声を聴く宿 第四話 急がなくていい
あらすじ
連載を通じて、相談者の心の奥に触れる文章を書くようになった水瀬は、いつしか宿の主人の「聞き方」をなぞっている自分に気づく。しかし主人のことを調べても、わかるのは「この宿には、話を聞く人がいる」という一文だけだった。そんな中、白石との関係にも少しずつ変化が生まれ始める。再び宿を訪れた水瀬の前に現れたのは、亡くなった息子・悠真に会いたいと願う香坂由紀子だった。奥の部屋で香坂は、明るい世界の中に息子の気配を感じるが、近づこうとするほど届かない。やがて守護霊の言葉を通じて、香坂は「知る必要はない」「探し続ける必要はない」と知る。水瀬もまた、知らなくていい、今は急がなくていいという静けさを受け取っていく。
一 調べても、わからない人
連載が始まってから、私は週に一度、白石さんと打ち合わせをするようになった。
最初は、記事の長さや掲載日、写真の選び方、読者から届いた感想について話すだけだった。
けれど、回を重ねるうちに、私は少しずつ、自分が書いているものの奇妙さに気づき始めていた。
私は、占いの記事を書いている。
それは星座ごとの運勢を並べるようなものではなかった。
読者から届いた相談を一つ選び、その悩みに対して私がカードを引く。
そして、出たカードの意味を手がかりにしながら、相談者の心の奥にあるものを言葉にしていく。
恋愛の悩み。
親子の悩み。
仕事の悩み。
自分が何を望んでいるのかわからない、という悩み。
相談の形は違っていても、読んでいるうちに、どこか同じ場所へ降りていくような感覚があった。
私はカードの意味を説明している。
けれど、本当に書こうとしているのは、カードそのものではなかった。
相談者がまだ言葉にできていない問い。
その人自身も気づいていない痛み。
そして、読者が自分のこととして受け取れるような、最後の短い言葉。
けれど、書けば書くほど、私は自分がただ占いの結果を書いているだけではないことに気づいていた。
答えを急がないこと。
相手の言葉を途中で奪わないこと。
沈黙の中にあるものを、すぐに説明しようとしないこと。
それは、いつの間にか、主人から学んだ「聞き方」をなぞっているようでもあった。
私は、あの宿で起きたことを書いているわけではない。
主人の名前を記事に出しているわけでもない。
奥の部屋のことを書いているわけでもない。
それなのに、文章の奥には、いつも主人の気配があった。
静かな声。
急がない間合い。
人の言葉の奥にあるものを、少しも乱さずに待つ姿。
私は、その人の影を借りるようにして、読者への言葉を書いている。
そう気づいた時、胸の奥に小さな違和感が浮かんだ。
私は、あの人のことを、ほとんど知らない。
名前も知らない。
年齢も知らない。
あの宿をいつからやっているのかも知らない。
なぜ、あんなふうに人の話を聞けるのかも知らない。
知っているのは、静かな声と、急がない間合いだけだった。
奥の部屋へ向かう時の、あの不思議な背中。
こちらが何かを言う前から、すでにわかっているような目。
そして、目の前の人より少し深い場所を見ているような沈黙。
それだけだった。
そのことに気づいてから、私はどうにも落ち着かなくなった。
ある夜、原稿を書き終えたあと、私はパソコンを閉じることができずにいた。
画面には、次回の記事の下書きが残っていた。
相談者の悩み。
カードの意味。
そこから読み取った心の動き。
そして、最後に添える短い言葉。
読み返しているうちに、私は何度も主人のことを思い出していた。
もし主人なら、この悩みをどう聞くだろう。
どこで黙るだろう。
どの言葉を急がずに待つだろう。
そう考えている自分に気づいた時、急に怖くなった。
私は、主人を知っているような気になっている。
けれど、本当は何も知らない。
そう思った瞬間、指が勝手に動いていた。
宿の名前を検索した。
いくつかの情報は、すぐに出てきた。
地図アプリの登録。
古い旅行記のようなブログ。
地域紹介の記事。
数は多くなかったけれど、宿そのものは確かに存在していた。
口コミには、短い言葉が並んでいた。
静かな宿でした。
食事が丁寧でした。
山の空気がよかったです。
不思議と、帰るころには気持ちが軽くなっていました。
そのどれも、悪い印象ではなかった。
けれど、どれも主人の輪郭には触れていなかった。
宿の建物については書かれている。
料理についても書かれている。
駅からの道のりについても書かれている。
細い坂道の手前でタクシーを降りた、という記述もあった。
でも、主人の名前だけが、どこにもない。
「ご主人が親切でした」
「静かなご主人でした」
「こちらの話を急かさずに聞いてくださいました」
それだけだった。
私は、さらに古い記事まで遡った。
十年前のブログ。
もっと前の地域案内。
観光協会の小さな紹介文。
写真は荒く、文章も短かった。
それでも、宿はそこにあった。
同じ山あいに。
同じように、道の奥に。
同じように、訪れた人の言葉を少しだけ変えて帰す場所として。
けれど、やはり主人のことはわからなかった。
私は何度も検索語を変えた。
宿の名前に、「主人」と入れてみる。
「聞く」「相談」「不思議」「奥の部屋」まで入れてみる。
自分でも少しおかしいと思った。
けれど、やめられなかった。
調べれば、何か出てくると思っていた。
名前でも、経歴でも、過去の記事でもいい。
あの人が何者なのかを、少しでも教えてくれるものが欲しかった。
けれど、出てくるのはいつも宿のことばかりだった。
建物。
食事。
山道。
静けさ。
そして、帰るころにはなぜか気持ちが軽くなる、という曖昧な感想。
主人は、そこにいるはずなのに、どこにもいなかった。
しばらくして、古い地域紹介の記事の中に、一文だけ気になる言葉を見つけた。
そこには、こう書かれていた。
「この宿には、話を聞く人がいる」
それだけだった。
名前もない。
肩書きもない。
顔写真もない。
ただ、その一文だけが、記事の中に置かれていた。
私は、しばらく画面を見つめていた。
話を聞く人。
それは、今の主人のことなのだろうか。
それとも、昔この宿にいた別の誰かなのだろうか。
わからなかった。
けれど、その言葉だけが、他のどんな口コミよりも、主人に近い気がした。
話を聞く人。
そう呼ばれている人が、この宿にはいた。
あるいは、今もいる。
それだけのことなのに、私はなぜか、少し怖くなった。
主人は、何者なのだろう。
ただの宿の主人なのか。
それとも、私がまだ知らない何かを背負っている人なのか。
答えは出なかった。
調べれば、少しはわかると思っていた。
けれど、わかったことはほとんどなかった。
むしろ、知りたい気持ちだけが、前よりも大きくなっていた。
知らないまま会っていた時には、平気だった。
けれど、知ろうとして、わからなかったあとでは、かえって距離が生まれたような気がした。
あの人は、誰なのか。
その問いだけが、静かに胸の中に残った。
二 白石さんとの距離
白石さんとの打ち合わせは、いつも画面越しだった。
最初のころは、それでちょうどよかった。
仕事の話だけをしていればよかったからだ。
次の記事で扱う相談。
カードの意味をどこまで説明するか。
相談者の個人的な事情をどこまでぼかすか。
読者が自分の悩みとして受け取れるように、最後の問いをどう整えるか。
話すことは、いくらでもあった。
白石さんは、仕事が早かった。
こちらが迷っているうちに、読者から届いた相談をいくつか整理してくれている。
感想の傾向も、数字の動きも、記事の保存数も、すでに見ている。
そのうえで、こちらの言葉を急かさずに待ってくれる。
最初にメールをもらった時の白石さんは、もっと硬い人に見えた。
丁寧で、無駄がなく、仕事の距離をきちんと保つ人。
けれど、画面越しに何度も話すうちに、その印象は少しずつ変わっていった。
必要なことはきちんと伝える。
でも、ふとしたところで軽い冗談を混ぜる。
仕事の話をしているはずなのに、時々こちらの緊張がほどける。
メールだけではわからなかった顔が、少しずつ見えてきた気がした。
