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声を聴く宿 第五話 救いたかった人

    あらすじ

    奥の部屋に立ち会ううち、水瀬は人の言葉の奥にあるものを感じ取るようになっていた。雑誌では「月野しずく」として読者相談に答え、その反響に手応えも覚え始める。だが白石から、最近の文章は「届こうとしすぎている」と告げられる。そんな折、「私にも人を救う力があるのでしょうか」という相談が届く。差出人の藤野は、かつて水瀬のセッションに来た女性だった。宿を訪れた藤野は、藍色の布の前で、自分が本当に求めていたものに気づき崩れ落ちる。その姿を通して、水瀬もまた、自分の中にある「助けたい」という願いの危うさを見つめ始める。


    一 近づいている

    それからしばらくのあいだ、私は何度か、藍色の布の向こうに立ち会わせてもらうようになった。

    立ち会う、といっても、私が何かをするわけではなかった。

    主人の隣に座り、相談に来た人の声を聞く。
    時には、その人が長く黙るのを待つ。
    時には、言葉にならない息遣いや、指先の震えを見ている。

    それだけだった。

    主人は、私に説明をしなかった。

    今、何が起きているのか。
    どうしてこの言葉をかけたのか。
    なぜ、ここで沈黙するのか。

    そういうことを、あとから教えてくれることもほとんどなかった。

    ただ、必要な時だけ、私を呼んだ。

    「今日は、いてください」

    そう言われると、私は黙ってうなずいた。

    初めのうちは、ただ緊張していた。

    あの部屋には、不思議なものは何もない。
    香の匂いも、仏像も、特別な道具もない。
    何かが満ちている感じさえなかった。

    人の祈りや願いが染みついていない部屋。
    誰かの意図で満たされていない部屋。
    だからこそ、自分の中にあるものだけが、静かに浮かび上がってくる部屋。

    それがわかってくるほど、私はそこに座るのが少し怖くなった。

    誰かの苦しみを見ているつもりで、自分の中にあるものまで見えてしまうことがある。
    相談者の言葉を聞いているつもりで、自分がどこで反応しているのかがわかってしまうことがある。

    前よりも、人の声の奥にあるものが、ふいに流れ込んでくるようになった気がした。

    相談者が何かを話している時、その人の言葉とは別のところで、ふっと景色のようなものが浮かぶことがあった。

    小さな子どもが、暗い部屋の隅で膝を抱えている気配。
    誰にも言えなかった言葉を、胸の奥に押し込めてきたような重さ。
    笑っている顔の奥に、ずっと前から置き去りにされたままの悲しみ。

    もちろん、それが本当にその人の過去なのかはわからない。

    確かめたわけではない。
    聞いたわけでもない。
    主人が教えてくれたわけでもない。

    ただ、その人のそばにいると、言葉になる前のものが、こちらの内側に薄く映ることがあった。

    この人は、きっと誰かに信じてもらえなかったことがある。
    この人は、ずっと自分が悪いのだと思って生きてきたのかもしれない。
    この人の「大丈夫です」は、大丈夫ではなかった時に身につけた言葉なのかもしれない。

    そんなことが、理由もなく浮かんでくる。

    それを、成長と呼んでいいのかはわからなかった。
    力と呼んでいいのかも、わからなかった。

    むしろ、そういう名前をつけることが怖かった。

    名前をつけた瞬間に、それを自分のものだと思ってしまいそうだった。
    名前をつけた瞬間に、何かが違うものになってしまう気がした。

    だから私は、できるだけ何も思わないようにしていた。

    私は、ただ立ち会わせてもらっているだけだ。
    主人のそばで、見ているだけだ。
    何かができるようになったわけではない。

    そう、何度も自分に言い聞かせていた。

    けれど、それが特別なことなのだと、まったく思わなかったかと聞かれれば、たぶん嘘になる。

    藍色の布の前を通るたび、胸の奥が少し静かになった。
    主人に「いてください」と言われるたび、私は少しだけ、あの場所に近づいているような気がした。

    近づいている。

    その言葉が浮かんだ時、私は慌てて打ち消した。

    どこへ。
    何に。

    そう考えること自体が、危うい気がした。

    白石さんとの打ち合わせも、その頃には、少し形を変えていた。

    雑誌では、私は本名でも、普段の鑑定で使っている名前でもなく、「月野しずく」という名前で書いていた。

    白石さんは最初、私の鑑定名をそのまま出してもいいと言ってくれた。
    その方が、個人の仕事にもつながるはずだった。

    けれど私は、少し迷った。

    雑誌に届いた悩みに答えることと、個人鑑定の申し込みを増やすことを、同じ場所に置いていいのかがわからなかった。

    それに、あの宿で見たものを、自分の仕事の看板にしてしまうような気もした。

    だから私は、雑誌では別の名前を使うことにした。

    月野しずく。

    白石さんがいくつか出してくれた候補の中で、それがいちばん静かに見えた。

    最初のうちは、記事の確認や掲載日の相談を、画面越しにするだけだった。
    けれど回を重ねるうちに、用件だけを済ませるような時間ではなくなっていった。

    最近読んだ本のこと。
    休みの日にどこへ行ったかということ。
    子どもの頃から変わらず好きなもののこと。
    仕事をしている時、どういう瞬間に嬉しくなるのかということ。

