
名前のない四ヶ月
冒頭注記
本作は実体験をもとにしたフィクションです。人物名・地名・職業・時系列・一部の出来事は、個人が特定されないよう変更しています。
紹介文
大人になってから遅れてくる、青春の残酷さ。
恋人になる前に、生活が始まってしまった二人の話。
長さの案内
少し長い小説です。
時間のある夜に、ゆっくり読んでもらえたら嬉しいです。
プロローグ 糸ようじ
糸ようじして、洗濯物回すんやで。
その文章を読んだあと、光貴はしばらくスマートフォンを伏せられなかった。画面を伏せたら、本当に終わる気がした。
部屋には、利沙の声がなかった。炊飯器は空で、洗濯機も回っていない。ゲーム機のランプだけが、テレビの下で小さく光っていた。
別れの言葉なのか、生活の続きなのか、すぐには分からなかった。
その夏が始まる前、光貴はまだ、ロンドンで自分の生活を作ることに精一杯だった。
第一章 え、イギリスかい
森光貴は、ずっと海外で働いてみたかった。
その憧れは、子どもの頃から胸の奥に残っていた。中学生のとき、父親の仕事の都合でインドネシアに住んだ。日本とは違う匂いのする道、日本語ではない声、肌にまとわりつく暑さ、知らない制服、知らない街、知らない生活。心細かった。けれど、その心細さの中には、妙な高揚も混じっていた。
いつか、海外で働く大人になりたい。
だから、ある日上司に呼び出され、「イギリス赴任です」と告げられたとき、光貴は本来、もっと分かりやすく喜ぶべきだった。海外赴任。ロンドン。ヨーロッパ。響きだけなら、かなり格好いい。
でも、心の中の第一声はこうだった。
え、イギリスかい。
シンガポールとかがよかったな、と少し思った。アジアの熱気。高層ビル。うまい飯。近い日本。自分が想像していた海外は、もっと明るく、もっと湿っていて、もっと夜まで騒がしい場所だったのかもしれない。
イギリスには、以前、長期出張で来たことがあった。その時の記憶は華やかではない。朝から晩まで働き詰めで、友達ができるような場所にも行かず、空は低く垂れていた。店員の早口の英語も、地下鉄の湿った匂いも、まだ自分の生活の音には聞こえなかった。
それでも、赴任は赴任だった。彼は荷物をまとめ、日本を離れ、ロンドンで暮らし始めた。
最初のうちは、毎日が面倒だった。スーパーで買った惣菜は、温めると妙に甘い匂いがした。ひと口食べて、光貴は箸を置いた。本当にうまくないものを食べると、食欲は怒るのではなく、静かにいなくなるのだと知った。
部屋も、外から見るほど華やかではなかった。中心地からは少し外れていたけれど、窓の外にはテムズ川が見えた。夜になると川沿いの灯りがきれいだった。だが水回りには前の住人の気配が残り、床には埃があり、トイレには見たくないものが残っていた。エージェントに文句を言いながら、結局自分で拭いた。
シャワーの蛇口を回しても、最初は沈黙したままだった。窓の外だけはロンドンだった。手元にあるのは、冷めた惣菜と、出ないシャワーと、拭いても拭いても他人の気配が残るトイレだった。
仕事も重かった。日本との時差、現地の事情、英語の会議、うまくいかない調整、見えない期待。ロンドンの生活に慣れる前に、仕事だけが先に彼を飲み込んでいった。
仕事では決める顔をしていた。会議では、どちらの案で進めるか、誰が責任を持つか、そういう話をする。けれど自分の生活になると、夕飯ひとつ決めるのにも妙に時間がかかった。
それでも光貴は、人とはすぐ仲良くなった。飲み会に行けば誰かと話し、初対面でも笑わせ、気づけば次の予定ができている。そこは少し才能だった。
日本にいた頃の光貴も、軽い男だった。誰かと付き合うこともあったし、恋愛らしいこともそれなりにあった。ただ、誰かと暮らしたことはなかった。
料理も、特別うまいわけではない。にもかかわらず、家で飲み会をやるときだけ、低温調理器でローストビーフを作った。理由は明快だった。モテたかったからである。
低温調理器は優秀だった。ローストビーフはちゃんと美味しくできた。人も美味しいと言った。けれど、ローストビーフが美味しいことと、本人がモテることは、まったく別の問題だった。
海外では、その軽さがさらに役に立った。異国にいる日本人同士は、少しだけ距離が縮まりやすい。駐在員も、ワーホリで来ている人も、留学生も、現地採用で働く人も、ロンドンでは同じ飲み会にいて、同じ鍋を囲み、同じ車に乗って旅行へ行った。
利沙も、その薄い壁の向こうから来た一人だった。
ロンドンにいたから、二人は近づいた。仕事で疲れた夜に、日本語で罵り合いながらゲームをする。寒い国で、誰かのために米を炊く。体調を崩した時に、体温計を買ってきてもらう。
イギリスという特殊な場所が、二人の距離を少し狂わせた。
第二章 おもろい女おったで
利沙と最初に会ったのは、夏頃だったと思う。
四対四の合コンみたいな会だった。店はイタリアンだった。ロンドンにいる日本人同士の集まりは、いつも説明が難しい。飲み会なのか、紹介なのか、合コンなのか、ただの食事なのか。後から振り返ると全部そうだったような気もするし、どれでもなかったような気もする。
きっかけは健太だった。会社の同僚で、光貴とはよく話す仲だった。健太がある日、「おもろい女おったで」と言った。
その言い方が、すでに少し面白かった。
おもろい女。
可愛い女ではなく、いい子でもなく、おもろい女。健太がそう言うなら、本当に少し変なのだろうと思った。
