
still. 思想|自分の時間を、“配られた正解”で決めていない?
— Still (@Still_over_life) May 8, 2026
身近な人と話していて、
「普通はこう」という言葉に引っかかることがよくある。
自分の考えを口にすると、
「変わっている人」を見るような
視線に変わることがある。
強く否定されたわけではない。
むしろ、
その方が自然で、その方が当たり前で、
わざわざ疑うようなことではないでしょ?
という空気で出てくる。
でも、そのたびに少し立ち止まる。
その「普通」は、本当に今の自分にもそのまま必要なのだろうか、と。
ごく最近も、そんなことを考える場面があった。
きっかけのひとつは、母との会話だった。
目の前の肉親だからこそ、自分との感覚の差がよく見えることがある。
こちらにはこちらの事情や考えがあるのに、それより「世間ではこう」「普通はこう」と返される。
娘の話より、昔から外側にあった正しさの方が信頼されているように感じることがある。
もちろん、そこで単純に相手を悪者にしたいわけではない。
身近な相手との感覚のずれを通して気づくこともあれば、逆にこちらが決めつけていることもあると思う。
だからこそ余計に、
「普通とは何だろう」
に引っかかる。
滅多に出かけないGW
たまたま用事がそのタイミングに重なっただけだった。
それなのに、巻き込まれた。
普段ならそこまで時間のかからない移動が、連休というだけで一気に重たくなる。
混む。
渋滞する。
思うように進まない。
ただ行って戻るだけのことが、やけに大ごとになる。
みんな、GWが混むことを知らないわけではない。
最初からわかっている。
混むのも、時間がかかるのも、疲れるのも、おそらくわかっている。
それでも動く。
そして、それが普通のこととして受け入れられている。
なぜなのだろう。
なぜGWは混むのか。
なぜ混むとわかっていて、その時に動くのか。
なぜそれが、疑われることなく続いているのか。
昔は、それなりの意味があったのだと思う。
今のように、いつでも連絡が取れるわけではない。
休みの取り方も今ほど自由ではなかった。
みんなが同じ時期に動くことにも、きちんと理由があったのだろう。
でも今は、時代が変わった。
連絡の取り方も、働き方も、時間の使い方も、ずいぶん変わった。
効率化や生産性、タイパといった言葉は、日常の中にいくらでも転がっている。
それなのに、人生の大きな時間の使い方になると、急に昔のままの『普通』を平気で受け入れているように見える。
数分の時短には敏感なのに、
半日つぶれるようなことには案外鈍い。
そこが、何とも不思議だった。
たぶん、普通というのは、正しいから残るだけではない。
疑わなくていいから残るのだと思う。
その方が楽だし、その方が安心だし、その方が周りとぶつからずに済む。
だから人は、「普通」に乗る。
自分で決めているつもりでも、気づけば時間の使い方まで「普通」に決められている。
最近は、その感覚がお金のことにもつながっている。
投資の世界にも、正解らしいものはたくさんある。
みんながやっていること。
王道とされるもの。
安心に見える選択肢。
もちろん、それ自体が悪いわけではない。
でも、自分の年齢も、目的も、使いたい時間も違うのに、そこを飛ばして「普通の正解」にそのまま乗るだけでいいのだろうか、と立ち止まる。
お金の設計も、時間の設計も、本当は切り離せないのだと思う。
まず、気づかなければならないのは
世の中の「普通」は自分にとっての正解なのかと言うことだ。
これは連休の移動だけの話ではない。
仕事もそうだし、働き方もそうだし、我慢の仕方もそうだ。
昔はそれでよかった。
その方が合理的だった時代も、たしかにあった。
でも、その型が今の自分にもまだ合っているとは限らない。
人生後半に入ると、なおさらそう思う。
命のタイムリミットは、自分では決められない。
元気で長生きするかもしれないし、そうではないかもしれない。
それは本当にわからない。
確かなことは、「有限」だと言うこと。

であれば、その限られた時間をどう使うかは、自分で考えたい。
すべてをひっくり返すほどのことではなくてもいい。
立派な決断でなくてもいい。
ただ、「普通だから」で流していた時間を、一度くらい自分の手元に戻してみてもいいのではないかと思う。
自分の時間を、“配られた正解”で決めていないか。
その問いを持つだけでも、時間の使い方は少し変わる気がしている。
