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Photo byqdech_labo

幸福の設計図 ―箱の中の楽園―

    【あらすじ】

    インテリアコーディネーターを目指す青年・鹿島真吾は、ある夜公園で謎の男から白い箱庭を受け取る。以来、箱庭を改良しながらインテリアのメソッドを磨いた鹿島は、独自の会社を起業して成功。結婚・子育てと夢を叶えていく。


    プロローグ

     あなたは、自分の人生が「設計できる」と思ったことはあるだろうか。

     思い通りの仕事、思い通りの家族、思い通りの未来。

     もしそれが本当に可能だとしたら?

     もし、たった一つの「箱」が、あなたの望む全てを叶えてくれるとしたら?

     ただし、条件がある。

     あなたはその箱を、手放してはならない。

     壊してもならない。

     なぜなら、箱はただの箱ではないのだから。

             ☆

    第一章 箱の人、現る

     梅雨が明けきれない七月の夕暮れ、住宅街の公園はいつもより人の姿が少なかった。湿気を含んだ空気が肌にまとわりつき、ブランコの鎖だけがきいきいと間延びした音を立てていた。

     その公園に、ある日を境に奇妙な男が現れた。

     一見すると、どこにでもいそうなサラリーマンだった。きちんとアイロンのかかったグレーのスーツ。よく磨かれた革靴。四十代半ばといったところか、白髪が混じり始めた髪を七三に分け、眼鏡の奥の目は穏やかで知性的だった。

     ただ一点を除けば。

     男は、大きな白い箱を背負っていた。

     縦横五十センチほどはあろうか。発泡スチロールのようにも見えるが、それにしては妙に軽そうで、男は全く重そうにしていない。箱には何のロゴも文字もなく、ただ無機質な白さだけがあった。

     男は公園の中をゆっくりと歩いた。芝生の上を踏みしめるわけでもなく、滑り台や砂場をじっと見るわけでもなく、ただ、そこに「いる」という感じだった。あるいはベンチに腰かけて、新聞を広げることもあった。その様子は、近所の散歩帰りのお父さんと大差ないのだが、背中の白い箱が、全てを台無しにしていた。

    「あ!『箱の人』だ!」

     最初に名付けたのは子供だった。小学二年生くらいの男の子が、母親の袖を引きながら声を上げたのだ。

    「箱の人?」

    「うん!箱を背負ってるから、箱の人!」

    「そのまんま…いや、ちょっと!あんまり大きな声出さないの。……それより、あの人には近づいちゃダメよ」

    「はーい!」

     子供は呆気らかんとそれだけ言うと、友達のほうへ駆けていってしまった。心配しているのは大人だけだ、とでも言いたげに。

     公園の出入り口近くに集まった主婦たちは、遠巻きに男を見ながら、小声で囁き合った。

    「ねえ、あの人、また来てるわよ」

    「知ってる。昨日もいたって、田中さんが言ってた」

    「気味が悪いわよね。何が入ってるのかしら、あの箱」

    「通報したほうがいいんじゃない?」

    「でも……」

     一人の主婦が、ちらりと男を見た。男はちょうどベンチに座り、新聞を広げているところだった。

    「気にならない?箱の中身」

    「そりゃあ、気になるけど」

    「なんか……ちょっと、おかしな言い方かもしれないけど、怖い人には見えないのよね」

     三日後、ついにパトカーが公園の前に止まった。誰かが通報したのだろう。制服姿の警官が二人、男に近づいていく。主婦たちは固唾を飲んで見守った。

     しかし、十分ほどで警官たちは立ち去った。最後には礼儀正しく敬礼まで、している。

    「なんで捕まえないのかしら」

    「身分のしっかりした人なのかしらねえ」

     男がふと顔を上げ、主婦たちに気づいた。にこやかに会釈をする。主婦たちは慌てて視線を逸らし、そそくさと立ち去るのだった。

     男はまた、新聞に目を落とした。その口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。

             ☆

    第二章 酔っぱらいと白い箱

     鹿島真吾の夢は、二つあった。

     自分の会社を持つこと。そして、幸せな家庭を築くこと。

     二十八歳の今も、その二つの夢は鮮明だった。むしろ、年を重ねるごとに輪郭が増しているくらいだった。

     鹿島が幼い頃、両親は離婚した。父は家を出て、母はほどなく再婚した。鹿島を引き取ったのは母方の祖母で、彼はその祖母の小さなアパートで育った。経済的には困らなかったが、「家族」という感覚が、鹿島には希薄だった。友達の家に遊びに行くたび、胸の奥がちりちりした。夕飯の匂い、テレビの笑い声、「おかえり」と言ってくれる人。そういうものを、鹿島はどこかで渇望し続けていた。

     大学在学中、インテリアに目覚めた。きっかけはインテリア専門誌の一冊だった。見開きのページに広がった、あるリビングルームの写真に釘付けになった。温かみのある木製の家具、柔らかな照明、窓から差し込む光。そこに人が住んでいる気配。「こういう場所に、自分が作った場所に、家族で住みたい」と思った。

     大学を卒業してから、改めてインテリアコーディネーターの専門学校に入り直した。周囲には驚かれた。せっかく四年制大学を出たのにと言われた。でも鹿島には迷いがなかった。これが自分の道だと、確信があった。