店に着くと、利沙は確かに目立っていた。可愛い顔で、平気で失礼なことを言う女だった。
顔は可愛かった。そこは最初から認めざるをえなかった。
関西弁は語尾だけでなく、笑い方にまで出ていた。よく喋る。遠慮がない。思ったことをそのまま言う。人のこともズケズケ言う。
光貴は最初、なんやこいつ、と思った。
可愛いけど、なんか失礼なやつやな。
そのくらいの印象だった。運命の出会いという感じでは、まったくなかった。
店の中には、イタリアンの匂いと、ワインのグラスの音と、まだ互いを探っている男女の笑い声があった。光貴はいつものように喋り、いつものように冗談を言い、いつものように場を明るくした。
利沙は笑う前に、一瞬だけ相手の顔を見る。ほんまにおもろいんか、という目をする。それから笑う。合格を出すみたいに。
簡単には懐かない。けれど、こちらが雑に返すと、ちゃんと嬉しそうに笑う。面倒くさいのに、目が離れない女だった。
健太は、利沙と話す時に少し気まずそうな顔をすることがあった。面白いとは思っている。でも、どう扱えばいいか分からない。そんな顔だった。
光貴はそれを見て、笑った。健太が気まずそうにする女。たしかに、おもろい女かもしれない。
その日、光貴は利沙のことを好きになったわけではない。ただ、印象には残った。可愛い。失礼。よく喋る。関西弁が強い。なんかおもろい女。
ロンドンでの出会いは、いくつもあった。その中の、ありふれた一つのはずだった。少なくとも、最初は。
そのありふれた出会いが、やがて米を炊く夜につながることを、光貴はまだ知らなかった。体温計を買ってきてもらう夜につながることも。ぷよぷよテトリスで罵り合いながら笑う夜につながることも。糸ようじと洗濯物を心配される別れにつながることも。
彼はまだ何も知らなかった。ただ、ロンドンの夏の終わりに、失礼で、可愛くて、関西弁の強い女の子と出会っただけだった。
第三章 バルサミコ酢を四本
利沙とのやりとりは、最初はよくあるロンドンの日本人同士の予定調整だった。
今日カラオケする? 誰来るん? どこで飲む? 今週末空いてる? 家どこやっけ? そういう軽い言葉が、スマートフォンの画面に並んだ。
光貴は、ちゃんとした本音ほど、ちゃんとしていない形で送った。「はよ」とか、「なんかしよ」とか、「笑」とか。その方が、逃げ道が残る気がした。
会いたい、とはなかなか書かない。代わりに予定を投げた。断られてもまた投げた。軽いから、続けられた。軽いから、伝わらなかったものもあった。
彼女はよく、絵文字をつけて頼みごとをした。買い物に連れてって。お土産買ってきて。車で送って。イヤフォンなんとかして。
そして、バルサミコ酢を四本。
四本は強欲やろ、と光貴は思った。
けれど、パリのスーパーでその瓶を見つけたとき、彼はちゃんと写真を送った。棚の前に立って、一本ずつラベルを見比べた。四本もいるかよ、と思いながら。
これ?
利沙はすぐに反応した。それだ、と。大喜びだ、と。諦めていたから嬉しい、と。
光貴は、スマートフォンを見ながら笑った。
面倒くさいはずだった。なのに、光貴は四本分の重さを腕に抱えていた。
その頃の光貴は、まだ自分が何をしているのか分かっていなかった。ただ、楽しかった。
利沙と話すのは楽だった。彼女はよく笑い、よく頼み、よく移動した。図々しい。なのに、なぜか腹が立ちきらない。彼女の軽さに、光貴自身の軽さが呼び出されるようだった。
最初は失礼なやつだと思っていた。人のこともズケズケ言う。悪口も言う。言い方は強い。けれど、よく見ていると、その奥に妙な愛情があった。誰かのことを悪く言いながら、その人のことを気にしている。文句を言いながら、ちゃんと世話を焼く。
そういう人なのかもしれない、と光貴は少しずつ思い始めた。
秋から冬にかけて、二人の会話には食べ物の名前が増えていった。西の方の日本食。カツサンド。焼きそばパン。韓国料理。鍋。日本酒。新米。
食べ物の話が増えるということは、生活の話が増えるということだった。
どこで飲むか、誰を呼ぶか、どこの国へ行くか。そういう外側の話から、何を食べるか、何を持っていくか、どこに車を停めるか、家に何があるか、という内側の話へ、会話は少しずつ移っていった。
その変化に、光貴は気づいていたようで、気づいていなかった。
気づかないふりをしていたのかもしれない。
第四章 ブレーキ
あとから思えば、利沙は最初から危なさに気づいていた。
光貴よりも、むしろ早く。
それは二月の終わり頃だった。
ロンドンの冬はまだしつこく残っていた。朝は暗く、夜は早い。外に出るたび、耳の奥まで冷えた。
二人はその日も、予定の話をしていた。誰かの家で鍋をするらしい。週末どこへ行くのか。海沿いの遊園地の町はどうか。エディンバラに行くのか。予定が合うのか、合わないのか。
ロンドンの日本人社会では、予定の話がいつも関係の入口にあった。
光貴もまた、いつもの調子で送った。
利沙も俺に会いたいとき連絡しておいで。
深い意味があったのかと聞かれれば、彼は困った顔をしたと思う。
冗談のつもりだった。少し本気でもあった。そういう曖昧なところに、彼はよく逃げた。
利沙は、そこに本音を混ぜて返した。
もりくんみんな好きやろ。私ハマりそうやから、ブレーキかけないと。
光貴は画面を見て笑った。
ハマりそう。
冗談みたいな文章だった。絵文字もついていた。だから、冗談として受け取ることもできた。