最初は、少し不思議だった。
仕事ができる人なのに、結論を急がない。
判断は早いのに、人の言葉は待つ。
その二つが、白石さんの中では自然につながっているようだった。
「水瀬さん」
ある日の打ち合わせで、白石さんが少し嬉しそうに言った。
「最近、届き方が変わってきましたよ」
「届き方、ですか」
「はい。記事の反応です」
白石さんは、画面の向こうで資料を見ながら言った。
「派手にバズっているわけではないんです」
「それは、いい話なんでしょうか」
思わずそう聞くと、白石さんは笑った。
「いい話です。かなり」
その言い方が少し軽くて、私は少しだけ力が抜けた。
「普通、占いの記事って、読んだ直後に反応が来ることが多いんです。わかりやすい言葉とか、すぐ励まされる言葉とか、そういうものに反応が集まりやすい」
「はい」
「でも、水瀬さんの記事は少し違います」
白石さんは、画面に視線を落とした。
「翌日とか、二日後とか、少し時間が経ってから感想が来るんです。保存数も増えています。何度か読み返している人がいるんだと思います」
「そうなんですか」
「そうなんです」
白石さんは、少し得意そうにうなずいた。
「編集部では、静かにざわついています」
「静かにざわつくって、どういう状態ですか」
「水瀬さんの記事みたいな状態です」
「それは説明になってますか」
「なってます」
白石さんは、少し笑った。
「派手じゃないのに、あとから効いてくる」
その言葉に、私はすぐには返事ができなかった。
あとから効いてくる。
それは褒め言葉なのだろう。
白石さんの表情を見れば、それはわかる。
けれど、私はうまく受け取れなかった。
自分の記事が、誰かの中に残っている。
何度も読み返されている。
時間を置いてから、感想が届く。
それはありがたいことのはずだった。
けれど同時に、少し怖かった。
私は、ただ占いの記事を書いているつもりだった。
読者から届いた相談を読み、カードを引き、その意味を手がかりにして文章を書く。
それだけのはずだった。
けれど、もし読者がそこに、もっと深いものを求め始めているのだとしたら。
私は、その期待を受け取れるのだろうか。
「今回の記事も、反応がよかったです」
白石さんは続けた。
「特に最後の問いですね。『あなたは本当に答えを欲しがっていたのでしょうか。もしかすると、ただ早く安心したかっただけなのかもしれません』というところ」
私は、少しだけ黙った。
それは、記事の最後に添えた言葉だった。
カードの意味から導いたというより、相談者の文章を何度も読み返しているうちに、ふと出てきた言葉だった。
けれど、白石さんにそう言われると、自分の中まで見られたような気がした。
「そうですか」
私は、短く答えた。
白石さんは、その反応に気づいたのか、少しだけ声をやわらかくした。
「正直に言うと」
白石さんは、少し言いにくそうに笑った。
「水瀬さんの記事って、占い記事としては少し扱いづらいんです」
「扱いづらい」
「あ、いい意味です」
「それ、たぶん編集者の人しか使わない言い訳ですよね」
「ばれましたか」
白石さんは、画面の向こうで少し肩をすくめた。
その仕草が、思ったより子どもっぽくて、私は少し笑ってしまった。
「普通の占い記事なら、『こうしましょう』で終わります。読者も、それを期待しているところがあります」
「はい」
「でも水瀬さんの記事は、そこで終わらないんです」
白石さんは、先ほどより少し真面目な声になった。
「答えを出し切らない。少し怖いところで止まるんです」
「怖いところ」
「はい」
白石さんは、うなずいた。
「でも、その怖さがあるから、残るんだと思います」
怖い。
でも、残る。
その言葉は、すぐに胸から離れなかった。
私自身も、書きながら怖いと思うことがあった。
カードの意味を書いているはずなのに、いつの間にか、相談者の奥にあるものに触れているような気がする。
そして、その時いつも、主人のことを思い出していた。
相手の言葉を急がないこと。
沈黙の中にあるものを、すぐに説明しようとしないこと。
答えを渡すより先に、その人がどこで止まっているのかを見ること。
私は、それを記事の中でなぞっているのかもしれない。
でも、その主人のことを、私は何も知らない。
その事実が、また胸の奥で小さく動いた。
「そういえば」
白石さんは、ふと思い出したように言った。
「連載のお祝い、まだちゃんとしていませんでしたね」
「お祝い、ですか」
「はい」
白石さんは、少しだけ照れたように笑った。
「よかったら、今度、食事でもどうですか」
私は、一瞬、返事に迷った。
「打ち合わせの延長、ですか」
そう聞くと、白石さんは少し早く答えた。
「もちろんです」
少し間があった。
「……たぶん」
「たぶん?」
「いえ、編集者として、です」
白石さんは、妙に真面目な顔をした。
「連載のお祝いですから」
その言い方が少し不器用で、私は返事に困った。
仕事の相手と食事をする。
それだけのことだった。
けれど、私の中には、いつもの癖が顔を出した。
近づきすぎない方がいい。
期待しすぎない方がいい。
丁寧にしてくれる人ほど、あとで遠くなるかもしれない。
そんな声が、胸の奥で小さく動いた。
でも、その声は以前ほど強くなかった。
白石さんは、私に何かを約束したわけではない。
特別な言葉をくれたわけでもない。
ただ、私の記事を読んで、そこに起きている変化を見てくれている。
それだけだった。
それだけなのに、私は少し、断る理由を探すのに疲れていた。
「はい」
気づくと、私はうなずいていた。
「ぜひ」
白石さんは、画面の向こうで、ほっとしたように笑った。
「よかったです」
そして、少しだけ冗談めかして言った。
「では、ちゃんと美味しい店を探しておきます。編集者として」
「そこも編集者なんですね」
「情報収集は仕事ですから」
その軽さに、私はまた少し笑った。
画面を閉じたあと、部屋は急に静かになった。
白石さんの言葉だけが、まだ残っていた。
派手じゃないのに、あとから効いてくる。
怖いけれど、残る。
私は、パソコンの黒くなった画面をしばらく見つめていた。
外側で何かが少しずつ変わり始めている。
そんな気がした。
けれど、それが何なのかは、まだわからなかった。
数日後、私は白石さんと向かい合って座っていた。
店は、駅から少し離れたところにあった。
小さな洋食店だった。
木のテーブルと白い皿。
壁際に並んだ小さなランプ。
窓際には、背の低い観葉植物が置かれていた。
賑やかすぎず、静かすぎもしない。
隣の席の声は聞こえるのに、何を話しているかまではわからない。
仕事の話をするには、ちょうどよかった。
けれど、仕事だけの場所という感じでもなかった。
白石さんは、メニューを閉じると、少し照れたように言った。
「こうしてお会いするのは、少し不思議ですね」
「そうですね」
私は、曖昧に笑った。
画面越しで何度も話しているのに、同じ空間にいるだけで、距離の測り方がわからなくなる。
声の大きさ。
視線を置く場所。
沈黙の長さ。
相手が水を飲む時の間。
画面越しなら気にならなかったものが、急に近くに来る。
料理が運ばれてきて、しばらくは他愛のない話をした。
読者から届いた相談が増えていること。
連載のタイトルを少し変えるかもしれないこと。
写真をもう少し柔らかい雰囲気にした方がいいかもしれないこと。
それは、いつもの打ち合わせの延長だった。
だから私は、少し安心していた。
けれど、食事が半分ほど進んだころ、白石さんがふとフォークを置いた。
「この前の打ち合わせで言おうか迷ったんですが」
その言い方に、私は少しだけ身構えた。
「はい」
白石さんは、言葉を選ぶように少し間を置いた。
「水瀬さん、少し変わりましたよね」
「私が、ですか」
「はい。文章もですけど、たぶん雰囲気も」
私は、少し困った。
「雰囲気って、編集の仕事に入るんですか」
「入ります」
「本当ですか」
「少なくとも、今日は入ります」
その言い方が少しおかしくて、私は思わず笑ってしまった。
白石さんも笑った。
その笑い方に、私は少し戸惑った。
