を上げた。

「悪いことでは、ないんですか」

「はい」

主人は静かに頷いた。

「ただ、受け取ることだけが強くなれば、欲になります。与えることだけが強くなれば、自分を失います」

私は、さっき見たグラスのことを思い出した。

吹く人と、彫る人。

どちらか一方が強すぎても、ガラスの呼吸は消える。

受け取ることと、与えること。

その二つも、きっと同じなのかもしれない。

「商いとは、本来、その間を見るものです」

主人の声は、ほとんど低い灯りのようだった。

「どちらかを勝たせることではありません」

倉橋さんが、わずかに顔を上げた。

その言葉が自分に向けられたものだと、気づいたのかもしれない。

けれど主人は、倉橋さんを見なかった。

ただ、カウンターの上に置かれた空のグラスを見ていた。

私も、そのグラスを見た。

主人が出した、分かる人には分かる酒。

倉橋さんは、その価値に気づいていた。

けれど、味わうより先に飲み干した。

渡されていたものを、受け取らずに通り過ぎた。

そのことに、倉橋さんも気づいたのかもしれない。

でも彼は、何も言わなかった。

風がまた、窓をかすかに鳴らした。

さっきよりも小さな音だった。

けれど、今度は倉橋さんも、それを聞いたように見えた。

私は、胸の奥が少しずつ静かになっていくのを感じた。

すぐに許せるわけではない。

すぐに見返りを求めなくなるわけでもない。

けれど、相手を責める前に、自分の手を見ることはできるかもしれない。

何を握っているのか。

どんな形で返ってくることを待っているのか。

その手を握りしめたまま、何を受け取り損ねているのか。

主人が言った。

「返ってくる形だけを決めていると、すでに渡されていたものを見落とします」

私は何も言えなかった。

その言葉は、足元だけでなく、まだ見えていない先の道まで、淡く照らしているようだった。

私は、返してほしい形を決めていた。

 私が行ったのだから、相手も来てほしい。
 私が手伝ったのだから、相手も手伝ってほしい。
 私が時間を使ったのだから、相手も同じように時間を使ってほしい。

同じ形で返ってこないものは、返ってきていないものとして見ていた。

でも、もしかしたら。

違う形で渡されていたものが、あったのかもしれない。

まだ、それが何なのかはわからない。

でも、最初から何もなかったと決めつけていたのは、私の方だったのかもしれない。

「同じ形でなければ、返ってきたことにはならない」

倉橋さんが、低い声で言った。

それは、私に向けた言葉ではなかった。

自分に向けた言葉のようだった。

「私も、そう思っていたのかもしれません」

倉橋さんの手は、黒いケースの上に置かれていた。

「こちらが本物を差し出しているのだから、相手も本物として受け取るべきだと」

そこまで言って、倉橋さんは口を閉じた。

その声には、怒りではなく、疲れのようなものが混じっていた。

「水瀬さんの話を聞いていて、少しわかりました」

倉橋さんは、黒いケースから手を離さないまま言った。

「私は、職人のためにやっているつもりでした。職人の仕事を守るために、ホテルにわかってもらわなければならない。そう思っていました」

彼は一度、空のグラスを見た。

「でも、どこかで思っていたのかもしれません。私はこれだけ本物を用意しているのに。これだけ美しいものを持ってきているのに。どうして同じ重さで受け取ってくれないのか、と」

