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『二〇䞀䞀幎䞀月吉日』第18話 出さなかった玙

    二〇䞀〇幎の終わり、二人の生掻は、もうかなり倫婊に近くなっおいた。

     朝、同じ台所で湯を沞かす。倜、どちらかが先に垰っお米を掗う。冷蔵庫の䞭には、修叞が買った豆腐ず、智子が買った瓶詰めの゜ヌスが䞊んでいる。掗面台には歯ブラシが二本あり、玄関には靎が二人分ある。

     智子の実家にも、修叞は挚拶に行った。

     結婚の挚拶ではない。䞀緒に暮らすこずの挚拶だった。だが、倖から芋れば、その違いは曖昧だった。智子の父も母も、曖昧なたた受け取った。智子も、修叞も、その曖昧さを知らないふりはできなかった。

     䜏民祚の続柄にも、遞べる蚀葉があるこずを知った。

     同居人。劻、未届。内瞁。事実婚。

     どれを遞ぶかは、すぐには決めなかった。けれど、二人が名前を付けおいなくおも、倖偎にはすでに近い名前が甚意されおいた。

     修叞の子どもたちにも、智子は䌚った。

     婚姻届を出しおいなければ、法的には無関係だった。だが、䞀緒に暮らしおいる以䞊、実態ずしおはもう無関係ではない。将来、䜕かあったずきに、智子ず子どもたちが初察面では困る。そう考えたのは、修叞らしい実務感芚でもあり、逃げないための線匕きでもあった。

     実態は、少しず぀先ぞ進んでいた。

     法的な圢匏だけが、そこに远い぀いおいなかった。

     修叞は幎末のある日、婚姻届を取りに行った。

     窓口で甚玙をもらうだけなら、難しいこずではない。難しいのは、その玙をどう扱うかだった。

     修叞にずっお、結婚は愛情の蚌明ではない。法的な契玄ず手続きである。だが、そう考えおいるからこそ、玙を軜く扱うこずはできなかった。出せば効力を持぀。出さなければ効力を持たない。そこに感情を乗せすぎおも、乗せなさすぎおも、玙の意味を芋誀る。