     真面目に通い続けた。授業には欠かさず出た。課題は締め切りより早く提出した。クラスの中でも優秀な生徒として、講師たちの目に留まるようになっていた。

     その日も、鹿島は製図ケースを肩にかけて学校へ向かった。帰りに駅前の新しいインテリアショップを覗こうと思っている。北欧系のシンプルな家具が揃っていると聞いていた。

     が、帰り道は予定通りにはならなかった。

    「鹿島、ちょっといいか?今日、飲み会なんだけど」

     同じクラスの永田だった。社会人経験を経て入学してきた男で、顔が広く、しょっちゅう誰かを誘っている。

    「今日は……」

    「いいじゃないか。たまには息抜きしろよ。勉強勉強じゃ、インスピレーションが枯れるぞ」

     それが決め手になった。インスピレーション、という言葉が、鹿島の迷いを押した。同じ道を志す人間たちと語るのも、将来的には大事なこととなるだろう。そう自分に言い聞かせて、鹿島は誘いに乗ることにした。

     居酒屋での宴会は、思いのほか楽しかった。インテリアの話、就職の話、将来の夢の話。場が盛り上がるにつれ、鹿島も普段よりビールを多めに飲んだ。普段は酒をほとんどやらない。気がついたら、頬がずいぶん赤くなっていた。

     夜半、鹿島はふらつきながら帰路に就いた。鼻歌が自然とこぼれてくる。月が出ていた。住宅街の路地に入り、近道になる公園を突っ切ろうとしたとき。

    「こんばんは。ずいぶん上機嫌ですね」

     声をかけられた。

     振り返ると、ベンチに男が座っていた。背中に白い箱を背負ったまま、穏やかな顔で鹿島を見ている。

    「まあね。飲んで帰るとこ」

     鹿島はぼんやりした頭で、こいつ誰だっけ、と軽く考えた。近所の人間ではないような気がする。でも、酔っていたせいか、警戒心が薄かった。

     男は鹿島の肩にかかった製図ケースに視線を移した。

    「あなた、設計関係のお仕事ですか?」

    「ハズレー。まだ勉強中。インテリアのね」

    「ほう、それはそれは……最適な」

    「なに?」

    「いえ、なんでもありません。少し、お話がありまして」

    「話?」鹿島は少し不機嫌になった。「あれだよね、何か売りつけようってやつ?俺、学生だから金ないよ」

    「お金はいりません」

    「じゃあなに?」

    「この箱、いりませんか?」

     男は、背中に背負っていた大きな箱から、抱えられる程度の小ぶりな白い箱を取り出した。

    「なにこれ?」

    「きっとあなたの役に立つと思います」

    「だめだめ。知らない人から物もらっちゃダメって、子供の頃から教わってるんで」

    「大丈夫ですよ。お金もいりません。気に入らなければ捨てていただいて結構です」

     鹿島は眉間にしわを寄せ、目を細めて男を見た。怪しい。どこからどう見ても怪しい。しかし男の顔は穏やかで、ちっとも強引ではなかった。押し売りの気配もない。

    「ほんとに、金いらないの?」

    「ええ、完全に無料です。危険なものでもありません。それに二、三日はまだこの辺りにいます。何かあれば言いに来てください」

     鹿島はしばらく男を見つめた。それから箱を見た。それからまた男を見た。

     恐る恐る、両手を伸ばして、箱を受け取る。

    「ありがとうございます」

     礼を言ったのは男のほうだった。まるで、鹿島が男に何かをしてやったかのような口ぶりで。

     鹿島は首をかしげながら、箱を小脇に抱えた。じっとそれを見つめていると、酔いが不思議と引いていくような感覚があった。ゆっくりと歩き出す。

     男はその後姿を、ベンチに座ったまま、じっと見送った。

     鹿島の姿が路地の角を曲がって見えなくなったとき、男のスマートフォンが振動した。

    「はい。……ええ、なかなか面白いサンプルになるかと。……はい。モニターの映りはいかがですか?良好……それは上々。では、もう数日こちらに残って様子を見て引き揚げます。そろそろ住人の目も気になりますので。……はい、楽じゃありませんよ、この仕事も。……それではまた、後ほど」

     スマートフォンをポケットにしまった男は、もう一度だけ路地の角を見た。それから静かに立ち上がり、夜の公園をゆっくりと歩き始めた。

             ☆

    第三章 箱庭の誕生

     翌朝、二日酔いの頭を抱えて洗面台に向かった鹿島は、顔を洗い、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して半分ほど飲み干した。

    「あー……頭痛ぇ」

     頭を掻きながら寝室へ戻ろうとして、何かを踏んだ。

    「いってえっ!」

     足の裏に鋭い痛み。見下ろすと、白い箱があった。そうだ、昨夜もらったやつだ。

     床に座り込んで、箱を膝の上に乗せた。パジャマ姿のままで、蓋を開ける。

     中を覗いて、鹿島は息を飲んだ。

     箱そのものが、家を模していた。ドールハウスのような構造になっていて、壁も床も精巧に再現されている。そしてその中に、いくつかのミニチュアが入っていた。小さな男女の人形、子供の人形が一つ、ミニチュアの桜の木、赤いミニカー、そして数多のミニチュア家具。