私は何も言えなかった。

倉橋さんの言葉は、私の話とはまったく違う場所の話のはずだった。

けれど、芯のところで、どこか同じものに触れている気がした。

与えているつもりで、返ってくる形を決めている。

受け取ってほしいと思いながら、受け取り方まで相手に求めている。

それが叶わないと、相手を責める。

倉橋さんは、少し苦しそうに息を吐いた。

「私は、ホテルの担当者を責めていました。本物を軽く扱っていると。職人の仕事を飾りにしていると」

そこで、言葉が止まった。

主人は、何も言わなかった。

「でも、先ほどのお酒も……」

倉橋さんは、空になったグラスを見た。

「私は、味わいませんでしたね」

声は小さかった。

「いただいたものが何か、わかっていたのに」

その一言で、カウンターの空気が少しだけ深くなった気がした。

主人は、空のグラスを静かに見ていた。

責めるでもなく、慰めるでもなく。

ただ、そこにあったものを、そのまま置いておくように。

私は、湯呑みから手を離した。

掌に、少し赤い跡が残っていた。

知らないうちに、強く握っていたのだと思った。

「白石さんの話も、そうかもしれません」

私は言った。

「企画をいただいたのに、私はすぐに、期待に応えなきゃとか、認められたいとか、失敗したくないとか、そういうことばかり考えていました」

主人は聞いていた。

「でも、まず受け取ればよかったんですね」

言いながら、私はその言葉の頼りなさを感じた。

まず受け取る。

簡単なようで、難しい。

「白石さんが渡してくれた機会を、ただ受け取る。そこに、私を認めてくれるかどうかを重ねすぎない」

私は、ゆっくりと言った。

「まだ、うまくできる気はしません」

主人は頷いた。

「はい」


その「はい」は、できなくてもよいと言っているように聞こえた。

倉橋さんが、黒いケースを自分の方へ少し引き寄せた。

さっきよりも、少しだけゆっくりとした手つきだった。

「受け取ったものを、渡す」

倉橋さんが小さく言った。

私と主人は、そちらを見た。

倉橋さんは、こちらを見ていなかった。

黒いケースを見ていた。

「私は、職人から預かっていると言いました」

彼は低く言った。

「でも、本当は、彼らから何かを受け取っていたのかもしれません。預かる、という言い方をして、どこかで自分を守っていた」

主人は、何も言わなかった。

「預かっているなら、失敗すれば相手のせいにできます。ホテルがわかっていない。担当者が軽く扱っている。社員が伝えきれていない。そう言える」

倉橋さんは、自分の言葉に少し苦しそうな顔をした。

「でも、受け取ったのだとしたら……」

その先は、言葉にならなかった。

私は、黒いケースを見た。

その中の透明な器は、今は見えない。

けれど、閉じられたケースの中に、まだ光が残っているような気がした。

主人がようやく倉橋さんを見た。

「今夜は、酔わない方がよいでしょう」

倉橋さんは、少しだけ眉を動かした。

さっきなら、きっと反発したのではないかと思う。

私の飲み方まで決めるのか、と。

けれど、今は何も言わなかった。

空のグラスを見て、少しだけ息を吐いた。

「そうですね」

短い返事だった。

けれど、その声は、今夜初めて、何かを押し返そうとしていない声に聞こえた。

主人は、空のグラスを静かに下げた。

その動きは、何かの区切りのようだった。

倉橋さんは、黒いケースを持って立ち上がった。

「少し、部屋に戻ります」

主人は頷いた。

「はい」

倉橋さんは私に向かって、小さく頭を下げた。

「お話を、聞いてしまいました」

私は少し戸惑った。

「いえ。私も、勝手に話していただけなので」

「でも、必要な話でした」

そう言ってから、倉橋さんは言葉を探すように少し黙った。

「私にも」

それだけ言うと、倉橋さんは黒いケースを抱え、廊下の奥へ歩いていった。

その背中は、最初に宿へ入ってきた時よりも少しだけ小さく見えた。

けれど、それは弱くなったというより、何かを背負い直した人の姿のようにも見えた。

私は、その背中を見送った。

カウンターには、主人と私だけが残った。

白石さんからのメールは、まだ鞄の上のスマートフォンの中にある。

企画、通りました。

水瀬さんにお願いしたいです。

その言葉は、さっきとは少し違って見える気がした。

私を認める言葉としてではなく、私に差し出されたものとして。

まだ、うまく受け取れる自信はない。

でも、少なくとも今夜、私は自分の手が閉じていたことを知った。

その手を少しゆるめることからしか、始まらないのかもしれない。

五 藍色の布の前で


部屋へ戻っても、私はすぐには眠れなかった。

カウンターでの会話が、まだ胸の奥に残っていた。

責めている間は、受け取れません。

手が、閉じていますから。

主人の声は大きくなかった。

けれど、静かな言葉ほど、あとになって消えにくいのだと思った。

客室の明かりを少し落としても、目は冴えていた。

私は布団の上に座り、鞄からスマートフォンを取り出した。白石さんからのメールを、もう一度だけ開く。

『企画、通りました。占いコーナーの件です。水瀬さんにお願いしたいです』

何度も読んだ文章だった。

でも、さっきより少しだけ、静かに見えた。

私を認めるための言葉ではなく、私に差し出されたもの。

そう思おうとして、けれどすぐに、まだそう思いきれない自分にも気づいた。

受け取るというのは、思ったよりも難しい。

私はスマートフォンを伏せた。

窓の向こうには、月のない夜が広がっている。遠くの山の輪郭は見えず、ただ黒い厚みだけがそこにあった。

その頃、倉橋さんも眠れずにいたのだと思う。

それを私が知ったのは、あとになってからだった。

倉橋さんの部屋は、私の部屋から少し離れたところにあった。

同じ二階の廊下に面した客室だった。

その部屋で、倉橋さんは黒いケースを座卓の上に置き、明日の資料を広げていたらしい。

 高級ホテルの新設バー。
 広告撮影用の最高級グラス。
 実際に導入する安価なグラス。
 見積もり。
 数量。
 納期。

資料の文字は、どれも現実的だった。

美しさとは別のところで、商談は進んでいく。

倉橋さんのスマートフォンが震えた。

自社の社員からだった。

『明日の打ち合わせについて、ホテル側から追加の確認が来ています。やはり広告撮影用と実使用分は分けたいとのことです。実使用分については、価格帯を二案にして持参した方がよいでしょうか』

倉橋さんは、その文章をしばらく見ていた。

いつもなら、すぐに返信しただろう。

違う。

そういう話ではない。
価格帯の問題にするな。
こちらの価値をどう伝えるかを考えるのが先だ。
頭の中には、そんな言葉がすぐに浮かんだ。

彼は返信欄を開いた。

『価格帯の問題ではありません。先方が本物の価値を理解していないことが問題です。明日の打ち合わせでは——』

そこまで打って、指が止まった。

責めている間は、受け取れません。

主人の声が、ふいに戻ってきた。

手が、閉じていますから。

倉橋さんは、スマートフォンを持つ自分の手を見た。

力が入っていた。

画面の光に照らされた指先が、少し白くなっている。

彼は、打ちかけた文章を見つめた。

先方が本物の価値を理解していない。

それは本当に、ホテルだけのことだっただろうか。

社員もまた、明日の商談を前に、現実的な準備をしようとしている。

ホテル側の意向を聞き、話し合いの入口を作ろうとしている。

それを、自分はまた「わかっていない」と責めようとしている。

倉橋さんは、ゆっくりと打った文字を消した。

代わりに、短く打った。

『確認ありがとう。二案は用意しておいてください。ただ、明日は価格の前に、職人の仕事についてもう一度きちんと話したいと思っています。資料に工房の写真も入れられますか』

