
『完璧な男』第13話02「お前はわしの宝だ」13-03

■【前回までの話】

岩村から顕臣が倒れたとの凶報が入る。
急ぎ向かった病室には、人工呼吸器に繋がれた顕臣の姿があった。
死の淵で目を覚ました顕臣は、痩せ細った手を伸ばし、
立真の耳のうしろ、かつて長い髪があった場所をそっと撫でる。
「お前はわしの、宝だ」
その一言を残し、巨大な帝国を築いた支配者は息を引き取った。
立真は手の軌跡を追うように自分の頭に触れるが、
そこには冷たい頭皮しかなかった。
夜、自室に戻った立真は、
無意識に二人分のカップを出しかけ、片方を棚に戻す。
自分からすべてを奪った父の死に、怒りも悲しみもなく、
ただ「宝」と呼ばれた記憶と、
命令が消えたという事実が同じ重さで胸に残っていた。
翌朝、命じる者はもうどこにもいない。
それでも立真は洗面所に立ち、
いつものように剃刀で頭を剃り続ける。
鎧がなければ崩れてしまうかのように、一人きりの儀式は止まらなかった。
◆年表:お前はわしの宝だ◆
◆構造起点◆
葛城立真は、もともと少女として生まれた。
十三歳の春、父・葛城顕臣の判断により、
「完璧な男」を実現する国家計画の中核に据えられた。
その過程で身体は制度的に再構築され、
声を失い、戸籍は上書きされ、
女性としての将来は完全に断絶された。
この改変は不可逆であり、
彼の人生は父の決断から始まっている。【第一段階:再構築】
2019:団地→愛宕邸(01-01〜01-05)/監視選定開始
2019:身体改変・声喪失/完璧な男の誕生
2019年4月:嶺征学園高等部2年に13歳で編入
2019秋:「ドーナツ事件」
2019晩秋:「桐塚高校事件」
【第二段階:制度への固定】
2021:成人式、「成人登載儀礼」
2022:性別変更に抵抗、タカ(高橋孝)と共に逃亡
2023:捕縛・タカの死/「再構成」による少女性の根絶
2024:国際戦略応用大学(ISAU)開校
2026:メディコア・ホールディングス登壇式、身体完全体へ
2029:北郷と会い、目覚める
【第三段階:覚醒】
2035:制度輸出段階(虎ノ門・ISAU)
2035冬:「黒硝子の間」事件
【第四段階:全面抗争】
2035夏:「六本木KK抗争」
2038夏:長女の認知
2038冬:芝浦マザー号制圧戦
【第五段階:構造の解体と清算】
2041冬:構造庁解体宣言
2041年(〜2046年):父・葛城顕臣の死
2046年春:四女の認知
2046年初夏:メディコア中枢システムの全ライン停止/立真の逮捕
【第六段階:自己奪還】
2058:カフェ再会・告白開始(01-01)/過去記録の覚醒■ 本編
Scene13-03【場所:東京都港区青山本社/昼〜翌朝】
会議室の冷えた空気の中、立真は淡々と書類をめくっていた。
ホワイトボードには、父の遺した業務と実験群の名が並ぶ。
その一角に、「儀式関連項目」の棚があった。
「……こちら、儀式関係は……継続、でよろしいですね?」
栗栖の声は静かだったが、わずかに震えていた。
立真は一度だけ目を上げて、答えた。
「継続で。優先順位は低く、進行に支障がない範囲で」
その瞬間、栗栖の指がペンの上で止まった。
表情は変わらない。
けれど、どこか芯が崩れる音がした気がした。
会議を終えたあと、
栗栖は立真を同じ建物の医療室へ連れていった。
朝の剃髪では、珍しく刃が深く入り、
洗面台を赤く染めるほど出血していた。
血はすでに止まっていたが、
頭皮の数か所には赤い腫れと熱が残り、
刃の跡が白い照明の下に浮かんでいた。
栗栖は無言で傷口を洗い、消毒液を含ませたガーゼを当てた。
立真がわずかに眉を寄せるたび、その指先が止まった。
白いガーゼに、薄い赤が滲んだ。
栗栖は新しいガーゼを重ね、炎症を抑える保護剤を塗った。
傷に触れないよう、いつもより時間をかけて指を動かした。
医療室の隅。
処置を終えた立真は、手のひらで頭を撫で、椅子に座り直した。
「……コスパ、だよ。結局」
栗栖が一瞬手を止める。
「何が、ですか?」
「剃っておけば、セットも時間もいらない。
髪形で印象がブレることもない。
なにより、剃るだけで“毎朝の戦闘態勢”になる。
これ以上、効率的な始業儀式ってあるか?」
栗栖は返さなかった。
廃棄用のトレーには、赤く滲んだガーゼが重なっていた。
立真は真顔のまま続けた。
「たとえば俺が毎朝ヘアアイロンとか始めたら……
構造、崩壊すると思うんだよね」
「だって考えてみてよ。
この顔で寝ぐせ直してたらどうする?