    そんな、とりとめのない話が少しずつ増えていくうちに、打ち合わせはいつの間にか、食事をしながら行うものに変わっていた。

    その日、白石さんが選んでくれたのは、駅近くの小さな和食屋だった。

    夜の店内は、思ったより静かだった。
    カウンターの奥では、焼き魚の匂いがしていた。
    私たちは窓際の席に向かい合って座った。

    「水瀬さん、本当に反響ありますよ」

    白石さんは、席に着くなりそう言った。

    「反響、ですか」

    「はい。読者さんからの感想、けっこう来ています」

    そう言って、白石さんはスマートフォンを取り出した。
    画面を少し操作して、私の方に向ける。

    そこには、短い感想がいくつも並んでいた。

    「何度も読み返しました」
    「母のことを思い出しました」
    「うまく言えないけれど、胸の奥に残りました」
    「次のお話も待っています」

    一つひとつの言葉は、決して大げさなものではなかった。

    けれど、だからこそ、胸に入ってきた。

    私は、誰かを救ったつもりなどなかった。
    誰かを導いたつもりもなかった。

    雑誌に届いた悩みを読み、カードを引き、その人のために、できるだけ丁寧に言葉を返しているだけだった。

    宿のことを書いているわけではない。
    主人のことを書いているわけでもない。

    それでも、誰かの心に届いたのだと思うと、胸の奥が静かに温かくなった。

    「すごいですよ」

    白石さんは、笑いながら言った。

    「水瀬さん、大人気です」

    「大人気って、そんな」

    私は慌てて首を振った。

    「もちろん、一つひとつのお悩みは、真剣に読ませていただいています。カードも、できるだけ丁寧に見ているつもりです」

    そこまで言ってから、私は少し言葉を探した。

    「でも、それがどんなふうに届くかまでは、私にはわかりません。私がすごいということではないと思います」

    白石さんは、少し笑った。

    「そういうところも含めて、いいんだと思いますよ」

    「そうでしょうか」

    「はい。決めつけない感じがするんです。答えを押しつけるというより、読んだ人が自分で少し考えられる余白がある」

    そう言われて、私は返事に困った。

    嬉しくないと言えば、嘘になる。

    けれど、その嬉しさをそのまま受け取ってしまうと、何か大切なものが濁るような気もした。

    私は、そんなことはありません、と言いたかった。

    実際、口ではそう言ったと思う。

    けれど、白石さんが見せてくれた感想の数や、記事の閲覧数を見れば、何かが起きていることは否定できなかった。

    これは、ただのお世辞ではない。
    たまたま一人か二人が褒めてくれた、という話でもない。

    月野しずくの言葉が、誰かのところへ届いている。

    そう思った時、胸の奥に小さな灯りがともった。

    それは、水瀬としての私が直接褒められたわけではない。
    けれど、まったく別の誰かが褒められているわけでもなかった。

    もしかしたら、私は少し謙遜しすぎているのかもしれない。

    そんな言葉が、ふいに浮かんだ。

    真剣に向き合ってきた。
    一つひとつのお悩みに、いい加減に答えたことはなかった。
    カードの示すものを、できるだけ丁寧に読み取ろうとしてきた。

    それが誰かに届いたのなら、少しくらい受け取ってもいいのではないか。

    そう思った瞬間、私は自分の中に生まれた温かさを、少し怖いもののように感じた。

    嬉しい。
    認められた気がする。
    前よりは、私にも何かができるようになったのかもしれない。

    その思いは、打ち消そうとしても、すぐには消えなかった。

    その夜、家に帰ってからも、白石さんの言葉はなかなか離れなかった。

    大人気ですよ。

    私は何度も、その声を思い出した。

    嬉しかった。

    そのことだけは、否定できなかった。

    二 届きすぎる言葉

    それから私は、前よりも少しだけ、読者の顔を思い浮かべながら書くようになった。

    月野しずくという名前で届いている言葉。
    その向こうにいる人たち。

    もっと届くように。
    もっと役に立つように。
    読んだ人が、少しでも楽になるように。

    そう思うことが、悪いことだとは思わなかった。

    むしろ、以前よりも真剣になった気がしていた。

    届いた悩みを何度も読み返す。
    カードを引く前に、少し長く目を閉じる。
    その人が、本当は何を言いたいのか。
    どこで苦しみ、どこで自分を責めているのか。

    そういうことを、前よりも深く見ようとしていた。

    そして、実際に、少しずつ見えるようになっている気もしていた。

    この人には、励ましよりも、まず責めなくていいという言葉が必要なのかもしれない。
    この人は、答えを求めているようで、本当は誰かに止めてほしいのかもしれない。
    この人の迷いは、選択肢の問題ではなく、自分を信じられない痛みから来ているのかもしれない。

    カードを見ていると、そんなふうに、悩みの奥にある形が以前よりも早く浮かぶようになっていた。

    それは、確かに手応えだった。

    こういう時は、こう返せばいい。
    この言葉なら、相手の心に届くかもしれない。
    ここまで言えば、少し楽になるかもしれない。

    そう思える瞬間が増えていた。

    文章も、丁寧になったと思う。

    言葉を選び、きつくなりすぎないように整え、読んだ人が傷つかないように気をつけた。
    その人が少しでも前を向けるように、出口のある言葉を探した。

    私は、前よりもちゃんと書けている。

    そう思っていた。

    それは、思い上がりではないはずだった。

    少なくとも、私はいい加減に書いていなかった。
    誰かを適当に励ましていたわけでもなかった。
    カードの意味を、自分に都合よく飾っていたつもりもなかった。

    一つひとつ、真剣に向き合っていた。

    だから、その手応えを少しくらい受け取ってもいいのではないか。

    そう思うようになっていた。

    月野しずくとしての言葉が、誰かに届いている。
    その人の心を、少しでも軽くしている。
    何かを決めつけるのではなく、静かに背中を支えている。

    そう信じられる瞬間が増えていた。

    けれど、少しずつ、反応の質が変わっていった。

    悪くなったわけではなかった。

    「よかったです」
    「参考になりました」
    「また読みます」

    ありがたい言葉は届いていた。

    けれど、最初の頃にあった、言葉にならない余韻のようなものが、少し薄れている気がした。

    何度も読み返しました。
    胸の奥に残りました。
    自分のことを、少しだけ見つめ直しました。

    そういう言葉は、少しずつ減っていた。

    私は気のせいだと思おうとした。

    毎回、同じような反応が来るわけではない。
    読者にも、その時々の気分がある。
    たまたま、そういう時期なのかもしれない。

    そう考えれば、いくらでも理由はつけられた。

    けれど、白石さんから次の食事に誘われた時、私はどこかで、その話になるような気がしていた。

    その日も、白石さんは駅近くの店を選んでくれた。

    前より少し賑やかな店だった。
    隣の席では、会社帰りらしい人たちが、小さな声で笑っていた。

    白石さんは、しばらく他愛のない話をしていた。

    最近読んだ小説のこと。
    駅前に新しくできた店のこと。
    このあいだ見た映画が、思ったよりよかったということ。

    私は相槌を打ちながら、白石さんが何かを言い出すのを待っていた。

    やがて白石さんは、湯のみを置いた。

    「水瀬さん」

    その声で、私は少し背筋を伸ばした。

    「悪くなったわけじゃないんです」

    白石さんは、最初にそう言った。

    「むしろ、丁寧です。前より、ちゃんと読者のことを考えている感じもします」

    私は、少しだけほっとした。

    「それなら、いいことじゃないですか」

    そう言った声に、自分でも思っていたより力が入っていた。

    白石さんは、少し困ったように笑った。

    「そうなんです。いいことのはずなんですけど」

    そこで、言葉を探すように少し黙った。

    「前の水瀬さんの文章って、もう少し、読者を置いておいてくれる感じがあったんです」

    「置いておく?」

    「はい。無理に連れていこうとしないというか。読んだ人が、自分の速度で考えられる感じがあったんです」

    私は、何も言えなかった。

    「今の文章も、もちろんいいんです。でも、少しだけ……読者に届こうとしすぎている感じがするんです」

    白石さんは、すぐに首を振った。

    「すみません。うまく言えないんですけど」

    「いえ」

    私は、そう答えるのがやっとだった。

    届こうとしすぎている。

    その言葉は、思ったより深く刺さった。

    私は、前よりも丁寧に書いているつもりだった。
    前よりも読者のことを考えているつもりだった。
    前よりも、悩みの奥にあるものを見られるようになっているつもりだった。

    少しでも役に立つように。
    少しでも楽になるように。
    その人が、自分を責めすぎないように。

    そう願って、言葉を選んでいたつもりだった。

    それなのに、その思いが、かえって何かを重くしているのだとしたら。

    私は、何をしているのだろう。

    「水瀬さん」

    白石さんが、少し心配そうに私を見た。

    「責めてるわけじゃないです」

    「わかっています」

    私はうなずいた。

    「ただ、自分では気づいていなかったので」

    そう言いながら、本当は少し気づいていたのかもしれないと思った。

    読者からの反応が変わってきたこと。
    最初の頃のような余韻が、少しずつ薄れていたこと。
    そして、自分がいつの間にか、読者に何かを届けようとしすぎていたこと。

