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【韓国音楽大百科vol.15】韓国モダンフォークの父、ハン・デス

    韓国音楽大百科作成中!韓国音楽にハマった私が、年代別・歌手別に韓国音楽界を席巻した名曲たちを調べ尽くすマガジン。 韓国音楽大百科を目指して、トロット、フォーク、バラード、K-POPまで幅広く網羅していきます。 時代背景や歌詞の世界観、歌手たちの歩みとともに、韓国音楽の魅力を深掘りしていきます。

    ハン・デス プロフィール

    生年月日: 1948年3月12日 〜
    出生地:韓国・釜山
    デビュー:1960年代後半
    代表曲: 「행복의 나라로(幸福の国へ)」「물 좀 주소(水をください)」

    1960年代、音楽鑑賞室「セシボン」を中心に若者たちの間で広がっていったアコースティックギター(通ギター)文化。

    ツインフォリオのように、海外のポップスを韓国語でカバーし、美しいハーモニーを聴かせるグループが人気を集める一方で、全く異なるアプローチから韓国のフォーク音楽を切り開こうとしていた人物がいました。
     
    その人の名前は、ハン・デス(한대수)。
     
    「幸福の国へ」「水をください」「風と私」など、今なお歌い継がれる名曲を残したシンガーソングライターです。
     
    今回は、韓国モダンフォークの歴史を語るうえで欠かすことのできないハン・デスの波乱に満ちた音楽人生を辿ります。

    父親の失踪、祖父母に育てられた少年時代

    1948年、釜山で生まれたハン・デス。父親のハン・チャンソクは核物理学者、母親のパク・チョンジャはピアニストという家庭に生まれました。
     
    ハン・デスが生まれて間もない頃(生後100日頃)、ソウル大学の学生だった父親は祖父の勧めでアメリカのコーネル大学へ留学し、核物理学を専攻。ところがその後、父親からの連絡が途絶え、行方不明となってしまいます。

    ハン・デスは後年、「父親の顔も姿も全く知らずに育った」と、当時の孤独な幼少期について語っています。

    当時、母親はまだ10代後半という若さでした。その後母親が再婚したため、幼いハン・デスは母のもとを離れ、父方の祖父母に引き取られることになります。
     
    祖父は神学者のハン・ヨンギョ。延禧専門学校(現在の延世大学)で初代学長・大学院長を務めた知識人でした。こうしてハン・デスは、7歳ごろから祖父母の手によって育てられました。

    韓国とアメリカを行き来した青春期

    ハン・デスが初めてアメリカの土を踏んだのは、小学校5年生の頃。祖父に連れられて渡米して以来、韓国とアメリカを行き来しながら教育を受けることになります。
     
    韓国で中学校時代を過ごした後に再び渡米。17歳の時、長年行方不明だった父親の消息がついに判明します。
     
    アメリカで新しい家庭を築いていた父親と、17年ぶりの再会を果たしたハン・デス。しかし、再会した父親はすでに母国語である韓国語を忘れており、失踪の理由が本人の口から詳しく語られることはありませんでした。
     
    そんな複雑な青春期を送る彼に大きな影響を与えたのが、高校時代の相談教師との出会いでした。

    教師の導きによって詩や芸術の世界に目覚めたハン・デスは、自ら詩を書き、歌を作るようになります。後に彼の代表曲となる「행복의 나라로(幸福の国へ)」も、この10代半ばの時期に生まれた作品です。

    大学中退、そして写真の世界へ

    高校を卒業したハン・デスはニューハンプシャー大学へ進学します。
     
    祖父からは韓国にある牧場を継ぐことを勧められていたとも言われていますが、大学での学びは彼の性に合わず、ほどなくして中退。その後ニューヨークへ移り、写真学校で本格的に写真を学び始めました。
     
    さまざまな芸術に興味を持ちながら、自分自身の表現方法を探していた時期だったのかもしれません。そして、この頃のアメリカでの生活が、後のハン・デスの音楽に大きな影響を与えることになります。

    コーヒーショップでの演奏と1968年の帰国

    学生時代のハン・デスは、週末になるとコーヒーショップやクラブで歌い、生活費を稼いでいました。
     
    アメリカのアンダーグラウンド空間で「自ら曲を作り、ギターを弾き、人前で歌う」というシンガーソングライターとしての原体験を、彼はすでにこの時積んでいたのです。
     
    1968年、20歳になったハン・デスは韓国へ帰国します。当時の韓国音楽界はトロット(韓国の伝統的な歌謡曲)が主流でしたが、若者たちの間では欧米のポップスやフォークへの関心が高まり、ソウルの街にはギターを抱えた若者たちが集まりつつありました。
     
    その中心地が、無教洞(ムギョドン)にあった音楽鑑賞室「セシボン」です。帰国後、明倫洞の喫茶店「クイーン」を訪れたハン・デスは、DJから「セシボンなら生演奏ができる」と教えられ、ギターを手に店へと向かいました。
     
