[エッセイ]リスの忘れ物
家を出て2分ほど歩いた所で、スマホを忘れたことに気づいて家に戻った。
そこから2分かけて家に戻って、鍵を開けて家に入ってスマホをピックアップし、また鍵をかけて2分ほど歩いて元の地点に戻る。
出発から2分で気づいても、5分以上のロスになる。
もちろん、目的の電車には乗れない。
これらはまだ良い方で、最近で一番のヤツは、駅に着いたところで定期券を持ってないと気づいたこと。
ちなみに、自分は仕事帰りの電車で財布を落としてから、仕事には財布を持っていかないことにしている。
当たり前だが、定期券かお金がなければ、電車には乗れない。
スマホにSuica機能をつけておけばと思った所で後悔先に立たず、取りに帰るしかない。
家から駅までは20分くらいなので、完全に遅刻。
大なり小なり、自分はこんな感じだ。
仕事に限らず、出かけるときに何か一つくらいは忘れる。
スマホ、ハンカチ、iPodあたりが鉄板で、渡す予定だったお菓子やお土産なんかも忘れがちだ。
行く直前まではちゃんと準備して、玄関前のテーブルに置いているのに、家を出るときには持っていない。
やらかす度に自分が情けなくなる。
思い返してみれば、小学生の頃からそんな事ばかりだ。
教科書は忘れるし、提出物を持っていくのを忘れるし、宿題も存在を忘れる。
忘れものは、親の次に長い付き合いになっている。
まあ宿題に関しては、故意に忘れるという二重思考の技術をフル活用していた気もするが。
どうして自分はいつまで経ってもこんななのか、と家に戻る道すがら悲嘆に暮れていたら、ふと「そういえば、リスも忘れ物をするんだよな」ということを思い出した。
リスは食べ物が少ない冬に向けて、収穫したドングリやクルミのうち、半分くらいを木の上や地面に隠しておく「貯食」という習性を持つ。
そして、隠した収穫物の存在を忘れる。
木から落ちたり、ネズミに盗まれたりして失われたものもあるが、隠されたまま永久に忘れ去られる木の実もそれなりの数あるらしい。
すぐに見つかった資料だと、隠したものの5%程度が忘れ物になっている。
20日に1回忘れ物をしている計算になるが、おおむね今の自分と同じレベルだ。
リスの生態が優秀なのか、自分という人間の1個体が愚かなのかは、有識者の判断に委ねたい。
しかし、上の記事にもある通り、リスが隠した木の実を食べ忘れることで、その木の実は自分で転がり落ちる以上の距離を移動して根付くことができる。
こうして樹木の分布スピードが上がると、周辺環境の森林化が促進される。
すると結果として、それを餌にし、住処にもするリスの生息域も広がる。
リスの忘れっぽさは、自然環境の循環に組み込まれているのだ。
ということはつまり、人間の忘れっぽさも、本来は自然環境の循環に組み込まれていたはずだ。
原始時代の人間だって、採集したドングリを落として無くしただろうし、その場所にクヌギの木が生えたこともあるだろう。
しかし人間はここで「拾ったものを家の近くに落とせば、遠くまで拾いに行く必要がなくなるのでは?」ということに気付き、「栽培」という概念が誕生してしまった。
結果、本来は自然の営みだった忘れものという現象が、合理化の中に溶けて失われてしまった。
今一度、忘れ物を自然の営みに返してあげよう。
自分が壊した自然を、自分たちで再生する。
人間が得意なジャンルだ。
たとえば、ハンカチを自然由来にして、一定時間そこに置きっぱなしにすると、溶けて中の種が発芽するとか。
家に置き忘れると、帰る頃にはそこにハンカチの形をした緑が生まれている。
ファストファッションならクローバーやカタバミのような丈夫で繁殖力豊かな下草が、高級ブランドのハンカチには、それにふさわしい優雅な植物が咲くだろう。
家に忘れたアナスイのハンカチが、帰ったときには美女と野獣に出てきたようなバラの一輪と化していたら。
もう二度と忘れものをするまいと心に誓うか、さもなくば身も心も野獣になって自分の城に閉じこもるか、どちらかだろう。
どちらにせよ、もう二度と家にハンカチを忘れることはなくなる。
残念ながら人間は、1度痛い目に遭わないと、それがどんな不幸をもたらすのかを実感できない。
高級なハンカチが家の中でバラの苗床になってしまったことは今後の教訓として、その結果生まれた生命は責任を持って育てて欲しい。
それが枯れたら、その光景が「あの荒地には以前バラが咲いていて、あそこでアナスイのハンカチを忘れたんだよな」と自分を苛み続けることになる。
同様に、ノートを忘れれば若木が生え、スマホを忘れるとリチウムの鉱床になる。
宿題を忘れようものなら、ヘクソカズラが大繁茂することだろう。
何をもって「忘れもの」と判断するかは諸意見あるだろうが、元より忘れ物を自然の営みに返すのが目的。
リスの行い同様、そこは自然の営みに任せようと思う。
植物が光や気温を感じて芽吹き花咲くように、ハンカチやスマホが忘れられたと感じたら、溶けて土壌化が始まる。
せっかちな植物と共生しているハンカチは、出かける前から発芽を始めているかもしれないが、それもまた学びだ。
道端に落ちているマスク、渡しそびれたお土産のお菓子、車道に落ちている軍手、にわか雨の時に買ったビニール傘。
置き忘れ、落として無くし、使わずに放置され、世の中に忘れられたものたちは、その場所を自然へと循環させていく。
ゴミの集積場を中心に草原が広がり、ゴミの埋立地は数十年で大森林になっているだろう。
まさに持続可能な循環型社会だ。
自然は自分達が思うよりずっと、たくましくその営みを続けていく。
気づくと庭に繁茂しているヘクソカズラの処理には閉口するが、それと付き合っていくこともまた、自然の営みだ。
我々人類が自然環境から離脱できないように、その循環機能である忘れものからも、決して離れられない。
であれば、それも本能と認めて、共生していかなければならない。
たとえ「タンスの肥やし」によってクローゼットの中に大森林が形成されていたとしても。
それも自らの行いが招いた事と受け入れて、我が家にまで生息域を広げたリス達と幸せに暮らすしかないのだ。
おまけ。
ヘクソカズラの考察について、こちらの記事が面白かったです。
ウスバカゲロウの名付けは、自分も常々ひどすぎると思っています。
他のエッセイ記事はこちら。
暇で暇で仕方ない、などの日常の諸症状に。
