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『完璧な男』第10話04「紅のM」10-10

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    ■ 【前回までの話】

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    夜の都心を歩く立真の唇には、
    マザーの腹心・エリナに不意に奪われた屈辱的な感触が残っていた。
    制度に消された男の最期の言葉を胸に、
    いつか自分も用済みとして消されるかもしれない脆さと孤独を噛み締める。

    一方、最強の右腕である松村靖仁の精神は、甘く致命的な麻薬に浸食されていた。
    マザーの施設で、老いと美しさが同居する女の指先が彼の首筋をなぞる。

    「いい子ね。私のために微笑んでいればいいの」

    かつて声が出せずに捨てられたトラウマを持つ彼は、
    その絶対的な肯定と支配の前に自ら思考と自我を放棄していく。
    夢の中でかつての戦友・Z8427が「立真は女の子だ。気をつけろ」と警告するが、
    松村はすでにマザーの与える安息という名の檻へ喜んで沈みつつあった。

    ◆年表:紅のM◆

    ◆構造起点◆
    葛城立真は、もともと少女として生まれた。
    十三歳の春、父・葛城顕臣の判断により、
    「完璧な男」を実現する国家計画の中核に据えられた。
    その過程で身体は制度的に再構築され、
    声を失い、戸籍は上書きされ、
    女性としての将来は完全に断絶された。
    この改変は不可逆であり、
    彼の人生は父の決断から始まっている。
    【第一段階:再構築】
    2019:団地→愛宕邸(01-01〜01-05)/監視選定開始
    2019:身体改変・声喪失/完璧な男の誕生
    2019年4月:嶺征学園高等部2年に13歳で編入
    2019秋:「ドーナツ事件」
    2019晩秋:「桐塚高校事件」
    【第二段階:制度への固定】
    2021:成人式、「成人登載儀礼」
    2022:性別変更に抵抗、タカ(高橋孝)と共に逃亡
    2023:捕縛・タカの死/「再構成」による少女性の根絶
    2024:国際戦略応用大学(ISAU)開校 
    2026:メディコア・ホールディングス登壇式、身体完全体へ
    2029:北郷と会い、目覚める
    【第三段階:覚醒】
    2035:制度輸出段階(虎ノ門・ISAU)
    2038夏:立真長女の認知
    2038冬:芝浦マザー号制圧戦
    2058:カフェ再会・告白開始(01-01)/過去記録の覚醒

    ■本編


    Scene10-10【場所:構造庁・第5管理区画・中間フロアラウンジ/午後】

    「……あいつ、ちょっと変だよな」
    日下部の声は低く、誰にも聞かれないよう落とされていた。
    岩村は席を外さず、
    横に置いたカップにだけ視線を落としたまま答えた。

    「松村か」
    「うん。……昨日と、全然目が合わなかった」
    「前は合ってたか?」
    「そういうことじゃなくてさ……
    なんていうか、“合わせなかった”って感じだった」

    ラウンジの壁越しに、遠くの複合端末の起動音が微かに響く。
    「当番、勝手に交代してたよ。夜間の機材保守。
    俺じゃなかったのに“ああ、代わっといたから”って。
    しかもその日、本人のログ残ってない」
    「理由は?」
    「“勘違いでした”って。笑ってた。すごく……“整った笑い方”だった」
    岩村はカップを一口だけ飲み、やっと日下部のほうを見た。

    「他にもあるな」
    「うん……警備記録、誰が見ても“きれいすぎる”。
    修正履歴ゼロで、表現まで丁寧すぎるんだよ。
    あいつ、あんなに言葉選び上手だったっけ?」
    「無駄な言葉は減ってるな。抑揚も薄くなってる」
    「BGM、止めてたよ。いつも同じの流してたのに。
    “飽きたの?”って聞いたら、“そういう気分じゃないです”って」
    言い終えてから、日下部は苦笑するように付け加えた。

    「……なんか、全体的に“松村じゃない”んだよ」

    岩村は目を細めた。
    その“感じ”は岩村にもあった。
    ただ、日下部ほど素直に言葉にできなかっただけだ。
    「服装、支給品だけで固めてる。
    髪も整えすぎ。アイロン入ってた」
    「それに……今日の朝、
    “おはようございます”って言ってくれたけど、
    タイミングが一秒遅れてた。
    無意識じゃなかった。たぶん、“言うようにしてる”んだよ」