    「……箱庭?」

     一つ一つを手に取る。人形の指先まで、細かく作られている。テーブルの木目まで再現されている。椅子の足はほんの数ミリしかないのに、きちんと四本ある。

    「すげえ……!」

     一気に目が覚めた。子供の頃、ミニカーや飛行機のプラモデルで遊んでいたときの感覚が蘇ってきた。あのわくわく感。手のひらの中に、思い通りになる、別の世界があるときの、あの感覚。

     鹿島は立ち上がった。着替えもそこそこに、部屋を飛び出した。

     向かったのは、駅前の大型おもちゃ量販店だった。ミニチュアコーナーをまず覗く。建物の模型、樹木のミニチュア、塗料。悪くはないが、何かが違う。住居のリアリティが足りない。

     ふと、女の子向けのコーナーを覗いた。人形遊び用の家具セットが、ずらりと並んでいる。キッチン家具、ダイニングテーブル、冷蔵庫、洗濯機、ベッド、ソファ、トイレ、バスタブ。

    「これ、使える!」

     鹿島は目を輝かせながら、片っ端からカゴに入れていった。

     隣で人形を選んでいた女の子が、怪訝そうな目で鹿島を見た。アラサー男性が、女児向けのおもちゃを大量にカゴへ入れているのだから、無理もない。付き添っている母親が、娘をかばいながら今にも通報しようとスマホに手をかけている。
     レジの店員も、微妙な表情をした。しかし鹿島には、そんなことはどうでも良かった。包装された袋をいくつも抱え、鼻歌交じりで店を出た。

    「あ、そうだ!」

     帰宅すると同時に、パソコンを開いた。「ミニチュア 家具」で検索する。

    「うわー、こんなにあるんだ」

     画面には、世界中のミニチュア家具の画像が溢れていた。北欧テイストのもの、和モダンのもの、ヴィンテージ調のもの。鹿島は夢中でクリックし、気に入ったものをカートに入れていった。

     数日後、段ボール箱が届いた。エアクッションに包まれたミニチュア家具が、ごろごろと出てくる。鹿島はそれを乱暴に解いて、テーブルの上に並べていった。

    「よし、始めるか!」

     箱を広げ、ミニチュア家具を配置していく。あそこをリビングにしたらどうか。キッチンはどちら向きにすべきか。寝室と子供部屋の動線は。

     インテリアコーディネーターの卵として学んできたことが、自然と手に乗り移ってくる。ノートを広げ、配置図を描く。気に入らなければ全部動かして、また描く。その繰り返しが、ちっとも苦にならなかった。むしろ楽しくて仕方がなかった。図面だけで考えていたときとは全く違う。実際に手を動かして、空間を作っていく。この感覚だ、と思った。

             ☆

    第四章 天才と愚者の差

     それから一ヶ月ほど経った頃。

     専門学校で、課外授業があった。新築マンションのモデルルームを数件見学し、実際の家具配置を体感する、というものだった。

     十数名の生徒たちが、ぞろぞろとモデルルームへ入っていく。講師の渡辺が、先頭で説明を始めた。五十代の男性で、現役のインテリアデザイナーでもある。業界での実績も豊富で、学生たちから一目置かれている存在だった。

     鹿島は最後に入って、室内を一目見た瞬間、足が止まった。

     リビングのソファの配置。ダイニングテーブルの向き。キッチンとリビングの動線。窓に対しての家具の角度。

     全部、昨夜自分が箱庭で作ったのと、全く同じだった。

    「鹿島?どうした?」

     隣にいた永田が小声で聞いた。

    「い、いや……なんでもない」

     鹿島は動揺を抑えながら、他の生徒たちの後ろに紛れた。偶然だ。そうだ、偶然に決まっている。インテリアの基本的な動線を考えれば、似たような配置になることはある。

     しかし次の瞬間、渡辺の言葉が鹿島の動揺を、さらに深いところへ落とした。

    「さて。このモデルルームのコーディネートですが、一言で言えば、素人の仕事ですね」

     生徒たちが静まり返った。

    「生活動線しか考えていない。住む人の個性が全く感じられない。機能的ではあるかもしれないが、ここで暮らしたいとは思えない。インテリアとは、機能性と個性の両立です。片方しかなければ、それは家具の配置にすぎない」

     鹿島の拳が、ゆっくりときつく握られていく。

     渡辺が批判したコーディネート。それは、鹿島が一週間かけて考え抜いたものだったのだ。何度も配置を変え、何度もノートに書き直し、これだと確信して完成させたものと、完全に一致していた。

     つまり渡辺は今、鹿島のアイデアを面と向かって全否定したのだった。

     怒りが、じわじわと湧いてきた。しかし鹿島には、それを表に出すことができなかった。なぜなら、この配置を自分が作ったと、誰も知らないのだから。怒る根拠が、なかった。

    「君ならどうコーディネートしますか?」

     渡辺が指名したのは、鹿島の隣に立っていた同級生の島崎だった。落ち着いた雰囲気の女性で、センスが良いと評判だった。

    「そうですね……ソファをもう少し窓に近づけて、光を取り込む配置にします。それと、テーブルカラーをもう一段落ち着いた色にすると、空間に統一感が出るかと」

    「そう!まさにそういうことです」

     渡辺が嬉しそうに応じた。鹿島の耳には、その声が遠かった。

     帰宅すると、鹿島は着替えもそこそこに、机の前に立った。箱庭を見下ろす。自分が一週間かけて作り上げたコーディネートを。

    「くそっ!」

     腕を横に払い、ミニチュア家具が床に散らばった。

    「なにが『個性がない』だ!個性だらけで、生活できない部屋のほうがおかしいだろう!そんなのはアートだ、インテリアじゃない!」

     しばらく荒い息をついた後、鹿島は床に散らばった家具を一つ一つ拾い始めた。拾いながら、考えた。

     怒るのは簡単だ。でも、渡辺の言っていることが間違っているかと言えば、そうでもない。機能性と個性の両立。その言葉は刺さった。自分のコーディネートには、確かに「自分」がなかった。正解を求めすぎていた。