でも、ブレーキという言葉は、もう動き始めているものにしか使わない。
光貴はそれに気づいていた。気づいていたのに、軽く返した。
まあどうせ一緒に住むしね。
送ってから、自分でも笑った。
どうせ一緒に住む。
軽すぎる言葉だった。軽すぎるから、部屋の中まで入ってきた。
利沙は、それを完全には否定しなかった。
一緒に住んだら一回やろうね。
何を、と聞けば、たぶんタコスパーティーか何かの話だった。くだらない会話の流れの中にある、なんでもない一文。
でも光貴は、あとになってその一文を思い出すことになる。
一緒に住んだら。
何も約束していない。けれど、何もない人には言わない。
二人はいつも、そういう境界線の上で笑っていた。
光貴は人との距離を詰めるのがうまかった。冗談を言い、失礼になりすぎない程度に踏み込み、相手が笑えばまた少し近づいた。
その軽さは、彼の武器だった。
けれど、利沙の前では、その武器が別の意味を持ち始めていた。
もりくん、みんな好きやろ。
彼女は冗談めかして言った。
誰とでも楽しくできる。誰にでも優しくできる。距離が近い。でも、最後の一歩は少し遅い。
そういう男は、楽しい。だから怖い。
別の飲み会でも、光貴はいつものように笑っていた。隣に座った女性にも距離が近い。相手が笑えば、さらに一歩踏み込む。場は明るくなる。光貴はそういう空気を作るのがうまかった。
利沙は途中で少し黙った。
「もりくんって、ほんま誰にでも優しいな」
その日も、光貴は別の女の子のグラスが空いたのに気づいて、自然にメニューを差し出していた。距離が近い。声をかけるのが早い。相手が笑えば、同じ速度で笑い返す。
光貴にとっては、ただのいつものノリだった。場を明るくするための、ほとんど反射みたいなものだった。
利沙は笑っていた。けれど、グラスの水滴を指でなぞる時間だけが少し長かった。
言い方は軽かった。けれど目は笑っていなかった。
光貴は「そんなことないやろ」と笑った。笑えば戻ると思った。実際、場は戻った。利沙もまた笑った。
でも、戻ったのは場だけだったのかもしれない。
利沙は、そこを見ていた。
本当に止まりたいなら、黙って離れればいい。
利沙は、わざわざブレーキと言った。
光貴は笑った。
彼はそのとき、まだ自分が試されているとは思っていなかった。分かっていたとしても、同じように笑ったのかもしれない。
その日の会話は、鍋の話に戻った。すき焼きの話。誰がどこにいるのか。いつ会えるのか。
でも、二人の間にはその日、小さな印がついた。
ブレーキ。
利沙はその言葉を置いた。
光貴はそれを、冗談のようにまたいだ。
その先に、名前のない四ヶ月があった。
*
その夜、利沙は帰り道でスマートフォンを見た。光貴からの返事は軽い。軽いから楽だった。軽いから怖かった。
彼は誰にでも笑う。誰にでも優しい。断られない距離まで、何気ない顔で入ってくる。そういう男だと分かっていた。
それでも、画面に名前が出ると少し嬉しい。嬉しい自分に、利沙は小さく舌打ちした。
ブレーキ、と送ったのは、自分に言った言葉でもあった。
第五章 お米炊いて
人の家に向かうとき、持っていくものには、その人との距離が出る。
酒を持っていく相手。花を持っていく相手。菓子折りを持っていく相手。何も持たずに行ける相手。
そして、ハムを持っていく相手。
その夜、利沙はハムを持っていた。
イタリアのハムだと言った。めっちゃ美味しいから食べよう、と言った。仕事が終わらない、帰るのが遅くなる、お腹が空いた、歯磨き粉を忘れた。そんな報告を、まるで天気の話みたいに送ってきた。
光貴は会社から帰る途中だった。
オフィスのある町からロンドンへ戻る道は、いつも少し長かった。仕事で疲れた身体に、車のシートが妙に重たく感じる。空はもう暗く、道路には帰宅する車の列ができていた。彼はスマートフォンに届く利沙の言葉を見ながら、笑った。
お腹空いた。
彼女はよく、その一言を送ってきた。
それは助けを求める言葉でもあり、甘える言葉でもあり、ただの報告でもあった。光貴はそのたびに、家に何があったかを考えた。
米はある。唐揚げもある。ウインナーもある。
冷凍庫の中のものを思い出すだけで、自分の生活が誰かのために使えるものになる。
「おこめたく?」
軽く送った。
利沙はすぐに返してきた。
「食べ物あるん?お家」
「ハムは忘れず持ってきた」
「歯磨き粉忘れた」
光貴は笑った。
歯磨き粉を忘れた、という報告は、やはり友達の距離ではない気がした。
友達なら言わない。恋人なら言う。でも二人は恋人ではなかった。
だからその言葉は、宙に浮いたまま、妙に生活の匂いだけを残した。
「からあげとか」
「ウインナー」
そう返すと、利沙は驚いた。
「何でそんなハイスペックなもの持ってるの」
光貴は、ストックしてある、と答えた。
自分の冷凍庫に唐揚げとウインナーがあることを、誰かに褒められる日が来るとは思っていなかった。ハイスペックという言葉の使い方が間違っている気もしたが、利沙がそう言うなら、それでよかった。
「お米炊いて」
その一文が届いたとき、光貴は黙った。
たいしたことではない。炊飯器に米を入れる。水を入れる。ボタンを押す。それだけのことだ。
でも、その一文には、妙な強さがあった。
お米炊いて。
そこには、彼の家に行くことが自然に前提として含まれていた。彼の家に食べ物があることも、彼がそれを出してくれることも、彼が少し文句を言いながら結局やってくれることも、全部分かっているような言い方だった。