白石さんは、ただ仕事として私を見ているのだろうか。
それとも、少し違うのだろうか。
そう考えかけて、すぐにやめた。
また、私は何かを急いで決めようとしている。
この人はこういう人だ。
この関係はこういうものだ。
これは仕事だ。
これは好意だ。
そうやって名前をつければ、少し安心する。
でも、今はまだ、そこまで急がなくていいのかもしれない。
白石さんは、水を一口飲んでから言った。
「前より、急がなくなった気がします」
急がなくなった。
その言葉に、私はすぐには返事ができなかった。
褒められたのかどうか、わからなかった。
以前の私は、もっと早く答えを出そうとしていたのだろうか。
読者に、わかりやすい結論を渡そうとしていたのだろうか。
それとも、そうしなければ記事として成り立たないと思っていたのだろうか。
「悪い意味ではないです」
白石さんは、私が黙ったのを見て、少し慌てたように言った。
「むしろ、いい意味です。前より、読者を置いていかない感じがします」
「置いていかない」
「はい。答えに急いで連れていくというより、その人が自分で気づくところまで、一緒に歩いている感じです」
私は、何も言えなかった。
その言葉は、褒め言葉のようにも聞こえた。
けれど同時に、私がまだ答えを持っていないと言われたようにも感じた。
「こう言ったら、失礼かもしれませんが」
白石さんは、少しだけ言葉を選んだ。
「水瀬さんは、プロフェッショナルな占い師のように、上から答えを与える人ではない気がするんです」
私は、すぐには返事ができなかった。
プロフェッショナルではない。
答えを与えられない。
そう言われたような気がした。
けれど白石さんの表情には、軽んじるような色はなかった。
「むしろ、読者と同じところで迷っている」
白石さんは、ゆっくり続けた。
「悩みも、不安も、知りたい気持ちも、ちゃんと持っている。だから、相談者の言葉を簡単に片づけないんだと思います」
私は、白石さんを見た。
「でも、そのまま終わらせない。読者が自分のところへ戻れるように、少しだけ余白を残している」
白石さんは、そこで少し笑った。
「まあ、編集者としては、その余白がちょっと怖い時もありますけど」
「怖いんですか」
「怖いです」
白石さんは正直にうなずいた。
「でも、その怖さがあるから、残るんだと思います」
私は、フォークを持ったまま、しばらく動けなかった。
それを褒め言葉として受け取っていいのか、すぐにはわからなかった。
占いの記事を書く人として、私は本当は、もっと確かな人に見えた方がいいのではないか。
迷わず、揺れず、相談者の前に立てる人の方が、信頼されるのではないか。
そんな考えが、一瞬浮かんだ。
「それで、いいんでしょうか」
気づくと、私はそう聞いていた。
白石さんは、すぐには答えなかった。
少し考えてから、静かに言った。
「私は、そこが水瀬さんの文章の強さだと思っています」
強さ。
その言葉は、私には少し意外だった。
「迷っていることが、ですか」
「迷いをごまかさないことが、です」
白石さんは、そう言った。
「答えを知っている人にしか書けない文章もあります。でも、答えがまだわからない人だからこそ、読者のそばにいられる文章もあると思うんです」
私は、返事を探した。
けれど、うまく見つからなかった。
白石さんは、そこで少しだけ表情をやわらげた。
「私は、水瀬さんの記事をもっと読まれてほしいと思っています」
その声は、先ほどまでの冗談めいたものとは少し違っていた。
「単純に、編集者としてです」
少し間があった。
「……たぶん」
私は、思わず白石さんを見た。
白石さんは、少しだけ視線をそらした。
その仕草が、なんだか可笑しくて、でも少しありがたかった。
応援されている。
そう思った。
誰かに応援されることは、うれしい。
けれど、少し怖い。
期待されると、応えられなかった時のことを考えてしまう。
近づかれると、いつか離れる時のことを考えてしまう。
それでも、その時の私は、以前のようにすぐ身構えることができなかった。
白石さんの言葉は、私を急かしていなかった。
ただ、外側で起きている変化を、楽しそうに知らせてくれているだけだった。
読者が増えている。
相談が届いている。
感想が残っている。
記事が、少しずつ遠くへ届き始めている。
それは、私の内側が少し変わったことと、どこかでつながっているのだろうか。
そんなことを思いかけて、私はすぐに打ち消した。
考えすぎだ。
でも、完全には打ち消せなかった。
白石さんは、目の前の皿に視線を落とした。
「料理、冷めますね」
「白石さんが真面目な話をするからです」
「それは失礼しました」
「編集者として?」
「いえ」
白石さんは、少し笑った。
「今日は、たぶん違います」
私は、返事に困って、目の前の皿に視線を落とした。
料理の湯気が、少しずつ薄くなっていく。
冷めてしまう前に食べなければと思いながら、なぜかすぐにはフォークを動かせなかった。
白石さんとの距離が、少しだけ近づいている。
そう感じた。
けれどそれは、何かを急いで決めなければならない近さではなかった。
ただ、今までより少し、受け取ってもいいのかもしれない。
そう思える近さだった。
答えを持っている人ではなく、
迷いをごまかさずに書く人。
白石さんが見ている私は、そんな人なのかもしれない。
それが本当かどうかは、まだわからなかった。
けれど、白石さんの言葉を、すぐに疑わなくてもいいのかもしれない。
その夜、私はそんなふうに思っていた。
三 目の前にいる私
次に宿へ向かったのは、白石さんと食事をした三日後だった。
駅を出ると、山の方から湿った風が降りてきていた。
空は曇っていたが、雨が降るほどではなかった。
私はいつものようにタクシーに乗った。
その日は、日が落ちるのがいつもより早いように感じた。
空の端に残っている明るさは薄く、雲の奥にも、月の気配はなかった。
窓の外に、住宅が少しずつ少なくなっていく。
店の看板が遠ざかり、道幅が細くなり、木々の影が濃くなっていく。
運転手は、もう宿の前までは入れないことを知っているようだった。
「この先、細いですからね」
そう言って、いつもの場所で車を止めた。
私は礼を言ってタクシーを降りた。
そこから先は、歩いて登るしかない。
細い道の両側には、草が伸びていた。
足元の石が少し湿っていて、踏むたびに小さく音を立てた。
宿に近づくにつれて、私はまた、あの問いを思い出していた。
あの人は、誰なのか。
何度も調べた。
けれど、わからなかった。
宿の名前は出てくる。
建物のことも、食事のことも、道の細さのことも出てくる。
それなのに、主人のことだけは、どこにもなかった。
この宿には、話を聞く人がいる。
あの一文が、まだ胸の中に残っていた。
宿に着くと、主人はいつものように、奥から静かに出てきた。
「いらっしゃいませ」
その声を聞いた途端、私は少しだけ動揺した。
もう何度もここへ来ている。
白石さんとの連載のこともあり、主人と話す時間も増えている。
それなのに、主人の対応は、初めて会った時とほとんど変わらなかった。
親しくなったような近さもない。
距離を置かれたような冷たさもない。
こちらを特別に迎える感じもなければ、突き放す感じもない。
ただ、そこにいる。
そのあり方が、初めて奥の部屋に入った時の感覚を思い出させた。
何もない部屋。
祈りも、願いも、期待も、染みついていない部屋。
誰かの意図で満たされていないからこそ、自分の中にあるものだけが、静かに浮かび上がってくる部屋。
主人の前に立つと、時々それと似た感覚になる。
主人が何かを投げかけてくるわけではない。
それなのに、自分が何を持って来たのかだけが、妙にはっきりしてしまう。
「お疲れでしたか」
主人は、少しだけ目を細めてそう言った。
「いえ」
私は首を振った。
「疲れているわけでは、ないです」
本当は、少し疲れていた。
調べてもわからなかったことに。
わからないのに、知りたい気持ちだけが大きくなっていることに。
主人は、それ以上は聞かなかった。
「お茶を淹れましょう」
そう言って、私をカウンターへ案内した。