     もう一度、配置を始める。今度は違う視点で。もし自分が実際にここに住むとしたら。もし、家族がいるとしたら。子供がいるとしたら。イメージするんだ。

     何度も試し、何度もノートに書く。でもどうも、記録の仕方がもどかしい。配置が変わるたびに書き直す手間が、思考の流れを止める気がした。

     隣の部屋からデジタルカメラを持ってきた。コーディネートするたびに、パシャリと撮影する。プリントアウトして、写真に直接メモを書き込む。その写真を並べて眺めると、変化の過程が一目で分かる。

    「そうか……これだ」

     写真を使ったビフォーアフターの記録。変化のプロセスを可視化する。インテリアは静的なものではなく、動的なものだ。住む人の生活とともに変わっていく。その変化を提案できることが、コーディネーターの仕事ではないか。

     鹿島は夢中でノートに書き続けた。夜が白んできても、気がつかなかった。

             ☆

    第五章 風水と箱庭療法、そして確信

     専門学校を卒業した鹿島は、都内のインテリアデザイン会社に就職した。

     会社の規模は中程度。従業員三十人ほどで、住宅のインテリアコーディネートを中心に、オフィスのデザインも手がけていた。鹿島は最初の一年を、先輩の仕事を見て覚えることに費やした。図面を引き、打ち合わせに同席し、現場に足を運んだ。それは学校で学んだこととは全く違う、リアルの世界だった。

     帰宅してからは、箱庭と向き合った。仕事で見てきたコーディネートを再現してみる。何が良くて、何が足りなかったかを考える。自分ならどうするかを試す。箱庭は、鹿島にとって実験台であり、思考の場となっていた。

     数年が経った頃、ある思いつきが鹿島を支配する。

     書店の大型店へ向かい、まず「占い」の棚へ行った。端から順に見ていき、風水の本を数冊選ぶ。次は「心理」の棚へ。箱庭療法の本を選んでレジへ向かった。

     帰宅してからの一年間、鹿島はそれらの本を読み耽った。気になる部分には付箋を貼る。ノートに書き写す。インターネットで調べたことと照らし合わせる。データとして整理する。

     風水は、空間と人間の関係を語る。どの方角に何を置くか、色や素材が人間の心理と行動にどう影響するか。箱庭療法は、心理療法の一つで、箱の中にミニチュアを並べることで、人の無意識を読み解く手法だ。どちらも、インテリアと無縁ではなく、むしろ密接に関係していた。

     住む空間が人の心に影響を与える。心の状態が行動に影響を与える。行動が結果を変える。

     それはつまり、インテリアが人の人生に影響を与える、ということではないか。

     鹿島はその考えを軸に、自分なりのメソッドを作り上げていった。インテリアコーディネートに、風水の知識と心理学の知見を組み合わせる。それを箱庭で試し、検証する。そのサイクルを繰り返すこと数年。

    「できた……」

     カーテンの隙間から、朝陽が差し込んでいた。テーブルには汚れたコーヒーカップが三つ。床にはカップ麺の空容器とビスケットや栄養補助食品の箱が散らばっている。最後の二日間は、ほぼ徹夜だった。

     鹿島は箱庭を見つめた。

     対面式キッチン。温かみのあるグリーンのテーブルクロスをかけた、四人掛けのダイニングテーブル。リビングには明るいイエローのソファが置かれ、男女の人形が並んで座っている。窓側には観葉植物のミニチュア。小さな庭には、桜の木が植わっていて、その下で子供の人形が遊んでいる。ガレージには黒いワンボックスカー。

    「これが……俺の全部だ」

     鹿島は大きく息をついた。これは箱庭だ。でも、理想の家だ。自分が住みたい家。家族と暮らしたい場所。その全てが、この小さな箱の中に収まっていた。

     伸びをして、目を閉じた。少しだけ眠ろう、と思った。

             ☆

    第六章 奇跡の連鎖

     箱庭を完成させてから、鹿島の周りが変わり始めた。

     まず、職場で転機があった。担当していた中堅企業の応接室のデザインを任された。それまで先輩の担当先であったが、どういうわけか鹿島を指名しての主案件となった。

     鹿島は自分が数年かけて作り上げたメソッドを、このプロジェクトに初めて本格的に適用した。先方の担当者に時間を取ってもらい、その会社の事業内容、社風、代表者の人柄まで、徹底的にヒアリングした。そのうえで、その企業が「お客様に与えたい印象」をインテリアで表現することを提案した。