    気づきたくなかっただけなのかもしれない。

    しばらく、二人とも黙っていた。

    店の中には、隣の席の笑い声と、食器の触れ合う小さな音だけが残っていた。

    白石さんは、湯のみを両手で包むように持っていた。
    何かを言おうとして、言葉を選んでいるように見えた。

    「水瀬さん」

    もう一度、白石さんが私を呼んだ。

    「はい」

    「実は、もう一つ、見てもらいたいものがあるんです」

    私は顔を上げた。

    「相談ですか」

    「はい。ただ、いつもの相談とは少し違います」

    白石さんは、すぐにはスマートフォンをこちらに向けなかった。

    「月野しずくさん宛てに、こういう内容、実は時々来るんです」

    「こういう内容?」

    「自分には力があるのか、とか、見えないものがわかる気がするとか、人を救う仕事をしたいとか」

    私は黙っていた。

    そういう相談が届くこと自体は、想像できた。
    雑誌の占いコーナーには、恋愛や仕事の悩みだけが来るわけではない。

    言葉にできない不安。
    誰にも言えない感覚。
    自分でも信じていいのかわからないもの。

    そういうものが、月野しずくという名前に向かって送られてくることは、きっとあったのだと思う。

    「でも、普段は私のところで止めています」

    白石さんは言った。

    「水瀬さんには、見せないようにしていました」

    「どうしてですか」

    「見せたら、たぶん水瀬さん、全部ちゃんと読んで、全部ちゃんと考えようとするからです」

    白石さんは、少し困ったように笑った。

    「それは水瀬さんのいいところです。でも、全部受け取っていたら、たぶん持たないです」

    私は何も言えなかった。

    「だから、これは誌面では扱わない方がいいなと思ったものは、私の方で止めていました。返事をしない方がいいものもありますし、月野しずくさんに背負わせない方がいいものもあります」

    月野しずくさん。

    その名前で呼ばれると、少しだけ自分ではない人の話をされているような気がした。

    でも、違う。

    その言葉を読んでいるのは、私だった。
    返す言葉を探しているのも、私だった。

    「でも、これは少し……何か、引っかかるんです」

    白石さんは、そう言ってから、伏せていたスマートフォンをゆっくり持ち上げた。

    「普段なら、たぶん見せないと思います」

    「それでも、見せようと思ったんですか」

    「はい」

    白石さんは、画面をこちらに向ける前に、一度だけ私を見た。

    「たぶん、見せたら水瀬さん、放っておけなくなると思います」

    その言葉に、胸の奥が少し硬くなった。

    「でも、それでも、見てもらった方がいい気がしました」

    白石さんは、ゆっくりと画面をこちらに向けた。

    件名を見た瞬間、指先が冷たくなった。

    そこには、こう書かれていた。

    ――私にも、人を救う力があるのかを知りたいです。

    三 人を救う力

    白石さんが見せてくれたメールを、私はしばらく読むことができなかった。

    件名だけで、胸の奥がざわついていた。

    人を救う力。

    その言葉が、さっき白石さんに言われたことと、変な形で重なっていた。

    読者に届こうとしすぎている。

    白石さんの言葉は、まだ体のどこかに残っていた。

    届こうとすること。
    役に立とうとすること。
    救おうとすること。

    それは、悪いことではないはずだった。

    そう思いながら、私は画面に目を戻した。

    白石さんは、私が読み始めるのを待っていた。

    本文の冒頭には、月野しずく様、と書かれていた。

    その名前を見た瞬間、ほんの少しだけ、距離ができたような気がした。

    水瀬宛てではない。
    月野しずく宛てに届いたものだ。

    そう思えば、少し冷静に読める気がした。

    けれど、すぐにわかった。

    名前を変えても、読むのは私だった。

    言葉を受け取るのも、胸がざわつくのも、私だった。

    メールは、丁寧な文章で書かれていた。

    ―――――――――

    月野しずく様

    いつも記事を拝見しています。

    ご相談してよいことなのか、ずっと迷っていました。
    先生は、記事の中で直接そのようなことを書かれているわけではありません。

    けれど、読んでいると、どうしても感じるのです。

    先生も、私と同じように、人の言葉の奥にあるものや、見えない方の声のようなものを受け取っている方なのではないか、と。

    私は昔から、人の気持ちが入りすぎるところがあります。

    相手が笑っていても、本当は苦しんでいることがわかったり、
    その人が言葉にしていないことが、急に胸の中に入ってくるようなことがあります。

    人混みにいると、誰のものかわからない悲しみや怒りが、自分の中に入ってくるようで、立っていられなくなることもあります。

    また、見えない方の声のようなものを感じることもあります。

    それが本当に正しいものなのか、自分の思い込みなのかはわかりません。

    けれど、これまで何度も、その感覚に助けられてきました。
    また、その感覚を人に伝えたことで、相手が涙を流したり、救われたと言ってくれたりしたこともあります。