カウンターは、玄関からそう離れていなかった。
主人が湯を注ぐ音の向こうに、戸口の気配まで届くような、小さな宿だった。
カウンターの奥で湯気が上がる。
急須に湯を注ぐ音が、静かに広がった。
私は、その音を聞きながら、言うべきかどうか迷っていた。
主人のことを調べました。
ただそれだけの言葉が、喉の奥で何度も止まった。
聞けばいい。
本人が目の前にいるのだから、聞けばいい。
そう思うのに、なぜかすぐには言えなかった。
主人は湯呑みを置いた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
私は両手で湯呑みを受け取った。
湯気の向こうに、主人の顔が見える。
穏やかで、少しも急いでいない顔だった。
その静けさに押されるように、私はようやく口を開いた。
「あの」
主人は、こちらを見た。
「主人のことを、少し調べました」
言ってしまってから、自分でも少し驚いた。
もっと遠回しに聞くつもりだった。
宿のことを調べた、と言えばよかったのかもしれない。
けれど、口から出たのは、そのままの言葉だった。
主人は、怒ったようには見えなかった。
驚いたようにも見えなかった。
ただ、湯呑みに視線を落とし、しばらく黙っていた。
その沈黙が、私には少し長く感じられた。
「でも、わかりませんでした」
私は続けた。
「宿のことは出てくるんです。口コミも、古い記事もありました。でも、あなたのことは、どこにも書かれていなくて」
主人は、ゆっくり顔を上げた。
「そうでしたか」
それだけだった。
責めるでもない。
笑うでもない。
ただ、事実を受け取っただけの声だった。
私は、少し拍子抜けした。
「名前も、経歴も、何もわかりませんでした」
主人は、少しだけ湯呑みに視線を落とした。
「そういうものは、あまり残していませんから」
「残していない?」
「ええ」
主人は、静かに言った。
「必要がなかったのでしょう」
その言い方は、隠しているというより、本当にそう思っているように聞こえた。
私は、余計にわからなくなった。
「でも」
自分でも驚くほど、言葉が先に出た。
「私は、知りたいんです」
主人は、そこで初めて、まっすぐこちらを見た。
「私のことを、ですか」
私はうなずいた。
うなずいてから、胸の奥が少し熱くなった。
聞いてしまった。
ずっと聞きたかったことを。
「あなたは、どうしてここで、こんなふうに人の話を聞いているんですか」
声にすると、それは思っていたより幼い問いに聞こえた。
けれど、それ以上うまく言えなかった。
「あなたが知りたいのは、私ですか」
私は、顔を上げた。
主人は続けた。
「それとも、私について誰かが書いた言葉ですか」
その言葉に、私は息を止めた。
すぐには意味がわからなかった。
けれど、胸のどこかが小さく反応した。
私は、主人を知りたかった。
そう思っていた。
でも、調べていたのは、主人そのものではなかった。
誰かが書いた文章だった。
口コミだった。
古い記事だった。
宿の外側に置かれた言葉だった。
主人は、目の前にいる。
なのに私は、画面の中に主人を探していた。
そのことに気づいた瞬間、頬が少し熱くなった。
「知ろうとすることは、悪いことではありません」
主人は、静かに言った。
「けれど、わかろうとしすぎると、人は自分の知っている形に相手を入れようとします」
私は、湯呑みを持つ手に少し力が入った。
「この人はこういう人だ。こういう過去がある。こういう力がある。こういう役割の人だ。そうやって名前をつけると、少し安心します」
主人は、私を責めるでもなく、ただ淡々と続けた。
「でも、その安心のぶんだけ、目の前にいる人からは離れていくことがあります」
私は、何も言えなかった。
「わかることと、見ることは、同じではありません」
湯気の向こうで、主人の表情は少しだけ揺れて見えた。
「では、私は何を見ればいいんですか」
思わず、そう聞いていた。
主人は、すぐには答えなかった。
少しだけ視線を伏せ、そして静かに言った。
「今、ここにいる私です」
その答えは、あまりにも簡単だった。
簡単すぎて、私は少し困った。
今、ここにいる私。
それだけでいいはずがないと思った。
名前も知らない。
過去も知らない。
この宿が何なのかも知らない。
それなのに、目の前にいるだけで知ったことになるのだろうか。
そう思っていることは、きっと顔に出ていたのだと思う。
主人はそれ以上、私の疑問をほどこうとはしなかった。
ただ、静かに言った。
「それだけでいいのです」
私は、すぐにはうなずけなかった。
主人は続けた。
「わからないまま、見ていればよいのです」
わからないまま。
その言葉が、胸に残った。
わからないまま見る。
わからないまま聞く。
わからないまま、そこにいる。
「あの……」
私は、もう一度聞きかけた。
あなたは、本当は何者なんですか。
そう聞きたかった。
けれど、その言葉は最後まで出てこなかった。
主人は、私が言い切らないことを、無理に促さなかった。
ただ、湯呑みを持ち上げ、静かにお茶を飲んだ。
その姿を見ていると、胸の中で急いでいたものが、少しだけ行き場をなくした。
消えたわけではない。
私はまだ知りたかった。
主人のことを。
この宿のことを。
自分がどうしてここに惹かれているのかを。
でも、その場で答えを奪い取るように聞くことは、できなかった。
「今日は、少し風がありますね」
主人がふいに言った。
私は、窓の外を見た。
庭の草が、ゆっくり揺れていた。
さっきまで気づかなかった風だった。
「はい」
私は答えた。
それ以上、何も言わなかった。
主人も、何も言わなかった。
沈黙が落ちた。
けれどその沈黙は、先ほどまでのものとは少し違っていた。
何かを隠している沈黙ではなく、
何かを急がずに置いておくための沈黙のようだった。
私は、その沈黙の中で、湯呑みを両手で包んでいた。
主人のことは、やはりわからない。
けれど、今、目の前にいる主人の声を聞いている。
湯気の向こうにいるその人の間合いを感じている。
私の問いを急がずに、そのまま置いてくれる人を見ている。
わかることと、見ることは、同じではないのかもしれない。
そう思いかけた時、玄関の方で、小さな音がした。
戸が開く音だった。
主人は、ゆっくり顔を上げた。
私も、そちらを見た。
次の瞬間、細い声が、宿の静けさを破るように入ってきた。
「ここなら、息子に会えると聞きました」
その声には、挨拶よりも先に、祈りのような切実さがあった。
四 息子に会えると聞きました
「ここなら、息子に会えると聞きました」
その声は、宿の静けさに、まっすぐ刺さるように入ってきた。
私は、湯呑みを持ったまま、動けなかった。
息子に会える。
最初、その言葉の意味がうまくつかめなかった。
家出をした息子を探しているのか。
それとも、どこかへ行ってしまった子どもの居場所を知りたいということなのか。
けれど、玄関に立つ女性の顔を見た瞬間、その考えはすぐに消えた。
探している人の顔ではなかった。
待っている人の顔でもなかった。
そこにあったのは、もう戻らないものを、それでも探し続けてきた人の疲れだった。
女性は、五十代くらいに見えた。
派手な服装ではない。
旅行に来た人のようにも見えない。
小さな鞄を両手で抱えるように持ち、肩には力が入っていた。
泣いているわけではなかった。
取り乱しているわけでもなかった。
けれど、その顔には、長い時間眠れていない人の色があった。
目の奥だけが、ずっと何かを探し続けている。
そんな顔だった。
主人は、ゆっくりと玄関に近づいた。
驚いた様子はなかった。
けれど、すべてを知っていたという顔でもなかった。
ただ、目の前に来た人を、そのまま受け止めるように、静かに頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
女性は、その挨拶を受け取る余裕もないようだった。
「ここなら、息子に会えると聞いたんです」
同じ言葉を、もう一度繰り返した。
最初の言葉よりも、少しだけ切迫していた。