     完成した応接室を見て、企業のオーナーが言った。

    「これは……うちの会社らしい。初めて、うちらしい空間を作ってもらえた気がします」

     それが縁となり、オーナーから鹿島に、独立への出資の提案があった。

    「あなたのような感性を持った人間が、会社員でいるのはもったいない。やりたいことがあるなら、応援しますよ」

     独立を決めた夜、鹿島は箱庭を見た。ガラスケースに入れてから、毎日眺める習慣ができていた。

    「これがある限り、俺はやれる」

     根拠のない確信だった。でも、確かに鹿島の腹に落ちた。

             ☆

     Kインテリア・ラボ。

     それが、鹿島が立ち上げた会社の名前だった。独立当初は鹿島一人に、事務作業を手伝うパートの女性が一人だけ。事務所も自宅兼用の小さなマンションの一室だった。

     しかし、仕事は途切れなかった。独立の縁となったオーナーが紹介してくれた案件を足がかりに、口コミで広がっていった。鹿島のコーディネートは、「居心地がいい」と評判になった。機能的なだけでなく、そこに住む人の個性が自然と滲み出るような空間。渡辺にかつて批判された弱点を、鹿島はいつの間にか克服していた。

     五年目には、スタッフが十人を超えた。

     十年目には、念願の「Kインテリア・ラボ」として法人化を果たした。

             ☆

    第七章 幸福の箱

     Kインテリア・ラボが有名になるにつれ、不思議な評判が広まり始めた。ラボのコーディネートを受けたお客様の家庭で、良いことが続く、という話だった。

     ある日の夕方、品のある家のリビングで、初老の婦人が電話を待っていた。夫は息子とゴルフに出かけた、静かな午後だった。

     電話が鳴った。嫁の声が弾んでいた。

    『お義母さん!赤ちゃん、できました!』

     お義母さんと呼ばれた婦人は目を見開き、立ち上がりかけた。膝ががくがくした。

    「まあ……!本当に?本当なの?ご苦労さまでした……長かったわねえ」

     五年間の不妊治療。Kインテリア・ラボに依頼して新築のリビングをコーディネートしてもらったのは、ちょうどその頃だった。風水の観点から「子宝に恵まれやすい空間」を意識したと、担当者が話していた。もちろん偶然だ、と婦人は思った。でも電話を切ってから、リビングのテーブルをそっと撫でた。

    「このインテリアにしてから、良いことばっかりだわ……」

             ☆

     また別のマンションの一室。

     無精ひげを生やし、どこか陰気な雰囲気の男が、自室の椅子に腰かけていた。男は中年で、独身で、会社では目立たない存在だった。趣味は宝くじを買うことだったが、当たったためしがなかった。

     その男が一念発起して購入したのが、Kインテリア・ラボの提携先から買ったイエローのソファだった。部屋には不釣り合いだったが、担当者に「幸運を招く色ですよ」と言われたのだ。

     男は信じていなかった。ただ、暗い部屋が少し嫌になっていただけだ。そう言い聞かせていた。

     ソファに腰かけ、目を閉じた。深呼吸をした。それから、その日の新聞を広げた。

     宝くじの当選番号が載っていた。

     財布から、くしゃくしゃになった宝くじを取り出した。何度も確認した。

    「……嘘だろ」

     何度見ても、同じ数字だった。

     男はソファから飛び上がった。

             ☆

     またある家では。

     リフォームの際にKインテリア・ラボでダイニングの家具を一新した家庭。木製の家具で統一し、ストライプのカーテン、窓際には観葉植物。

     そわそわした様子で、女子高生がテーブルについている。

     ピコン。
     メールの着信音に、慌ててスマホを取り上げ確認する。傍に母親が、そのスマホを覗き込む。

    「お母さん!」

     娘は震える手で、画面を母親に見せる。画面には「合格」の二文字があった。
     母娘は抱き合った。

             ☆

     こういった話が、じわじわと広まっていった。もちろん、全ては偶然だ。不妊治療が成功したのも、宝くじが当たったのも、大学に合格したのも。インテリアは関係ない。

     でも人間は、偶然に意味を見つけたがる生き物だ。

     「Kインテリア・ラボでコーディネートしたら、幸運が続いている」という話が、口コミで広まっていった。問い合わせが増え、予約が埋まるようになり、新聞のコラムに取り上げられ、やがてインテリア専門誌に鹿島が登場するようになった。

     ある朝のKインテリア・ラボ。

     秘書の高橋が、今日のスケジュールを告げる。鹿島は聞きながら、眉間にしわを寄せた。高橋は三十代の落ち着いた女性で、会社立ち上げ当初からの古株だ。鹿島の信頼が最も厚い。

    「最近、受注がまた増えてきているな」

    「そうですね。ありがたいことかと」

    「しかし、量を増やしすぎてもダメだ。クォリティを落としたら、今まで積み上げてきたものが崩れる。受注数をもう少し抑えるように」

    「ですが社長」と高橋が続けた。「お客様の中には、社長に直々にコーディネートをお願いしたいとおっしゃる方が、最近特に増えています。それと……少し変わった問い合わせも」

    「変わった問い合わせ?」

    「うちのコーディネートを受けてから、家族に良いことが続いた、とおっしゃるお客様が複数いらして。その……『幸運のインテリア』という言葉が、一部で使われ始めているようで」

     鹿島は苦い顔をした。

    「偶然だ」

    「はあ」

    「うちはずっと勉強をしている。風水の知識も取り入れている。心理的に居心地の良い空間が、住む人の精神状態を安定させ、それが行動や判断に良い影響を与える。それは理解できる。だが、インテリアで宝くじが当たるだとか、不妊が解消するだとかは、偶然に過ぎない」

