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一之宮貫前神社(群馬県富岡市)~「下り宮」配置の上野国一宮・式内社(名神大社)&古墳時代の首長祭祀の信仰継承か?

2026.1.21 金鑚神社の参拝後、一度参ってみたかった一之宮貫前神社(群馬県富岡市)へ。
道中、浅間山が良く見えていました。噴煙が上がっていて雲のように流れていました。

貫前神社 鳥居
境内の東側から入ります。
貫前神社 大鳥居
神社前に駐車してから神社の南側の大鳥居から入り直しました。
大鳥居の内側から
表参道の石段
大鳥居の建っている場所はこんな感じ。とても眺めが良いです♪
貫前神社 総門(惣門)
貫前神社 総門(惣門)
銅製燈籠 - 総門前両脇に建つ。慶応元年(1865)の作で、富岡市指定文化財。
銅製燈籠と共に並んでいる狛犬。この狛犬も相当古そうです。
貫前神社 総門(惣門)をくぐると階段が下に向かって、そこに拝殿・本殿が鎮座しています。このような神社は他にありませんね。
けっこう参拝者さんが居られてびっくり。そういえば観光バスの駐車場に3台くらいバスが止まってましたよ。富岡製糸場と抱き合わせで観光ありかな?この神社、私はテレビで観てチェックしておいたんですよね。他の参拝者も??
楼門
楼門
貫前神社 斎館
階段途中にあります。
月読神社

祭神:月夜見命ほか17柱

楼門への石段の横に鎮座する。社殿は寛永12年(1635年)以前の本社の旧拝殿で、牛王堂として使用されていた。明治時代に月夜見命を祀って月読神社とし、明治41年に近在4社を合祀した。

楼門
楼門
手水舎
奥に井戸がありました。
楼門前
ここで参拝します。
無事かえる^^
拝殿
拝殿
拝殿なわけですが、
楼門前でお参りするので、ここにはお賽銭箱も無いんですよね。
なんか不思議。。。
拝殿奥に本殿
左奥は、抜鉾若御子神社
  • 抜鉾若御子神社(ぬきほこわかみこじんじゃ)

    • 祭神:本社祭神の御子神
      本殿向かって左脇に鎮座する。元は一ノ宮字若宮に鎮座していた。安閑天皇の代(531年-535年)の創建とされ、『上野国神名帳』には「従五位抜鉾若御子明神」と記載されている。明治38年に現在地に遷座した。社殿は棟札によると文化12年の造営。

本殿

美しいです!!!!東照宮に似ているような・・・・?後ほど説明します。

本殿
拝殿脇より
本殿裏の大杉 藤太杉(とうたすぎ)
藤太杉
藤太杉 - 樹齢1200年といわれる大杉で、本殿の裏に生育する。平将門討伐のために出征した藤原秀郷が戦勝祈願として年齢と同じ36本の杉を奉納したうちの1本とされる。

残念ながら枯れてしまっているみたいです。

本殿
経蔵址
経蔵址 - 経蔵の建立年代は不明であるが、明治時代の廃仏毀釈で所蔵の諸経典・仏像とともに破却された。現在は礎石が残っている。
この石垣は神社の為に作られたそうです。
神楽殿
古武術!
神楽殿
本殿
ホントに美しい本殿でした。

いや~、とても不思議な空間でした。下に降りていく感覚が落ち着くような・・・。空域も落ち着きがあって癒されるような境内でした。

一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ)は、群馬県富岡市一ノ宮にある神社。式内社(名神大社)、上野国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
創建(伝)安閑天皇元年(534年?)
別名:抜鉾(ぬきほこ)神社


概要
群馬県南西部、鏑川左岸の河岸段丘上に鎮座し、信州街道に面する。物部君(毛野氏同族)が祖神を祀ったことに始まり、古代には朝廷から、中世以降は武家からも崇敬された。

境内は正面参道からいったん石段を上がり、総門を潜ったところから石段を下ると社殿があるという、いわゆる「下り宮」と呼ばれる配置となっている。社殿は江戸時代に第3代将軍徳川家光・第5代綱吉により整えられ、本殿・拝殿・楼門等が重要文化財に指定されている。また、鹿占習俗(国選択・県指定無形民俗文化財)を始めとした多くの特殊神事を行っている。

祭神
経津主神(ふつぬしのかみ)
葦原中国(日本)平定に功績があったとされる神。貫前神社では物部氏の祖神と紹介している。
姫大神(ひめおおかみ)
祭神の名前は不詳。一説には、綾女庄(当地の古い呼称)の養蚕機織の神とされる。
なお、『一宮巡詣記』では「本尊稚日女尊、相殿経津主命」と記載され主神は女神とされている。

抜鉾(ぬきほこ)神社と貫前(ぬきさき)神社
2神2社説

抜鉾神を祀る神社と貫前神を祀る神社は別々の神社であったとする説。
1神1社説
抜鉾神社も貫前神社も同じ神社を指す異なる名であるとする説。

創建
社伝によると、創建は安閑天皇元年(534年?)3月15日、鷺宮(現 安中市の咲前神社に比定)に物部君姓磯部氏が氏神である経津主神を祀り、荒船山に発する鏑川の流域で鷺宮の南方に位置する蓬ヶ丘綾女谷に社を定めたのが始まりといわれる。その後、天武天皇2年(私年号では白鳳2年、673年)に最初の奉幣が行われた。
一方、室町時代成立の『神道集』には、安閑天皇2年(535年?)3月中頃に抜鉾大明神が笹岡山に鉾を逆さに立てて御座、白鳳6年(677年)[注 2]3月に菖蒲谷に社壇が建立されたと記載されている[2]。