光貴は返した。
「しかたねーな!」
光貴の優しさは、だいたい文句の形をしていた。めんどい、遠い、しかたねーな。そう言いながら、手はもう動いている。
そう返すしかなかった。それ以外の返し方を、彼は知らなかった。
本当は嬉しかった。でも、嬉しいと書くには近すぎた。嬉しくないふりをするには、もう深すぎた。
だから、しかたねーな、と言った。
「しかたねーな!」と送ってから、光貴はすぐ炊飯器を開けた。文句を言う手つきだけが、やけに早かった。
そのあと彼女は、スチームアイロンを持っているかと聞いてきた。セーターが縮んだらしい。日本では大丈夫だったのに、イギリスで一回洗濯したら縮んだ、と怒っていた。
「ほんまに生きづらいこの国」
光貴は笑った。
「俺の服全部縮んでる」
「全縮ボーイ」
利沙は笑った。
そんな会話をしながら、彼女は彼の家へ向かっていた。
お腹が空いた。ハムはある。歯磨き粉はない。セーターは縮んだ。アイロンはあるか。米は炊けるか。
それは、恋愛というより、もう生活の問い合わせだった。
光貴は家に着いて、炊飯器を開けた。
米を研ぐ音が、台所に小さく響いた。水の中で米粒が手に当たる。日本では何でもない動作だったのに、ロンドンで一人暮らしをしていると、米を炊くことには特別な感じがあった。
炊飯器のボタンを押す。
それだけで、誰かを迎える準備をしている気がした。
彼は部屋を見渡した。そこまで片づいてはいなかった。アイロン台は埋め尽くされている。洗面所には生活感がある。冷蔵庫の中身も、胸を張れるほどのものではない。
でも、彼女は来る。
完璧な部屋に来るのではなく、光貴の生活そのものに来る。
そのことが、不思議だった。
好きな人に見せる部屋なら、もっときれいにしておくべきなのかもしれない。恋人を迎えるなら、もう少しちゃんとした食事を用意するべきなのかもしれない。
でも、二人はまだ、そういう名前のある関係ではなかった。
だから彼は、唐揚げとウインナーと米で彼女を迎えた。
それで十分な気がした。少なくとも、その夜は。
利沙が現れたとき、彼女は少し疲れていた。仕事終わりの顔をしていた。荷物を持ち、寒そうに肩をすくめていた。けれど、彼を見つけると、いつものように少し安心した顔をした。
「お腹空いた」
第一声がそれだった。
光貴は笑った。
「米炊いてる」
「最高」
その一言で、彼は報われた気がした。
家に着くと、部屋の中には米の匂いがしていた。炊きたての米の匂いは、海外にいると余計に強い。日本にいた頃は当たり前すぎて気づかなかったものが、ロンドンでは帰る場所みたいな匂いになる。
利沙は荷物を置き、ハムを出した。薄く切られたイタリアのハムは、プラスチックの包装の中で高級そうに見えた。彼女はそれを得意げに見せた。
「これ、めっちゃ美味しいねん」
「うまそー」
「ワインいるかな」
「いるやろ」
「寝れば酒抜けるから、早めに乾杯しよ」
理屈としてはめちゃくちゃだった。
けれど、二人ともそれでいいと思っていた。
レモネードもあった。サラダもあった。唐揚げとウインナーもあった。米も炊けていた。
テーブルの上に並んだものは、何料理と呼べばいいのか分からなかった。イタリアのハムと、日本の米と、冷凍の唐揚げと、ウインナーと、レモネード。どこにも属さない食卓だった。
でも、二人にはちょうどよかった。
ロンドンの部屋で、日本人二人が、イタリアのハムをつまみながら、米と唐揚げを食べる。それは雑で、自由で、可笑しくて、妙に幸せだった。
「歯磨き粉忘れた」
利沙が思い出したように言った。
「あるやろ、うちに」
「借りる」
「勝手に使え」
その会話もまた、危なかった。
歯磨き粉を借りるというのは、小さいことだ。でも、小さいものほど生活に近い。
服を借りる。シャワーを浴びる。アイロンを借りる。歯磨き粉を使う。米を食べる。
そういうものが積み重なると、人はいつの間にか、相手の生活に居場所を作ってしまう。
利沙はいつの間にか、コップの場所を聞かなくなった。光貴も、彼女が洗面所を使っている音に驚かなくなった。部屋の中で、説明しなくていいことが増えていった。
それは幸福だった。
ただ、その幸福には、名前がなかった。
第六章 豚キムチチャーハン
光貴は、自分が弱っているところを人に見せるのが、あまり得意ではなかった。得意ではない、というより、やり方を知らなかった。
調子が悪いときでも、彼はたいてい冗談を言った。しんどい、と言うかわりに、終わった、と言った。寂しい、と言うかわりに、暇、と言った。痛い、と言うかわりに、なんかやばい、と言った。
だから首のあたりに違和感を覚えたときも、最初はそれほど深刻に考えていなかった。少し腫れている。少し痛い。熱っぽい。疲れているだけだろう。
ロンドンで暮らしていると、体調不良ですら少し面倒くさかった。病院に行くには予約がいる。予約をしても待つ。説明は英語で、医者の言うことは分かるようで、分からない。薬局に行っても、薬の名前が日本とは違う。
その日、彼は利沙に連絡した。
体温計、買ってきてくれん?
送ってから、情けないなと思った。だが、利沙はすぐに返してきた。
おっけい。
その短さが、なぜか救いだった。大丈夫? 無理しないで。病院行きなよ。そういう正しい言葉はいくらでもある。けれど、そのとき彼が欲しかったのは、正しさよりも、生活の手つきだった。
後三十分で着くから、待てる?