    「ごもっともです」

    「ただの偶然の一致を、うちが根拠なく肯定するのは無責任だ。その点はスタッフにも徹底しておいてくれ」

    「承知いたしました」

     高橋が退室した後、鹿島は椅子の背もたれに深く沈んだ。

     窓際のガラスケースに目が行く。

     あの夜、公園で受け取った箱庭。自分が数年かけて完成させた、理想の家庭の縮図。

     独立して何年が経っただろう。その間、仕事は順調だった。結婚もした。子供も生まれた。全てが、あの箱庭の中の景色と重なっていった。

    「これがある限り……大丈夫だ」

     鹿島は立ち上がり、オフィスへ向かった。

             ☆

    第八章 春の嵐

     年が明ける頃から春にかけて、Kインテリア・ラボは毎年忙しさを極めた。引っ越しや新生活に伴うコーディネート依頼が集中するからだ。

     スタッフたちは目の下にくまを作りながら、それでも懸命に働いていた。鹿島も現場を飛び回り、打ち合わせをこなし、夜はデザインの確認をした。社長自身の頑張りを眼の前にすると、自分も頑張ろうと思える、そんなスタッフたちだった。

     その日の午後、鹿島は得意先との打ち合わせに出かけていた。

     オフィスのドアが開き、スタイリッシュなベージュのスーツを着た女性が子供の手を引いて入ってきた。

     鹿島の妻、由美。そして、息子の健吾。健吾は今年で七歳になる。

     鹿島が起業するのとほぼ同時に結婚したのが由美だった。資産家の娘で、才媛として知られていたが、鹿島の仕事への情熱に惚れたと言っていた。当時、周囲は鹿島を「逆玉だ」と言う者もいた。しかし由美は鹿島の夢を信じ、支え続けた。健吾が生まれて、その家庭は完成した。少なくとも、鹿島はそう思っていた。

    「近くまで来たものだから、お昼でも一緒にと思って」

     スタッフが事情を聞き、社長室で待つよう案内した。

     来客用のソファに腰かけた由美は、コンパクトを取り出して軽く化粧直しを始めた。健吾はすぐ飽きて、室内を歩き回り始めた。

    「健吾、静かにしてなさい」

    「うん」

     健吾はふらふらと歩き回った。本棚を指でなぞる。椅子をぐるぐる回す。そして窓際のガラスケースの前に立ち、中を覗き込んだ。

    「なにこれ?」

    「さわっちゃダメよ。お父さんの大事なものだから」

     健吾は素直に頷いたが、ガラスケースから目が離せなかった。小さな人形、小さな家具、小さな桜の木。自分と同じくらいの大きさの子供の人形が、庭で遊んでいる。

    健吾が手を伸ばした。

    「あ」

    「健吾!」

     由美の声が届く前に、ガラスケースが傾いた。健吾が思わず避けようとして体をぶつけたのか、ケースは大きな音を立てて床に落ちた。ガラスが割れ、箱庭が散らばった。

    「お、お母さん……」

     健吾は真っ青になって由美を見た。

    「健吾!ケガは?どこも切れてない?」

     由美は急いで健吾に駆け寄った。彼女の足元で、壊れた箱庭がさらに踏み潰された。人形が仰向けに倒れ、桜の木が折れ、ソファがひっくり返った。

    「僕は平気。でも……お父さんの大事な……」

     ドアがノックされ、スタッフの女性が飛び込んできた。

    「失礼します!大きな音がしました、が……これは……」

     彼女もまた、床に散らばった箱庭の残骸を見て、声を失った。

     背後から、上機嫌の鹿島が現れた。打ち合わせが早く終わったのだろう、珍しく機嫌が良さそうだった。

    「どうした?」

     部屋にいた三人が、一斉に鹿島を見た。鹿島の目には、まず三人の唖然とした顔が映った。それから、その向こうの床が目に入った。

     無残に砕けたガラスと、散らばった箱庭。

     折れた桜の木。

     仰向けに倒れた子供の人形。

    「………壊したのか」

     鹿島の声から、感情が消えた。

    「真吾さん、健吾が誤って……」

    「……ことを」

     それだけ言って、鹿島は黙った。シンとした沈黙。由美も、スタッフも、誰も動けなかった。鹿島がこんな顔をするのを、誰も見たことがなかった。笑顔か、真剣な顔か、困り顔か。それが鹿島の顔のレパートリーだった。

