
漫画写楽 エピソード10/10 写楽から北斎へ、仮面を脱ぐ
寛政七年(1795年)正月過ぎ、最後の写楽落款作品14図が刊行されて以降、忽然と姿を消した東洲斎写楽。写楽の消えた足跡と重なるようにして、北斎は俵屋宗理の号で作品を発表し始めます。俵屋宗達を淵源とする典雅端正な大和絵・狩野派風の作品を、北斎はその後約10年にわたり描き続けることになります。この時期を「宗理期」と呼びます。

■ 筋書き・概要
寛政七年(一七九五年)一月・二月、写楽の最後の絵が世に出る。春狂言十枚、相撲絵二枚、武者絵二枚——計十四図。落款はすべて「写楽画」。そしてこれが最後だった。「東洲斎写楽」という名は、その後二度と浮世絵の世界に現れなかった。
ほぼ同時期、北斎は「俵屋宗理」という新たな名を名乗り始める。俵屋宗達を祖とする大和絵・狩野派の古典的画風への傾倒を宣言した改名だ。田中英道はこのタイミングの符合を強調する。写楽の消滅と北斎(宗理)の再登場が、ほぼ同じ時間軸上に乗っている——これは偶然ではない。
さらに決定的な事実がある。北斎はその後の生涯で、役者絵を一切描かなくなる。春朗期に百点以上、写楽期に百四十六点描いた役者絵というジャンルを、宗理以降の北斎はきれいに捨てた。田中の解釈はこうだ——「役者絵は写楽でし尽くした。天才はそれを知っていた」。
そして写楽から百年後、ドイツの美術史家ユリウス・クルトが「写楽はレンブラント・ベラスケスと並ぶ世界三大肖像画家の一人」と激賞し、世界がこの十ヶ月の天才を再発見する。田中英道(『実証 写楽は北斎である』祥伝社の著者)はそのクルトの評価を受けて言う——「あの傑作は、北斎以外の誰にも描けなかった」。 (どうぞ、皆様も田中英道さんの書籍に当たり、優れた論述の追体験をなさってください。)
■ 演出とトーンキーワード
写楽の最後の絵(武者絵)が版元に届く場面。北斎が「これが最後だ」と静かに言い、蔦屋が深くうなずく。別コマで「写楽」と刻まれた版木が蔵に仕舞われ扉が閉まる。次のコマでは北斎が新たな紙に「俵屋宗理」と書いている。最終コマはヨーロッパの美術館に写楽の大首絵が飾られ、西洋人が驚嘆している場面。横長16:9。6コマ漫画。浮世絵木版画調・前半は江戸の夜の藍と墨、最終コマは一転して明るい西洋館の金と白。
謎、ミステリー、華やかなインパクト、消えた天才、別のペルソナで再生する天才、仮面の交替、カラフルでドラマチック、未来的でクラシックなストリーミング。役者絵卒業。旅立ち。メタモルフォーゼ。変身譚。写楽の自信と満足感。幕は降りた。アンコール?
■ 豆知識
本稿では、2項目に関し、基礎知識を補強しておきます。
🔴俵屋宗理: 北斎の「宗理」落款入り作品の登場は1795年(寛政7年)正月頃から確認されています。ちょうど写楽が世間から姿を消した時期と一致しています。初代・俵屋宗理(たわらや そうり、生年不明-天明2年(1782年)?)は、江戸時代中期の琳派の画家です。葛飾北斎(当時勝川春朗)は勝川派を去った寛政6年(1794年)頃に2代目・俵屋宗理を襲名したのですが、(繰り返しますと)宗理名での作品登場は1795年からです。北斎はこの宗理号のもとで琳派風の優美な「宗理様式」(楚々とした美人画や叙情的な表現)を確立し、豪華な摺物(すりもの)や狂歌本の挿絵、肉筆画を多数制作。錦絵から離れ、富裕層向けの洗練された作品群を生み出しました。北斎が1798年に号を譲った後も「宗理期」(約10年間)と呼ばれ、後年の風景画への橋渡しとなりました。3代目・俵屋宗理は北斎門人の菱川宗理(宗二)が継いでいます。
🔴ユリウス・クルト: ユリウス・クルト(Friedrich Erdmann Julius Kurth、1870年5月15日 - 1949年5月23日)は、ドイツの牧師・民間研究者・著述家で、特に浮世絵研究の分野で大きな足跡を残した人物です。ベルリン生まれ。ベルリン大学で神学を学び、ハイデルベルク大学で博士号を取得後、牧師として活動しながらアジア古美術に没頭。1907年に『歌麿』、1910年に『春信』と『写楽(SHARAKU)』、1921年に『日本の木版画』などの著作を発表しました。 中でも1910年刊行の『Sharaku』は、東洲斎写楽を初めて体系的に研究・紹介した画期的なモノグラフで、写楽の作品を欧米に広く知らしめ、国際的な「写楽再評価」の火付け役となりました。当時、欧米ではほとんど顧みられていなかった写楽の肖像画の独創性と表現力を高く評価し、写楽の活動期間や正体(能役者・斎藤十郎兵衛説など)についても考察。後の写楽研究の基礎を築きました。
🔶 漫画写楽 エピソード10本 これにて完結です🔶
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