その文章を読んだとき、光貴は、思っていたより安心した自分に気づいた。待てる、と思った。待ちたい、と思った。誰かが来るというだけで、部屋の温度が少し変わる気がした。
利沙は本当に来た。外の冷たい空気と、薬局の袋と、いつもの少し慌ただしい気配を連れて。
「生きてる?」
「生きてる」
「顔、死んでるけど」
「生きてる顔やろ」
「どこがやねん」
そういう会話をして、彼は笑った。笑うと首が痛かった。
利沙は袋から体温計を出し、薬を出し、水を用意した。彼女は医者ではない。看護師でもない。けれど、妙に手際がよかった。何かを調べ、誰かに聞き、症状を比べ、薬を飲む回数を確認した。
「薬、ちゃんと三回飲んでね」
「はあい」
「ほんまに飲むんやで」
「飲むって」
「森くん、適当やから」
「そんなことない」
「ある」
彼女はそう言い切った。その言い方に、光貴は少し腹が立って、嬉しかった。
自分の適当さを知っている人が、部屋にいる。自分の弱さを雑に扱わず、でも大げさにもせず、そこにいる。それは恋愛の言葉よりも、ずっと危険だった。
利沙は出かける前に、急いで何かを作ってくれた。豚キムチチャーハンだった。
それは、彼のための料理だった。
そして、全然美味しくなかった。
光貴は一口食べて、しばらく黙った。病人にも気遣いというものがある。だが、彼の中のしょうもない部分は、熱があっても生きていた。
「これ、米炊くの下手やな?」
利沙はすぐに振り返った。
「病人のくせに文句言うな」
「病人にも味覚はある」
「じゃあ食べんでいい」
「食べるけど」
二人は笑った。
その豚キムチチャーハンは、その後もしばらくいじられることになった。利沙が何か偉そうなことを言うたびに、光貴は「でも米炊くの下手やしな」と返した。利沙は「うるさい」と言った。
冷製パスタやハンバーグは美味しかった。彼女はちゃんと料理ができる人でもあった。けれど、あの日の急いで作った豚キムチチャーハンだけは、妙に記憶に残った。
不味かったからではない。
いや、不味かったからでもある。
でも、それ以上に、彼がしんどい時に、彼女が台所に立っていたからだ。薬を気にして、体温を気にして、出かける前に急いで何かを作ってくれた。その結果が微妙なチャーハンだったというだけで、そこにあった気持ちは微妙ではなかった。
恋が深まる瞬間は、いつも美しいとは限らない。汗ばんだ額と、腫れた首と、薬の袋と、変な冗談と、全然美味しくない豚キムチチャーハン。
そういうものの中で、人は時々、もう戻れないところまで心を動かしてしまう。
光貴はそのとき、まだ自分が利沙を好きだとはっきり認めていなかった。認めてしまうには、彼はまだ軽すぎた。そして、二人の関係はまだ名前を持っていなさすぎた。
ただ、あの夜のことだけは残った。
体温計を買ってきてくれた人。薬を三回飲めと言ってくれた人。米の炊き方は下手だった人。自分がしんどいときに、そばにいた人。
そういう記憶は、強い。強すぎるくらいに。
第七章 ぷよぷよテトリス
光貴と利沙は、よくゲームをした。
仕事が終わって、飯を食べて、シャワーを浴びて、部屋の空気が少し夜に沈んでくる頃、どちらからともなく画面をつける。大げさな準備はいらなかった。特別なイベントでもなかった。酒を飲む日もあれば、飲まない日もあった。疲れている日もあれば、疲れているのにやる日もあった。
ぷよぷよテトリス。
その名前からして、どこか間抜けだった。
真剣になりすぎるには可愛すぎて、適当にやるにはなぜか悔しすぎる。丸いぷよが落ち、四角いブロックが積まれ、連鎖が起き、棒が来ず、画面が埋まり、誰かが叫ぶ。
「ちょ、待って」
「待たへん」
「いや、今のは無理やろ」
「弱すぎ」
「うるさい」
「雑魚やん」
「黙れ」
そう言って、二人は笑った。
本気で傷つけたいわけではない。本気で怒っているわけでもない。でも、本気で悔しい。そして、本気でくだらない。
光貴は、その時間が好きだった。
ゲームが好きだったのか、利沙がゲームに負けて文句を言うのが好きだったのか、自分が勝って調子に乗るのが好きだったのか、よく分からなかった。全部だった。
利沙は、負けるとすぐに文句を言った。
「今のは運やん」
「実力やろ」
「絶対違う」
「はいはい」
「もう一回」
「負けず嫌いやな」
「森くんがうざいからやろ」
「人のせいにすんな」
「うるさい」
何度も同じような会話をした。
でも利沙とは、同じような罵り合いを何度でもできた。
それは関係が雑になっていたということではない。むしろ、雑になれるくらい近くなっていたということだった。
光貴は、ゲーム中の利沙の顔をよく覚えている。
画面を見ているときの真剣な目。うまくいかないときの苛立った声。勝ちそうになると急に饒舌になるところ。負けた瞬間に、ありえへん、と言うところ。勝ったときだけ、やたら偉そうになるところ。
彼女はよく笑った。
笑い方に遠慮がなかった。部屋の中にその声があると、仕事の疲れが少し薄くなる気がした。ロンドンの夜の重さも、会社で起きた面倒なことも、日本から遠く離れている寂しさも、画面の中でぷよが消えるたびに薄まった。
光貴は仕事で疲れていた。利沙も疲れていた。二人とも、それぞれの場所で一日を使い果たして、それでもまだ眠る前に誰かと笑いたかった。
そういう夜に、ぷよぷよテトリスはちょうどよかった。
深い話をしなくてもいい。将来のことを考えなくてもいい。リュウセイの名前を出さなくてもいい。自分たちが何なのかを決めなくてもいい。
