
ベンツが欲しい人の東洋思想。柳家花緑師匠の話|街の人々⑤
落語家の柳家花緑師匠のお話をうかがう機会がありました。
「幸せになりたいと言うな」
師匠は、そう言いました。
幸せを未来の目標にしてしまうと、いまの自分は「まだ幸せではない人」になってしまう。
大切なのは、いま目の前にあることを丁寧に行うことなのだそうです。
掃除する。笑顔でいる。感謝する。
「掃除、笑顔、感謝。つまり、そえか」
花緑師匠は、少し笑いながら、けれど本気でそう語りました。
話は、脳の使い方にも広がりました。
左脳で過去を振り返って未来を心配するよりも、今この瞬間を右脳と身体全体で感じる。
科学的にどこまで正確かわかりません。
けれど、花緑師匠が語っていたのは、人がどう生きるかという話だったのだと思います。
未来の幸せを追いかけるのではなく、いま目の前をより良く生きる。
水回りを掃除する。
すでにあるものに感謝する。
ほとんど東洋思想の講義でした。
ここまで聞くと、花緑師匠は、ずいぶん悟った人のように見えます。
ところが、その後、師匠は「ずっとベンツが欲しかった」という話を始めました。
高級車のベンツです。
以前から欲しくてたまらなかった。けれど、簡単には買えない。
それでも「掃除、笑顔、感謝」を大切にして暮らしていたところ、思いがけず仕事が次々と舞い込み、ついに昨年、ベンツを買うことができたのだそうです。
僕は笑ってしまいました。
さっきまで、未来の幸せを追いかけるな、いまここを大切にしろと語っていた人が、ずっとベンツを欲しがっていたのです。
しかも、少しも恥ずかしがる様子がありません。
欲しかった。仕事が来た。買えた。嬉しい。
実に人間臭い話でした。
けれど不思議なことに、その話を聞いたことで、僕は花緑師匠のそれまでの言葉を、かえって信じられるようになりました。
もし師匠が、欲望をすべて手放した人のように振る舞っていたら、僕は少し距離を感じていたかもしれません。
でも花緑師匠は、ベンツが欲しい。
欲しかったものが手に入れば、素直に嬉しい。
その一方で、飲食店やサービスエリアのトイレを素手で掃除して、笑顔で人に接し、感謝し、いま目の前にあるものを大切にしようとしている。
その矛盾を隠さなかったから、師匠の言葉は教訓ではなく、実感として届きました。
「幸せになりたいと言うな」と語りながら、ベンツは欲しい。
僕は、そんな人の東洋思想なら、信じてもよい気がしました。