送信する前に、しばらく迷った。

甘いだろうか。

こんな返事で伝わるだろうか。

社員に任せすぎていないだろうか。

けれど、さっきまでのように、相手を押し返す言葉ではなかった。

倉橋さんは、送信ボタンを押した。

画面が静かに切り替わった。

その瞬間、少しだけ息が抜けた。

だが、眠気は来なかった。

むしろ、目が冴えていく。

部屋の中は静かだった。

座卓の上の黒いケースだけが、妙に存在感を持っている。

倉橋さんは、ケースの留め具には触れなかった。

ただ、手を置いた。

受け取ったものを、渡す。

自分で口にした言葉が戻ってくる。

自分は、職人から何を受け取っていたのだろう。

 技術。
 作品。
 信頼。
 任せます、という言葉。

けれど、それを受け取ったと言い切るには、まだ何かが足りない気がした。

倉橋さんは、立ち上がった。

部屋の中を二、三歩歩き、窓の前で止まった。

月はなかった。

窓に映る自分の顔は、いつもより疲れて見えた。

その顔を見ながら、ふいに、あの酒の香りを思い出した。

甘く、深く、古い木箱を開けたような香り。

分かる人には分かるものだった。

彼にはわかっていた。

それなのに、味わわなかった。

ただ、飲み干した。

苛立ちを沈めたかったから。

明日のことを考えたくなかったから。

自分が乱れていることを見たくなかったから。

差し出されたものを受け取る前に、自分の中の騒がしさを消すために使った。

それは、ホテルがグラスを広告の見栄えに使おうとしていることと、どこが違うのだろう。

倉橋さんは、小さく息を吐いた。

部屋に戻ってきた時よりも、胸の奥の痛みは、かえってはっきりしていた。

眠れない。

そう思った。

ただ目が冴えているのではない。

何かが、眠ることを許してくれない。

倉橋さんは、黒いケースを持ち上げた。

今度は置き忘れないように、両手でしっかりと抱えた。

その頃、私も部屋を出ようとしていた。

喉が渇いていたわけではない。

けれど、部屋の中にいると、自分の考えだけが濃くなっていくようで、少し息苦しかった。

私はそっと戸を開けた。

二階の廊下は、昼間とは別の場所のようだった。

灯りは落とされている。

足元だけが、淡く照らされていた。

廊下の奥には、藍色の布が垂れている。

ふだんは、ただそこにあるだけの布だった。

けれど今夜は、夜そのものがそこに集まっているように見えた。

私は戸の前に立ったまま、少しの間、動けなかった。

その時、別の部屋の戸が静かに開いた。

倉橋さんだった。

黒いケースを抱えている。

私たちは、廊下の中ほどで目が合った。

「あ……」


私が先に声を出した。

「すみません。眠れなくて」

倉橋さんは、少しだけ頷いた。

「私もです」

声は低かった。

けれど、夕方のような棘はなかった。

私たちは、どちらからともなく廊下の奥を見た。

藍色の布の前に、主人が立っていた。

いつからそこにいたのかは、わからなかった。

待っていたのか。

それとも、ただそこにいたのか。

でも主人は、私たちが同時に部屋を出てきたことを、少しも不思議には思っていないようだった。

主人は、こちらを見た。

「こちらへ」

それだけだった。

その一言で、廊下の空気が変わった気がした。

倉橋さんの手に、力が入る。

黒いケースを抱える指が、少し沈んだ。

彼は、主人の方へ一歩進んだ。

「さっきの話ですが」

声は低かった。

「私にも、まだ見ていないものがありますか」

主人は、しばらく倉橋さんを見ていた。

「あります」

短い答えだった。

倉橋さんは目を伏せた。

「見ることは、できますか」

「今夜なら」

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がひやりとした。

今夜なら。

その響きだけで、あの藍色の布の向こうの気配が、こちら側へ近づいてくるのがわかった。

倉橋さんは、少しだけ息を吸った。

「私は、そういうものを信じているわけではありません」

主人は何も言わなかった。

「ただ……」

倉橋さんは言葉を探した。

「このまま眠っても、同じ朝が来る気がします」

それは、ほとんど独り言のようだった。

私は、その言葉を聞いて胸が少し痛んだ。

同じ朝。

何も変わらないまま来る朝。

私にも、そういう朝を何度も迎えた記憶があった。

考えたつもりで、反省したつもりで、でも結局、同じ手を握りしめたまま目覚める朝。

主人は、藍色の布の方へ少しだけ体を向けた。

その動きだけで、もう案内は始まっているのだとわかった。

私は、その場に立ち尽くしていた。

ここから先は、私が入る場所ではないような気がした。

足を踏み入れるには遠く、忘れてしまうには近すぎる場所。

ずっと、そう感じていた場所だった。

その時、倉橋さんがこちらを見た。

「水瀬さん」

「はい」

「よろしければ、いてください」

私は目を見開いた。

「私が、ですか」

「はい」

倉橋さんは、少し言いにくそうにした。

「あなたの話を聞いたから、私はここに来ました。だから……いていただいた方がいい気がします」

その言葉には、夕方にはなかった柔らかさがあった。

主人は、私を見た。

「今夜のことは、水瀬さんにも必要でしょう」

心臓が、少し強く打った。

私は、藍色の布を見た。

布は静かに垂れている。

風もないのに、その向こう側だけが、少し深く息をしているように見えた。

怖かった。

でも、引き返したいとは思わなかった。

私は一度だけ、自分の手を見た。

さっきより、少しだけ開いているように見えた。

主人は、何も急がせなかった。

ただ、藍色の布の前に立っている。

倉橋さんが、黒いケースを抱え直した。

そして、主人の後に続いた。

私も、そのあとを追った。

布の向こうへ入る時、音はしなかった。

けれど、何かが閉じたような気がした。

外側の夜ではなく、私たちの内側にある何かが、静かに姿勢を変えたようだった。

六 売れた光、曇った心

藍色の布の向こうへ入ると、倉橋さんは少しだけ足を止めた。

無理もないと思った。

そこには、いかにも何かが起こりそうなものが、何ひとつ置かれていない。

香も、仏像も、何かを思わせる道具もない。
こちらを試すような気配すらない。
ただ、何もない。

その何もなさを、私は知っていた。

初めて入った時、私も拍子抜けした。

そして、何も感じないことが、かえって怖かった。

人の祈りや願いが染みついていない部屋。

誰かの意図で満たされていない部屋。

だからこそ、自分の中にあるものだけが、静かに浮かび上がってくる部屋。

倉橋さんも、それを感じたのかもしれない。

彼は黒いケースを抱えたまま、部屋の中を見回していた。

夕方から何度も見せた苛立ちは、そこにはなかった。

ただ、思っていた場所と違うものに出会った人の、わずかな戸惑いだけがあった。

部屋の中央には、深くもたれることのできる椅子がひとつある。

主人は、その椅子を手で示した。