ただ、落ちてくるものを積めばよかった。
でもその夜の二人は、まだ現実の複雑さを部屋の外に置いておけた。
画面の光が、部屋の壁に淡く反射していた。ソファかベッドか、その中間みたいな場所に二人は座っていた。近すぎる距離も、もうあまり意識しなかった。
最初の頃なら、身体が少し触れるだけで気になったかもしれない。でもその頃には、肩が当たっても、足が触れても、誰も大げさに反応しなかった。
利沙がそこにいること。同じ画面を見ていること。くだらないことで言い合えること。ゲームに負けて本気で文句を言われること。笑いながら、もう一回、と言えること。
ゲームをしていると、いつも最後はどちらかが力尽きた。
最初に会話が減る。次に罵りのキレが落ちる。その次に、どちらかの操作が雑になる。そして、もう一回と言ったはずの人間が、次の瞬間にはほとんど寝ている。
「寝てるやん」
光貴が言う。
「寝てない」
利沙は目を閉じたまま答える。
「寝てる人の返事やん」
「寝てないって」
「もうやめよ」
「んー」
その「んー」は、もう会話ではなかった。
利沙は力尽きたように眠った。
仕事も、移動も、予定も、感情も、全部を使い果たした人間が、最後に彼の部屋で眠る。光貴はその横で、まだ起きていた。
画面はついたままだった。ゲームの音が小さく鳴っていた。部屋には、食べ終わった皿や、飲みかけのグラスや、彼女の荷物や、散らかった生活があった。
彼はその光景を見て、胸の奥が静かになるのを感じた。
誰かが自分の部屋で眠っている。
利沙は力尽きたように眠っていた。安心していない場所で、あんな寝方はできない。
だから彼は、ただゲームの画面を消した。部屋の明かりを少し落とした。彼女を起こさないように、音を立てずに動いた。
誰かを起こさないように歩く。誰かの眠りを守る。誰かがいる前提で部屋の明かりを調整する。
それは、もうほとんど同居の動きだった。
でも、彼らは同居人ではなかった。
恋人でもなかった。
ただ、名前のない夜がいくつもあった。
第八章 薄汚れる前のナイキ
その日、光貴は海沿いの遊園地の町の近くでナイキを買った。
正確には、海沿いの遊園地の町へ行った日か、その周辺のどこかだった。アウトレットがあった。利沙がその場所を気に入っていた。あるいは、二人とも気に入ったのだったかもしれない。
ロンドンからは、ばかみたいに遠かった。
車で何時間もかかる。途中で景色は何度も変わる。高速道路の単調な灰色、サービスエリアの匂い、窓の外に流れる牧草地、知らない町の標識。行き先を人に言えば、こう言われた。
なんでそんなところまで。
光貴もそう思っていた。
でも、遠い場所へ行く理由なんて、たいてい後付けでいい。そこに美味しいカツ丼がある。寿司がある。アウトレットがある。そして、利沙が行きたいと言う。
それだけで、十分な理由になった。
海沿いの遊園地の町の日、二人は遊園地へ行った。遊園地のあとに行った日本食レストランは、思っていたよりずっと良かった。
カツ丼が美味しかった。寿司も美味しかった。
海外で食べる日本食には、たまに妙な祈りが混ざる。
期待しすぎてはいけない。でも期待してしまう。店に入る前から、疑っている。そして本当に美味しいと、必要以上に嬉しくなる。
その店は、ちゃんと美味しかった。
カツ丼の卵はとろっとしていて、米は思ったよりまともで、味付けも日本の記憶から大きく外れていなかった。寿司も、ロンドンでありがちな高すぎるだけの寿司ではなかった。
光貴は、食べながら笑った。
利沙も嬉しそうだった。
「あそこ、また行きたいな」
どちらかがそう言った。
その「また」が、当たり前みたいに置かれることが、光貴は好きだった。
また行きたい。また食べたい。また来よう。またやろう。
小さな「また」は、名前のない約束だった。
付き合おう、とは言わない。ずっと一緒にいよう、とも言わない。でも、また行こう、とは言う。
そのくらいの未来なら、二人は何度でも作れた。
アウトレットで、光貴はナイキのスニーカーを買った。
なぜそれを選んだのか、細かい理由はもう覚えていない。ちょうど欲しかった。安くなっていた。利沙と一緒に見ているうちに、買ってもいい気がしてきた。
買い物というものは、誰といるかで少し変わる。
一人なら通り過ぎるものを、誰かといると手に取る。一人なら迷ってやめるものを、誰かに似合うと言われると買う。一人ならただの消費なのに、誰かといると記憶になる。
そのナイキも、最初はただの靴だった。
でも、利沙といた日の靴になった。
後になって、それが少し面倒な意味を持つことになる。
その後、彼らは湖の地方にも行った。今度は二人きりではなかった。友達もいた。
それでも、湖を見るときや星を見に行くとき、ふっと二人だけになる瞬間があった。並んで同じ空を見上げる。それだけで、向かい合うより近い気がした。
その帰り道、彼らはあの日本食レストランへもう一度行った。
カツ丼と寿司が美味しかった店。
今度は五人くらいいた。利沙もいた。海沿いの遊園地の町の日の記憶を、少し大きな人数でなぞるような帰り道だった。
けれど、アウトレットはもう閉まっていた。
それが妙に悔しかった。
光貴は、ただ買い物がしたかっただけではなかったのかもしれない。
あの日の楽しさを、もう一度確かめたかったのだと思う。
遊園地。アウトレット。日本食。遠い道。利沙。