社殿の配置
社殿配置は独特で、本殿が境内入り口よりも低い位置にある。すなわち、正面参道から石段を上がり蓬ヶ丘上にある大鳥居・総門をくぐると、今度は石段を下ってから綾女谷の本殿に参拝することとなる。このような配置の神社は「下り宮」・「下り参りの宮」と呼ばれている。

建造物
本殿、拝殿、楼門、回廊は、江戸幕府第3代将軍徳川家光による寛永12年(1635年)の造営。元禄11年(1698年)、第5代綱吉による大規模な修理で極彩色の漆が塗られ、現在の華麗な造りとなった。いずれも国の重要文化財に指定されている。

式年遷宮
貫前神社では12年ごとに式年遷宮が行われる。仮殿敷地に仮殿が築かれ、申年の12月12日に仮殿遷座祭が、翌酉年の3月13日に本殿遷座祭が催される。この3ヶ月の間に、本殿の修理・清掃を行う。万寿2年(1025年)以前から行われており、古くは30年毎であったが、のちに7年毎になり、天正18年(1590年)から現在の形式となった。

一之宮貫前神社 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』最終更新 2025年11月21日 (金) 14:29 


スダジイ - 樹齢推定1000年。
数本の枝幹が成長して重なり合う。樹高15メートル、根回り4メートル。富岡市指定天然記念物、富岡の名木10選の1つ。
仮殿敷地の末社群
正面の末社は、日枝神社、伊勢内宮、伊勢外宮
末社・二十二社
銀杏
富岡の名木10選の1つ。
地理院地図・GSI識別標高図
こんな位置関係です。
地理院地図・GSI識別標高図 拡大

社務所の神主さんに立地についてお聞きしたら、よく分かっていないけれど、本殿を南向きに建てるために、このような立地になったようなお話をされていました。

貫前神社の北側には、丹生川(にゅうがわ)という古代から存在する自然河川があって、南側には鏑川(かぶらがわ)が流れている。

この辺りをコパちゃんとやり取りしてみました。

Q:
貫前神社の北側に丹生川、南に鏑川が流れているよね? これらの立地から本殿を南に向けて建てた理由とか分からないかな? 古墳群はどのあたりにあったの?

A:
この問いはまさに「地形 × 古代祭祀 × 古墳文化 × 一宮の成立」が一気につながる核心部分です。
貫前神社は“なぜ南向きなのか?”を考えると、周辺の地形・古墳群・川の配置がすべて意味を持ってきます。
以下、フィールドワークでそのまま使えるレベルで整理します。

🧭 1. 北に丹生川、南に鏑川 ― この立地が本殿の南向きを決めた理由
■ 結論
貫前神社が南向きなのは、南側に広がる“谷(鏑川方向)”が古代の祭祀空間だったから。
北の丹生川は“境界線”、南の鏑川方向は“開けた聖域”として扱われた。
これが「下り宮」という独特の構造を生んだ。

■ ① 北側:丹生川は“境界の川”

丹生川は古代から
• 集落の北限
• 丘陵(蓬ヶ丘)と段丘の境界
• 水の結界
として機能していた。
丹生(にゅう)は「丹=赤い鉱物」「丹生氏」「水銀」など、古代祭祀と深く関わる地名でもあり、“聖域の北の縁” として扱われた可能性が高い。

■ ② 南側:鏑川方向は“開けた祭祀空間”
貫前神社の南は、鏑川へ向かって大きく開けた谷地形。
古代の神社は
• 山の斜面に立ち、谷に向かって祈る
• 川の流れの方向=祈りの方向
という配置が多い。
貫前神社も例外ではなく、谷(鏑川方向)に向かって神が降りると考えられたため、社殿が南向きになった。

■ ③ “下り宮”は地形の必然
普通の神社は「山の上 → 下へ参道」だが、貫前神社は逆で「高台 → 谷底へ降りる」。
これは
• 谷底=祭祀の中心
• 谷に神が降りる(天降り)

という古代の信仰構造がそのまま残った形。
つまり、
南の谷が“神の場”だったから、社殿は南向きになった。

🏺 2. 古墳群はどこにあったのか?(地形と完全にリンクする)
貫前神社の周辺には 「一ノ宮古墳群」 が広がる。
位置関係は次の通り:
■ 古墳群の分布
• 神社の西〜南西の丘陵(蓬ヶ丘)に集中
• 6世紀の大型円墳・前方後円墳が点在
• いずれも 鏑川方向(南)を向く 傾向がある
これは偶然ではなく、古墳時代の首長たちも“南の谷(鏑川方向)”を聖なる方向としていた証拠。

🧩 3. つまり、貫前神社の南向きは「古墳時代の世界観」を継承している
まとめると:
• 北の丹生川 → 境界
• 南の鏑川方向 → 聖なる谷
• 古墳群も南向き
• 神社も南向き
• 参道は谷へ降りる(下り宮)
これらはすべて
“南の谷に神が降りる”という古代の祭祀構造
で一貫している。
貫前神社は、古墳時代の首長祭祀 → 一宮の神社祭祀へと連続する、非常に珍しい地形・信仰の継承例。

by copilot


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