     今、鹿島の顔には何もなかった。

    「なんてことを……」

     呟きが聞こえた直後、怒号が室内に響いた。

    「なんてことをしてくれたんだっ!!」

     スタッフが飛び退いた。由美が身を縮めた。

     鹿島は膝を着き、頭を抱えた。

    「これが……これがなければ俺は……!」

    「お父さん……ごめ、な、さ……」

     健吾が泣き出した。わーっと声を上げて泣いた。由美は腕を伸ばして健吾を抱き寄せた。

    「社長!」

     高橋が飛び込んできた。

    「社長、得意先の大和田様から連絡が!キャンセルの意向が……って、ど、どうされたんですか?」

     鹿島は床に散らばった箱庭から、目を離せなかった。

    「もうだめだ……もう、おしまいだ」

     誰も動けなかった。項垂れた鹿島を、ただ見つめるしかなかった。

             ☆

    第九章 崩壊

     数日後の鹿島家では、夫婦の言い争いが繰り返されていた。

     壊れた箱庭のうち、ガレージに置いてあった黒いワンボックスカーのミニチュアと、庭の桜の木だけが、かろうじて原形を保っていた。残りは全て、粉々だった。

    「真吾さん、健吾に悪気はなかったのよ」

    「わかってる」

    「わかってるなら、なぜあの子に当たるの?もう数日も経ってるのよ?七歳の子供に、いつまで」

    「うるさい!おまえにはわからないんだ。あれがどれだけ大事なものだったか!」

    「でも、また作ればいいじゃない。箱庭なら、材料を買えば……」

    「そんな問題じゃない!」

     鹿島は声を荒げた。由美の目に戸惑いが浮かぶ。この人は誰だ、という顔だった。見たこともない夫の姿に、自分が誰かすらもわからなくなりそうだった。

    「あれは俺が何年もかけて作ったものだ。風水も、箱庭療法も、インテリアの知識も、全部詰め込んで作った完璧な家だったんだ。あんな完璧なものはもう二度とできない。あれが壊れたら、全部崩れる。俺の会社も、俺の家族も、全部」

    「……何を、言ってるの?」

    「箱庭がなければ、俺はダメなんだ。あれがあるから、俺はやれてこれたんだ。あれがなくなったら、もう何もかもおしまいだ」

     由美の目に、怒りと悲しみが混じった。

    「あなた、おかしいわ。箱庭は箱庭よ。おもちゃじゃない。でも、あなたの人生ではないのよ?あなたが今まで頑張ってきたから、会社が大きくなったんでしょう?あなたの力じゃないとでも言うの?」

    「……」

    「健吾があんなに気にして、毎晩ごめんなさいって言ってるの、知ってる?七歳の子供が、お父さんに謝り続けてるのよ?」

     鹿島は答えなかった。

     売り言葉に買い言葉で、鹿島が「出ていけ」と言った。由美は黙って健吾の手を取り、子供部屋へ行って着替えを詰めた。

    「実家に戻ります。頭を冷やしてください」

     玄関の扉が閉まる音を聞きながら、鹿島は動けなかった。頭を抱えて座り込んでいた。

     翌日から、オフィスでもキャンセルが続いた。

    「え?キャンセルですか?どういうことですか?」

    「何かご不満な点が……」

     スタッフたちは対応に追われた。理由はまちまちだった。予算の問題、スケジュールの変更、先方の都合。一件ならまだいい。しかし連日連件と続くと、みな不安になった。

     高橋が社長室へ入る。鹿島は電話中だった。かつての取引先に、頭を下げているようだった。

    「……申し訳ございませんが、今後のご依頼は高橋が対応いたします。後日必ずご挨拶に伺います。失礼いたします」

     電話を切った鹿島の顔は、ひどく疲れていた。

    「またキャンセルですか」と鹿島は言った。問いかけではなく、確認だった。

     高橋が頷く。

    「……会社を整理しようと思う」

    「社長!」

    「もういいんだ。自信がない。これ以上続ける気力がない」

    「何をおっしゃるんですか!あれほど順調だったのに!一時的なキャンセルが続いているだけです!ここが踏ん張りどころです、社長らしくないです!」

    「みんなを呼んでくれ」

     高橋はぐっと拳を握り締めた。鹿島の意思が固いことを、その言葉から悟ったのだ。

    「……承知、いたしました」

             ☆

     Kインテリア・ラボが解散の手続きを進めていた頃、鹿島家は荒れ果てていた。

     由美が出て行ってから、誰もキッチンに立たなくなった。コンビニのビニール袋が玄関に積まれ、缶ビールの空き缶がソファ周りに転がった。洗濯物は洗濯機の中で放置され、テレビのリモコンがどこにあるかさえも、わからなくなった。

     テーブルの上に、離婚届がある。由美の署名がすでに入っていた。

     鹿島は椅子に座って、それを見ていた。見ているだけで、動けなかった。

    「なぜだ……」

     呟いた。誰に向けているのかも、わからないまま。

    「なぜ、こうなった」

     答える者は、いなかった。

             ☆

    第十章 観察者

     その夜遅く。
     春先には珍しく、ひんやりとした風が吹いていた。

     鹿島家の前の路上に、一人の男が立っていた。

     コートの襟を立て、無表情のまま、明かりのついたリビングの窓をじっと見つめている。背中には、あの白い箱がない。でも、眼鏡の奥の静かな目は、あの公園のベンチに座っていた男と同じだった。