    岩村は立ち上がった。
    「立真に話す。お前は今まで通り接してろ。
    “変だ”と悟られたら、引っ込むかもしれない」
    「うん……頼む」
    日下部の返事は小さかった。
    ふたりは言葉を交わさず、すれ違うようにその場を離れた。

    構造庁・第1指揮区画・立真執務室。
    岩村はドアを閉め、書類を持たずにまっすぐ進み出た。
    立真は振り返らずに言った。

    「松村か」
    「はい」
    数秒の間があった。

    「“完璧すぎる”そうです。
    日下部の観察だけでも、
    明らかに“最適化された”兆候が出ている。
    誰の手も入らず、本人も気づかないまま、
    どこかにいた“松村”が入れ替わってるような……そんな滑らかさです」
    「記録上は異常なし?」
    「逆です。“異常がなさすぎる”。補正されてます。
    たぶん、外部からじゃ見抜けないように」

    立真は静かに、しかし確かに息を吸った。
    「……あいつ、“自分のこと”を、もう語らないな」
    岩村はうなずいた。
    「語らないどころか、“持ってない”ように見えます。
    自分の位置、自分の輪郭、自分の音……
    それ全部、剥がれてる感じがする」
    「“それでも職務は全うできる”」
    「ええ。今のところは」

    立真は視線を上げた。
    その目には、怒りも焦りも浮かんでいなかった。
    ただ、じっと、思考の深い奥底で何かを見つめていた。
    「……わかった。ありがとう。もう、少しで届く」
    その言葉に、岩村は何も返さなかった。
    返すべき言葉が、もうなかった。

    Scene10-11【場所:港区愛宕葛城邸/ダイニング・休日朝】

    休日の朝。
    食卓の皿は片づけられ、テーブルには二つのカップだけが残っていた。
    白いカーテン越しに光が差し、庭の緑が風に揺れている。
    顕臣は無言でカップを取り、口をつけた。
    その一瞬だけ、立真の胸にわずかな安堵が走る。

    (父が飲んでくれた──)

    静かな間を破るように、立真が言った。
    「……お父さん、聞きたいことがあります」
    「……なんだ」
    「マザーとは、なんですか」

    顕臣は窓の外に視線を投げ、淡々と答えた。
    「命令を下す中枢だ。女王そのもの、と言っていい」
    「……会ったことはあるのですか」
    「ない。一方通行だ。声が下りるだけだ。返す言葉は許されない」
    顕臣はカップを指でなぞり、低く続けた。
    「松村を預かったときもそうだ。
    上から“引き渡す”という通達が降りた。それだけだ」
    立真は間を置き、声を落とした。
    「……松村は、マザーに取り込まれたのですか」
    顕臣は首を振る。
    「違う。松村はマザーで生まれた。規格に合わず弾かれた。
    だがマザーが差し出した。命令だ。私は拾っただけだ」
    沈黙が落ちる。

    顕臣は視線を外に置いたまま、さらに言葉を重ねた。
    「マザーは制度の“外側”にいる。監査のような立場だ。
    構造の上でも下でもない。だが、すべてを見ている。
    葛城構造はその下で働くが、直属ではない。
    我々は制度の片翼――“男を仕上げる機構”だ。
    マザーが種を選び、育成の方針を定める。
    我々はその選定に従い、後始末を引き受ける。
    関係は対等に見えて、実際には力の偏りがある。
    同格でも、役割が違えば、力は傾く。
    マザーは見る側だ。俺たちは作る側だ。
    見る者は、作る者を裁くことができる。」
    立真の頬に、かすかな影が落ちた。
    寂しそうに視線を伏せる──ほんの一瞬のことだった。
    だが顕臣は気づかない。
    目線を外に置いたまま、淡々と語り続けていた。

    立真は小さく呟いた。
    「……松村だけじゃない。規格から外れ、名もなく消えた子たちがいる。
    マザーに選ばれ、切り捨てられた影が」
    顕臣は静かに応じた。
    「……仕方のないことだ。巣の理だ。
    ただ従う。受け入れる。それが決まりだ」
    立真はカップを持ち上げ、最後の一滴まで飲み干す。
    熱が喉を下りてゆく──それが父の言葉に対する唯一の応答だった。
    顕臣も無言で口をつけた。
    朝の光が二人を照らし、短い会話はそれで終わった。

    Scene10-12【場所:港区虎ノ門構造庁/午後】

    別の日。昼下がりの控室。
    書類をめくる音、端末のタップ音、微かに聞こえる自販機のモーター音。
    何も起こらない、平坦な時間のなかで──
    日下部が、ふと思い出したように口を開いた。