「どうぞ、そこへ」

倉橋さんは、黒いケースを足元に置き、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。

体が沈む。

背中が支えられた瞬間、倉橋さんの肩から、ほんの少し力が抜けたように見えた。

けれどその姿は、楽になったというより、逃げ場を失った人のようにも見えた。

主人は、少し離れたところに置かれた簡素な椅子に腰を下ろした。

近すぎない。

遠すぎもしない。

その距離を見て、私は胸の奥で小さく息を吸った。

私は、藍色の布の脇に立とうとした。

前にこの部屋へ通された人を見届けた時、私はそこにいた。

部屋の中に入りきるでもなく、外にいるでもない場所。

私には、そのくらいの距離がふさわしいのだと思っていた。

けれど主人が、こちらを見た。

「水瀬さんは、こちらへ」

私は少し戸惑った。

「私も、ですか」

主人は頷いた。

「今夜は、近くで見てください」

近くで。

その言葉に、胸が少しだけ強く打った。

私は主人の脇へ移動した。

そこに椅子はなかった。

私は座るのではなく、立ったままだった。

そのことが、かえって自分の役割をはっきりさせた。

私は、助けるためにここにいるのではない。

言葉をかけるためでもない。

倉橋さんの代わりに何かを理解するためでもない。

ただ、見るためにここにいる。

主人は静かに言った。

「助けようとしなくて大丈夫です。ただ、観察してください」

観察。

その言葉が、何もない部屋の中で、思ったより深く響いた。

倉橋さんは、椅子に深くもたれたまま、目を閉じていた。

足元には、黒いケースが置かれている。

その中にあるグラスは見えない。

けれど、閉じたケースの中に、まだ光が残っているような気がした。

主人は、倉橋さんに向き直った。

「目を閉じたまま、呼吸を少しだけ深くしてください」

倉橋さんの肩が、ゆっくり上下した。

「何かを見ようとしなくて大丈夫です。思い出そうとしなくても大丈夫です。ただ、今、身体に起きることを、そのまま感じてください」

部屋の中には、何もない。

だからこそ、倉橋さんの呼吸だけがよく見えた。

はじめは、少し緊張しているだけに見えた。

けれど、やがてその緊張とは違うものが、倉橋さんの身体に起こり始めた。

肩の力が抜けていく。

膝の上に置かれた手も、そこにあるのに、だんだん本人のものではなくなっていくように見えた。

動かないのではない。

動かす必要が、少しずつ遠のいている。

倉橋さんの指先は、かすかに開いたままだった。

けれど、その手は何かを握ろうとしているわけでも、何かを拒もうとしているわけでもなかった。

ただ、置かれていた。

椅子に預けられた身体の重さが、少しずつ部屋に沈んでいく。

呼吸だけが残る。

まぶたの奥で、何かを見ているような静けさがある。

倉橋さんは、たしかにそこにいる。

けれど、意識の方は、もう別の場所へ向かい始めているようだった。

身体の感覚が遠のいて、意識だけが細く残っていく。

そんなふうに見えた。

「今、何が見えますか」

主人が尋ねた。

倉橋さんは、しばらく黙っていた。

まぶたが少し震えた。

「……赤い」

低い声だった。

「赤いものが見えます」

「赤いもの」

「火です」

倉橋さんの声が、少しずつ変わっていく。

さっきまでの経営者の声ではなかった。

もっと遠いところから、ゆっくり届いてくる声だった。

「大きな炉があります。熱い。息がしづらいくらい、熱いです」

「そこは、どんな場所ですか」

「工房……だと思います」

倉橋さんは、眉を少し寄せた。

「石の壁。天井は高くありません。窓が小さい。外は明るいのに、中は炉の火で赤い」

「外には、何がありますか」

主人が尋ねた。

その問いが終わるか終わらないかのうちに、私の鼻の奥に、かすかな潮の匂いが触れた。

もちろん、この部屋に海などない。

窓もない。

風も入らない。

あるのは、何もない部屋と、椅子に沈んだ倉橋さんと、主人の静かな声だけだった。

それなのに、私は感じていた。

湿った石畳。
細い水路に揺れる光。
遠くで鳴る鐘。

「水路があります」

少し遅れて、倉橋さんが言った。

「細い水路。船が通っています。海の匂いがする。石の建物が並んでいて……港町です」

私は息をひそめた。

その言葉を聞く前に、私はもう、同じ潮の匂いに触れていた。

けれど、何も言わなかった。

私が先に言葉にしてはいけない気がした。

私は、主人の脇に立ったまま、ただその気配を受け止めた。

「あなたは、そこで何をしていますか」

主人が尋ねた。

倉橋さんの喉が、小さく動いた。

「私は……工房を見ています」

「職人ですか」

「違います」

倉橋さんは、少し苦しそうに言った。

「私は、作れない。炉の前には立たない。けれど、全部を見ています。注文を受けて、職人に伝えて、品物を貴族の館へ納めています」

「商人ですか」

「商人……でもあります。工房主のようでもあります」

倉橋さんの手が、膝の上で少し動いた。

けれど、その動きも、今の彼が意識して動かしているようには見えなかった。

「私は、この工房を守らなければならないと思っています」

その言葉だけ、はっきりしていた。

「守らなければならない」

「はい。ここには職人がいます。家族がいます。炉を止めたら、みんな困る。注文を断れば、工房が傾く」

倉橋さんの呼吸が少し浅くなった。

「でも、職人たちは……美しいものを作りたいんです」

「あなたも、そう思っていますか」

「思っています」

即答だった。

その声に、今の倉橋さんと同じものがあった。

職人への敬意。

美しいものを前にした時だけ少し柔らかくなる、あの声。

「私は、あの人たちの技を知っています。火の前に立つ背中を見ている。溶けたガラスを巻き取る時の呼吸も、竿を回す手の癖も、全部知っている」

倉橋さんは、目を閉じたまま語り続けた。

「ガラスは、言うことを聞かない。熱すぎてもだめで、遅すぎてもだめで、一瞬で形が変わる。職人は、それを見ている。火を見ているんじゃない。火の中で、まだ形になっていないものを見ている」

私は、胸の奥が静かに震えるのを感じた。

これは、商売の話ではない。

この人は、本当に見ていたのだ。

職人の手を。

火の前で生まれるものを。

まだ形を持たない美しさを。

主人が短く尋ねた。

「何を作っていますか」

「グラス。酒器。花器。色の入った小さな器もあります」

倉橋さんは、少し間を置いた。

「それから……天井から下げるもの」

「下げるもの」

「シャンデリアです」

その言葉が出る少し前から、私はもう、頭上に細かな光を感じていた。

 暗い広間。

 高い天井。

 そこから、まだ形になりきらない光の粒が降りてくる。

けれど私は、黙っていた。

「たくさんのガラスが連なっている。火の光を受けると、部屋中に小さな光が散る。透明な葉のようなもの。花のようなもの。雫のようなもの。ひとつひとつは軽いのに、吊るすと、部屋全体が変わる」

