
短編:【トマトジュース】
小劇団「向日葵座」。
旗揚げから十三年、決して有名ではない。
熱心なファンに支えられてきたその劇団には、一つの“伝説”があった。
―初代座長・高田蓮は、旗揚げ公演の最終日、舞台の上で吐血し倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
その公演の演目が、今回再演される『紅の雨』。
主人公が血を吐きながらも立ち続ける物語。劇団にとっても特別な作品だった。
現在、劇団員は十数名。主宰は二代目座長の黒崎(45)。かつてその舞台を間近で見ていた唯一の生き証人だ。いまの劇団には当時を知らない若手もかなり多い。
その中の一人、陽太(27)は入団五年目。劇団きってのムードメーカー、場を和ませることにかけては誰よりも長けている。それでも、芝居の実力は中の下。内心では「役者として自分の代わりは、いくらでもいる」と、そんな劣等感を抱いていた。
再演に向けての稽古初日。
陽太は稽古場にあった古びた自販機で、懐かしい、缶のトマトジュースを見つけた。
地方巡業の帰り、先輩たちとふざけながら飲んだ記憶が蘇る。
「まだ売ってたんだ…」
懐かしさもあり軽い気持ちで購入する。
稽古中、重要な場面で演出が変わる。突然のことに陽太は驚いて、口に含んだジュースを吹き出してしまう。舞台床に飛び散る赤い液体。空気が凍る。
「…血じゃないよな?いまの」
誰かの一言で、ざわめきが広がる。陽太は慌てて床を拭く。ヘラヘラと愛想笑いで汗をかき、全力で否定をしたことが逆効果。「無理するな」「顔色も悪い」と誰も信じない。
やがて「陽太が吐血したらしい」という噂は、その日参加をしていなかった団員や裏方にまで広がった。
そして、かつての伝説へと結びつく。
「また同じことが起きるのでは…」
そんな不吉な空気へと変わっていった。
陽太は最初こそ困惑するが、次第に周囲の態度が変わっていくのを感じる。雑に扱われていた自分に、真剣な視線が向けられる。演出も役の見せ場を増やし、黒崎も「今回、お前に賭ける」と言う。
その期待に応えたいという気持ちと、嘘を否定できない弱さの間で揺れた末、陽太は誤解に便乗し、宣言をする。
「最後まで、この舞台に立ちたいんです」
劇団は一丸となり、伝説の再演と、“命を削る役者”が重なるという皮肉なドラマ性に、全員が飲み込まれていった。
一方でもう一人の重要な団員・真琴(31)は、冷静にその状況を見ていた。入団八年目、実力は確かだが主役には恵まれず、裏方もこなす劇団には欠かせない存在。トマトが苦手な彼女は、陽太が缶を手にしたときも「よくそんなの飲めるね」と顔をしかめていた。
数日後の通し稽古。クライマックスの場面。今度は真琴が突如、激しく咳き込み、赤い液体を吐き出し倒れた。
稽古場は騒然となる。黒崎の顔が青ざめる。
「まさか…またか」
十三年前の光景がフラッシュバックする。
「俺のせいだ」
凍りつく陽太。
自分の軽率な嘘が、劇団に“再現”を引き寄せてしまったのではないかという恐怖。笑ってでごまかしてきた自分の在り方が、初めて耐えられないほど恥ずかしくなる。
逃げたい、という恐怖心と、逃げたら本当に何も残らないという強い葛藤が追い詰める。
陽太は舞台に立つことに執着を、初めて見せた。セリフの意味を深く考え、身体に動きを刷り込ませ、黒崎に何度も喰らい付いた。その姿に、周囲の空気も変わり始める。
ところが数日後、真琴が何事もなかったかのように稽古場に戻って来た。
「あ〜あれ?血糊。舞台用の」
あっけらかんと告げる真琴。驚く陽太に、彼女は続ける。
「伝説ってさ、勝手に重くなるでしょ。アンタも、それに乗っかってた。でもね…」
少しだけ柔らかい声で。
「君が初めて、本気の顔してた。だから、アタシも付き合った」
真琴が“赤い液体”で、わざわざひと芝居を打った理由。それは、陽太の嘘を責めるためではなく、彼と劇団の覚悟と本気を引き出すためのものだった。
本番当日。
陽太はすべてを告白しようとする。しかし黒崎は静かに言う。
「伝説なんてな、残るのは結果じゃない。その舞台にどう向き合い、いかに立ち続けたかだ」
舞台の幕が上がる。
クライマックス。血を吐く場面。
陽太は、もう何も演じていない。
ただ、その場に立ち続ける
終演後、拍手の中で、彼は初めて涙をこぼす。
ひとけのない楽屋裏。あの自販機で、陽太は再びトマトジュースを買う。プルトップを開け、ゆっくりと飲み込む。薄い鉄の味がする。その冷たさが昂揚した肉体をクールダウンさせる。
目を閉じる。体内に流れ込むその液体と、自分を動かす赤い液体が混ざり合う。形のない記憶というDNAに刻み込むのを感じ、空を見上げた。
「つづく」 作:スエナガ