まるで、一度口に出した願いが消えてしまわないように、急いで結び直しているようだった。
主人は、すぐには答えなかった。
その沈黙に、女性の指が鞄の持ち手を強く握った。
「会えるんですよね」
問いかけというより、すがるような声だった。
「息子と、話せるんですよね」
私は、胸の奥が少し痛くなった。
その声は、お願いではなかった。
確認でもなかった。
もう何度も期待して、何度も違うと思い、それでも最後に残った力をふりしぼって、ここまで来た人の声だった。
主人は、女性をまっすぐ見た。
「お約束はできません」
女性の顔が、わずかにこわばった。
私は、その言い方に一瞬戸惑った。
できません、ではない。
できる、とも言わない。
ただ、約束はできない、と言った。
まるで、その願いそのものを否定するのではなく、けれど安易に差し出すこともしないような言い方だった。
主人は、言葉を急がなかった。
「ただ、今、見えてくるものをたどることはできます」
女性は、唇を結んだ。
その目に、一瞬だけ失望の色が浮かんだ。
それでも、怒りではなかった。
また違うのかもしれない。
それでも、ここまで来てしまった。
そんな思いが、声にならないまま立っているようだった。
主人は続けた。
「何が見えるかは、先に決められません」
女性は、黙っていた。
主人の声は、冷たくはなかった。
けれど、慰めるためにやわらかくされてもいなかった。
その正直さが、かえって女性の細い肩に触れたように見えた。
「それでも」
主人は、静かに言った。
「やってみることはできます」
女性は、しばらく動かなかった。
やがて、小さく息を吸った。
「それでもいいです」
声は震えていた。
「それでも、いいです」
その言葉は、納得というより、もうそこにしか進む場所がない人の返事だった。
主人は、少しだけうなずいた。
「お名前を伺ってもよろしいですか」
「香坂です」
女性は答えた。
「香坂由紀子です」
香坂さん。
その名前を聞いた時、私は、その人が急に現実の輪郭を持ったように感じた。
ただの「息子に会いたい人」ではなく、香坂由紀子という一人の人が、ここに立っている。
主人は、もう一度静かに頭を下げた。
「香坂さん。こちらへ」
香坂さんは、小さくうなずいた。
主人は、玄関に近いカウンターの席へ香坂さんを案内した。
私が座っていた場所から、ほんの少し離れた席だった。
香坂さんは腰を下ろす前に、少し迷うように私を見た。
その視線に気づいて、私は湯呑みから手を離し、少しだけ姿勢を正した。
「こちらは、水瀬さんです」
主人が、静かに言った。
香坂さんは、かすかに会釈した。
私は、何と返していいかわからず、ただ頭を下げた。
香坂さんの目は、私を見ているようで、実際にはもっと遠くを見ているようだった。
目の前の人を確認する余裕もないほど、心がどこかへ向かっている。
息子さんのところへ。
そう思った瞬間、私は自分の胸が少し重くなるのを感じた。
香坂さんは、カウンターの椅子に浅く腰を下ろした。
鞄を膝に置き、その上に両手を重ねる。
主人は、カウンターの奥で新しい湯呑みを出した。
急須に湯を注ぐ音が、もう一度、静かに広がった。
けれど、香坂さんはお茶が出されるのを待つ間も、落ち着くことができないようだった。
指先だけが、何度も小さく動いていた。
主人は、湯呑みを香坂さんの前に置いた。
「息子さんのことを、少し伺ってもよろしいですか」
主人が言った。
香坂さんは、息を吸った。
「悠真といいます」
その名前を口にした瞬間、香坂さんの声が少しだけ変わった。
硬く張りつめていた声の中に、ほんの一瞬だけ、母親のやわらかさが混じった。
「香坂悠真です。高校二年生でした」
でした。
その過去形が、静かに落ちた。
「山岳部でした。合宿中の事故で……」
そこまで言って、香坂さんは口を閉じた。
主人は、続きを求めなかった。
事故の詳しい状況を聞かない。
いつ、どこの山で、何が起きたのかを尋ねない。
それが私には、少し意外だった。
けれど、香坂さんはその沈黙に、少しだけ救われたようにも見えた。
「それから二年です」
香坂さんは言った。
「二年、いろいろなところへ行きました」
いろいろなところ。
その言葉には、数えきれない疲れが含まれていた。
「息子の声を届けます、と言われたこともあります。息子さんは感謝しています、と言われたこともあります。お母さんを見守っています、とも」
香坂さんは、言葉を選びながら話していた。
誰かを責めたいわけではない。
そういう言い方だった。
「でも、どれも……」
そこで、香坂さんは小さく首を振った。
「どれも、違う気がしたんです」
主人は、黙って聞いていた。
香坂さんは続けた。
「ありがたい言葉だったんです。慰めようとしてくれているのも、わかりました。でも、帰り道になると、いつも思うんです。私が聞きたかったのは、それじゃないって」
その声は、かすれていた。
「私は、息子がどこにいるのか知りたかったんです」
香坂さんは、膝の上の鞄を見つめたまま言った。
「最後は苦しくなかったのか。私に何か言いたいことはなかったのか。どうして、あの子だけが帰ってこなかったのか」
私は、息をするのを忘れそうになった。
言葉は静かなのに、その奥にあるものが、あまりにも切実だった。
「どうして、あの子だけだったのか」
香坂さんは、もう一度そう言った。
それは、主人に向けられた問いというより、この二年間、ずっと自分の中で反響し続けてきた問いのようだった。
答えのない問い。
けれど、捨てることもできない問い。
「みんな、あの子はそばにいると言います」
香坂さんは言った。
「でも、そばにいるなら、どうして私は会えないんですか」
その問いに、誰もすぐには答えられなかった。
宿の中が静かになった。
外では、風が草を揺らしている。
さっき主人が言った風だった。
香坂さんは、ふいに顔を上げた。
「すみません」
その声は、急に現実に戻ってきたようだった。
「こんなふうに言うつもりじゃなかったんです」
「かまいません」
主人は言った。
「ここへは、そのために来られたのでしょう」
香坂さんの目が、少しだけ揺れた。
「はい」
小さく、しかしはっきりと答えた。
「私は、息子に会いたくて来ました」
その言葉を聞いた時、私は、香坂さんの中にあるものが、少しだけ見えた気がした。
会いたい。
ただ、それだけだった。
けれど、その「会いたい」の中には、あまりにも多くのものが含まれていた。
謝りたい。
聞きたい。
確かめたい。
抱きしめたい。
もう一度だけ、名前を呼びたい。
あの日から止まったままの時間を、どうにか動かしたい。
でも、それを全部言葉にすれば、きっと壊れてしまう。
だから香坂さんは、ただ一つの言葉にまとめていた。
息子に会いたい。
主人は、静かにうなずいた。
「では、見えてくるものをたどってみましょう」
今度の香坂さんは、目をそらさなかった。
「はい」
「何が起きるかを、先に決めることはできません」
「はい」
香坂さんは、鞄を握る指に力を込めた。
けれど、目はそらさなかった。
「会えなくてもいい、とは言えません」
その正直な言葉に、私は胸を打たれた。
「でも、ここまで来たので、やってみたいです」
主人は、それ以上、何も尋ねなかった。
「では、奥の部屋へ」
その言葉で、空気が変わった。
香坂さんは、ゆっくり立ち上がった。
立ち上がる時、少し膝が揺れた。
私は思わず手を伸ばしかけたが、香坂さんは自分で体勢を立て直した。
主人は、その様子を見ていた。
助けようとしないのではない。
けれど、必要以上に支えようともしない。
その距離が、今の香坂さんには必要なのだと、私は思った。
主人が、先に廊下へ向かった。
香坂さんは、その後を追おうとして、ふと立ち止まった。
一瞬だけ、こちらを見た。
助けを求めるような目ではなかった。
けれど、一人でその先へ行くには、あまりにも心細い人の目だった。
私は、何も言えずに立っていた。
主人は、その視線に気づいたように、静かに言った。
「水瀬さんも、よろしければ」
私は、思わず主人を見た。
「私も、ですか」
主人はうなずいた。
「ただ、見ていてください」