倉橋さんの言葉が、私の中に先に現れていた風景を、少し遅れてなぞっていく。

そのことが、怖くもあり、静かでもあった。

私は、見えているのかもしれない。

でも、私が見ているのではない。

倉橋さんの中にあるものが、こちらにも淡く映っているだけなのだと思った。

そう思わないと、すぐに自分の力だと思ってしまいそうで怖かった。

「美しかったのですね」

主人が言った。

「美しかった」

倉橋さんは、ゆっくり頷いた。

「本当に、美しかった」

その声は、まるで祈りのようだった。

けれど、次の瞬間、倉橋さんの眉が苦しそうに歪んだ。

「でも……」

主人は待った。

「注文が来ます」

倉橋さんの声が低くなる。

「貴族の館からです。大きな広間に吊るすシャンデリア。酒宴で使う器も一緒に、客が見た瞬間に驚くようなものを作れと言われます」

「驚くようなもの」

「はい。もっと大きく。もっと派手に。もっと色を入れて。もっと複雑に。誰も見たことのないものを、と」

倉橋さんの手が、わずかに震えた。

私は、それを見ていた。

指が震えているのではなく、その奥にある記憶が、身体の端まで届いているように見えた。

「職人は、最初、嫌がります」

「なぜですか」

「美しさが違うからです」

その言葉は、静かだったが、深かった。

「彼らが作りたいものは、光を受けた時に、手の中で静かに変わるものです。使う人の息に近いもの。酒を注いだ時、初めてわかるもの。声を上げさせるためのものではない」

主人は何も言わなかった。

倉橋さんは続けた。

「でも、私は言います。工房を守るためだ、と。売れなければ、炉を守れない。職人の生活も守れない。美しいものを作り続けるためには、注文を受けなければならない、と」

「その言葉は、本心ですか」

 主人が尋ねた。

 倉橋さんは、すぐには答えなかった。

「本心です」

少し間を置いてから、そう言った。

「でも、それだけではありません」

「他には、何がありますか」

「認められたかった」

その言葉が、静かに落ちた。

私は、思わず倉橋さんを見た。

「私は、この工房の価値を見せたかった。貴族たちに、あの人たちの技を認めさせたかった。こんなものを作れる工房は他にないと、思わせたかった」

倉橋さんの声が、少しずつ熱を帯びていく。

「美しさを届けたいと思っていた。でも同時に、勝ちたかった。私が選んだ職人たちは本物だと。私が守っている工房には価値があると、証明したかった」

水瀬さん、と呼ばれたわけではない。

けれど、その言葉は私にも向けられているような気がした。

認めさせたい。

価値があると思われたい。

その声は、私の中にもあった。

「それで、どうしましたか」

主人が言った。

「受けました」

倉橋さんは答えた。

「大きな注文を受けました。広間に吊るすシャンデリアと、酒宴のための器。納期は短い。装飾は多い。職人たちは黙っていました。でも、目が違っていました」

「どんな目でしたか」

「私を見ていない目」

倉橋さんの声が少し震えた。

「私の向こうにいる貴族を見ている。私の言葉の後ろにある金を見ている。私は、職人たちの味方のふりをして、注文主の言葉を工房に持ち込んでいた」

主人は、静かに聞いていた。

「作業が始まります。炉の火が消えません。夜も遅くまで、職人たちが作り続けます。シャンデリアの部品は多い。小さな葉、雫、花、腕のように伸びる曲線。ひとつでも割れれば作り直しです」

倉橋さんの呼吸が、少し荒くなった。

「私は、急がせます」

「どのように」

「言葉は丁寧です」

その一言が、痛かった。

「私は怒鳴りません。職人を罵ったりもしません。ただ、言います。これが工房を守る仕事だ、と。ここで納められなければ、次はない、と。あなたたちの技を世に出すためだ、と」