    だから私は、この力をきちんと使えるようになりたいのです。

    人を救うために。

    今はまだ、仕事としては成立していません。
    知人から相談を受けることはありますが、お金をいただくほどの形にはできていません。

    けれど、このまま何もしないでいるのは違う気がしています。

    私には、何か役割があるのではないか。
    この感覚を、もっと多くの人のために使うべきではないか。

    そう思うのです。

    私にも、人を救う力があるのでしょうか。
    この力を、どうすれば正しく開けるのでしょうか。

    もし、私の勝手な勘違いや思い込みでしたら、本当に申し訳ありません。
    その場合は、このメールにはお返事いただかなくて大丈夫です。

    ―――――――――

    最後に、名前が書かれていた。

    藤野、とあった。

    私はその名前を、しばらく見ていた。

    どこかで聞いたような気がした。

    けれど、すぐには思い出せなかった。

    「……どう思いますか」

    白石さんが、小さな声で聞いた。

    私は、すぐには答えられなかった。

    文面は、礼儀正しかった。

    乱暴なところはない。
    人を脅すようなところもない。
    むしろ、真面目すぎるくらい真面目な文章だった。

    けれど、胸の奥のざわつきは消えなかった。

    私は、もう一度メールに目を落とした。

    月野しずく様。

    その文字は、私の名前ではないはずだった。

    それなのに、そこに向けられた言葉は、確かに私の胸をざわつかせていた。でも、違う。

    その言葉を読んでいるのは、私だった。
    胸がざわついているのも、私だった。

    私は、画面から目を離せないまま言った。

    「どうして、これは見せようと思ったんですか」

    私が聞くと、白石さんは少しだけ目を伏せた。

    「わからないんです」

    「わからない?」

    「はい。いつもなら、たぶん止めていたと思います。誌面で扱う内容ではないですし、安易に返事をするのも危ない気がします」

    「危ない」

    「うまく言えないんですけど」

    白石さんは、指先で湯のみの縁をなぞった。

    「この人、たぶん本気なんだと思うんです」

    私は黙っていた。

    「本気で、人を救いたいと思っている。だから余計に、怖い感じがするんです」

    その言葉に、胸の奥が少し冷えた。

    本気だから怖い。

    それは、わかる気がした。

    嘘や遊びなら、まだ遠くに置ける。
    けれど、本気の善意は、時々、相手の中へまっすぐ入り込もうとする。

    白石さんは、さらに言った。

    「水瀬さんに見せたら、放っておけなくなると思いました」

    「それなら、見せない方がよかったんじゃないですか」

    自分で言ってから、少しきつい言い方になったと思った。

    でも白石さんは、怒らなかった。

    「そうかもしれません」

    静かに、そう言った。

    「でも、見せないまま捨ててしまうことも、できませんでした」

    私は画面に目を戻した。

    私には、何か役割があるのではないか。
    この感覚を、もっと多くの人のために使うべきではないか。

    その文章を、もう一度読んだ。

    私にも、人を救う力があるのでしょうか。

    胸の奥に、小さな痛みが走った。

    それは、藤野さんの言葉が痛かったのか。
    それとも、さっきまで自分の中にあったものに触れたから痛かったのか。

    わからなかった。

    「……少し、宿で聞いてみた方がいいのかもしれません」

    気づくと、私はそんなことを口にしていた。

    白石さんが、不思議そうに顔を上げた。

    「宿?」

    「あ」

    私は、自分が何を言ったのかに気づいて、慌てて首を振った。

    「いえ、違います。今のは忘れてください」

    「前にお話ししていた、時々行かれているところですか」

    「そうですけど、そういう意味じゃなくて」

    私は、自分でも何を否定しているのかわからなかった。

    「すみません。今のは、本当に独り言みたいなものです。聞かなかったことにしてください」

    白石さんは、少しだけ首を傾げた。

    けれど、それ以上は聞かなかった。

    「わかりました」

    そう言って、スマートフォンの画面をそっと伏せた。

    その日の帰り道、私は何度も、自分の言葉を思い出していた。

    宿で聞いてみた方がいいのかもしれません。

    なぜ、そんなことを言ってしまったのだろう。

    白石さんに、今回は扱わないでください、と言えば済む話だった。

    実際、そうしてもよかった。

    雑誌に届く相談のすべてに答えることはできない。
    まして、あの宿に関わる話を、私の判断で広げていいはずもない。

    白石さんも、きっとそのつもりでいたのだと思う。

    私が「違うと思います」と言えば、それで終わったはずだった。

    けれど、終わらなかった。

    私は何度か、白石さんに返信を書きかけた。

    今回は、誌面では扱わない方がいいと思います。
    申し訳ありませんが、こちらではお応えできません。

    そう書けばいいだけだった。

    でも、最後の送信ボタンを押せなかった。

    人を救う力。

    その言葉が、嫌だった。

    嫌だったのに、忘れられなかった。

    それから、少し時間が経った。

    私はいつものように、宿へ向かった。

    特別な用事があったわけではなかった。

    新月の頃、少しまとまった時間が取れると、私はあの宿へ行くようになっていた。

    主人のそばに座り、時には何も話さず、ただ静かな時間を過ごす。

    それが、いつの間にか私の中の一つの流れになっていた。

    その日、宿には、ほかのお客の気配がなかった。

    いつもなら主人は、一階のカウンターの前に静かに立っている。

    けれどその日は、食堂の窓際の席に座り、外を見ていた。

    窓の外では、木々がゆっくり揺れていた。

    私は少し迷ってから、主人の向かいの席にそっと座った。

    テーブルの上には、何も置かれていなかった。

    しばらく、私は何も言わなかった。

    主人も、何も聞かなかった。

    話すつもりで来たわけではなかった。

    けれど、話さずに帰れる気もしなかった。

    私は、少しずつ、その相談のことを口にした。

    うまく説明できた気はしなかった。

    月野しずく宛てに届いた、少し変わった相談。
    その人が、自分の中に起きる感覚を「人を救う力」と呼びたがっているように見えたこと。

    それだけを伝えるだけでも、思ったより時間がかかった。

    主人は、黙って聞いていた。

    私が話し終えても、すぐには何も言わなかった。

    「白石さんに、お断りしてもらうこともできます」

    私は、そう言った。

    言ってから、それが自分に言い聞かせるための言葉だとわかった。

    「その方がいいのかもしれません。誌面で扱う内容ではないですし、宿のことを簡単に案内していいとも思いません」

    主人は、静かに私を見ていた。

    「けれど、気になっているのですね」

    私は答えられなかった。

    気になっている。

    その言葉は、あまりに簡単だった。

    でも、その通りだった。

    「この方は」

    主人は、静かに言った。

    「ご自分の中に起きていることを、まだ自分のものにしようとしています」

    私は、その言葉を聞いて、背中が少し冷たくなった。

    自分のものにしようとしている。

    それは、藤野さんだけのことなのだろうか。

    「力があるかどうか、ではないのですね」

    私が言うと、主人は少しだけこちらを見た。

    「力と呼べるものがある人ほど、その呼び方に気をつけなければなりません」

    その言葉に、私は黙った。

    あの部屋に立ち会うたび、私の中に薄く映るもの。
    言葉になる前のもの。
    理由もなく浮かんでくる景色。

    それを、力と呼んでいいのか。

    そう思ったことが、私にもあった。

    主人は、私の沈黙を責めなかった。

    「お会いしましょう」

    やがて、短くそう言った。

    私は顔を上げた。

    「本当に、ですか」

    そう言ってから、自分でも少し驚いた。

    会わせたいと思っていたはずなのに、主人の口からそう言われると、急に不安になった。

    主人は、すぐには答えなかった。

    「まずは、お話を聞きます」

    それだけだった。

    日程は、白石さんを通して決まった。

    すぐに会うことにならなかったことに、私は少しほっとした。

    けれど、その名前は、頭のどこかに残り続けていた。

    藤野さん。

    どこかで聞いたような気もした。

    けれど、その時の私は、まだ思い出せなかった。

    四 どうりで

    藤野さんが宿に来たのは、雨の気配がまだ少し残る午後だった。

    昼過ぎまで降っていた雨はもう上がっていたけれど、庭の石にはうっすらと水が残っていた。
    木々の葉も、いつもより少し重たそうに見えた。

    私は一階の食堂にいた。

    主人は、窓際の席に座っていた。
    いつもなら一階のカウンターの前に静かに立っていることが多いのに、その日は外を眺めるようにして、ただそこにいた。

    宿には、ほかのお客の気配がなかった。

    私は主人の近くに座っていた。
    何かを話していたわけではない。

    ただ、藤野さんが来る時間が近づくにつれて、胸の奥が少しずつ落ち着かなくなっていた。

