昭和、渋谷で、恋をしたり 1-10 |イルカ座が教えてくれたこと
死ぬ前にやりたいこと
夏奈恵の部屋は、国立駅前から伸びるいちょう並木を15分ほど歩いたところにあった。
アパートの薄い扉を開けると、玄関のすぐ右にキッチンがあり、3歩ほど進んだ右には一体型のトイレと風呂場らしき扉が見えた。その奥、ガラスの引き戸の向こうに六畳ほどの和室があった。
私の住んでいる寮に比べたら贅沢な暮らしに見えた。
「場所が場所でしょ。これくらい離れないと、今の家賃でこの間取りは無理なのよ」
夏奈恵は自嘲した。
夏奈恵と部屋で2人になると、私はまた天文知識を披露しつづけ、夏奈恵は変わらずに聞き入ってくれた。
2人でいる空気がたまらなく居心地よく、ふと、さっきのイルカ座のことを思い出した。
「なんで、さっきイルカ座のこと聞いてきたの?」
夏奈恵は立ち上がり、キッチンで湯を沸かしながら話しつづけた。
「私ね、アリオンを羨ましいって思ったの。死ぬ前にやりたいことがあるっていいなって思った」
「死ぬ前にやりたいことか……」
そんなことは考えたこともなかった。
夏奈恵は私の答えを待たず、背を向けたまま続けた。
「ねえ、死のうと思ったことある?」
「えっ?」
声をつまらせていると、夏奈恵は振り返って話をつづけた。
「私はあるの。でもできなかった。なんでだろうって思ったとき、アリオンの話を知った時、死ぬ前にやりたいことがなかったからかなって思った」
夏奈恵は新しく入れたコーヒーを2つ持って、今度はすぐ私の隣で足を崩した。

こんな話、つまんないよね
「もし死ぬとしたら最後に何をしたい? やっぱり写真撮りたい?」
死ぬ間際に写真を撮る?
そんなことを考える自分を想像できずにいた。
「撮っても死んじゃったら、仕上がりを確認できないんだよね?」
自分の答えが真面目なものかふざけたものか、言ったそばからわからなくなった。でも、夏奈恵にとっては意外な答えだったようだ。
「そうだよね。それじゃ意味ないか」
そう言って吹き出した。
でも、それもつかの間だった。
「私はね、好きな人を抱きしめながら死んでゆきたい」
そこまで話して、夏奈恵はコーヒーに口をつけた。
好きな人とは佐藤さんだろうか?
「こんな話、つまんないよね?」
黙ってしまった私に気をつかってくれたのだろう。
夏奈恵が笑って見つめてきたので、動揺してしまい、まだ熱いコーヒーを多めにすすった。当然すぐには飲み込めず、むせてしまった。
その反動で、体から力が抜けたおかげか、知りたいことを素直に尋ねた。
「夏奈恵さんは、いま好きな人とかいるの?」
「うん、いるよ」
「それって……オレも知ってる人?」
自分じゃないような大胆さに感心したが、余計に動揺もした。
夏奈恵は一瞬、不意を突かれたような様子で、すぐには答えなかった。
黙ったまま目をそらす私に「久しぶりにタバコでも吸おうっかな」と微笑みながらタバコを催促した。
夏奈恵は差し出したタバコに火をつけ、一服目を大きく吐き出すと、軽く咳き込んだ。
「キツイの吸ってるね」
「そう?先輩の真似しただけなんだけど」
「大学の?」
「うん。音楽とかオーディオに詳しい先輩が吸ってるのと同じやつ」
「大学に入ってからタバコ吸いはじめた?」
「うん。みんな吸ってるから……。なんとなく」
「そんなもんだよね、タバコって。それで……私に好きな人がいるって、どうして思ったの?」
「実はこの前、渋谷駅で……夏奈恵さんが男の人と歩いてるの、見ちゃって……」
夏奈恵は何も言わず、タバコの灰を落とした。

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