    セシボンを訪れたハン・デスは、店主の目に留まり、当時司会を務めていた東洋放送(TBC)のプロデューサー、イ・ベクチョンに紹介されます。そしてステージで自作曲「Till That Day」を披露。これが、彼の韓国での本格的な音楽活動の幕開けとなりました。
     
    ▼「Till that day」
    若さゆえの焦燥感や自由への切実な望みを、英語詞と独創的なアコースティックギターの弾き語りで表現した楽曲。1968年の「セシボン」初登場時に歌われ、彼がシンガーソングライターとして注目を集めるきっかけとなりました。

    当時のセシボンでは海外ヒット曲の翻案(カバー)が一般的でしたが、ハン・デスが見せたのは「自分で作った曲を、独特のルーズなスタイルで弾き語る」という斬新な姿でした。その強烈な個性と歌声は、当時の韓国音楽界に大きな衝撃を与えます。

    ツインフォリオとは違う音楽

    1960年代後半の韓国フォークシーンにおいて、ツインフォリオに代表される爽やかな美しいハーモニーと海外ポップスのカバーは、若者文化の象徴でした。
     
    それに対し、ハン・デスが歌ったのは従来の歌謡曲の枠に収まらないものでした。単なる恋愛模様だけでなく、自由、愛、希望、孤独、そして人間としての本質。
     
    自分自身の内面にある生々しい感情をギターに乗せて吐き出す彼のスタイルは、韓国音楽史における「海外の歌を歌う時代」から「自分の言葉で歌を作る時代(創作フォーク)」への明確な転換点となったのです。

    本人が兵役中に、楽曲だけが一人歩きしてヒット

    セシボンや大学祭で圧倒的な存在感を放っていたハン・デスでしたが、この時点ではまだ正式なレコードデビューを果たしていませんでした。
     
    それでも彼の作る楽曲は、大学祭などの口伝えで他のミュージシャンたちの間へ広まっていきます。
     
    1971年、ハン・デスは海軍に入隊。当時は1968年に起きた「1・21事態(青瓦台襲撃未遂事件)」の影響で兵役期間が大幅に延長されており、陸軍の36ヶ月に対し、海軍・空軍は39ヶ月(3年3ヶ月)という過酷で長い兵役生活でした。
     
    彼が兵役に就き、音楽活動を休止せざるを得なかったこの3年3ヶ月の間に、奇妙な現象が起こります。
     
    彼が作った「바람과 나(風と私)」をキム・ミンギが、「행복의 나라로(幸福の国へ)」をヤン・ヒウンがカバーしてリリースし、若者たちの間で大ヒットを記録したのです。
     
    1974年、除隊して街に戻ったハン・デスが目にしたのは、本人不在のまま自分の楽曲が時代を象徴するヒットソングとなり、自身が「天才作曲家」として有名になっているという思いがけない光景でした。
     
    そしてこのヒットが追い風となり、ついに待望のレコードデビューが決定します。

    1stアルバム『멀고 먼 길(遠く遠い道)』と伝説の楽曲

    1974年、1stアルバム『멀고 먼 길(遠く遠い道)』を発表。

    ▼「행복의 나라로(幸福の国へ)」

    17歳頃に書かれたとされるこの曲には、「閉塞感のある現実から飛び出し、自由な世界へ進みたい」という若者の切実な解放への願いが込められています。

    ▼「물 좀 주소(水をください)」
    喉の渇きを潤す水を求めるように、抑圧された時代の中で「自由と生」を渇望する人間の情熱をシャウトする、韓国ロック/フォーク史に残る圧倒的な名曲です。

    政府による弾圧、全曲発禁とアメリカへの「亡命」

    翌1975年、待望の2ndアルバム『고무신(ゴムシン)』を発表。しかし、彼の音楽人生は突如として暗転します。
     
    当時の朴正煕(パク・チョンヒ)政権下における検閲・社会情勢の中で、アルバムの収録曲やジャケット写真が「体制への反逆・不穏」とみなされ、全曲が販売禁止および回収処分となってしまったのです。
     
    1st・2ndアルバムの全曲が発禁となり、歌うことすら奪われたハン・デスは、音楽的基盤を暴力的に破壊された絶望から深い精神的ショックを受けます。「二度とギターなど触りたくない」というほどの傷を負った彼は、事実上の亡命として再びアメリカ・ニューヨークへと渡りました。

    ニューヨークでの屈折とロックへの転向

    渡米後、生計を立てるためにかつて学んだ写真を活かして広告写真家として働き始めたハン・デス。しかし、彼の内に秘められた表現への情熱が消えることはありませんでした。
     
    商業写真家として昼の生活を送る傍ら、1970年代後半のニューヨークのアンダーグラウンド・シーンに身を投じた彼は、現地ミュージシャンと3人組のポストパンク/ハードロックバンド「ジンギスカン(Genghis Khan)」を結成。
     