    玄関の方で、小さく音がした。

    誰かが戸を開ける音だった。

    私は顔を上げた。

    先に立ち上がったのは、主人ではなかった。
    私だった。

    自分でも、どうして立ったのかわからなかった。

    玄関に向かうと、そこに一人の女性が立っていた。

    藤野さんだと、すぐにわかった。

    メールの文面から想像していたよりも、落ち着いた印象の人だった。

    年齢は、私より少し上だろうか。
    淡い色の服を着て、髪はきちんと整えられていた。
    けれど、その整い方には、どこか力が入っているようにも見えた。

    手にした傘の先から、まだ小さな水滴が落ちていた。

    藤野さんは、そのまま私を見た。

    その瞬間、先に表情を変えたのは藤野さんの方だった。

    「あ……」

    小さく息をのむ声がした。

    私は、何か言おうとして止まった。

    藤野さんは、私を見たまま、少しだけ目を見開いていた。
    驚いているようでもあり、どこか納得しているようでもあった。

    「どうりで」

    その言葉の意味が、すぐにはわからなかった。

    「どうりで、ですか」

    私が聞くと、藤野さんは少しだけ笑った。

    けれど、その笑い方には、喜びだけではないものが混じっていた。
    驚きと、安心と、何かを確かめたような熱。

    その全部が、ひとつの表情の中に入っているようだった。

    「以前、見ていただいたことがあります」

    そう言われて、私はようやく、記憶の奥を探り始めた。

    どこかで会ったことがある。

    そう思った。

    けれど、すぐには思い出せなかった。

    「私、藤野です」

    名前を聞いて、胸の奥で何かが小さく動いた。

    藤野。

    メールの最後に書かれていた名前。
    どこかで聞いたような気がしていた名前。

    その名前と、目の前の女性の顔が、すぐには結びつかなかった。

    「水瀬さんですよね」

    藤野さんは、確かめるように言った。

    私は黙ってうなずいた。

    「まさか、月野しずくさんが水瀬さんだったなんて、思いませんでした」

    その名前を聞いた瞬間、胸の奥が少し冷えた。

    月野しずく。

    その名前で呼ばれるたびに、私は少しだけ自分から離れる。
    けれど今は、その名前が、水瀬としての私にぴたりと貼りついてきたような気がした。

    「でも、どうりで、と思いました」

    藤野さんは、私から目を離さずに言った。

    「今まで、いろいろな方のセッションを受けたり、記事を読んだりしてきました。でも、本当にしっくり来たのは、水瀬さんのセッションと、月野しずくさんの記事だけだったんです」

    私は、返す言葉を失った。

    しっくり来た。

    それは、褒め言葉のはずだった。
    けれど、どこかで私を捕まえる言葉のようにも聞こえた。

    私の言葉が届いていた。

    そう思うと、胸の奥に小さく温かいものがともった。

    けれど、そのすぐあとで、別の感覚が来た。

    届きすぎていたのかもしれない。

    そう思った。

    私は藤野さんを見た。

    ようやく、少しずつ思い出してきた。

    以前、個人セッションに来た人だった。

    その時の藤野さんは、今よりずっと声が小さかった。

    人の気持ちが入りすぎて苦しいのだと話していた。
    誰かが笑っていても、本当は悲しんでいるのがわかる気がすると言っていた。
    人混みにいると、誰のものかわからない感情が胸に入ってきて、苦しくなるのだと言っていた。

    そして時々、見えない方の声のようなものを感じるけれど、それが本当なのか、自分の思い込みなのかわからないと、怯えるように話していた。

    力がある人、という印象ではなかった。

    むしろ、自分の中に起きていることに驚き、怖がり、どう扱えばいいのかわからずにいる人だった。

    その時の藤野さんは、何度も同じようなことを言っていた。

    「私、変なんでしょうか」
    「こういうのは、気にしない方がいいんでしょうか」
    「誰かに話すと、たぶん怖がられると思うんです」

    私は、その言葉を聞きながら、できるだけ静かにカードを読んだ。

    あなたが変なのではない。
    ただ、人よりも強く受け取ってしまうところがあるのかもしれない。
    だからこそ、自分の中心に戻る時間を大切にした方がいい。

    そんなことを伝えた記憶がある。

    けれど、目の前にいる藤野さんは、少し違っていた。

    背筋は伸びていた。
    声も、以前よりはっきりしていた。
    服装も、どこか隙がなく整えられていた。

    怖がっている人、ではなかった。

    怖さを、役割という言葉で包んできた人のように見えた。

    「こちらへ」

    主人の声がした。

    振り返ると、主人はいつの間にか立っていた。

    藤野さんは、主人を見た瞬間、表情を変えた。

    先ほど私に向けていた驚きとは違う。
    もっと緊張を含んだ、期待に近い表情だった。

    「はじめまして」

    藤野さんは、深く頭を下げた。

    主人は、いつものように静かに会釈した。

    「遠いところを、よくお越しくださいました」

    それだけだった。

    藤野さんは、少し拍子抜けしたようにも見えた。

    もっと特別な言葉を期待していたのかもしれない。
    もっと自分のことを見抜かれるような瞬間を、どこかで待っていたのかもしれない。

    けれど主人は、ただ食堂の方へ案内した。

    私たちは、窓際の席に座った。

    さっきまで主人が座っていた場所だった。

    藤野さんは、主人の向かいに座った。
    私は、少し横にずれた席に座った。

    テーブルの上には、何も置かれていなかった。

    藤野さんは、しばらく黙っていた。

    その沈黙の中で、私は藤野さんの手を見ていた。
    膝の上に置かれた両手が、ぎゅっと握られている。

    落ち着いて見える。
    けれど、力が入っている。

    主人は何も言わなかった。

    藤野さんは、その沈黙に耐えかねたように、ゆっくり口を開いた。

    「メールにも書いたのですが、私は昔から、人の気持ちが入りすぎるところがあります」

    主人は、静かに聞いていた。

    「相手が笑っていても、本当はつらいんだとわかったり、言葉にしていないことが急に胸に入ってきたりします」

    藤野さんの声は、初めのうちは落ち着いていた。

    「昔は、それが怖かったんです。自分がおかしいのかもしれないと思っていました」

    私は、以前のセッションを思い出した。

    そうだ。

    あの時の藤野さんは、まさにそう話していた。

    怖い。
    わからない。
    自分がおかしいのかもしれない。

    それが、あの時の藤野さんだった。

    「でも、いろいろ学ぶうちに、これはただ怖がるものではないのかもしれないと思うようになりました」

    藤野さんは、少しだけ顔を上げた。

    「私には、何か役割があるのかもしれないって」

    その言葉が出た時、空気がほんの少し硬くなった気がした。

    主人は、何も言わなかった。

    「これまで、何人かの人に、感じたことを伝えたことがあります」

    藤野さんは続けた。

    「すると、涙を流してくれたり、救われましたと言ってくれたりしたんです」

    救われました。

    その言葉に、胸の奥が小さく反応した。

    白石さんが見せてくれた読者の言葉が、ふいに浮かんだ。

    救われました。
    待っています。
    水瀬さんの言葉が好きです。

    私は、少しだけ視線を落とした。

    藤野さんは、私の方を見ていなかった。
    主人だけを見ていた。

    「だから、私はこの感覚をちゃんと使えるようになりたいんです」

    藤野さんの声に、少し熱が混じり始めていた。

    「ただ敏感なだけで終わらせたくないんです。人の気持ちが入ってきて苦しいだけなら、ただの弱さかもしれません。でも、それを人のために使えるなら、意味があると思うんです」

    主人は、静かに藤野さんを見ていた。

    「今はまだ、仕事としてはうまくいっていません」

    藤野さんは、少し早口になった。

    「知人から相談されることはあります。でも、お金をいただくほどの形にはなっていません。講座を受けたり、本を読んだりもしています。でも、どこに行っても、どこか違う気がして」

    そこで、藤野さんは私を見た。

    「水瀬さんのセッションを受けた時、初めて、わかってもらえた気がしたんです」

    私は、息をのんだ。

    「そして、月野しずくさんの記事を読んだ時も、同じ感覚がありました。あ、この人はわかっている人だって」

    その言葉は、まっすぐ私に向けられていた。

    私は、何も言えなかった。

    嬉しさはあった。

    たしかにあった。

    けれど、その嬉しさのすぐ下に、薄い怖さがあった。

    藤野さんは、私の沈黙をどう受け取ったのか、少しだけ微笑んだ。

    「だから、今日ここに来られてよかったです」

    ここ。

    その言葉を聞いた時、私は胸の奥で何かが引っかかるのを感じた。

    藤野さんは、この宿のことを知らなかったはずだ。
    メールにも、宿のことは書かれていなかった。

    それでも今、藤野さんはここにいる。

    私が、つないでしまったのだろうか。

    そう思った。

    私は、この人をどうすればいいのかわからなかった。
    白石さんのところで止めてもらうこともできた。
    誌面では扱えませんと、静かに終わらせることもできた。