私は、倉橋さんの夕方の声を思い出した。

丁寧な言葉の奥にあった、細い棘。

あの棘は、ずっと昔からあったのだろうか。

「職人たちは作ります。黙って作ります。私は、それを見ています。見ているつもりでした。でも、本当は見ていなかった」

「何を見ていなかったのですか」

「手です」

倉橋さんの声が低くなった。

「職人の手が震えている。火の前で、何時間も立っている。指に小さな傷がある。熱で皮膚が赤くなっている。でも私は、見ないふりをする」

何もない部屋の中で、その光景だけが、ひどく生々しかった。

火の赤さ。
職人の手。
見ないふりをした人の沈黙。

「やがて、シャンデリアが完成します」

倉橋さんは、静かに言った。

「広間に吊るされます。高い天井から、たくさんのガラスが下がっている。火の光を受けて、部屋中に小さな光が散る。壁にも、床にも、人の服にも、細かい光が落ちる」

その声は、少しだけ遠くを見ていた。

「貴族たちは喜びます。客も声を上げます。注文主は満足して、金も払います」

倉橋さんの口元が、わずかに歪んだ。

「成功です」

その言葉は、少しも明るくなかった。

「工房は救われました。借金も返せる。炉も守れる。職人の家族も食べられる。私は、やったのだと思いました」

「そう思いましたか」

「思おうとしました」

倉橋さんは言った。

「でも、完成したシャンデリアを見た時、何かが違いました」

私は、息を止めた。

「美しいのです。誰が見ても美しい。光を受けて、部屋全体を変える。これ以上ないくらい、華やかで、見事で、注文通りでした。なのに……」

倉橋さんの声が、かすれた。

「重いんです」

「重い」

「はい。天井から吊るされた光なのに、重く見える。ガラスは透明なのに、どこか曇っている。光を散らしているのに、その光の底に、何か沈んでいる」

私は、胸が苦しくなった。

光を散らすために作られたもの。

人を驚かせるために、広間を輝かせるために作られたもの。

それなのに、そこには、見えない重さが沈んでいる。

それは、職人の疲れかもしれなかった。

売る人の焦りかもしれなかった。

受け取る人の欲かもしれなかった。

そして、それらを見ないふりをした倉橋さん自身の心かもしれなかった。

「その時、誰かが言います」

倉橋さんが、静かに言った。

主人は、何も言わなかった。

「一人の職人です。若くはありません。ずっと工房にいた人です。私が一番信頼していた人かもしれません」

「何と言いましたか」

倉橋さんの喉が動いた。

「これは、あなたが見せたかった光です」

部屋の中に、その言葉が落ちた。

「私たちが守りたかった美しさではない」

私は、手を握りしめた。

倉橋さんの顔には、はっきりと痛みが浮かんでいた。

「私は、何も言えませんでした」

彼は続けた。

「怒ればよかったのかもしれない。反論すればよかったのかもしれない。工房を救ったのは私だと、言えばよかったのかもしれない。でも、言えませんでした」

「なぜですか」

「わかっていたからです」

倉橋さんの声は、ほとんど息のようだった。

「私は、売れる光を作らせた。美しさを世に出したのではなく、美しさを利用した。職人たちの技を、貴族たちの見栄と、自分の成功のために使った」

「本当に、それだけですか」

主人が静かに尋ねた。

倉橋さんの表情が、少し揺れた。

「……違います」

「何が違いますか」

「それだけではありません」

倉橋さんの声が、少しずつ深くなった。

「私は、本当に美しいものを世に出したかった。あの人たちの技を、誰にも知られないまま終わらせたくなかった。工房を守りたかった。炉の火を消したくなかった」

私は、そこで初めて、倉橋さんの過去の中にある愛を見た気がした。

失敗だけではない。

欲だけではない。

そこには確かに、守りたいものがあった。

「でも、途中で混じった」

倉橋さんは言った。

「認めさせたい気持ちが混じった。売らなければという焦りが混じった。大きな注文を取った自分を、価値ある人間だと思いたい気持ちが混じった」

混じった。

それは、さっき私が聞いた言葉でもあった。

私の親切の中に混じっていたもの。

倉橋さんの商いの中に混じっていたもの。

形は違っても、濁り方はどこか似ていた。

「その後、どうなりましたか」

主人が尋ねた。

「売れました」

倉橋さんは答えた。

「工房の名は広がりました。注文も増えました。でも、私はだんだん、売れることが怖くなりました」

「怖い」

「はい」

倉橋さんの手が、膝の上で少し震えた。

「売れるたびに、何かを裏切っている気がする。美しいものを作れば作るほど、それが誰かの欲のために使われる気がする。金が入るほど、心の中で何かが曇る」

主人は黙っていた。

「芸術性と売上は、一緒にはならない」

倉橋さんは、はっきりと言った。

「売れるものは、どこかで美を裏切っている。美しいものを商売にすれば、必ず濁る。そう思うようになりました」

その言葉は、今ここにいる倉橋さんの中にも、そのまま残っているようだった。

売りたいのに、売れることが怖い。

広げたいのに、広がると汚れる気がする。

職人を守りたいのに、売ることで職人を傷つける気がする。

だから、誰かを責める。

ホテルを責める。

担当者を責める。

価値をわからない客を責める。

本当は、自分がまた美しさを売り渡すことを恐れているのに。

「その職人の方は、あなたを責めていましたか」

主人が尋ねた。

倉橋さんは、少し長く黙った。

「……わかりません」

「見てください」

主人の声は、静かだった。

「その方の目を」

倉橋さんの呼吸が変わった。

部屋の空気まで、ゆっくり深くなるようだった。

「見えます」

倉橋さんは言った。

「その人が、私を見ています。怒っているようにも見える。でも……違う」

「何が違いますか」

「悲しんでいる」

倉橋さんの声が震えた。

「私を責めているというより、私が自分で自分を失っていることを、悲しんでいる」

私は、胸の奥が熱くなった。

「その人は、何を伝えたいのでしょう」

主人が尋ねた。

倉橋さんは、目を閉じたまま、ゆっくりと首を横に振った。

「言葉ではない。目で言っています」

「何を」

「あなたは、美しさを愛していたはずだ、と」

倉橋さんの声が崩れた。

「私たちの技を、本当に見てくれていたはずだ。炉の火を見て、ガラスが息をする瞬間を見て、誰よりも喜んでいたはずだ、と」

涙は流れていなかった。

けれど、その声には涙があった。

「なのに、なぜ、認めさせることばかり見ているのか。なぜ、貴族の声ばかり聞いているのか。なぜ、売れたかどうかで、自分の価値を測っているのか」

主人は、静かに言った。

「本当は、何がしたかったのですか」

倉橋さんは、すぐには答えなかった。

長い沈黙があった。

私は、その沈黙の中で、窓のない部屋に遠い海の気配を感じた。

炉の熱。
水路の光。
シャンデリアに散る火の色。
そして、疲れた職人の手。

「渡したかった」

倉橋さんが言った。

「美しさを、渡したかった」

その声は、とても小さかった。

「誰かを驚かせたかったわけじゃない。高く売りたかっただけでもない。工房を有名にしたかっただけでもない」

倉橋さんは、息を吸った。

「初めてガラスが光った時の、あの感じを、誰かに渡したかった」

私の胸が、強く揺れた。

それは、占いコーナーの話をもらった私にもわかる言葉だった。

誰かに認められたい。

価値ある人間だと思われたい。

その気持ちの奥にも、もしかしたら、もっと静かな願いがあるのかもしれない。

誰かに届けたいもの。

誰かの中で、少しだけ光が動く瞬間を見たいという願い。

「大切な思いは、そこにありますか」

主人が尋ねた。

「あります」

倉橋さんは答えた。

「ずっと、そこにありました。でも私は、それを忘れた」

「忘れたのですか」

「いいえ」

倉橋さんは、苦しそうに微笑んだ。

「置き忘れたんです」

その言葉を聞いた瞬間、私は黒いケースのことを思い出した。

カウンターの端に置き忘れられていた、あのケース。

大切に扱っていたはずなのに、仕事の電話ひとつで置き去りにされたもの。

あれは、ただの忘れ物ではなかったのだ。

倉橋さんの魂の形を、そのまま見せていたのかもしれない。

主人が言った。

「そこで、何を学んでいますか」

倉橋さんは、静かに息を吐いた。

「売れることが、美しさを汚すのではありません」