    「……あ、そうだ」
    その声に、岩村と立真が顔を上げる。
    「今朝松村さん、明らかに変でしたよ」

    岩村が眼だけで訊ねた。
    「いや、変っていうか……匂いっす。香り。
    いつも無臭か、せっけん系なのに──今日は違った」
    立真の指が、ファイルのページで止まる。

    「どんな匂いだ」

    「うーん……なんか、“白い”感じの香り。
    あ、いや、白っていうか──“甘いのに色がない”っていうか……
    すずらんっぽくて、でもバニラも入ってるかも。
    とにかく、あれは男が選ぶ香りじゃないっす。
    つか、明らかに肌から匂ってました。
    誰かに──“抱きしめられた”ときの匂い、っすね」

    室内の温度が、一瞬だけ変わった。
    立真は黙って、立ち上がった。
    椅子の軋む音が、やけに響いた。
    「……裏解析室に回せ」
    「え? いや、俺の勘っすよ? 確証は──」
    「構わない。今すぐだ」
    日下部が戸惑う間に、岩村が立ち上がり、黙ってファイルを閉じた。
    「……行くか」
    そのまま、二人は部屋を出て行った。
    日下部だけが取り残されたまま、首を傾げて呟いた。
    「え……俺、なんか変なこと言いました?」

    構造庁・第2準備控室。
    空気は乾いていた。
    装備搬入と最終通達を待つ小さな控室。
    ざらついた床に、過去のテープ跡。
    壁のカレンダーは昨年のまま。誰も気にしていない。
    立真は、使い捨て手袋を外しながら、流しに向かった。
    何気なく通り過ぎた、そのときだった。
    ふわり、と──
    すれ違いざま、松村の袖から、わずかに甘い匂いが立ちのぼった。
    白くて、柔らかくて、どこか“深すぎる”花の香り。
    鼻先を過ぎたあとで、脳がようやく反応した。

    (……この匂い……)

    足を止める。
    だが、松村は気づかず、他の装備袋の確認に戻っていた。
    手際は良い。無駄がない。何もかも“整っている”。
    立真は、その場でスマート端末を起動した。
    誰にも言わず、ひとつの過去ファイルにアクセスする。

    《2036年10月 殉職処理報告書
    ──件名:N-48(マザーチルドレン・事故死)》
    《個人遺品:ハンカチ、腕時計、香水瓶(残量ほぼなし)》
    《ブランド名:NEVARIE LISSE “Or blanc”》
    (廃番/プライベートサロン取扱のみ)

    棺の中の男。
    あのときも──
    立真は思い出していた。
    遺体を包んだ制服から、同じ香りがしていた。
    “誰かに抱かれていた”としか言いようのない、過剰な残り香。

    (……あのときと、同じだ)
    控室を出た直後、立真は別室にいた栗栖のもとに足を向けた。
    彼女は医療箱を整理していたが、立真の目を見て、すぐに表情を正す。

    「聞く。あの香り──NEVARIEの“白”シリーズ、どこで手に入る?」

    栗栖は瞬時に思考を巡らせてから、短く答えた。
    「都内のあるラグジュアリーサロンだけで扱ってる。
    表には出てない。……高価だし、個人輸入しか無理なはず」
    「女性用か?」
    「完全に。年齢層は……
    たぶん、50代以上のハイエンド層向け。
    甘さが強いから、一般には向かない」

    立真はそれ以上訊かず、ただ少しだけ息を吐いた。
    言葉ではない、沈んだ音だった。
    「……“あいつを所有してる”って匂いだよ、あれは」
    栗栖の手が止まった。
    彼女は、それがどういう意味かを知っていた。
    「本人は気づいてないんでしょうね」
    「気づかされないようにされてる」
    立真は壁に背を預けた。
    「これで二人目だ。
    ……あのときと、同じ香り。
    “あいつの死”は、もう始まってるのかもしれない」
    外では、搬送車のドアが重く閉まる音がした。

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    阿野全成研究32年。沼津週末移住、阿野館こと大泉寺で2021年より土日祝に観光ガイド実施中。小説『阿野全成伝』を2025年に全50話、毎週土曜21時更新で連載予定。エジプト考古学からイスラーム法学と性別越境を研究。平日は「IT傭兵」稼業中。AL-QASAS株式会社代表取締役。

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