    けれど、それで終わらせていいのかもわからなかった。

    だから私は、主人に預けた。

    預けた、という言い方が正しいのかはわからない。
    少なくとも、私の言葉で返してはいけない気がしていた。

    「私、今ならわかるんです」

    藤野さんは、両手を膝の上で強く握った。

    「ずっと怖がっていただけなんです。自分にあるものを、認めるのが怖かったんです」

    主人は何も言わなかった。

    「でも、もう逃げたくないんです」

    藤野さんは、まっすぐ主人を見た。

    「私なら、できると思うんです」

    その言葉を聞いた瞬間、私は胸の奥が小さく冷えるのを感じた。

    以前、私の前で小さく震えていた人が、今は、自分の震えを力と呼ぼうとしている。

    「人を救える人になりたいんです」

    藤野さんの声は、震えていなかった。

    震えていないことが、かえって怖かった。

    「そのために、どうすればいいのかを知りたいんです」

    主人は、静かに藤野さんを見ていた。

    「あなたは」

    しばらくして、主人が言った。

    「何を救いたいのでしょう」

    藤野さんは、一瞬、言葉を失った。

    「何を、ですか」

    「はい」

    主人は、それ以上説明しなかった。

    藤野さんは、少しだけ眉を寄せた。

    「苦しんでいる人です」

    「苦しんでいる人の、何を救いたいのでしょう」

    藤野さんの手に、さらに力が入った。

    「心、だと思います」

    「心」

    「はい。苦しんでいる心を、楽にしてあげたいんです」

    主人は、静かに聞いていた。

    「楽にしてあげたい」

    その言葉を、主人はただ繰り返した。

    責めるような声ではなかった。

    けれど、藤野さんの表情が少し揺れた。

    「いけないことですか」

    「いけないことではありません」

    主人は、すぐに答えた。

    「けれど、楽にしてあげたいと思う時、人は相手を見ることを忘れることがあります」

    藤野さんは、口を閉じた。

    私の胸も、少しだけ痛んだ。

    主人の言葉は、藤野さんに向けられているはずだった。

    けれど、私にも届いていた。

    楽にしてあげたい。
    少しでも役に立ちたい。
    読んだ人が、前を向けるように。

    そう思いながら書いていた自分の言葉が、また胸の奥に戻ってきた。

    藤野さんは、しばらく黙っていた。

    それから、小さく息を吸った。

    「でも、私は本当に、誰かの役に立ちたいんです」

    その声には、少しだけ切実さが戻っていた。

    「すごい人だと思われたいだけなら、こんなに苦しくなかったと思います。ずっと苦しかったんです。人の気持ちが入ってきて、見えないものを感じて、それを誰にも言えなくて」

    藤野さんの目が、少し潤んだ。

    「だから、これが誰かのためになるなら、私の苦しさにも意味があると思えるんです」

    私は、何も言えなかった。

    その言葉は、嘘ではないと思った。

    藤野さんは、本当に苦しかったのだと思う。
    本当に、人のためになりたいのだと思う。

    だからこそ、危うい。

    そう感じた。

    主人は、ゆっくりと立ち上がった。

    「では」

    その声は、静かだった。

    「行ってみましょうか」

    藤野さんは、一瞬だけ戸惑ったように主人を見た。

    どこへ行くのか、わかっていないのだと思った。

    けれど、その顔にはすぐに、期待に近いものが浮かんだ。

    何かが始まる。

    そう思っている顔だった。

    私は、立ち上がりながら、胸の奥が静かに冷えていくのを感じていた。

    主人がどこへ向かうのか、私にはわかっていた。

    二階の奥。

    藍色の布の前。

    その瞬間、胸の奥に小さな期待が生まれた。

    あの部屋なら、藤野さんの中にあるものを、そのまま浮かび上がらせるかもしれない。

    そう思ってしまった。

    思ってしまったことに気づいて、少し息が苦しくなった。

    五 藍色の布の前で

    階段を上がる音が、いつもよりはっきり聞こえた。

    古い木が、一段ごとに小さく軋む。

    主人が先を歩き、その少し後ろを藤野さんが歩いていた。
    私は、二人から少し離れて後ろをついていった。

    藤野さんの背中は、さっきよりも固く見えた。

    それでも、その足取りには迷いがなかった。

    緊張している。
    けれど、期待している。

    そう見えた。

    きっと何かが起こる。

    私は、そう思っていた。

    あの部屋なら、藤野さんの中にあるものを、そのまま浮かび上がらせるかもしれない。
    自分でも扱えずにいた感覚や、苦しさや、力と呼びたがっていたものの正体が、少しだけ見えるかもしれない。

