【和風ファンタジー】あかねさす ――神人最後の姫 #2四人の剣士
第2話 四人の剣士
隠れ里は無事だろうか。血を吐いた杜松は大丈夫だろうか。
杜松翁を担ぐこともできない茜姫は、不安な気持ちを抱えながら「離れるな」という杜松の言葉に従って岩代の前に留まっていた。
不意に頭上で鳥の音のような甲高い指笛がピイと鳴った。
また亜神が、と慄いて梢を見上げると、黒づくめの若い男が枝に立っていた。
茜姫と目が合うと、かすかに目を細め、頷いた。
見たことのない男だった。
だが、目が合った途端に茜姫の不安は消えた。
男を見た瞬間、胸の奥でまだ消え残っていた熱が静まった。
涼やかな顔立ちのせいではない。眠りに落ちる直前の安らいだ気持ちのように、騒いでいた心が凪いでゆく。
波紋が打ち消し合うように、神気が共鳴して心地よい音色を響かせる。
茜姫は悟った。
この男は敵ではない。
男は音もなく身軽に枝から飛び降りると、伏している杜松翁の元に駆け寄った。
すぐに抱え起こし、瓢の水を与える。
「……如月か」
口に含んだ水に咽ながら杜松翁が言った。男が頷く。
「お久しゅうございます。杜松の翁にはお変りもなく」
「わしも老いた。見たであろう」
「先ほどの強大な神気は」
「わしではない」
杜松翁は震える指で茜姫を指した。
「この子じゃ」
如月と呼ばれた男の視線が再び茜姫へ向いた。
驚きはない。
ただ静かに、その姿を見定めるような目だった。
「……そうですか」
茜姫は思わず身構えた。
「あれは……俺のしたことなのか」
如月は首を振る。
「いいえ」
それだけ言って再び杜松翁へ向き直った。
「如月!」
声がして、さらに三人の見知らぬ人物が現れた。
如月に支えられている杜松翁の前にそろって膝を付く。茜姫は驚いて三人を見つめた。
総髪の若い男と、赤茶色の乱れ髪の偉丈夫、それに小袿姿のうら若い女性だった。
「杜松翁、ご無事で」
「遅参いたしました」
総髪の男がそう言って頭を下げた。
「釧」
杜松翁は威儀を正した。
「控えよ。……まずは姫に礼を」
三人の視線が同時に茜姫をみつめる。そのまなざしの真摯さに茜姫は背筋を伸ばした。
総髪の男が口を開いた。
「姫上、お初にお目にかかります。私は釧と申します」
「その呼び方は止めろ! 俺は茜丸だ」
茜姫は思わず口をへの字に曲げて叫んでいた。
「──そういうわけには……」
まごつく釧を横目に
「──土蜘蛛、とお呼びください」
そう告げる偉丈夫は金茶の瞳をしていた。
「浮舟でございます」
三つ指を突いた女性が、鈴を転がすような声で言った。
「恐れながら、姫上の“影”を務めさせていただきます」
最後に杜松翁を支えている男が
「如月にございます」
と今更のように名乗った。
「立ったのはそなたらだけか、それとも──」
杜松翁が釧に問い質す。
「幾人かは道中にて」
短く答えて釧は瞳を伏せた。優し気な面立ちに隠し切れない無念の苛立ちが滲んでいる。
「──そうか」
杜松翁は悼むようにわずかに目を伏せてから、釧を見た。
「釧」
「はっ」
「ここはもう隠れ里ではない」
四人が顔を上げた。杜松翁が続ける。
「姫の神気は山々を揺らした。亜神どもは必ず来る。──この地は捨てる」
誰も口を開く者はなかった。
「……姫を連れて行け」
釧が深く頭を下げた。
「御意」
茜姫だけが狼狽えた。
「待ってくれ! 俺は里へ帰る! 皆が──」
杜松翁は首を振った。
「帰れぬ」
「なぜ!」
「そなたが居れば、里が滅ぶ」
言い募っていた茜姫の言葉が途切れた。唇を引き結び、震える拳を握りしめる。里は茜姫の世界のすべてだった。
「──俺があんなことをしたから、もう里の皆の傍には置けないと言うのか? 俺が危険だから──」
杜松翁は静かに首を振った。
「違う」
「亜神どもが狙うのは里ではない。そなたじゃ。そなたがおる限り、この里は戦場になる」
茜姫は息を呑んだ。
「里の者を守るためでもある。だが、それ以上にそなたを守るためじゃ」
静かに、しかし決然と、杜松翁は答えた。
「今は多くを語る時間がない。そなたは純血の神人の最後の姫。いずれ旅立たねばならぬときが来ると教えてあったはずじゃ」
「でも、急にこんな──」
「先ほど、そなたの力を自分でも見たであろう。わしではすでにそなたの力を抑えきることはできぬ。しかし、わしもまだ結界を張り、身を隠して生き延びることはできる。だがこの者たちは違う」
そう言って杜松翁は静かに控えている四人の剣士たちを見た。
「亜神と刃を交えながら、生きてきた。姫の力を最も必要としているのは、この者たちじゃ」
杜松翁は杖を頼りに立ち上がり、茜姫を見ながら一歩下がった。
「本当なら、あと数年はここで育てたかった。笑い、泣き、人として生きる時を与えたかった。じゃが、それも叶わなんだ」
その時、はるか遠く、山裾の辺りで鳥たちが一斉に飛び立ち、ギャアギャアと鳴き騒いだ。
剣士たちがぴしりと緊張する。
「追手です」
押し殺した声で釧が言った。
「逃げよ」
杜松翁が杖を振り上げた。
「振り返るでない」
「生きよ」
「──御免」
土蜘蛛が片腕で茜姫を軽々と担ぎ上げた。そのまま飛ぶように走り出す。
「杜松爺!」
杜松翁の姿が揺らいで見えるのは、結界術のせいなのか滲んだ涙のせいなのか、茜姫にはわからなかった。
同じ頃、結界の境界の杉の梢に人でない者の影が三つ降り立った。
風の匂いを吸い込む。
異形の口が、牙を見せてにんまりと嗤った。
通り過ぎた雨に濡れた梢から、黒い雫が草むらに滴り落ちる。草は音もなく黒く朽ちた。
顔でない異形の顔の中で、赤い瞳だけがほの暗く明滅していた。
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