そのセットをもう一度なぞれば、何かがちゃんと残る気がした。あの時間が偶然ではなく、もう一度行ける場所なのだと確認できる気がした。
でもアウトレットは閉まっていた。
閉まっている店の前で、人は何も買えない。
当たり前のことなのに、光貴は寂しくなった。
だから一ヶ月後くらいに、また行った。
今度は、利沙と二人で。
ロンドンからは、相変わらず遠かった。普通に考えれば、わざわざ二人で行く距離ではなかった。カツ丼と寿司のために行く距離でも、アウトレットのために行く距離でもなかった。
でも行った。
遠すぎるはずの道も、車の中に利沙がいると、予定の一部に変わった。
片道何時間も、ただの移動ではなくなる。車の中で話す時間になる。音楽を流す時間になる。くだらない会話をする時間になる。相手が寝れば、寝顔を横目で見る時間になる。サービスエリアに寄るかどうかで揉める時間になる。
光貴は運転しながら、なんでまたここまで来ているのだろうと思った。
でも答えは分かっていた。
利沙と来たかったからだ。
その日は、アウトレットに行けた。店を見て回った。何かを買ったか、買わなかったか、細かいことはもう少し曖昧になっている。
でも、遠くまで来たことは覚えている。
カツ丼と寿司も、やっぱり美味しかった。
カツ丼の味。寿司の形。テーブルの距離。遠くまで運転してきた疲れ。買ったばかりのスニーカー。横にいる人の声。
抽象的な恋なら、忘れられるのかもしれない。
でも、カツ丼は忘れにくい。靴は残る。道は残る。レストランの場所は地図に残る。
そのナイキは、今も玄関にある。
買ったばかりの白さはない。
けれど光貴は、今日もそれを玄関に出している。
第九章 着信
嫌な音は、いつも大きな音で鳴るとは限らない。
むしろ、本当に嫌なものは、ふとした画面の中に静かに現れる。
どこで見たのかは、もうはっきり覚えていない。家だったことだけは覚えている。利沙が近くにいて、光貴もその部屋にいて、二人の生活が少しずつ当たり前になっていた頃だった。
彼女のスマートフォンに着信があった。
画面に名前が出た。
リュウセイ。
五文字の名前だった。けれどその時の光貴には、画面に表示されたそれが、やけに重い一つの塊に見えた。
「だれ?」
軽い調子で聞いたつもりだった。
彼はいつも、そうやって聞いた。重くすると、何かが壊れる気がする。だから、軽くする。笑えるようにする。逃げ道を残す。
でも、その時の部屋の温度は少し変わった。
利沙は、すぐに答えたのか、少し間を置いたのか。そこももう曖昧だ。ただ、そこから聞いた話だけは、妙に残っている。
リュウセイは、彼女の過去にいた人だった。
ただの元恋人、という言葉では収まらない人だった。利沙はその人と深く関わり、一緒に暮らしていた時期があった。やがてその関係は、彼女だけでなく周りの人たちも傷つけた。その人は日本へ戻り、利沙は罪悪感を抱えた。
そして、まだ切れていなかった。
*
利沙にとって、リュウセイは過去というより、終わりきらない責任の名前だった。連絡を切れば楽になることは分かっていた。けれど切った瞬間に、自分が壊したものまで全部認めなければいけない気がした。
好きだったのか、罪悪感だったのか、依存だったのか。自分でも分けられなくなっていた。分けられないまま、通知だけが来る。彼女はそのたびに、少しだけ息を止めた。
光貴といる時間は明るかった。米を食べ、ゲームをし、くだらないことで笑う。だからこそ、その明るさに逃げている自分もどこかで分かっていた。
光貴は、それを聞きながら、自分の中の何かが静かに固まっていくのを感じた。
それは嫉妬だけではなかった。驚きでもあり、困惑でもあり、少しの恐怖でもあった。
目の前にいる利沙は、いつもの利沙だった。よく笑い、よく文句を言い、頼みごとをし、仕事に追われ、飯を食べ、ゲームで罵る。
でも、その背後には、光貴がまだ知らなかった時間があった。誰かを深く傷つけた時間。罪悪感で切れなくなった時間。終わったはずなのに終わらない時間。
その話を聞いて、光貴は利沙を嫌いにはならなかった。
むしろ、彼女の危うさが少し分かった気がした。ズケズケものを言う。気が強い。悪口も言う。けれど本当は、誰かへの情や罪悪感を切れない人なのかもしれない。自分で自分の感情を整理できないまま、それでも前に進もうとしている人なのかもしれない。
そう思った。
そう思おうとした。
けれど、画面に出たリュウセイという名前は、その後も光貴の中に残った。
遠くの雷のように。
最初は遠かった。聞こえてはいる。でも、まだ自分の上には落ちてこない。そう思いたかった。
利沙は、今は違うと言ったのかもしれない。気持ちはもうないと言ったのかもしれない。切らなきゃいけないと分かっていると言ったのかもしれない。
どれも本当だった。
でも、本当の気持ちがあることと、行動が整理されることは違う。
光貴はまだ、その違いの痛みを知らなかった。
ただ、彼はその日から、利沙のスマートフォンに敏感になった。彼女が黙ると、何を考えているのか気になった。遠くを見る顔をすると、その先にリュウセイがいるように思えた。
名前は、そこにあるだけで関係の空気を変えることがある。
リュウセイ。
五文字の名前は、光貴と利沙の名前のない生活の端に、静かに置かれた。
第十章 思ったより傷ついた
楽しい時には分からなかった。傷ついた時、自分がどこまで踏み込んでいたかを知った。