“完璧な父”が、ドラッグストアでワックス買ってたら?」
栗栖はカルテを閉じた。
「……私は、笑いませんよ」
「……知ってる」
昼になると、立真たちは職員食堂へ移った。
トレーと食器の触れ合う音が行き交い、
昼休みの列が有機粉食のカウンター前まで続いていた。
有機粉食のラインに並びながら、立真がふと漏らした。
「……俺がさ、前髪とか伸ばしたらどうなると思う?」
誰にも聞いていない。むしろ、誰も答えなくていい問いだった。
その空気のなかで、日下部が真顔で言った。
「前髪、生えるんですか?」
時間が止まった。
あまりに自然なトーンだったため、
一瞬誰も気づかず、そのあとで一斉に硬直した。
日下部本人も、気づいた。
「あ……すみません、なんか、その、つい……」
慌てて口を押さえる。
箸の動きが止まり、周囲の空気が沈む。
「いや、ほんとに、変な意味じゃなくて……
純粋に、その……努力っていうか、
自己管理の高さというか……」
「やめとけ」
岩村の声が低く入った。
立真は、目を伏せ、静かに微笑んだ。
だが、その瞳にはうっすらと涙が滲んでいた。
指先がごく自然に目元をかすめ、涙をこするように、そっと動く。
その少し離れた場所に、栗栖がいた。一連のやりとりを聞いていた。
日下部の悪気のない言葉と、
立真の涙ぐむ仕草に、栗栖の眉が苦痛に歪む。
彼女は何も言わず、食器を下げると、そのまま静かに席を立った。
誰も引き止めなかった。
日下部も、追わなかった。
代わりに、後ろ姿に向かって、さらに焦って言葉を継いでしまった。
「その、ちゃんと似合うと思います、たぶん……たぶん……!」
もう誰も聞いていなかった。
岩村は味噌汁を置き、ひとこと冷ややかに言った。
「……もう喋るな。沈むだけだ」
その日の夜、日下部は滞在先のホテルへ戻った。
カーテンを閉めると、そのままベッドへ倒れ込み、
照明も消さずに横になった。
夕方から偏頭痛、という連絡が栗栖に入り、
翌日には「メンタルが……ちょっと……」という曖昧なLINEが届く。
栗栖は既読をつけたが、返事はしなかった。
復帰した翌朝、誰も何も言わなかった。
岩村だけがぽつりと聞いた。
「……顔、出せなかったか?」
日下部は俯いて頷いた。
「すみません……たぶん、
俺、世界でいちばん間違ったタイミングで、
いちばん間違った冗談を言った気がして……」
それを聞いた栗栖が「自覚あるなら問題ないです」とだけ答えたのが、
さらに効いたらしい。
この一件以降、日下部が“前髪”という単語を口にするまで、
半年かかったという。
Scene13-04【場所:東京都港区青山本社中枢執務エリア/深夜】
──午前二時。
東京湾を望むガラス張りの高層執務室。
足元には誰もいない市街地、頭上には鈍く濁った月。
天井のダウンライトが一つ、ノイズ混じりに明滅していた。
中央最奥のデスク。
葛城立真の椅子は、ほとんど音を立てずにわずかに傾いている。
膝上には開いたままの紙ファイル、
机上には七台のモニター、
五冊の業務計画書、
そして未開封の水が一本。カップの紅茶はすでに冷めていた。
視界を埋める案件の群れ。
そのどれもが、いまこの瞬間にも時間切れに近づいていた。
左のモニターには全国再配属計画の最終人事スプレッドシート。
次に訓練施設統廃合リスト。
その隣に障害者再配置制度の改定案と職域別タスク再定義資料。
別窓には法人格移行マニュアル、
旧「巣」構成員再教育フロー、被害者記録精査報告書(未整理)。
──全部、未決。
机の片隅に置かれた手書きのノート。
今日彼が処理すべき業務が走り書きされていた。
■ 国内業務
・人事評価制度改定案(第三階層再編)
・認知関連法整備(家族制度再設計)
・深夜シフト縮減案(再適合労務改定)
・医療系施設連携案(系列病院再統合)
・旧庁舎設備廃止届(警備含む)
・剃髪儀式・制服関連(Bランク棚上げ)
