
人の「しょうもなさ」を愛する落語
ワタリウム美術館の和多利塾で、落語家の柳家花緑師匠のお話を聴きました。
演目は、15分ほどの『親子酒』。
僕は笑いすぎて、途中から身体が熱くなっていました。
『親子酒』に登場するのは、酒をやめると約束した親子です。
もちろん、約束は守られません。
酒を飲み、酔っ払い、言っていることは支離滅裂になる。
自分のことは棚に上げ、相手を責める。
冷静に見れば、かなりしょうもない人たちです。
けれど花緑師匠が演じると、そのしょうもなさが、どうしようもなく愛おしく見えました。
花緑師匠自身が、その人物の中に入り込んでいるように見えました。
演じるというより、憑依するという言葉の方が近いかもしれません。
顔の筋肉、姿勢、目線、声の高さ、言葉の速さ。
そのすべてが一瞬で切り替わり、さっきまで父親だった人が、次の瞬間には息子になる。
高座の上に、本当に二人の酔っ払いがいるように見えました。
大げさに誇張されているはずなのに、「こういう人、いるな」と思わされる。
もっと言うと、「自分にもこういうところがある」と思わされます。
自分には甘く、相手には厳しくなる。
約束を破ったのに、なぜか堂々としている。
間違っていると分かっても、引っ込みがつかなくなる。
『親子酒』が描くのは、誰の中にもある、人間のしょうもなさです。
落語は、人間の愚かさを見せる芸です。
だけど、人を見下す芸ではありません。
師匠が演じる酔っ払いは、傍から見れば支離滅裂。
しかし、当の酔っ払いは本気も本気。
本人なりに理屈をつけ、声を荒げ、粘る。
その必死な感じが、少し「わかる」。
観客は、酔っ払いにどこか共感する。
しょうもない。
でも、わかる。
そんな感覚が、会場に広がっていく。
言葉にしなくても、同じ温かさを共有していた気がします。