
漫画写楽 エピソード7/10 大田南畝の沈黙
東洲斎写楽の正体に関し「誰々説」というのを調べてご覧になるとおわかりになりますが、これまでに様々な説が主張されてきました。実際、いくつかを手に取ってみてください。ミステリーは深まります。いわゆる主流派が言う阿波の能役者(斎藤十郎兵衛)説ですが、写楽や蔦屋重三郎と同時代人であり、浮世絵研究者であった大田南畝の手になる定番の研究本(「浮世絵類考」の原本)にも「写楽=斎藤十郎兵衛」とは書いてありません。

■ 筋書き・概要
写楽の正体を論じる上で最も重要な一次史料は、大田南畝(蜀山人)の『浮世絵考証』に残された短い記述だ——「写楽、これまた歌舞伎役者の似顔をうつせしが、あまりに真を画かんとて、あらぬさまにかきしかバ、長く世に行われず、一両年にて止ム」。
田中英道はここに決定的な「不審」を発見する。浮世絵師の記述には通常、名の後に生没年・住所・俗称が続く。しかし写楽の項にはそれが一切ない。大田南畝は蔦屋重三郎の顧問格であり、写楽と同時代を生きた人物だ。「知らなかった」は通らない——だとすれば「意図的に書かなかった」のである。
田中の解釈はこうだ。寛政の改革の真っ最中、役者の「素の顔」を容赦なく暴いた絵師の正体が露見すれば、本人はもちろん蔦屋にも危険が及ぶ。南畝は写楽の正体を了解した上で沈黙を守った。それは蔦屋との暗黙の約定でもあった。
山東京伝は後に『浮世絵類考追考』を書いたが、写楽の項も北斎の項も修正・追記をしていない。田中はこれも正体隠蔽の痕跡と読む。黙ることで守られた秘密——それが写楽の正体をめぐる最大の「証拠」の一つなのだ。
■ 演出とトーンキーワード
夜の書斎で大田南畝が筆を持ち、「写楽」の項を書こうとして止まっている場面。彼の表情は何かを知っているような複雑な微笑み。机の上には浮世絵考証の原稿と写楽の大首絵。燭台の炎が揺れている。別コマでは蔦屋と南畝が目配せを交わす場面(各人物の横に「蔦屋」「南畝」と表示)、さらに「生没年 住所 俗称——空欄」の原稿ページのクローズアップ。浮世絵木版画調・低照度・藍と墨の沈んだ色調。吹き出しと「…」の余白表現。
浮世絵界への劇的なインパクト、彗星のようなデビュー、謎、ミステリー、関係者の沈黙、プロデューサーたちの思惑、カラフルでドラマチック、未来的でクラシックなストリーミング。写楽の自信と冒険心。
■ 豆知識
本稿では、3項目に関し、基礎知識を補強しておきます。
🔴大田南畝(蜀山人): 南畝(なんぽ)は、江戸時代後期の文人・狂歌師・幕臣で、本名は大田覃(おおた ふかし)、通称は直次郎(のち七左衛門)。1749年(寛延2年)4月19日、江戸・牛込仲御徒町の下級武士の家に生まれ、1823年(文政6年)5月16日に没した(享年75)。号は南畝のほか、蜀山人(しょくさんじん)、狂名は四方赤良(よものあから)、狂詩では寝惚先生など多数。一方で幕臣としては真面目に勤務。田沼意次時代に文筆活動を活発化させましたが、寛政の改革(松平定信)で文壇を離れ、猛勉強の末、昌平坂学問所の学問吟味で首席合格し、支配勘定に昇進。大坂銅座出役・長崎奉行所勤務なども歴任し、「蜀山」の号は銅関連から生まれたとされます。仕事と文芸の両立は「ワークライフバランスの達人」とも評された人物です。
🔴山東京伝: 山東京伝(さんとう きょうでん)は、江戸時代後期の浮世絵師・戯作者。蔦屋重三郎(耕書堂)と強く結びつき、黄表紙・洒落本の第一人者として活躍。代表作に『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』『仕懸文庫』など。吉原通いや遊里の知識を活かしたユーモアと風刺、洒脱な作風で大衆を魅了し、黄表紙の黄金期を築きました。自作自画のスタイルも特徴。狂歌・川柳・随筆・考証書(『近世奇跡考』など)も多数残し、多才ぶりを発揮しました。
🔴『浮世絵類考追考』: 『浮世絵類考追考』(うきよえ るいこう ついこう)は、江戸時代後期の浮世絵研究における重要な考証書『浮世絵類考』の補訂版の一つ。享和2年(1802年)に山東京伝が執筆・加筆した「追考」の部分を指します。浮世絵師の略伝、師系、作風、代表作、逸話などを人名事典形式で収録。菱川師宣、鈴木春信、鳥居清信、喜多川歌麿、東洲斎写楽、北尾政演(京伝自身)など、初期から当代までの絵師を網羅。京伝の追考部分では、自身が浮世絵師・戯作者としての知見を活かし、作品考証や風俗史的補足を加え、信頼性を高めました。