その言葉に、胸の奥が少し硬くなった。
何を見るのか。
何が起きるのか。
私には、まだわからなかった。
香坂さんは、小さくうなずいた。
それが、私の同席を拒まないという返事に見えた。
私は、椅子から立ち上がった。
二階へ続く階段を上がる。
廊下の奥に、藍色の布が見えた。
その向こうに、奥の部屋がある。
香坂さんの足取りは、決して速くはなかった。
けれど、一歩ごとに、何かに引き寄せられているようだった。
私は、その少し後ろを歩いた。
人は、どうしてここまで知りたくなるのだろう。
どこにいるのか。
なぜ起きたのか。
何を言い残したのか。
本当はどうだったのか。
答えを知れば、悲しみは終わるのだろうか。
それとも、答えを知らないままでは、悲しみを置く場所がないのだろうか。
私は、さっきまで自分が主人に向けていた問いを思い出した。
あなたは、誰なのですか。
香坂さんの問いとは、比べものにならない。
そう思った。
けれど、どこかで似ているとも思った。
知りたい。
確かめたい。
わからないままでは、落ち着けない。
その心の動きだけは、私の中にもあった。
藍色の布の前で、主人が立ち止まった。
香坂さんも立ち止まった。
私は、その少し後ろで足を止めた。
布の向こうには、まだ何も見えない。
ただ、その向こうに入れば、何かが始まってしまう。
そんな気配だけが、静かにあった。
主人は、布に手をかけた。
藍色の布が、かすかに揺れた。
五 探すことと、会うこと
奥の部屋は、相変わらず何もなかった。
人の祈りや願いが染みついていない部屋。
誰かの意図で満たされていない部屋。
だからこそ、自分の中にあるものだけが、静かに浮かび上がってくる部屋。
香坂さんは、中央の椅子に腰を下ろした。
座った瞬間、体が少し沈んだように見えた。
深くもたれることのできる椅子だった。
主人は、少し離れたところに座った。
近すぎない。
遠すぎもしない。
私は、壁際に置かれた小さな椅子に腰を下ろした。
ただ、見ていてください。
さっき主人が言った言葉が、まだ胸の中に残っていた。
何を見るのか。
何が起きるのか。
私には、まだわからなかった。
香坂さんは、両手を膝の上に置いていた。
指先まで力を抜こうとしているのがわかった。
主人は、香坂さんに向かって静かに言った。
「ゆっくり、息を吸ってください」
香坂さんの肩が、わずかに上がった。
「吐く息に合わせて、体の力を抜いていきます」
部屋の中に、細い呼吸の音だけが残った。
「何かを見ようとしなくて大丈夫です」
主人の声は、さらに静かになった。
「答えを出そうとしなくても大丈夫です」
香坂さんの喉が、小さく動いた。
「ただ、心の中に深く沈んでください」
しばらく、沈黙があった。
「……今、何が見えますか」
香坂さんのまぶたが、少し震えた。
「明るいです」
かすれた声だった。
「外……だと思います」
主人は、何も言わなかった。
香坂さんは、言葉を探すように、ゆっくり続けた。
「芝生が、あります。公園……ではないと思います。でも、芝生が広がっていて」
部屋には、何も見えない。
けれど、香坂さんが言葉にするたび、その景色は、私の中にも薄く広がっていった。
それは、見えているというほど確かなものではなかった。
芝生の明るさ。
まばらに立つ建物。
小さな店先。
遠くに抜ける風。
どれも、遠くの夢の輪郭に触れているように淡かった。
「建物が、少しずつ離れて立っています」
香坂さんは言った。
「その間に、お店があります。何か、食べるものを売っているみたいです」
「人はいますか」
主人が尋ねた。
「います」
香坂さんは、少し不思議そうに続けた。
「みんな、穏やかです」
その声を聞いていると、私の中にも、小さな店先が浮かんだ。
受け取る人の手。
渡す人の微笑み。
ありがとう、という気持ちだけが、静かに行き来しているような場所。
けれど、その明るさは、香坂さんの心には届いていなかった。
香坂さんは、その世界を見ている。
でも、探しているのは、その世界ではなかった。
悠真さんだった。
映像よりも強く、香坂さんの内側が流れ込んできた。
早く。
会わせて。
ここまで来たのだから。
今度こそ。
言葉にはなっていないはずの叫びが、胸の内側に直接触れてきた。
その痛みは、景色よりもずっと鮮明だった。
香坂さんは、明るい場所にいる。
けれど、心は少しも休んでいない。
見つけなければ。
会わなければ。
ここまで来た意味がなくなってしまう。
その焦りが、私の胸にも流れ込んできた。
私は息を詰めた。
香坂さんのものなのか。
私自身のものなのか。
一瞬、わからなくなった。
「どこかへ行きたい感じはありますか」
主人が静かに尋ねた。
「丘があります」
香坂さんが言った。
「少し高いところ。あそこへ行きたいと思いました」
「行ってみてください」
主人がそう言うと、香坂さんの眉がわずかに動いた。
「もう、そこにいます」
私は、思わず自分の手を握った。
香坂さんの言葉に合わせて、私の内側の景色も、ふっと動いた気がした。
歩いた感覚はない。
けれど、視界が変わる。
さっきまで下から見ていた場所を、今は少し高いところから見下ろしている。
そこには、怖さがなかった。
不自然さもなかった。
行きたいと思うことと、そこに着くことの間に、ほとんど距離がない。
そんな世界だった。
「誰か、いますか」
主人が静かに尋ねた。
「います」
香坂さんは答えた。
「木の下に、人がいます」
「人」
「はい。休んでいます」
その景色も、私の中に淡く広がった。
丘の上から少し離れたところに、大きな木がある。
その下に、一人の人が腰を下ろしている。
何かをしているわけではない。
誰かを待っているようにも見えない。
ただ、そこにいる。
けれど、香坂さんが近づく前から、その人だけは、こちらに気づいているようだった。
「その人のところへ行けますか」
主人が尋ねた。
「はい」
香坂さんは、静かに答えた。
「行こうと思ったら……もう、近くにいます」
そう思っただけで、二、三歩のうちに、もう木の下にいたのだとわかった。
「すみません」
香坂さんの声が、小さく変わった。
「私は――」
そこまで言った瞬間だった。
香坂さんが、息を止めた。
「この道をまっすぐ行けば、近くまで行けるって」
主人が、静かに聞いた。
「近くまで」
「はい」
香坂さんの声が、震えた。
「まだ、何も言っていないのに」
その人には、もうわかっているようだった。
香坂さんが誰を探しているのか。
香坂さんが言葉にする前から。
ここへ来るまでの時間ごと、静かに受け取っているようだった。
「会えますか」
香坂さんは、かすれるように聞いた。
少し、間があった。
「会えるかどうかは、あなた次第です」
その言葉のあと、香坂さんの呼吸が浅くなった。
私の胸にも、強い焦りが入ってきた。
私次第。
どうすればいいの。
どうすれば会えるの。
何が足りないの。
何を間違えているの。
香坂さんは、心の中で必死にその答えを探していた。
けれど、木の下の人は、責めているわけではなかった。
ただ、そういうものなのだと、静かに告げている。
そんな感じがした。
「歩いています」
香坂さんが言った。
「道を、まっすぐ」
部屋の中は、静かだった。
主人は、香坂さんの呼吸を乱さないように、何も急がなかった。
私は、香坂さんの中に流れてくる景色と感情を、ただ受け取っていた。
見えているのか、想像しているのかはわからない。
けれど、香坂さんの焦りだけは本物だった。
早く。
早く。
早く。
その言葉にならない衝動が、私の胸を内側から叩いていた。
「見えます」
香坂さんの声が、変わった。
低く、細く、震えていた。
「誰か……います」
主人は、何も言わなかった。
「男の子です」
香坂さんの声が、かすかに震えた。
「遠くにいます」
その言葉を聞いた瞬間、部屋の空気がさらに細く張りつめた。
「悠真さんですか」
主人が、静かに尋ねた。
香坂さんは、すぐには答えなかった。
唇が、わずかに震えている。
「たぶん」
そう言ってから、香坂さんは首を振った。
「いえ……わかります」