    そうなれば、藤野さんは変われるかもしれない。

    ここまで来たのだから。
    主人が、ここへ向かうことを選んだのだから。

    きっと、悪いことにはならない。

    そう思ってしまっている自分に、私はまだ気づいていなかった。

    階段を上がりきると、二階の廊下は静かだった。

    雨上がりの湿った空気が、廊下の奥までうっすら入り込んでいるようだった。

    奥に、藍色の布が見えた。

    天井から床近くまで降りた、深い藍色の布。

    手前の布は、左右にゆるく寄せられている。
    奥の布は、静かに向こう側を閉ざしていた。

    風もないのに、その色だけが、廊下の奥で深く沈んでいるように見えた。

    藤野さんの足が、ほんの少し速くなった。

    その横顔に、さっきまでよりも強い光が差したように見えた。

    ああ。

    私は、その表情を見た瞬間、胸の奥が冷えた。

    藤野さんは、選ばれる場所に向かっているのだと思っている。

    そう感じた。

    ここに入れば、何かが開く。
    ここに入れば、自分の中にあるものが本物になる。
    ここに入れば、ずっと欲しかった言葉をもらえる。

    そんな期待が、藤野さんの中で膨らんでいるように見えた。

    主人は、何も言わなかった。

    ただ、藍色の布の少し手前で足を止めた。

    藤野さんも、足を止めた。

    その瞬間だった。

    藤野さんの表情から、すっと何かが消えた。

    さっきまで張っていた背筋が、ほんの少し揺れた。

    手の力が抜けるように、指がほどけた。

    「……違う」

    小さな声だった。

    主人は、何も言わなかった。

    藤野さんは、藍色の布を見ていた。

    けれど、見ているというより、布の前で自分の中の何かを見せられているようだった。

    「違う……」

    もう一度、藤野さんはつぶやいた。

    私は、息を止めた。

    藤野さんの言葉は少なかった。

    けれど、その言葉の奥から、いくつもの感情が押し寄せてくるような気がした。

    期待。
    怖さ。
    悔しさ。
    恥ずかしさ。
    まだ認めたくない何か。

    そして、ほんの少しだけ、安堵のようなもの。

    その全部が、藤野さんの胸の奥で一度に揺れているように感じた。

    私は、藤野さんの言葉よりも、その場の静けさの方を強く感じていた。

    藍色の布の向こうには、何もない部屋がある。

    人の祈りや願いが染みついていない部屋。
    誰かの意図で満たされていない部屋。
    だからこそ、自分の中にあるものだけが、静かに浮かび上がってくる部屋。

    今、その部屋は、まだ藤野さんを中に入れていない。

    それなのに、布の前に立っただけで、藤野さんの中にあるものが、もう浮かび上がり始めていた。

    「入れないです」

    藤野さんは、ほとんど息のような声で言った。

    「私、ここには……入れないです」

    その声は、誰かに拒まれた人の声ではなかった。

    自分でそうわかってしまった人の声だった。

    主人は、何も言わなかった。

    藤野さんは、布を見たまま、唇を震わせた。

    「ここに入れば、何かが始まると思っていました」

    その声は、さっきまでの強さを失っていた。

    「私が感じてきたものが、ちゃんとしたものになるんだと思っていました」

    その言葉があまりに小さくて、私は思わず一歩前に出ていた。

    「藤野さんが感じてきたことは、きっと無駄ではなかったと思います」

    言いながら、自分の声が少し急いでいるのがわかった。

    「今は違っても、きっとまた、タイミングが来るんじゃないでしょうか」

    言いながら、その言葉は、どこか自分にも向いている気がした。

    藤野さんは、私を見なかった。

    藍色の布の前で、ただ小さく息をしていた。

    言い終えた瞬間、主人の視線を感じた。

    振り返ると、主人はいつものように、何も感じさせない目でこちらを見ていた。

    責めているわけではなかった。
    止めているわけでもなかった。
    失望しているわけでもなかった。

    ただ、見ていた。

    主人は、静かに口を開いた。

    「水瀬さんには、そう感じられたのですね」

    それだけだった。

    けれど、その言葉は、いつものようには聞こえなかった。

    いつもなら、主人の言葉はただそこに置かれるだけだった。
    誰かを押すことも、引くこともなく、静かにその場に残るだけだった。

    けれど、その時だけは違った。

    私は、その言葉の奥に、初めて、ほんのわずかな距離を感じた。

    私は、そうは見ていません。

    そう言われたような気がした。

    胸の奥が、冷たくなった。

    私は藤野さんを慰めようとしていた。

    いま見えかけているものに、私の言葉をかぶせようとしていた。

    主人は、私を責めなかった。

    ただ、藤野さんに向き直った。

    「間違いではなかったと、思いたかったのですね」

    藤野さんの肩が、小さく震えた。

    「……はい」

    返事は、ほとんど声になっていなかった。

    「誰かに、そう言ってほしかったんです」

    その声を聞いた瞬間、廊下の空気がさらに深く静まったように感じた。

    藤野さんは、布の前に立ったまま、顔を上げられずにいた。

    「私には力があるって」

    声が震えた。

    「今まで苦しかったことには、意味があるって」

    言葉が、少しずつ崩れていった。

    「私は、ただ弱いだけじゃないって」

    そこで、藤野さんの息が乱れた。

    「そう思いたかったんです」

    次の瞬間、膝から力が抜けたように、藤野さんはその場に崩れ落ちた。

    泣き声はなかった。

    ただ、ずっと保っていた形が、静かにほどけていくようだった。

    主人は、何も言わなかった。

    私も、何も言えなかった。

    六 置き去りにしてきた自分

    湯の沸く音が、妙に耳に残る。

    藤野さんは、カウンターの端に座っていた。

    私は、その少し離れた席に腰を下ろしていた。

    主人はカウンターの中で、何も言わずに湯のみを用意していた。

    誰も、さっきのことを口にしなかった。

    階段を下りてくる時、藤野さんはほとんど何も言わなかった。

    さっきまで彼女を支えていたものが、音もなく剥がれてしまったように見えた。

    背筋を伸ばすこと。
    声を強くすること。
    自分には役割があるのだと思うこと。
    誰かを救える人間になれるはずだと信じること。

    その一つひとつで、藤野さんはここまで自分を保ってきたのかもしれない。

    けれど、藍色の布の前で、その支えは一度に力を失っていた。

    今、カウンターに座る藤野さんは、宿に入ってきた時の藤野さんではなかった。

    私は、その横顔を見ていた。

    宿に来た時の藤野さんは、強かった。

    少なくとも、強くあろうとしていた。

    自分には力がある。
    その力を使って人を救いたい。
    それをきちんと開きたい。

    そう言う藤野さんの声には、どこか張りつめたものがあった。

    けれど今、目の前にいる藤野さんには、その張りつめたものがなかった。

    代わりに、以前のセッションで見た、あの小さく震えるような気配が戻ってきていた。

    声の小さな藤野さん。

    自分の中に起きていることに驚き、怖がり、どう扱えばいいのかわからずにいた人。

    その時の言葉が、ふいに胸の奥でよみがえった。

    ――私、自分のことが嫌いなんです。

    あの時、藤野さんはそう言っていた。

    とても小さな声だった。

    人の気持ちが入りすぎることよりも、見えないものを感じることよりも、その言葉の方が、ずっと深いところから出てきたように聞こえた。

    私は、そのことを思い出していた。

    やがて、主人は藤野さんの前に湯のみを置いた。

    藤野さんは、両手でそれを包んだ。

    温かさを確かめるように、しばらく指先を添えていた。

    けれど、口元へ運ぶことはできなかった。

    湯気だけが、静かに藤野さんの顔の前を上がっていた。

    私は、藍色の布の前での主人の沈黙を思い出していた。

    主人は、何も言わなかった。

    藤野さんが崩れ落ちた時も、慰めなかった。
    手を差し伸べなかった。
    大丈夫ですとも、あなたは悪くありませんとも言わなかった。

    その沈黙が、あの時の私には、とても冷たいことのように思えた。

    残酷だとさえ思った。

    目の前で人が崩れているのに、どうして何も言わないのだろう。
    どうして手を差し伸べないのだろう。
    どうして、一言声をかけないのだろう。

    そう思った。

    けれど今、カウンターに座る藤野さんを見ていると、少しだけわかる気もした。

    あの時、何かを言われていたら、藤野さんはきっと、その言葉にすがった。

    大丈夫です。
    あなたは悪くありません。
    いつかまた、時が来ます。

    そんな言葉をもらえば、藤野さんは少し楽になったはずだった。

    けれど、その楽さは、藤野さんを途中で止めてしまったのかもしれない。

