【ひなた幼少期編】第2話:闇を切り裂く小さな牙
前回のお話
夕闇が迫る海が見える丘の上、廃墟となったカフェの片隅。
「……クロ、今日も一緒にいられて嬉しいな」
ひなたは、膝の上で丸くなる黒猫の背中を愛おしそうに撫でていた。
後ろ脚の怪我が癒えたクロは、ひなたの体温に身を委ね、喉を深くゴロゴロと鳴らしている。
かつて絶望の底にいた二人にとって、この廃墟だけが世界で唯一の居場所だった。
だが、その静寂は不躾な足音によって破られた。
ギィ……と古びた扉が荒々しく開かれ、強い懐中電灯の光がひなたの顔を直撃する。
「いたぞ! こんなところに隠れていたのか!」
光の眩しさに目を細めるひなたの視界に入ってきたのは、施設の大人の職員たちと、かつてひなたを「厄介者」として追い出した親戚の男だった。
「ひなた、勝手な真似をするんじゃない! 施設へ戻るぞ。こんなボロ屋敷にこもって、警察まで動く大騒ぎになって迷惑なんだよ!」
冷酷な大人の声が、冷たい潮風とともに崩れた壁の隙間から吹き込んできた。
男の手が、怯えて身をすくませるひなたの細い腕を強引に掴む。
「嫌……! 離して! 私、ここから離れたくない……! お父さんとお母さんの、クロとの家にいたい……!」
涙をこぼしながら必死に抵抗するひなた。
しかし、大人の強い力には抗えない。
体が強引に引きずられそうになったその時だった。
「ニャァァァァァンッ!!」
暗闇を切り裂くような、聞いたこともない凶暴な威嚇の叫びが響き渡った。
クロだった。
かつて人間に痛めつけられ、人間を心から恐れていたはずの小さな黒猫が、毛を逆立て、漆黒の夜と同化するようにひなたの前に飛び出したのだ。
「なんだこの汚い猫は! 邪魔だ、どけ!」
男がクロを蹴り飛ばそうと足を振り上げた瞬間、クロは宙を舞った。
不完全な後ろ脚のハンディキャップなど微塵も感じさせない跳躍。
クロは男の腕に鋭い爪を立て、夢中で噛みついた。
「ぐわぁっ!? くそっ、放せ!」
男は腕を激しく振り回し、クロをコンクリートの床へ叩きつけた。
鈍い音が響き、クロの小さな体から痛ましい悲鳴が漏れる。
それでも、クロは立ち上がった。
口から血を吐きながらも、ひなたと大人たちの間に再び立ちはだかり、鋭い瞳で大人たちを睨みつけた。
『この子には、指一本触れさせない』
言葉を持たないクロの全身が、そう叫んでいた。
人間に暴力をふるわれ、殺されかけた恐怖よりも、自分に温もりを教えてくれたひなたを失う恐怖の方が、クロにとっては遥かに大きかったのだ。
「クロ、やめて! もういいよ、クロが死んじゃう……!」
ひなたは男の手を振り払い、床に倒れ込みそうなクロを力いっぱい抱きしめた。
「来ないで! この子を傷つけるなら、私、絶対に許さない!」
ひなたの瞳には、かつての絶望の陰りはなかった。
クロが命がけで自分を守ろうとしてくれた姿が、ひなたの心の中に眠っていた生きる強さを呼び覚ましたのだ。
ひなたは大人たちを強い眼差しで射抜き、身を挺してクロを庇った。
その圧倒的な気迫と、血を流しながらも二人で一つになろうとする異様な絆に押し切られ、大人たちは思わず足すくませた。
「け、警察や施設長と出直すぞ……こんな狂った猫と関わってられるか」
吐き捨てるように言い残し、大人たちは去っていった。
静けさを取り戻した廃墟で、ひなたは震えるクロを優しく抱きしめ、ぽろぽろと涙を流した。
「ごめんね……ごめんね、クロ……。私を守ってくれてありがとう……」
クロは弱々しく「ニャ……」と鳴くと、ひなたの頬につたう温かい涙を、ザラついた小さな舌でそっと舐めた。
海からの潮風が、廃墟の窓を静かに揺らす。
世界中のすべてを敵に回したとしても、この絆だけは絶対に引き裂けない。
壊れたカフェの片隅で、ひなたとクロは強く、深く、抱き合い続けた。

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次回公開は10/10(土)⏱21時です。