声が、涙をこらえるように揺れた。
「悠真です」
私の胸に、熱いものが刺さった。
その姿は、私にははっきり見えなかった。
けれど、香坂さんが「悠真です」と言った瞬間、その確信だけが、痛いほど流れ込んできた。
母親が、自分の子どもを見つけた時の確信。
どれほど遠くても、背中だけでも、気配だけでも、わかってしまうもの。
それが、私の中にまで入ってきた。
「近づけますか」
主人が言った。
香坂さんの呼吸が乱れた。
「近づいています」
少し間があいた。
「でも……遠いです」
香坂さんの眉が、苦しそうに寄った。
「遠いのに、近いです」
私は、胸を押さえたくなった。
その言葉は、矛盾していた。
けれど、矛盾しているからこそ本当のように聞こえた。
近い。
確かに、そこにいる。
すぐそこにいる気がする。
遠い。
どうしても触れられない。
声が届かない。
抱きしめられない。
近くて遠い。
遠くて近い。
その距離が、香坂さんの中で、どうしようもなく痛んでいた。
「悠真」
香坂さんの唇が、声にならない名前を形づくった。
「悠真」
今度は、かすかに声になった。
その瞬間、遠くにいた影が、少しこちらを向いたような気がした。
私には見えていないはずだった。
それでも、香坂さんの中に起きた反応が、そのまま私に伝わってきた。
見えた。
今、こちらを見た。
やっぱり悠真だ。
会える。
今度こそ。
香坂さんの心が、一気に前へ出た。
その瞬間だった。
遠くの影が、また少し遠のいたように感じた。
「どうして」
香坂さんが、小さく言った。
「近づいてるのに……」
声が詰まった。
「近づけない」
部屋の中で、香坂さんの呼吸だけが大きく聞こえた。
私は、何もできなかった。
手を伸ばしたいと思った。
けれど、何に手を伸ばせばいいのかわからなかった。
早く会わせてあげたい。
その思いが、胸に浮かんだ。
けれどその瞬間、私は少し怖くなった。
その「早く」は、誰のものなのだろう。
香坂さんのものなのか。
私のものなのか。
この人の苦しみを、私が早く終わらせたいだけなのではないか。
主人は、香坂さんを追わせなかった。
遠くに見えた悠真さんの気配を、無理に近づけようとはしなかった。
しばらく沈黙があった。
香坂さんの呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
けれど、完全には静まらない。
まだ、探している。
まだ、会おうとしている。
まだ、その影を追いかけようとしている。
その時、主人の声の深さが、少しだけ変わった。
「では、香坂さんをお守りしている方に、たくさんの愛と敬意と感謝を持って質問させていただきます」
その言葉を聞いた瞬間、部屋の空気が変わった気がした。
先ほどまで、香坂さんの心の中をたどっていた。
明るい場所。
芝生。
お店。
丘。
木の下の人。
遠くにいる悠真さん。
それらは、香坂さんの内側に見えている風景だった。
けれど今、何かが違った。
主人は、静かに続けた。
「お答えしていただけますでしょうか」
香坂さんの唇が、かすかに動いた。
「はい」
それは、香坂さんの声だった。
けれど、香坂さんが返事をしたのではないと、なぜかわかった。
その声を聞いた瞬間、この世の音がすべて遠のき、触れたことのない澄んだ場所に立っているような気がした。
そこには、怖さはなかった。
けれど、軽く触れてよいものでもなかった。
胸の奥から、理由のわからない感謝が込み上げてきた。
何か、とても澄んだものが、香坂さんの声を通して現れている。
そう感じた。
私は、泣きそうになった。
何が起きているのか、まだわからない。
けれど、今この場で起きていることを、いつもの感覚で受け取ってはいけない。
そのことだけは、はっきりわかった。
主人は、少し頭を下げた。
「ありがとうございます」
香坂さんの体は、椅子に深く預けられていた。
その表情は、さっきまでとは少し違っていた。
悲しみが消えたわけではない。
けれど、焦りの中で前へ前へと伸びていたものが、少しだけ静かになっているように見えた。
主人は、慎重に言葉を置いた。
「悠真さんは、今、どこにいらっしゃるのでしょうか」
少し沈黙があった。
香坂さんの唇が、ゆっくり動いた。
「近くにいるとも言えます」
声は、香坂さんの声だった。
けれど、響きが違った。
「遠くにいるとも言えます」
私は、息を止めた。
近くにいるとも言える。
遠くにいるとも言える。
さっき香坂さんが見ていた距離と同じだった。
近いのに遠い。
遠いのに近い。
それは、言葉遊びではなかった。
こちらの距離で測ろうとすると、どうしても矛盾してしまう場所に、悠真さんはいる。
そう言われたように感じた。
主人は、静かにうなずいた。
「香坂さんは、悠真さんと話すことはできるのでしょうか」
また、沈黙があった。
「話すことができるとも言えます」
香坂さんの口から、言葉が出た。
「できないとも言えます」
私は、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
できるとも言える。
できないとも言える。
何も答えていないようで、何かを深く答えている。
話すとは、どういうことなのだろう。
声を聞くことなのか。
言葉を交わすことなのか。
それとも、もっと違う形で届くものなのか。
私は、その問いを胸の中に置いた。
主人は、さらに少し深く頭を下げた。
「では、悠真さんは、なぜあの若さで亡くなられたのでしょうか」
その問いが置かれた瞬間、胸の奥が痛んだ。
それが私の痛みなのか、香坂さんの痛みなのか、すぐにはわからなかった。
香坂さん自身が、一番聞きたかった問いだった。
二年間、何度も何度も胸の中で繰り返してきた問い。
どうして。
なぜ。
あの子だけが。
何があったのか。
私が知らなければならないことがあるのではないか。
そのすべてが、言葉になる前の塊のように、私の中へ流れ込んできた。
長い沈黙があった。
主人は待った。
私も、息を詰めて待っていた。
やがて、香坂さんの口が、静かに開いた。
「知る必要はありません」
その言葉は、とても短かった。
けれど、部屋の中に、深く沈んだ。
私の胸にも、何かが落ちてきた。
知る必要はない。
それは、突き放す言葉にも聞こえるはずだった。
けれど、不思議と冷たくはなかった。
むしろ、何かを強く握りしめていた手に、そっと触れるような言葉だった。
主人は、少し間を置いてから、次の問いを置いた。
「香坂さんは、悠真さんを探し続ける必要がありますか」
沈黙があった。
「ありません」
その言葉を聞いた瞬間、私は香坂さんの中で何かが止まったのを感じた。
止まったというより、ほどけたのかもしれない。
二年間、張りつめたまま前へ伸び続けていた糸が、少しだけ緩む。
そんな感覚だった。
主人は、最後に尋ねた。
「では、今、香坂さんに必要なことは何でしょうか」
沈黙。
長い沈黙ではなかった。
けれど、深い沈黙だった。
そして、香坂さんの口から、静かに言葉が出た。
「急がないことです」
その言葉を聞いた瞬間、私は目を伏せた。
急がないこと。
それは、何もしないことではなかった。
諦めることでもなかった。
ただ、今すぐ答えを掴みに行こうとする心を、少しだけほどくこと。
会おうと急がない。
知ろうと急がない。
悲しみを終わらせようと急がない。
その言葉は、香坂さんに向けられているはずだった。
けれど、私の胸にも、まっすぐ届いた。
主人は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
その声は、いつもと同じ静けさだった。
けれど、そこには、深い敬意があった。
香坂さんは、目を閉じたまま、しばらく動かなかった。
頬を、涙が一筋だけ伝った。
主人は、その涙を拭わせようとはしなかった。
声をかけて慰めようともしなかった。
ただ、涙が流れる時間を、そのまま置いた。
部屋の中に、静けさが戻っていく。
けれど、それは最初の静けさとは違っていた。
何もない静けさではなかった。
探し続けていたものが、少しだけ手をゆるめたあとの静けさだった。