■ 対外交渉
・越境データ共有協定(ASEAN圏)
・サウジ医療施設訴訟への対応文案
・東欧支部代表者人事異動草案
・資金洗浄対策強化(国際法改正対応)
■ 政策・制度関連
・旧マザー記録の翻刻と被害者名簿照合
・構造体再設計図(案)改訂
・認定基準の透明化プロトコル立案
・告発案件対応状況の週次レポート
・自治体説明会の想定質問と対策表
■ 広報・対話対応
・メディア対応方針(再出発時期)
・構造暴力に関する見解文草稿
・犠牲者団体との非公式事前対話(予定)
・記者会見に向けた予行草稿(保留)
■ IT・データ部門
・サーバ統合進捗レビュー
・データベース再構築方針の承認待ち
・内部監査ログの整合性確認
・職員アクセス階層整理(再定義)
「これでも……三割」
無言で立真はマウスを動かし、署名しかけた手を止める。
思考は焦りに追いつかない。
すべての事案に、誰かの人生がかかっている。
それでも優先度はある。
Sランクは、隠蔽と暴力の記録を開示すること。
統治権限の水平化。国家との再定義。
だが、目の前にあるのは、
その「根幹」を支える下層フレーム──
第三階層人事の再構成。
現場で苦しむ者の再配置案。
手続き上必要な資料の、第三稿。
「こんなもの、全部削っていい。
……けど、削ったら全部崩れる」
背筋を伸ばし、次の報告書を開く。
通し番号が記されたタイトルに、
ペンで「要再確認」と朱が入っている。
──栗栖の字だった。
しばらく立真は目を伏せ、そのまま画面の電源を切った。
形式、儀式、制服、称号……それらの書類の束を、
無言で机の端へ押しやる。
「……こんなものはBランクだ。
混乱を避けるためにも、今は後回しでいい」
小さく息を吐き、また別のモニターを睨む。
「自分の案件を棚上げにして、
彼女たちを休ませるための労務改定を急いでいるのに……
なぜ、倒れる人間が増えるんだ」
自嘲気味に笑うも、その顔はすぐに無表情に戻る。
彼の脳内には、まだ形にならぬ全体像が、
荒々しい地図のように広がっている。
破壊のあとにしか始まらない構築。
柱は崩れ、整地も終わらぬまま、彼は未来を定義しなければならなかった。
「これは計画じゃない。焼け跡の設計図の、模写だ」
カタカタカタ……。 キーボードを打つ指は止まらない。
打ち込み、修正し、送信し、また読み返す。
書類の山をスキャンし、修正済みと未着手を分ける。
誤字の修正、文体統一、日付の整合、条文番号の付け直し。
同時に、メッセージ通知が連続して届いていた。
〈岩村:栗栖、また吐血。今夜の登庁は難しそうです〉
〈庶務課:女性スタッフの欠勤が相次ぎ、
日報提出が100件以上未処理になっています。
原因不明の体調不良者が続出しています〉
〈日下部:会議資料、見ました。
読み解くのにもう少しかかりそうです。
てか、退職したのに親父さんの後始末で手伝いに呼び戻されてみりゃ、
なんで俺がいた頃よりブラック化が悪化してんですか!〉
〈広報室:記者会見案、再修正のご相談〉
すべてが、立真に答えを求めていた。
「……俺しかいないのか」
そう呟いて、彼はまた一つ、画面を開いた。
深夜三時。まだ業務は半分も終わっていない。
そして彼は知っている──これでも、誰にも褒められない。
だが止まれば、すべてが戻る。
“父の支配”が、“制度の暴力”が、かつての“完璧な男たち”が。
だから立真は、止まれなかった。
過労の境界は、とっくに超えている。
彼が今、自分の身体の痛みに気づかないのは、
痛みよりも“全体像がないこと”のほうが恐ろしいからだった。
「……全体像は、最後にしか現れない。だから、今は進むしかない」
「……儀式で死ぬやつがいるなんて、想定外だった」
すでに太陽は地平線を照らし始めていた。
立真は、最後の書類を閉じた。
ほんの五秒だけ目を閉じ、また、次の案件を開く。
