
短編:【三百本目はダテじゃない】
三百本目である。
だから何だ…と、まっさらな白いモニター画面が物語る。
せめて記念となり、記憶に残る一本を届けたい。
三百、という数字には様々な意味がある。ボウリングなら満点。野球なら大投手の勲章。三角数。二十四番目。調べれば調べるほど、三百にまつわる立派なネタが並んでいる。
並んでいるだけだ。
「数字が偉いだけで、お前は一文字も偉くないな」
PC画面を覗き込むような距離から声がする。
振り向くと、知らないようで、知っている男の横顔がある。三年前、四十五本目の短編に登場した、売れない役者だ。現在も売れている気配はない。年季が入り、ダテ男としての風格だけは妙に増している。老けただけか?
「何です、勝手に出て来ないでくださいよ!」
私は敬意を表して丁重に言う。
「お前が呼んだんだよ。困った時だけ都合よく昔の登場人物を使いやがって!」
役者の男は作者に毒つく。
「作者ってのは便利な職業だな」
男は椅子に座り、机の上のメモをつまんだ。
「一から二十四まで足すと三百…で?」
「祖父の遺品が三百個の碁石で…」
「弱い」
「まだ言い終わってない」
「言い終わるまでもない、弱い。碁石を並べて泣く老人、そんな話は全国で三十篇くらい擦られている」
男は勝手に立ち上がり、腰を曲げ、震える手で架空の碁石を並べ始めた。
「一つ、二つ、三つ…ああ、母さん、これが三百個目だよ…」
芝居がうまいのが返って腹立たしい。
ちょっと泣きそうになる。
「見ろ。俺がうまいだけだ。話がうまいわけじゃない」
一枚メモを取り、これはどうだと読み上げる。
「ボウリング。最後の一投で三百点」
「誰が投げる?」
「シニアボウラー」
「なぜ投げる?」
男は私からメモを奪い一読する。設定は説明できる程度にしっかり出来ている。
「人生最後の大会で…」
「なぜ最後だ?」
「年齢的に」
「…老いに頼るな。老いは設定じゃない!事情だ」
男は助走を始める。部屋の端から端まで、三歩。存在しないボールを構え、十二投目だけで人生を背負った顔になる。
「これでストライクを取れば、パーフェクトになれば…俺は完璧だ!…だが完璧になってしまったら、明日から何をすればいいんだ?」
投げない。
男は腕を止めたまま、こちらを見る。
「こっちは少しだけマシだ。でもまだ三百に甘えている」
私はメモを奪い返す。
「じゃあ三百勝投手の…」
「大きい」
「まだ一行しか」
「大きい話は逃げ場が多いんだよ。球場、歓声、新聞、伝説。ほら、もう嘘くさい」
「うるさいな」
「うるさい役で書いたんだろ、俺様を!」
その通りだった。
男は窓の方へ歩いた。外は夕方で、電線に鳥が三羽とまっている。三百羽ではないところが良かった。三羽は本当に見えるが、三百羽はたいてい作者の妄想だ。
「よぉ、三百本も書いて、何をそんなに飾りたてたいんだ?」
「記念だからですよ」
男は肩で笑う。
「読者は記念を読みに来るんじゃない。人間を読みに来るんだ」
「…分かってます」
「分かってる奴は、三角数で泣かせようとはしない!」
私は黙る。
男は机のメモを一枚裏返し、ペンを持った。役者のくせに、字が汚い。いや、だから役者なのかもしれない。
「短いシノプシスを書け。俺が演じる」
「どんな?」
「三百本目が書けない作家のところに、四十五本目の役者が来る」
一瞬、時が止まる。
「そのままじゃないですか」
「そのままが一番怖いんだよ。ごまかせないから」
私はため息をつき、打ち込む。
三百本目が書けない作家の前に、過去の短編に登場した役者の男が現れる。作者は三百にまつわる立派な物語を次々に提案するが、男はすべてを演じ、すべてを斬る。やがて作家は、三百という数字に意味を持たせようとしていたのではなく、三百本続けた自分に意味が欲しかっただけだと気づく。
読み上げると、男はしばらく黙った。
「うん、悪くない」
「本当ですか」
「ただし最後が甘い」
一瞬の沈黙。
「どこが」
「気づくな。気づいた顔をするな。作者が反省して終わる話ほど信用できないものはない」
「じゃあどうすれば」
男は玄関に向かった。
「書き終わったことにしろ」
「え?」
「いまの状況を書けばいい。俺は帰る。お前は慌てて追いかける。ドアを開ける、廊下には誰もいない。机に戻ると、画面には二千字くらいの短編ができている」
「それじゃあ、夢オチじゃないですか!」
男は振り返り、にやりと笑った。
「夢オチじゃねぇ…登場人物の営業努力だ」
ドアが閉まる。
私は慌ててドアを開ける。廊下には誰もいない。
予想通りすぎて腹が立った。
静かに机に戻る。
白紙だと思われた画面には、スクロールした下の方、最後の一行だけ、文字が打たれていた。これが彼の望むラストらしい。
三百本も書いてきたのだ、一本くらい登場人物の好きに演じさせてやろう。
私は少しだけ上を向いた。
【思考する時、人は上を向く】
ダテ男が出てくる物語のタイトル。
思考ではない。私は上を見て、笑いをこらえていた。
「つづく」 作:スエナガ