     男はしばらく窓を見ていたが、やがて踵を返した。街灯の少ない住宅街を、音もなく歩いていく。

     角を曲がる直前に、男は一度だけ振り返った。

     鹿島家のリビングに、人影があった。頭を抱えて、うずくまっている。

     男は視線を前に戻し、闇の中へ消えていった。

             ☆

    エピローグ 白い部屋

     それはどこか、人工的な空間だった。

     窓のない、白く広い部屋。天井からは均等な光が降り注ぎ、昼も夜もない。正面には大型のモニターが据えられ、その前に円卓がある。白衣を着た男女が、六人ほど座っていた。

     モニターには、憔悴しきった男の顔が映っていた。頬がこけ、目の下にくまがある。しかし、かつての鹿島と同じ顔だ、と誰もが知っていた。

    「まずまずの出来、だったか」

     誰かが呟いた。

    「箱庭が壊れるまで、という規約でしたので、モニターもここまでです。若干の期間オーバーはありますが、こちらの時間的にはトータル数時間といったところでしょうか」

     あの公園の男が、コートを脱いで椅子に座りながら言った。

    「また、あの男に箱庭を渡すことはありません。念のため」

    「わかった。……それにしても、予想以上だったな、依存の程度が」

    「ああ。あそこまでになるケースは珍しい」

    「壊れた途端にあれだもの。精神的な自立ができていなかったということかしら」

    「箱庭の威力については、成功と言えるでしょう。ただ、こちらが想定した以上の作用があったかもしれない」

     奥に座っていた年配の男性が手を挙げた。

    「少し聞いていいか。この箱庭の力は、いつから発動するんだ?受け取った瞬間か?」

    「どうやら、興味を持った瞬間からのようです。受け取ってもすぐに捨てた者には、全く影響がなかったデータがあります。受け取って、中を開けて、心を動かした瞬間に、何かが始まるようです」

    「つまり、受け手次第、ということだな」

    「おそらくは」

    「そのあたり、もっと詳しく調べてみたい」

     そうだ、そうだ、という声が上がった。

    「今回はほんの一例です」と、公園の男が続けた。「こんなパターンも考えられる、というサンプルの一つです。箱庭の使い方は、皆さん次第。ただ一点だけ申し上げると……」

     男は、モニターに映る鹿島の顔を見た。

    「壊れやすいのは、箱庭だけではありません。形あるもの、いつかは壊れます。そして形のないものも、また」

     部屋にいた全員が、モニターを見た。

     鹿島は、テーブルの上の離婚届を手に取り、それを折り畳んでいた。

    「もしかしたら、壊れてからの状況調査のほうが、大事かもしれませんね」

     誰からともなく席を立ち、部屋を出ていった。

     最後に残ったのは、年配の男性だった。

     モニターを消そうとして、手を止めた。

     鹿島が、立ち上がった。テーブルの上の離婚届を手に持ったまま、玄関へ向かっている。コートを羽織り、鍵を持った。

    「どこへ行くんだろう」

     男性は独り言を言った。

     しばらくして、鹿島の姿がモニターから消えた。

     男性はゆっくりと席を立った。モニターの電源を切る前に、もう一言だけ呟いた。

    「人間の心は、壊れやすい。……だが、立ち直りも、するものかもしれない」

     モニターが暗くなった。

     白い部屋に、光だけが残った。

             ☆

     その夜、由美の実家の呼び鈴が鳴った。

     由美が玄関を開けると、そこに鹿島が立っていた。ヨレたシャツで、髭も剃っていなくて、明らかに眠れていない顔で。

     右手に、折り畳んだ離婚届を持っていた。

    「健吾は」

    「……寝てる」

    「起こさなくていい。……俺、おかしかったと思う」

     由美は何も言わなかった。

    「箱庭がなければ何もできないと思い込んでた。でも、違う。あれは俺が作ったんだ。俺が勉強して、考えて、何年もかけて作った。だが、壊れたのは箱庭だけで、俺の中にあるものは、壊れてない」

    「……」

    「健吾に謝りたい。おまえにも。……もし、まだ間に合うなら」

     由美が何かを言おうとして、黙った。

     奥から、パタパタと小さな足音が聞こえてきた。

    「お父さん?」

     健吾がパジャマ姿で、目を細めながら立っていた。起きていたのかもしれない。

     鹿島は、膝を着いた。七歳の息子と、目線を合わせた。

    「ごめんな、健吾」

     健吾はしばらく黙っていた。それから、小さな腕を伸ばして、父親の首に巻きつけた。

     由美は離婚届を受け取った。それをゆっくりと、真っ二つに破った。

             ☆

     翌朝、公園のベンチに、あの男が座っていた。

     背中には白い箱がない。新聞も広げていない。ただ、朝の光の中で、静かに座っていた。

     通りかかった主婦が、ちらりと見た。

    「あら、あの人……」

    「本当だ。どうしたのかしらね」

    「なんか、普通の人みたいね」

     二人はそのまま通り過ぎた。

     男は、朝の光を顔に受けながら、かすかに微笑んでいた。

     スマートフォンが振動した。

    「はい。……ええ。……そうですね、今回はいろいろと、参考になりました。……次は、もう少し条件を変えてみますか」

     男は立ち上がり、公園を出た。

     背中は、空だった。

             ☆
             ☆
             ☆

     あなたは今、どんな「箱庭」を持っているだろうか。

     資格かもしれない。
     肩書きかもしれない。
     お金かもしれない。
     あるいは、大切な人かもしれない。

     もし、その箱庭が壊れたとき、あなたには何が残るだろう。

     何も残らないとしたら。

     それはあなたが弱いのではない。

     ただ、本当の強さを、その箱庭の外に、まだ見つけていないだけかもしれない。

     壊れてからが、始まりかもしれないのだ。

                         (了)

    #創作大賞2026 #エンタメ原作部門


    → 地下鉄の悲鳴

     
     
    すみな きこ、です 税理士事務所で記帳代行をしながら、AIで自分の実務を軽くしています。 1日300〜500仕訳の手入力を、自作ツールで時間半分に! 弥生会計、通帳PDF、Claude Codeあたりの話が多めです。 うまくいかなかった話も含めて、試したことを週1本

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