    「生きるための写真」と「魂を叫ぶためのロック」を両立させながら、ニューヨークで静かに牙を研ぎ続けていました。

    14年ぶりの復帰、そして伝説へ

    1989年、実に14年ぶりとなる3rdアルバム『무한대(無限大)』を発表し、40代になったハン・デスはついに韓国の音楽シーンへと帰還します。
     
    若いミュージシャンたちとタッグを組んだこのアルバムでは、従来のフォークにとどまらない骨太なロックサウンドを展開しました。
     
    その後も衰えぬ創造性で精力的に活動を続けます。

    1990年:4thアルバム『기억상실(記憶喪失)』発表
    1991年:5thアルバム『천사들의 담화(天使たちの談話)』発表(フォーク、ロック、ブルースを融合したスタイルを確立)
    1997年:日本で初ライブを開催(日本のロック歌手・カルメン・マキとのジョイントコンサート)
    1999年:アルバム『이성의 시대, 반역의 시대(理性の時代、反逆の時代)』発表
    2001年:ソウル・オリンピック公園フェンシング競技場にて、キャリア初となる単独大鑑コンサートを開催

    時代の波に揉まれ、歌を奪われながらも表現することを諦めなかったハン・デス。
     
    1960年代の「セシボン」から始まった韓国フォークの歴史は、海外ポップスのカバーから彼という異端児の登場によって「自己表現の音楽」へと昇華されました。
     
    ハン・デスが切り開いたその道は、単なる若者文化の枠を超え、時代や社会と対峙する韓国大衆音楽の大きな骨組として今も脈々と受け継がれています。

    年表

    ・1948年
    韓国・釜山に生まれる。生後間もなく父がアメリカへ留学した後に失踪。祖父(延禧専門学校の初代学長・ハン・ヨンギョ)のもとで育つ。
     
    ・1950年代末〜1960年代
    渡米してアメリカと韓国を行き来する生活を送る。17歳の時にアメリカで父親と17年ぶりに再会。高校時代に詩や曲を作り始め、「행복의 나라로(幸福の国へ)」などを制作。
     
    ・1960年代中盤
    ニューハンプシャー大学を中退後、ニューヨークの写真学校で写真を学ぶ。週末はコーヒーショップなどで歌う生活を送る。
     
    ・1968年
    韓国へ帰国。音楽鑑賞室「セシボン」にて自作曲「Till That Day」を披露し、シンガーソングライターとして強烈なインパクトを与える。
     
    ・1971年
    海軍に入隊(当時の兵役期間は3年3ヶ月)。入隊中にキム・ミンギが「바람과 나」、ヤン・ヒウンが「행복의 나라로」をカバーし、本人不在のまま楽曲が大ヒットする。
     
    ・1974年
    除隊後、1stアルバム『멀고 먼 길(遠く遠い道)』で正式レコードデビュー。「행복의 나라로」「물 좀 주소」などを収録。
     
    ・1975年
    2ndアルバム『고무신』を発表するも、朴正煕政権下の検閲により1st・2ndアルバムの全曲が販売禁止・回収・歌唱禁止処分に。失意のままアメリカ・ニューヨークへ渡る。
     
    ・1970年代後半
    ニューヨークで広告写真家として働きながら、現地のミュージシャンとポストパンク/ハードロックバンド「ジンギスカン(Genghis Khan)」を結成し音楽活動を継続。
     
    ・1989年
    3rdアルバム『무한대(無限大)』を発表し、14年ぶりに韓国の音楽シーンへ復帰。フォークからロックへと表現の幅を広げる。
     
    ・1990年〜1991年
    4thアルバム『기억상실(記憶喪失)』(1990年)、5thアルバム『천사들의 담화(天使たちの談話)』(1991年)を相次いで発表。
     
    ・1997年
    日本でカルメン・マキとのジョイントコンサート(ライブ)を開催。
     
    ・2001年
    ソウル・オリンピック公園フェンシング競技場にて、キャリア初となる本格的な単独コンサートを開催。
     
    ・2003年
    韓国の主要放送局KBSによる「KBS歌謡大賞」にて功労賞を受賞。韓国音楽史への多大な貢献が讃えられる。

    ・2005年
    音楽的評価・作品性を重視する「韓国大衆音楽賞(KMA)」にて功労賞を受賞。大衆音楽の先駆者としての地位を確立する。

    ・現在
    80代となった今も執筆やインタビュー、メディア出演などを通じて独自の美学を発信し続け、韓国大衆音楽史の生きる伝説として尊敬を集めている。

    ▼映画「セシボン」


     
     
    K-POP・OST・8090歌謡を通して、韓国語学習も兼ねた歌詞の深掘りを記録する韓国音楽鑑賞ログ。 ・韓国楽曲コレクション1265曲。 ・2026年7月、TOPIK3級取得。 ・2025年11月、ハングル検定3級取得。

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