
『完璧な男』第10話03「紅のM」10-07

■ 【前回までの話】

彼は初めて、自分の意志で語ろうとした。
「あなたになら──」立真は黙って耳を傾ける。
だが、その言葉は最後まで届かなかった。
男は静かに崩れ落ちる、まるで最初から、存在しなかったかのように。
黒い制服。肩まで届く黒髪。雨の夜。
「規律です」
彼女は何事もなかったように現れ、何事もなかったように去っていく。
立真へささやいた「……あなたに興味がある」
その瞬間から、何かが動き始めていた。
立真だけが真実を見る。 欠陥を許さない制度。
人間を入れ替えてでも完璧を維持する構造。
立真は静かに拳を握った。 「……見てろよ」その怒りはまだ小さい。
だが確かに、戦争は始まっていた。
彼女との出会いが、 構造との戦争の始まりだった。
◆年表:紅のM◆
◆構造起点◆
葛城立真は、もともと少女として生まれた。
十三歳の春、父・葛城顕臣の判断により、
「完璧な男」を実現する国家計画の中核に据えられた。
その過程で身体は制度的に再構築され、
声を失い、戸籍は上書きされ、
女性としての将来は完全に断絶された。
この改変は不可逆であり、
彼の人生は父の決断から始まっている。【第一段階:再構築】
2019:団地→愛宕邸(01-01〜01-05)/監視選定開始
2019:身体改変・声喪失/完璧な男の誕生
2019年4月:嶺征学園高等部2年に13歳で編入
2019秋:「ドーナツ事件」
2019晩秋:「桐塚高校事件」
【第二段階:制度への固定】
2021:成人式、「成人登載儀礼」
2022:性別変更に抵抗、タカ(高橋孝)と共に逃亡
2023:捕縛・タカの死/「再構成」による少女性の根絶
2024:国際戦略応用大学(ISAU)開校
2026:メディコア・ホールディングス登壇式、身体完全体へ
2029:北郷と会い、目覚める
【第三段階:覚醒】
2035:制度輸出段階(虎ノ門・ISAU)
2038夏:立真長女の認知
2038冬:芝浦マザー号制圧戦
2058:カフェ再会・告白開始(01-01)/過去記録の覚醒■本編
Scene10-07【場所:都心某ホテル・ラウンジ/数日前の夜】
ホテル・ラウンジを抜け出した立真は、夜の都心を無言で歩いていた。
冷静に考えれば、あの女──エリナは、
あの場で自分を殺すつもりだったかもしれない。
その可能性に気づいた瞬間、背筋をなぞるように寒気が走った。
雨はすでに上がっていたが、路面はまだ濡れていて、
街灯が反射してぼんやり光っている。
胸の奥にざらついた感覚が残っていた。
女に愛撫され、抱かれることなど、
これまで数え切れないほど経験してきた。
それは政治の一部であり、取引の道具でしかなかった。
だが、さきほどのそれは違った。
殺人の余韻の中で、不意に唇を奪われ、古傷をなぞられた。
──その屈辱は、冷徹に処理できるはずの自分を一瞬で揺さぶった。
まだ体の奥に、わずかな混乱が渦を巻いている。
立真は手に残ったグラスの感触を思い出し、ふと自分の指先を見つめた。
そこには、何もついていない。
「……あの男、本当に人間だったんだな」
声にはしなかったが、心の中でそう呟いた。
自分が守ろうとしたのは、構造でも制度でもない。
ただ、一人の人間だった。
それが“消された”瞬間を、立真は目の前で見てしまった。
信頼して心を開いてくれた人が、 何の抵抗もできず、
“処理”されたという事実。
手帳に朱い“M”の印。
あの男が残した最後の言葉は、立真にだけ向けられたものだった。
「……俺も、きっと同じだ」
立真は、自分が“消される”瞬間を想像した。
そのとき、誰かが自分のために立ち止まってくれるだろうか。
誰かが、自分の“人間”としての存在を、最後まで認めてくれるだろうか。
ただ、歩き続ける。
夜風が頬をなでる。
立真は、ふとこめかみに手を伸ばしかけた。
髪をかき上げるように──だが、そこには何もなかった。
空を切った指が宙に浮き、そのまま頭皮に落ちる。
ツルリとした感触だけが、掌に返ってきた。
──二十年、この形で生きてきた。
少女だった時間よりも、ずっと長い。
(……もう、ないんだよな)
その手をポケットに突っ込み、立真は次の目的地へと足を進めた。
──あの“消された”男の、最後の言葉だけが、心の中に重く残っている。
Scene10-08【場所:港区六本木・地下通路 医療ラボ休憩室】
静かだった。
壁の換気装置が、ほとんど意識できない音でまわっている。
テーブルの上に置かれた水は、まだ手をつけられていないままだった。
ここに来るまでの道のりで、
立真は自分の胸の奥が落ち着かないままであることに気づいていた。
女に抱き寄せられることも、肌に触れられることも、
これまでなら儀礼の一部にすぎなかった。
だが今は違う。あの一瞬の接触が、体の奥にざらついた感覚を残している。
──何を仕込まれたのか。毒の影さえ否定できない。
その疑念を消しきれず、ここに足を向けたのだった。
立真はグラスを見ずに、栗栖の目をまっすぐに見つめた。
「……あいつ、“生きられなかった”のか?」
栗栖は一瞬だけまぶたを伏せた。
だが、それは迷いではなかった。
答えを言う前に、感情を消す仕草だった。
「生きられたわ」
「じゃあ、なぜ“殺された”? お前ならわかるはずだ」
沈黙。
何秒かが過ぎ、換気音が壁を伝ってゆく。