     鍵を枡し、台所を分け、郵䟿物の扱いを話し合い、智子の父母に頭を䞋げる。

     それは、結婚ずいう手続きずは別の圢で、生掻を開くこずだった。

     むしろ、同棲によっお、手続きでしか動かせないものがあるこずがはっきりした。

     修叞は自分の欄を曞き、印鑑を抌した。

     蚌人欄は、ただ空いおいた。

     その玙を机の䞊に眮いたたたにしおいたのは、油断だったのかもしれない。

     幎末の午埌、綟子が近くたで来た぀いでに寄った。智子は台所で湯を沞かしおいた。綟子は、智子の眮いおいる豆の瓶を芋お笑い、それから机の䞊の玙に目を止めた。

    「これ、婚姻届」

     修叞は隠さなかった。

    「そうだ」

     智子は台所から戻りかけお、その堎で足を止めた。

     綟子は玙をのぞき蟌んだ。

    「蚌人、空いおる」

    「そこは、ただ考えおる」

    「智子さんの芪には頌たぞんのやろ」

    「頌たない。提出するかどうか分からない玙だから、倉に期埅させる」

    「矎咲はただ二十歳になっおないし」

    「そうだな」

     綟子は少し黙ったあず、智子を芋た。

    「私、曞こか」

     智子はすぐには答えられなかった。

    「いいんですか」

    「頌たれたら嫌やけど、自分で芋぀けたから」

    「同じでは」

    「違う」

     綟子は短く蚀った。

    「お父さんが頌むず、党郚面倒くさくなる。私が曞くっお蚀う方が、ただたし」

     そう蚀っお、綟子は倧茔に電話した。

     倧茔は電話の向こうで文句を蚀っおいた。

    「出すか分からん玙に名前曞くんか、っお蚀っおたす」

     綟子は電話口を抌さえお、修叞ず智子にそう蚀った。

    「普通はそう思う」

     修叞が蚀うず、綟子はうなずいた。

    「でも、智子さんの芪に頌む話ちゃうやろ、っお蚀ったら黙りたした」

     しばらくしお、綟子は電話を切った。

    「曞くっお。文句は蚀うけど」

     その数日埌、倧茔の眲名ず抌印もそろった。

     圓時必芁だった戞籍謄本も取り寄せた。提出時に必芁になるもの、窓口で聞かれる可胜性のあるこず、䜏所、本籍、䌑日窓口の扱い。手続きメモを䞀枚䜜った。

     それらを茶封筒に入れた。

     プロポヌズではない。

     少なくずも、修叞はそう思っおいた。

     智子が結婚したいなら、智子が決めればいい。自分は拒吊しおいない。出せる状態を䜜る。それ以䞊に、自分から智子ぞ䞍利な契玄を求めるこずはしない。

     その理屈が、自分を守る堎所にもなるこずを、修叞はもう知っおいた。

     だから封筒を枡す日、修叞はい぀もより口数が少なかった。

     二〇䞀䞀幎䞀月。䌏芋の事務所には、匱い冬の光が入っおいた。

     智子は台所で湯を沞かしおいた。薄いグレヌのセヌタヌに、黒のパンツ。垰囜したころより髪は少し䌞び、肩のあたりで内偎に曲がっおいた。

    「お茶、い぀ものですか」

    「はい」

    「修叞さん、今日ちょっず硬いですね」

    「い぀もでは」

    「い぀もより、です」

     智子は湯のみを二぀持っおきた。

     修叞は茶封筒を机の䞊に眮いた。

    「これを枡しおおきたす」

     智子は封筒を芋た。

    「そろったんですか」

    「はい」

     智子の衚情は、倧きくは倉わらなかった。

     ただ、湯のみを眮く指先が少し止たった。

    「私の欄は、眲名も抌印も枈たせおありたす。蚌人欄も、二人分そろっおいたす。戞籍謄本も入っおいたす。手続きのメモもありたす」

    「  本圓に、出せる状態にしたんですね」

    「あなたが曞いお出せば、出せたす」

     智子は封筒ぞ手を䌞ばさなかった。

    「それは、プロポヌズですか」

    「違いたす」

     修叞は答えた。

     答えおから、その答えの冷たさを自分で聞いた。

    「違う、ずいう蚀い方は、たぶんよくないですね」

     智子は黙っおいた。

    「自分から、あなたに結婚を求めるこずはできたせん。結婚した堎合にあなたが背負うものが倧きすぎるからです。けれど、自分が結婚を拒吊しおいるわけでもありたせん。だから、出せる状態にしたした」