その声は、さっきまでより少し澄んでいた。

「汚すのは、私が受け取ったものを忘れることです。職人の手。火の時間。最初に見た光。そこにあった思い。それを受け取らないまま、認めさせようとすることです」

私は、目を伏せた。

それは、倉橋さんだけの言葉ではなかった。

「受け取りすぎれば、欲になります」

倉橋さんは続けた。

「与えすぎれば、自分を失います」

主人は何も言わなかった。

「商いとは、その間にある器を見ることだったのだと思います。どちらかを勝たせることではなく、受け取ったものを、曇らせずに渡すこと」

その言葉は、カウンターで主人が語った言葉を、倉橋さん自身の奥からもう一度出てきたもののようだった。

私は、倉橋さんの横顔を見た。

今の彼は、社長でも、商人でも、責める人でもなかった。

ただ、自分が置き忘れたものを見つけようとしている人だった。

「その職人に、今、何を伝えたいですか」

主人が尋ねた。

倉橋さんの唇が、少し震えた。

「見ていました、と」

彼は言った。

「あなたの手を、本当は見ていました。火の前に立つ背中を見ていました。あなたが作るものを、美しいと思っていました」

声が、少しずつ深くなる。

「でも、守るという言葉で、あなたを急がせた。世に出すという言葉で、自分を正当化した。あなたの美しさを、私の成功の形に合わせようとした」

倉橋さんは、頭を少し下げた。

「すみません」

その謝罪は、誰に向けられたものなのか、私にはわからなかった。

 過去の職人か。
 今の職人か。
 それとも、自分自身か。

けれど、そのどれでもあるように思えた。

主人は、しばらく黙っていた。

それから、静かに言った。

「その方は、受け取っていますか」

倉橋さんは、長い時間、何も言わなかった。

やがて、ほんの少しだけ頷いた。

「……頷いています」

声は、かすれていた。

「でも、こう言っています」

「何と」

「まだ、作りなさい」

倉橋さんの表情が、驚きに変わった。

「売ることを恐れるな。商うことを憎むな。あなたが本当に受け取るなら、売ることも、渡すことになる」

部屋の何もなさが、ほんの少しだけ柔らかくなったように感じた。

「売ることも、渡すこと」

倉橋さんが繰り返した。

「はい……そう言っています」

その声には、さっきまでの痛みだけではないものがあった。

救い、と呼ぶにはまだ早い。

けれど、長く閉じていた窓が、ほんの少し開いたような声だった。

主人は、ゆっくりと言った。

「今のあなたは、どこにいますか」

倉橋さんは、深く息を吸った。

「工房にいます」

「何が見えますか」

「炉の火です」

「その火は、どう見えますか」

「怖くありません」

倉橋さんの肩から、少し力が抜けた。

「熱い。でも、怖くない。火はただ、形になる前のものを温めているだけです」

主人は頷いた。

「では、その火を胸に置いて、こちらへ戻ってきてください」

倉橋さんの呼吸が、少しずつ変わっていった。

椅子に沈んでいた身体の輪郭が、少しずつ戻ってくる。

膝の上に置かれていた手が、ゆっくり本人のものに戻っていくように見えた。

 指先が、わずかに動く。
 呼吸の深さが、少し変わる。
 遠くへ向かっていた意識が、
 ゆっくりと、この何もない部屋へ帰ってくる。

主人は、何も急がせなかった。

倉橋さんのまぶたが、ゆっくり開いた。

最初、彼はどこを見ているのかわからない目をしていた。

目の前の何もない部屋に戻ってきているのに、まだ遠い炉の火を見ているようだった。

やがて、その目が足元の黒いケースに向いた。

倉橋さんは、ケースに手を置いた。

今までとは違う手つきだった。

守ろうとしている手ではなく、何かに触れ直している手だった。

「……重いですね」

彼は小さく言った。

私は、何も言えなかった。

「でも、嫌な重さではありません」

倉橋さんは、少しだけ目を閉じた。

「受け取った重さです」

主人は頷いた。

私は、その言葉を胸の中で繰り返した。

受け取った重さ。

私も、いつかそう言えるだろうか。

白石さんから渡されたもの。

人からもらった言葉。

返ってこなかったと思っていたもの。

自分が握りしめていた期待。

それらを、責める材料ではなく、受け取った重さとして抱えられる日が来るのだろうか。

藍色の布の向こうで、夜はまだ深かった。

けれど、部屋の中には、さっきまでとは違う静けさがあった。

それは、何もない部屋の沈黙だった。

けれど、もう空っぽには感じなかった。

何かが終わり、何かが始まる前の静けさだった。

七 朝の光


朝が来ても、昨夜のことは、まだ身体の奥に残っていた。

眠れたのか、眠れなかったのか、自分でもよくわからない。

ただ、気づくと窓の外が薄く明るくなっていて、山の輪郭が、夜の黒さの中から少しずつ戻ってきていた。

私は布団の上でしばらく動けずにいた。

藍色の布の向こう。

何もない部屋。


深く身体を預ける椅子。

椅子に沈んでいく倉橋さんの呼吸。

そして、言葉になる前にこちらへ触れてきた、潮の匂いと炉の熱。

それらが、夢のように遠くもあり、今もすぐそばにあるもののようにも感じられた。

ヒプノセラピーという方法で、過去の記憶や、本人の奥にあるイメージへ入っていくことがある。

そのくらいの知識は、私にもあった。

占い師として、そういう話を聞いたことがないわけではない。

本で読んだこともあるし、体験談を耳にしたこともある。

けれど、知っていることと、目の前で起こることは違っていた。

倉橋さんは、ただ物語を作っていたのではない。

少なくとも、私にはそう見えなかった。

言葉が出る前に、風景の気配がこちらにも触れていた。

 潮の匂い。
 炉の赤さ。
 天井から降る、細かな光。

あれを、ただの想像として片づけることはできなかった。

主人は、ずっとああいうものを見ていたのだろうか。

見る、というより、受け取る。

受け取っても、すぐには自分の言葉にしない。

相手自身の口から出てくるまで、待つ。

私は昨夜、その端に少しだけ触れたのかもしれない。

そう思うと、怖かった。

でも、その怖さは、嫌なものではなかった。

自分の中に、まだ扱いきれない場所があると知った時の怖さだった。

私はゆっくり起き上がった。

部屋の隅に置いた鞄の上には、スマートフォンがある。

白石さんからのメールは、そこに入ったままだった。

 企画、通りました。
 占いコーナーの件です。
 水瀬さんにお願いしたいです。

昨日まで、その言葉は私を試しているようにも見えた。

 期待されている。
 失敗できない。
 認められなければならない。

けれど今朝は、少し違っていた。

白石さんは、私に結果を差し出せと言ったのではないのかもしれない。

場所を渡してくれたのかもしれない。

そして私は、その場所を受け取る前に、すぐ自分の価値へ結びつけようとしていた。

 認められるために。
 失望されないために。
 今度こそ、必要な人間だと思われるために。

それは、倉橋さんが職人の美しさを、貴族に認めさせようとしていたことと、どこか似ていた。

私は、すでに受け取っていたのだと思う。

白石さんからの信頼。

これまで私の前で話してくれた人たちの言葉。

届かなかった鑑定。

怒らせてしまった相談者の沈黙。

それでも、もう一度人の話を聞きたいと思ってきた自分の願い。

受け取っていなかったのではない。

受け取ったものを、すぐに「私を認めてください」という形に変えようとしていた。

だから、手が閉じていたのかもしれない。

受け取ったものを、そのまま渡す。

その言葉が、胸の中で静かに動いた。

朝食の時間になり、私は部屋を出た。

二階の廊下は、昨夜とはまるで違っていた。

藍色の布は、いつものように廊下の奥に垂れているだけだった。

夜には、あの布の向こうにすべてが集まっているように見えた。

けれど朝の光の中では、ただの布に見える。

だからといって、昨夜のことが消えたわけではなかった。

私は、その布の前を通る時、少しだけ足を止めた。

何かに頭を下げるような気持ちになったが、実際には何もしなかった。

ただ、静かに息を吸い、階段を下りた。

食堂には、まだ誰もいなかった。

主人は、カウンターの奥で朝食の支度をしていた。

パンの香りと、温かいスープの匂いがした。

「おはようございます」

主人が言った。

「おはようございます」

私は答えた。