やがて、栗栖は目を伏せたまま言った。
「“自分”を持とうとしたから」
「……それだけで?」
「……それだけで」
その声の調子は、淡々としていた。
まるで診療報告を読み上げるような、何も混じらない口調だった。
立真は言葉を飲み込み、目を伏せる。
怒らない。ただ、静かに痛んでいた。
「お前は……その構造を否定しないのか?」
栗栖は、わずかに口元を動かした。
それは笑みだったかもしれない。だが、それ以上は読めなかった。
「質問に答えるのが、私の役目よ。意見を求められてない」
言い切る声には、感情の影すら乗っていなかった。
立真はグラスに手を伸ばさなかった。
水はそのまま、何も語らず、透明なままだった。
彼女は、すべてわかっていて──
それでも何も言わない。何も壊さない。
構造の中で恩恵を受けた者。
倫理を語らず、制度の中で立ち止まる者。
そしてそれが、立真にとっては、いちばん寂しい答えだった。
Scene10-09【場所:松村の夢・都内某所──八重桜の部屋】
光は淡い桜色。
花の香りが、甘すぎて息ができない。
壁の模様すべてが八重桜で、部屋じゅうが母胎のように息づいている。
「ねえ、“ありがとう”って言ってごらん。──遥」
その名を呼ばれた瞬間、松村の胸の奥が凍った。
声を出そうとしても、喉が閉じる。
「言わないの? どうして? 私の評価が下がるじゃない!」
白衣の女──彼に割り当てられた『母親役』の女の顔が、
ヒステリックに歪む。
後ろでは、取り巻きの女たちが冷ややかな視線を送っている。
女の爪の先が頬をなぞる。
コーティングの光が、冷たい刃のように閃いた。
「母さんって呼んで? ねえ、呼びなさいよ──遥!」
肺が空気を拒む。
息を吸えば、痛い。
(ちがう、言いたい、ちゃんと話したい──)
喉が焼ける。
“ハ”という音が砕けて、空気の中で溶けた。
唇が動くのに、音にならない。
「言わないの? じゃあ、いらない子ね」
白衣の女が微笑む。
「母さんって呼んで? ねえ、呼びなさい──遥」
その声が、部屋じゅうに反響する。
花弁が舞い、紅が滲み、床が血に染まる。
(呼びたくない。呼んだら、全部壊れる)
声を出したい。
出せない。
それでも喉の奥で、何かが軋んだ。
「遥!」
叫びが、命令のように叩きつけられる。
頭の奥が真っ白になる。
視界のすべてが、八重桜の紅に染まった。
──その名はやめて。
その言葉だけが、心の奥で、確かに響いた。
その瞬間、何かが切れた。
光が消える。
音が止まる。
世界が遠のく。
松村は、落ちるように目を覚ました。
冷たい天井。
喉の奥に、あの“出なかった声”の感触がまだ残っている。
息を吸う。
そして、静かに口を閉じた。
夜の静けさは、ある種の音を育てる。
肌をなぞる衣擦れ、寝台に沈むわずかな軋み、
息の熱を受けるまつ毛の震え。
松村の視界には、かすかな天井の灯りがあった。
だが、それさえ霞んで見える。
マザーが、彼の耳元に顔を寄せた。
吐息は温かく、そしてかすかに甘かった。
古い香水の香りが、肌の奥まで染み込むようだった。
「いい子ね……とても、いい子」
その声を聞くたびに、松村の思考は、じわりと輪郭を失っていった。
自分が何者だったのか。どこまでが“されている”ことで、
どこからが“望んでいる”ことなのか。
その境界が、ぼやけていく。
指先が、あまりに優しく首筋をなぞる。
彼は抗わない。
むしろ──身体のどこかで、それを待っている自分に気づいていた。
どこかで「このままではいけない」と叫ぶ声があった。
だが、それは遠すぎて、熱の中には届かない。
マザーの指先は、若々しすぎた。
張りのある肌。ぬるむような掌。
だが目元には、どうしようもなく“年齢”が宿っていた。
その矛盾が──麻薬だった。
美しさと、老い。
慈愛と、命令。
快楽と、支配。
その全てが同じ声で語られ、同じ手で与えられていた。
「わたくしの、ために……すべてを捧げなさいね」
その言葉に、松村は笑って頷いた。
それは演技でも媚びでもなく、完全な服従の笑みだった。
マザーが彼の頬を撫で、額に口づける。
「ほんとうに……かわいい子。
何も考えなくていいのよ。
わたくしのために微笑んでいれば、それでいいの」
まぶたが閉じる。
世界が、遠のく。
そして、その眠りの中で──
“松村”という名前だけが、静かに剥がれ落ちていった。
夢を見ていた。 まぶたの裏で、光が揺れた。 霧のような白。
そこに、スキンヘッドの軍服の男が立っている。
その目と、差し出された手は、あまりにも優しかった。
松村はその姿を見つめる。
軍服、剃り上げられた頭、冷徹な機能美。
それは彼が崇拝する「完璧な男」であり、
同時に、この世界で唯一自分を救い上げてくれた
「鋼鉄の女神」の姿だった。
(ああ、迎えに来てくれた。この人の道具でいられるなら、俺はまだ──)
だが、聞こえてきたのは立真の声ではなかった。
「立真は女の子だ。気をつけろ」
松村の思考が凍りつく。
その声は、かつて
「自分は立真のそばにいないほうがいい」
「お前が守れ」
と言い残して去ったあの男。
訓練所の同期、Z8427。彼の声がした。
視覚には、信仰する女神(立真)。
聴覚には、現実を託した盟友、Z8427。
目の前の男、立真が、静かに笑った。
それだけで、世界の輪郭がやわらいだ。
夢は、そこで途切れた。