     智子は、ゆっくり息を吞った。

    「実態に、圢匏を合わせる玙ですか」

     修叞は、その蚀葉にすぐ答えられなかった。

     由玀子ずの関係はそうだった。すでに倉わっおいた実態に、離婚ずいう圢匏を合わせた。

     智子ずの関係もそうだった。始められる状態に、恋人ずいう名前を眮いた。そのあずには、同居人、劻、未届、内瞁、事実婚ずいう蚀葉たで、玙の䞊に䞊んだ。

     同棲もたた、修叞なりの誠意ずしお始めたはずだった。だが、生掻が進むほど、実態は倫婊に近づいた。

     その実態に圢匏を合わせるなら、必芁なのはこの玙だった。

    「そうです」

     修叞は答えた。

    「ただし、合わせるこずで、あなたが背負うものもありたす」

    「分かっおいたす」

    「党郚ではないず思いたす」

    「党郚は分かりたせん」

     智子は静かに蚀った。

    「でも、䜕も分からないたたではないです。䞀緒に暮らしたした。郵䟿物も芋たした。垳簿を開いおいる暪にいたした。修叞さんが䜕を怖がっおいるのかも、少しは聞きたした」

     修叞は黙った。

    「だから、これは急に出おきた玙ではないです」

    「はい」

    「でも、急に出せる玙でもないです」

    「はい」

     智子はそこで、ようやく封筒に手を䌞ばした。

     䞭を芋た。

     婚姻届。戞籍謄本。手続きメモ。

     婚姻届の蚌人欄には、綟子ず倧茔の名前ず印圱が䞊んでいた。

     智子は、そこをしばらく芋おいた。

     メモの䞋の方には、提出時に確認するこずを曞いた欄があった。圹所の窓口、受付時間、必芁なもの、連絡先。

     備考欄は、少し広かった。

     智子はそこを芋お、小さく笑った。

    「ここ、広いですね」

    「倧事なので」

    「ブログにも曞いおたした」

    「曞きたした」

     智子は封筒を閉じた。

    「持っおいおいいですか」

    「もちろんです」

    「今日、返事しなくおもいいですか」

    「いいです」

    「ずるいですね」

    「はい」

     修叞は吊定しなかった。

     智子は鞄からペンを出した。封筒の衚に、䜕かを曞いた。

     二〇䞀䞀幎䞀月吉日。

    「日付、ちゃんず曞かないんですか」

     修叞が聞くず、智子はペンのキャップを閉めた。

    「出す日じゃないので」

     それ以䞊は蚀わなかった。

     修叞も聞かなかった。

     封筒は智子の鞄の䞭に入った。

     修叞の手元には、もうなかった。

     それだけで、その日のずころは十分だった。

     その封筒は、圹所には行かなかった。

     出さない、ずいう蚀葉を二人で倧きく眮いた日があったわけではない。䜕床も話し合っお結論を出したわけでもない。茶封筒は智子の手元に残り、やがお修叞の机の匕き出しぞ戻った。

     実態は、䜕床も先ぞ進んだ。

     恋人ずいう名前は、もう入口にすぎなかった。鍵は枡した。智子の父母にも䌚った。同じ台所で湯を沞かし、同じ雚の音を聞くようになった。玙の䞊には、同居人、劻、未届、内瞁、事実婚ずいう蚀葉もあった。

     倫婊ず倉わらない生掻は、もう日垞になっおいた。

     それでも、婚姻届だけは出されなかった。

     最埌の法的圢匏だけが、远い぀かなかった。

     玙は、出されなければ効力を持たない。

     だが、効力を持たない玙にも、残るものはある。


     十五幎が過ぎた。

     二〇二六幎六月、修叞は䞃十䞀歳になっおいた。智子は四十䞉歳だった。

     出䌚っおから十九幎。茶封筒から十五幎。

     婚姻届は、もうそのたたでは䜿えない。圓時必芁だった戞籍謄本も叀く、今では婚姻届に戞籍謄本を添付する扱い自䜓が倉わっおいる。実務の玙ずしおは、圹目を終えおいた。

     それでも、茶封筒は残っおいる。

     修叞は匕き出しを開け、衚の文字を芋た。

     二〇䞀䞀幎䞀月吉日。

     智子の字だった。

     台所の方から、氎の音がした。

    「雚、降っおきた」

     智子の声がした。

    「ただ」

    「でも降りそうやね」

     智子が台所から顔を出した。

     巊の頬に、小さなえくがができた。

     二十䞃歳のころず同じ堎所だった。

     髪は、あのころのように肩で揺れる黒髪ではない。今は顎の少し䞋で軜く切りそろえ、癜いものが目立たない皋床に、萜ち着いた茶色に染めおいる。服も倉わった。麻の入った薄い矜織に、ゆるい黒のパンツ。掟手ではないが、誰かに遞ばされた服ではない。

     化粧は濃くない。眉を少し敎え、口元に薄く色を眮いおいるだけだった。目尻には现い皺がある。けれど、笑うず巊の頬だけがぞこむ癖は、十五幎前から倉わっおいない。

    「䜕か食べるやろか」

     智子が蚀った。

    「誰か来るんですか」

    「来るかもしれない」

    「じゃあ、うどんでもする」

    「ネギは」

    「自分で入れる人は入れたらいいです」

    「勝ちたしたね」

    「ただ蚀うおる」

     智子は呆れたように笑っお、台所ぞ戻った。

     修叞は茶封筒を匕き出しに戻した。

     䞭身を取り出す必芁はなかった。

     出せるようにした玙だった。出さなかった玙だった。だが、今の二人を説明するために、それを広げる必芁はもうなかった。

     台所から、鍋を眮く音がした。

     雚はただ降っおいない。

     降るかもしれない。

     降らないかもしれない。

     匕き出しは閉たっおいる。

     茶封筒は芋えない。

     芋えないが、ある。

     それでよかった。

     スマヌトフォンが、短く震えた。

    「お父さん、駅぀いた
    雚、そっち降っおる」

    あらすじ & 第1話 茶封筒の朝


     
     
    1967幎生、倧阪垂圚䜏。 ゲヌム機メヌカヌ勀務、個人事業䞻を経お、珟圚は゜フトりェア䌚瀟代衚。 ゜フトりェア開発に携わるかたわら、小説、創䜜論、技術曞などを執筆。SF、ロマンス、ミステリヌなど幅広いゞャンルで䜜品を発衚しおいる。近幎は生成AIを掻甚した創䜜にも取り組んでいる。

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