    自分の中にあるものに気づきかけた人が、本当にその底まで降りていく前に、誰かの優しさで引き上げられてしまう。

    それは、救いのように見えて、ほんとうは、その人が自分を見る機会を奪うことなのかもしれなかった。

    主人は、何も言わなかった。

    何も言わないことで、藤野さんが落ちていく場所を、最後まで守っていたのかもしれない。

    助けないことが、助けることになる瞬間があるのかもしれない。

    そう思った時、胸の奥が小さく痛んだ。

    私は、いつの間に待てなくなっていたのだろう。

    以前の私は、届いた相談に、自信を持って答えることができなかった。

    カードを引いても、それが相手にとって本当に必要な言葉なのか、最後までわからなかった。

    ただ、その人の悩みの前に座り、一緒に迷っているような気持ちで言葉を探していた。

    それが怖かった。
    もどかしかった。
    けれど、それしかできなかった。

    それなのに、いつからか私は、一緒に迷うことよりも、届けることを考えるようになっていた。

    読んだ人が少しでも楽になるように。
    悩んでいる人が、前を向けるように。
    傷ついている人に、今すぐ何かを渡せるように。

    それは、優しさの形をしていた。

    けれど、藤野さんが藍色の布の前で崩れた時、私はようやく気づき始めていた。

    私は、待っていたつもりだった。

    けれど本当は、いつの間にか、救いに行こうとしていたのかもしれない。

    カウンターの中で、主人は何も言わずに立っていた。

    藤野さんは、湯のみを見つめていた。

    長い沈黙があった。

    その沈黙は、さっき藍色の布の前で崩れた時の沈黙とは少し違っていた。

    逃げるための沈黙ではなかった。

    自分の中に置き去りにしてきたものを、初めて見ようとしている人の沈黙だった。

    やがて、主人が静かに口を開いた。

    「その方を、置き去りにしてきたのですね」

    藤野さんの指が、湯のみの上でかすかに動いた。

    「その方……」

    藤野さんの声は、とても小さかった。

    主人は、静かに続けた。

    「力のある方ではありません」

    藤野さんは、顔を上げられなかった。

    「人を救える方でもありません」

    湯気が、ゆっくり揺れていた。

    「自分のことが嫌いだと言っていた方です」

    藤野さんの肩が、小さく震えた。

    私は、息を止めた。

    あの時の言葉を、主人は知らないはずだった。

    少なくとも、私が口にしたことはなかった。

    それでも主人の言葉は、まっすぐそこへ届いていた。

    藤野さんは、しばらく黙っていた。

    それから、かすれた声で言った。

    「……忘れていたわけじゃ、ないんです」

    主人は、何も言わなかった。

    「でも、見たくなかったんです」

    藤野さんの声が、少し震えた。

    「弱くて、すぐ傷ついて、人の顔色ばかり見て、勝手に感じすぎて、勝手に苦しくなって」

    言葉が途切れた。

    「そんな自分が、嫌だったんです」

    藤野さんは、湯のみを持つ手に少し力を込めた。

    「だから、力があると思いたかった」

    その言葉は、静かだった。

    布の前で崩れた時のような激しさはなかった。

    けれど、その分だけ、深いところから出てきているように聞こえた。

    「ただ弱いだけじゃないって、思いたかったんです」

    主人は、藤野さんを見ていた。

    「人を救える自分になれば、その自分を見なくて済むと思ったのですね」

    藤野さんは、ゆっくり目を閉じた。

    否定はしなかった。

    肯定もしなかった。

    けれど、その沈黙が、返事のように聞こえた。

    しばらくして、藤野さんは小さく言った。

    「力があれば、変われると思っていました」

    その声は、ほとんど独り言だった。

    「人を助けられるようになれば、こんな自分でも、少しは好きになれると思っていました」

    私は、何も言えなかった。

    藤野さんは、続けた。

    「その自分から、遠く離れたかったんです」

    主人は何も言わなかった。

    「私、あの頃の自分を好きになれる気がしません」

    そこまで言って、少しだけ口元を歪めた。

    笑おうとしたのかもしれない。

    でも、笑いにはならなかった。

    「なのに、そこを見ないままでは、もう進めないんですね」

    主人は、しばらく黙っていた。

    そして、静かに言った。

    「本当の声に触れるために、特別になる必要はありません」

    藤野さんの目が、わずかに揺れた。

    「特別になる必要は、ないんですか」

    「はい」

    主人は、短く答えた。

    「ただ、置き去りにしてきた方を、置き去りにしないことです」

    藤野さんは、何も言わなかった。

    その言葉を理解しようとしているようにも、受け入れられずにいるようにも見えた。

    私は、その横顔を見ながら、藤野さんが完全に救われたわけではないのだと思った。

    何かがほどけたようには見えなかった。

    むしろ、ほどけかけたものを、どう扱えばいいのかわからずにいるように見えた。

    けれど、宿に来た時のような強い声は、もうなかった。

    そのことだけは、確かだった。

    藤野さんは、しばらくして、ようやく湯のみを口元に運んだ。

    ほんの少しだけ、お茶を飲んだ。

    そして、小さく息を吐いた。

    「少し、考えます」

    それだけ言った。

    主人は、うなずいた。

    「はい」

    「今日、ここに来てよかったのかどうかは、まだわかりません」

    藤野さんは、正直にそう言った。

    「でも、来なかったことには、もうできない気がします」

    主人は、何も言わなかった。

    私は、その言葉を聞いて、胸の奥が静かに痛んだ。

    来なかったことには、もうできない。

    それは、救いの言葉ではなかった。

    けれど、嘘ではない言葉だった。

    藤野さんは、そのあとしばらくして、帰り支度をした。

    玄関まで見送る間も、彼女はあまり話さなかった。

    靴を履き、傘を手に取る。

    外は、来た時よりも少し明るくなっていた。

    庭の石には、まだ雨の名残が残っていた。

    「今日は、ありがとうございました」

    藤野さんは、そう言って頭を下げた。

    けれどその声は、すっきりした人の声ではなかった。

    わかろうとしている人の声だった。

    わからなければいけないと、自分に言い聞かせている人の声だった。

    納得したいのに、納得しきれない。
    間違っていたと認めたくない。
    それでも、ここで何かを言えば、また同じ場所に戻ってしまうとわかっている。

    そんな揺れが、まだ残っているように見えた。

    私は、その背中を見ていた。

    「藤野さん、私も――」

    そこまで言って、私は口をつぐんだ。

    私も、同じです。

    そう言いたかった。

    私も、誰かの役に立てる自分なら、少しは自分を認められる気がしていました。
    私も、誰かに救われたと言われることで、自分に価値があると思いたかったのかもしれません。

    そう言いたかった。

    けれど、その言葉もまた、藤野さんのためではなく、私自身のためだったのかもしれない。

    藤野さんは、少しだけ振り返った。

    私は何も言えなかった。

    主人も、何も言わなかった。

    藤野さんは、もう一度だけ小さく頭を下げて、宿を出ていった。

    戸が閉まる音が、静かに残った。

    宿の中は、急に広くなったように感じた。

    私は、まだ玄関の方を見ていた。

    「言いませんでしたね」

    主人が、静かに言った。

    私は、少し遅れて主人を見た。

    一瞬、褒められたのかと思った。

    けれど、主人は続けた。

    「けれど、言おうとはしました」

    胸の奥が、冷たくなった。

    藤野さんに、私も同じです、と言おうとしたこと。
    大丈夫です、と言おうとしたこと。
    あなたの苦しみは無駄ではありません、と言おうとしたこと。

    全部、見られていた。

    「助けたいと思うことは、悪いことではありません」

    主人は、玄関の方を見たまま言った。

    「けれど、その思いが前に出ると、人は相手の声ではなく、自分の願いを聞き始めます」

    私は、何も言えなかった。

    「そろそろ、あなた自身の話をしなければなりませんね」

    その言葉を聞いた時、藍色の布の前で崩れ落ちた藤野さんの姿が、もう一度、胸の奥に浮かんだ。

    私は、藤野さんを見ていたのではなかったのかもしれない。

    私自身の奥にあるものを、見せられていたのかもしれない。


    続きはこちらです。揺れる心を見つめた先で、水瀬がいよいよ「最後の秘術」へ向かいます。


     
     
     
    魂を磨き、人生を開く瞑想導師 学んでも、考えても、なぜか人生が変わらない方へ。 必要なのは、新しい知識ではなく、自分を見る視点かもしれません。 瞑想と自己理解を通して、心の奥にある思い込みや在り方を照らし、人生が動き出すヒントを届けます。

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