それだけの挨拶だった。

けれど、昨日よりも少しだけ、自分の声が静かに聞こえた。

席に着こうとした時、廊下の方から足音がした。

倉橋さんだった。

黒いケースを持っている。

けれど、その持ち方は昨日とは違っていた。

昨日は、壊れやすいものを守るように抱えていた。

今朝は、少し違う。

守っているというより、受け取った重さを確かめながら持っているように見えた。

「おはようございます」

倉橋さんは、私と主人に向かって静かに頭を下げた。

「おはようございます」

私は少し緊張しながら返した。

昨夜のことを、どう扱えばいいのかわからなかった。

あれは何だったのか。

どう言葉にすればいいのか。

そもそも、言葉にしてよいものなのか。

けれど倉橋さんは、昨夜の話をすぐにはしなかった。

ただ、カウンターの席に腰を下ろし、黒いケースを自分の足元に置いた。

置き方は、やはり丁寧だった。

でも、昨日のような張りつめた緊張はなかった。

主人が、温かいお茶を出した。

倉橋さんはそれを受け取り、今度はすぐに飲まなかった。

両手で湯呑みを包み、立ちのぼる湯気を少し見ていた。

それから、ゆっくり一口飲んだ。

その動きだけで、私は昨夜の酒のことを思い出した。

味わわずに飲み干した酒。

受け取らずに押し流したもの。

今朝の倉橋さんは、少なくとも、その湯呑みを通り過ぎてはいなかった。

しばらくして、倉橋さんはスマートフォンを取り出した。

画面を見つめ、何かを少し考えているようだった。

昨日なら、その顔にはすぐ苛立ちが出ていたと思う。

けれど今朝は、違った。

 迷いはある。
 不安もある。

それでも、誰かを責める言葉を探している顔ではなかった。

倉橋さんは、短い文章を打ち始めた。

私は見ないようにした。

けれど、すぐ近くに座っていたので、指の動きだけは見えていた。

 打って、止まる。
 少し消す。
 また打つ。

その繰り返しだった。

やがて倉橋さんは、送信ボタンを押した。

それから、湯呑みをもう一度手に取った。

「社員に、今朝の確認を送りました」

倉橋さんが言った。

私に向けた言葉なのか、主人に向けた言葉なのか、少しわからなかった。

主人は静かに聞いていた。

「今日は、価格で押すのではなく、職人の仕事をきちんと見てもらうところから始めようと思います」

倉橋さんは、ゆっくりと言った。

「もちろん、商談ですから、価格も数量も必要です。ホテル側の事情もあります。こちらの理想だけを押しつけるわけにはいきません」

そこで一度、言葉を切った。

「でも、わからせようとするのは、少し違うのかもしれません」

その声は、低かった。

「わからせるのではなく、渡す。
 受け取るかどうかは、相手の手に委ねる」

主人は頷いた。

「はい」

それだけだった。

倉橋さんは、少しだけ苦笑した。

「それが一番、難しいですね」

私は、その言葉に胸の奥が揺れた。

本当にそうだと思った。

相手に渡す。

でも、どう受け取られるかまでは決められない。

言葉も、仕事も、グラスも、占いも、たぶん同じなのだ。

倉橋さんは、足元の黒いケースに目を落とした。
「職人からは、ずいぶんたくさん受け取っていたんだと思います」

その言葉は、とても静かだった。

「技術だけではありません。時間も、信頼も、任せますという言葉も。あの人たちが黙って作り続けてきた姿も」

倉橋さんは、少しだけ息を吐いた。

「それを、私は売上で証明しようとしていました。ホテルに認めさせようとしていた。職人のためだと言いながら、どこかで、自分の価値も一緒に証明したかったのだと思います」

主人は、何も言わなかった。

「だから、結果がついてこなかったのかもしれません」

倉橋さんは言った。

けれど、その言い方は、自分を罰するものではなかった。

「結果が悪かったというより、私の手が、どこか閉じていた。受け取ったものを渡す前に、見返りの形を決めていたんです」

私は、その言葉を聞きながら、自分の手を見た。

私も、同じだった。

占いコーナーの話をもらった。

信頼を受け取った。

これまでの出会いも、失敗も、痛みも、全部、私の中にあった。

それなのに私は、それをすぐに「認められる結果」に変えようとしていた。

 読者に喜ばれたい。
 白石さんに頼んでよかったと思われたい。
 価値ある占い師だと思われたい。

そう思うことが、すべて悪いわけではないのだと思う。

でも、その気持ちが強くなりすぎると、渡すものが濁る。

受け取ったものを、そのまま渡す。

私は、もう一度その言葉を胸の中で繰り返した。

朝食が運ばれてきた。

 パン。
 スープ。
 小さな皿に盛られた果物。
 林檎のジャム。

昨日までと同じような朝食だった。

けれど、今朝は一つひとつが、少し違って見えた。

急いで意味にしなくていいもの。

ただ、そこに差し出されているもの。

私は、温かいうちにスープを飲んだ。

倉橋さんも、黙って朝食を食べていた。

沈黙はあった。

けれど、昨日のような張りつめた沈黙ではなかった。

それぞれが、それぞれの中で、受け取ったものを確かめているような沈黙だった。

食事を終えると、倉橋さんは立ち上がった。

黒いケースを持ち上げる。

その動きに、昨日のような焦りはなかった。

「行ってまいります」

倉橋さんは主人に言った。

主人は静かに頷いた。

「お気をつけて」

それだけだった。

倉橋さんは、私の方へも軽く頭を下げた。

「水瀬さん」

「はい」

「昨夜は、ありがとうございました」

私は少し慌てた。

「私は、何もしていません」

そう言うと、倉橋さんは、ほんの少し笑った。

「そうですね」

その返事に、私は一瞬戸惑った。

けれど、倉橋さんは続けた。

「でも、いてくださった」

その言葉に、胸の奥が静かに震えた。

何かを言ったからではない。

助けたからでもない。

正しい答えを渡したからでもない。

ただ、そこにいた。

それが、何かになっていたのだとしたら。

私は、どう返していいかわからず、小さく頭を下げた。

「行ってらっしゃいませ」

そう言うと、倉橋さんはもう一度軽く頭を下げ、玄関へ向かった。

外の光が、開いた戸の隙間から入ってくる。

倉橋さんの背中は、最初に宿へ入ってきた時とは少し違って見えた。

大きくなったわけではない。

自信に満ちたわけでもない。

商談が成功すると決まったわけでもない。

ただ、背負っているものを、誰かのせいにせずに持っていこうとしている背中だった。

戸が閉まると、食堂には静けさが戻った。

私は、しばらくその戸を見ていた。

主人が、空いた皿を静かに片づけている。

何事もなかったように。

でも、何もなかったわけではない。

私は鞄からスマートフォンを取り出した。

白石さんのメールを開く。

画面には、昨日と同じ文章が並んでいた。

『企画、通りました。占いコーナーの件です。水瀬さんにお願いしたいです』

けれど、もう同じ言葉には見えなかった。

認められるための依頼ではない。

失敗してはいけない試験でもない。

すでに渡されていたもの。

私は、返信欄を開いた。

何度も書き直したくなる気持ちは、まだあった。

ちゃんとした言葉にしたい。

期待に応えているように見せたい。

この人に任せてよかったと思われる返事をしたい。

その気持ちは、消えていなかった。

けれど、その奥で、もう一つの思いが静かに動いていた。

受け取ったものを、そのまま渡そう。

私をよく見せるためではなく。

私の価値を証明するためでもなく。

白石さんから受け取った信頼を、できるだけ曇らせずに、次の人へ渡していこう。

そう思いながら、私は短い返事を書いた。

送信ボタンを押したあと、すぐに胸が落ち着いたわけではなかった。

これでよかったのだろうか。

本当に、受け取ったものを渡せたのだろうか。

そんな不安は、まだ残っていた。

けれど、その不安を消すために、もう一通、言葉を足そうとは思わなかった。

私は、スマートフォンを伏せた。

窓の外には、朝の光があった。

昨夜は見えなかった山の輪郭が、静かにそこに戻っていた。

何かが完全に変わったわけではない。

それでも私は、自分の手が少しだけ開いていることに気づいていた。


次に宿を訪れたのは、「会いたい」という願いを、手放せない人でした。


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