やがて、香坂さんがゆっくり息を吐いた。
その吐息は、長かった。
胸の奥に溜めていたものを、ほんの少しだけ外へ出すような息だった。
主人は、しばらく待ってから、静かに言った。
「ゆっくり、戻ってきてください」
香坂さんのまぶたが、かすかに動いた。
「今いる場所から、少しずつ、この部屋へ戻ってきます」
香坂さんの呼吸が、現実のものに戻っていく。
椅子に沈んでいた体が、少しずつ輪郭を取り戻していくように見えた。
「戻ってこられますか」
主人が尋ねた。
香坂さんは、小さくうなずいた。
そして、ゆっくりと目を開けた。
自分がどこにいるのかを確かめるように、部屋の中を見た。
何もない部屋。
白い壁。
深くもたれる椅子。
少し離れたところに座る主人。
壁際にいる私。
香坂さんは、まだ言葉を探しているようだった。
主人は、何も急がなかった。
香坂さんが言葉を出すまで、ただ待っていた。
六 急がなくていい
奥の部屋を出たあと、香坂さんはしばらく黙っていた。
廊下の灯りは、入る前と何も変わっていなかった。
藍色の布も、ただ静かに垂れているだけだった。
けれど、香坂さんの立ち方は、少しだけ違って見えた。
来た時のように、前へ前へと何かを追いかけている感じがなかった。
疲れが消えたわけではない。
悲しみが消えたわけでもない。
ただ、二年間ずっと握りしめていたものを、ほんの少しだけ手の中でゆるめた人のように見えた。
階段を降り、カウンターの席へ戻っても、香坂さんはすぐには話さなかった。
主人は急かさなかった。
私も、何も言えなかった。
カウンターに置かれた湯呑みから、まだ少しだけ湯気が上がっていた。
香坂さんはそれを見つめていた。
やがて、自分の喉にそっと手を当てた。
「私が、言ったんですね」
声はかすれていた。
「知る必要はないって」
主人は、静かにうなずいた。
「はい」
香坂さんは、目を伏せた。
「不思議です」
そう言ってから、少しだけ息を吐いた。
「すごく、納得しました」
その声を聞いた時、私は胸の奥が静かに揺れた。
納得しました。
それは、頭で理解した人の声ではなかった。
誰かに説得されて、言い聞かせている声でもなかった。
もっと深いところで、何かが自分の場所に戻ったような声だった。
長い間、どう置けばいいかわからなかったものが、ようやく置かれる場所を見つけた。
そんな声だった。
香坂さんは、ゆっくり続けた。
「もし、ほかの人に言われていたら、私はきっと納得しなかったと思います」
主人は、何も言わなかった。
「守護霊さんが、息子さんに会わなくていいと言っています。知る必要はないと言っています。そう言われても、たぶん、私は信じられなかったと思います」
香坂さんは、自分の喉に当てていた手を、少しだけ強くした。
「でも、今の言葉は、私の口から出ました」
その言葉に、私は息を止めた。
「私が、自分の口で、知る必要はないと言ったんです」
香坂さんの目元に、また涙が浮かんだ。
でも、それは崩れるための涙ではなかった。
胸の奥に落ちてきた言葉を、自分でもう一度確かめているような涙だった。
「近くにいたのは、わかりました」
香坂さんは、小さく言った。
「この部屋に来ていたのも、わかりました」
私は、思わず顔を上げた。
香坂さんは、泣きながらも、とても静かな顔をしていた。
「でも、話さなくていいんだと思いました」
誰も何も言わなかった。
「今、話さなくていい。今、聞かなくていい。今、知ろうとしなくていい」
一つずつ、自分の中に置いていくような声だった。
「私はもう、息子を探すことをやめます」
その言葉は、静かだった。
けれど、その静けさの中に、二年間の重さがあった。
「あの子に会おうとすることも、話そうとすることも、亡くなった理由を知ろうとすることも……もう、追いかけるのはやめます」
私は、胸が痛くなった。
その言葉だけを聞けば、諦めのように聞こえるかもしれない。
けれど、香坂さんの顔は、諦めた人の顔ではなかった。
愛することをやめた人の顔でもなかった。
むしろ、もう追いかけなくても愛は消えないと、初めて知った人の顔だった。
香坂さんは、ゆっくり息を吸った。
「知る時が来れば、きっとわかるんだと思います」
その言葉を聞いた時、奥の部屋で聞いた声が、私の胸にも戻ってきた。
急がないことです。
「私が無理に探しに行かなくても、わかる時は、わかる」
香坂さんは言った。
「だから、今は、急がなくていいんだと思いました」
急がなくていい。
その言葉が、カウンターの上に静かに置かれた。
主人は、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
香坂さんも、ゆっくり頭を下げた。
その動きには、来た時の切迫した硬さが少しだけなくなっていた。
もちろん、悲しみは残っている。
息子を亡くした事実は、何一つ変わっていない。
けれど、悲しみのまわりにまとわりついていた焦りが、ほんの少しほどけていた。
それだけで、人の顔はこんなにも変わるのだと思った。
香坂さんが帰る時、外はすっかり暗くなっていた。
玄関の戸を開けると、月のない夜が広がっていた。
山の影は深く、道の先はほとんど見えなかった。
けれど、香坂さんは、来た時よりも少しだけゆっくり歩き出した。
主人は、玄関先でその背中を見送っていた。
私は、その隣に立っていた。
香坂さんの姿が暗がりに溶けていくまで、誰も何も言わなかった。
戸を閉めたあとも、私はしばらく動けなかった。
香坂さんが見ていた景色が、まだ胸の奥に残っていた。
芝生。
丘。
木の下の人。
遠くに立つ悠真さんの気配。
けれど、景色よりも強く残っていたのは、香坂さんの痛みだった。
早く会いたい。
早く知りたい。
もう、これ以上探し続けたくない。
その痛みが、まだ私の中にあった。
主人は、廊下の窓を少し開けた。
夜の風が、細く入ってきた。
「風の気持ちいい丘でしたね」
主人が、ふいに言った。
私は顔を上げた。
あまりに普通の言い方だった。
まるで、二人で同じ場所から帰ってきたあとのようだった。
「……丘」
声が、少し遅れて出た。
主人は、窓の外を見たままだった。
「木の下の方も、静かな方でした」
その言葉に、胸の奥が静かに鳴った。
私は、あの人のことを主人に話していない。
香坂さんは、少しだけ言葉にしていた。
けれど、丘の風の感じや、木の下の人の静けさまでは、誰も説明していなかったはずだった。
「私にも……」
言いかけて、止まった。
見えていたんでしょうか。
そう聞こうとしたのだと思う。
でも、違う気がした。
聞きたかったのは、私に見えていたのかどうかではなかった。
主人は、私にもそれが届いていたことを、当たり前のように知っていた。
そのことの方が、不思議だった。
主人は、こちらを見ずに言った。
「景色よりも、痛みの方が強かったでしょう」
私は、何も言えなくなった。
その通りだった。
芝生の明るさよりも。
丘の風よりも。
木の下の人の静けさよりも。
香坂さんの、早く会いたいという痛みの方が、ずっと鮮明だった。
「それは、力として扱うものではありません」
主人は静かに言った。
「丁寧に扱うものです」
私は、主人の横顔を見た。
いつもより、少し近く感じた。
主人が私に何かを教えようとしているのではない。
ただ、私が触れてしまったものを、どう置けばいいのか。
その場所を、少しだけ示してくれているようだった。
「どうして、私に……」
そこまで言って、また止まった。
どうして私にも見えたのか。
どうして主人はそれを知っているのか。
どうして私は、ここにいるのか。
聞きたいことは、いくつもあった。
けれど、主人は窓の外を見たまま、何も言わなかった。
その沈黙に、私は不思議と急かされなかった。
私はまだ、主人のことを知らない。
この宿のことも、自分がここにいる理由も、何一つわかっていない。
けれど、その夜、初めて思った。
知らなくていい。
今は、急がなくていい。
その言葉が腑に落ちると同時に、心は、今までになかった静けさを取り戻していた。
そして私は、救いたいという気持ちの奥にあるものを、まだ知らなかった。