光貴がそれを知ったのは、利沙が他の男と旅行に行っていた頃だった。リュウセイ問題とは別の、不穏な音だった。
彼は最初、軽い調子で問いただした。
誰と行ってるん。何してるん。どういう関係なん。
聞き方はきっと、いつものように軽かった。冗談のふりをして、少し意地悪に、でも逃げ道を残して。
利沙は、体の関係を持ったと話した。
その瞬間、光貴は自分でも驚くほど傷ついた。
胸の奥が、思ったより深く沈んだ。頭では分かっていたはずだった。二人は正式に付き合っているわけではない。関係に名前はない。相手に何かを禁止できる立場ではない。
それなのに、痛かった。
普通に痛かった。
その痛みに、彼は少し驚いた。
俺、かなり利沙好きやん。
そう思った。
好きだと先に認めたのではなかった。嫉妬が先に来た。理屈より先に、体が反応した。
自分は人に依存しなさそうだと言われたことがある。執着しなさそうだとも言われた。確かに、彼はそう見えるように振る舞うのが得意だった。
でも、その時の彼は全然そうではなかった。
傷ついた。悲しかった。腹が立った。自分にそんな感情があることが、少し恥ずかしかった。
彼は、利沙に対して軽くいられると思っていた。
楽しい相手。家に来る相手。米を炊く相手。ゲームで罵り合う相手。体温計を買ってきてくれた相手。
でも、誰かと旅行に行って、体の関係を持ったと聞いて、こんなに痛いなら、それはもう軽い相手ではない。
光貴はその時、恋を自覚した。
綺麗な夜景でも、告白でも、手をつないだ瞬間でもなかった。
嫉妬と痛みだった。
自分がどれだけ利沙を大事にしていたのかを、利沙が自分の外側に行った瞬間に知った。
それは情けなかった。
でも、かなり本物だった。
同じ頃、健太にはいろいろ話していた。利沙との生活のこと。言葉と行動が一致しないこと。リュウセイのこと。自分がどれだけ揺れているか。
健太は、いつも分かりやすく光貴側に立つわけではなかった。彼自身の恋愛事情も当時複雑で、むしろ利沙に近いところで悩んでいるような顔をすることもあった。
微妙な顔。
それが健太の反応だった。
光貴は、その顔を見るたびに苛立ち、救われた。誰も簡単に正解を出せない問題なのだと分かったからだ。
ただ、正解が出ないことと、自分が傷つかないことは別だった。
利沙が他の誰かに触れたという事実は、光貴の中に残った。
そして、その痛みは、後のリュウセイとの旅行でさらに深い形で戻ってくる。
名前のない関係は、相手を縛れない。
でも、心は勝手に縛られてしまう。
それが、光貴には苦しかった。
第十一章 週二回、糸ようじ
光貴と利沙の四ヶ月は、カレンダーの上ではそれほど大きな期間ではなかった。季節が一つ、少し形を変えるくらい。ロンドンの冬が緩み、春が来て、夏が近づき、空が明るくなるくらい。
けれど、その四ヶ月の中には、妙に細かいものが詰まっていた。
米。ハム。レモネード。ぷよぷよテトリス。体温計。洗濯物。糸ようじ。スチームアイロン。縮んだセーター。薬。唐揚げ。ウインナー。夜遅くの迎え。朝の眠さ。仕事終わりの疲れ。そして、何度も交わされた「お腹空いた」。
利沙はよく、光貴の部屋で何かをしていた。
洗濯を回す。荷物を整理する。シャワーを浴びる。仕事の連絡を見る。眠いと言う。お腹が空いたと言う。寒いと言う。暑いと言う。何かがないと言う。どこかが痛いと言う。何かを借りる。何かを置く。何かを忘れる。
光貴は、その一つひとつにいちいち大げさな意味を与えなかった。
その時は。
洗濯物があるなら、洗えばいい。荷物があるなら、置けばいい。腹が減っているなら、何か出せばいい。眠いなら、寝ればいい。歯磨き粉がないなら、使えばいい。セーターが縮んだなら、アイロンを貸せばいい。
そういうものだと思っていた。
最初は荷物ではなかった。「お米炊いて」だった。歯磨き粉だった。洗濯物だった。少しずつ、説明しなくていいことが増えていった。
光貴は、自分の部屋に利沙がいることに慣れていった。
慣れていくことは、幸福だった。でも、少しずつ危険でもあった。
最初は、彼女が来るたびに部屋を片づけた。そのうち、そこまで気を遣わなくなった。完璧な部屋ではなく、散らかった生活の中に彼女を入れるようになった。
利沙は、そこにいた。
洗面所の前で何かをしている。キッチンで水を飲んでいる。ソファでスマートフォンを見ている。ベッドの端に座っている。ゲームに負けて文句を言っている。眠そうな顔で、もう一回と言っている。そして、次の瞬間には寝ている。
光貴はそういう姿を、当たり前のように見ていた。
当たり前ではないのに。
ある夜、利沙は洗濯をしていた。
それがいつだったのか、光貴ははっきり覚えていない。でも、洗濯という言葉の生活感だけは覚えている。
洗濯物は綺麗ではない。生活そのものだ。汗を吸い、匂いを持ち、シワになり、放っておけば溜まる。
利沙は、彼の生活の中で洗濯物を回した。
そのことを、光貴は後になって思い出す。
同じ頃、糸ようじのこともあった。
いつからそれを言われるようになったのかは分からない。利沙は、光貴の生活のだらしなさに、少しずつ口を出すようになっていた。
薬はちゃんと飲んだのか。洗濯物は回したのか。歯はちゃんとしているのか。糸ようじはしているのか。
光貴は、そういう注意をされると、面倒くさそうにした。
でも、嫌ではなかった。
嫌なら、もっとはっきり拒絶していた。うるさいと言いながら、聞いていた。聞いていないふりをしながら、嬉しかった。
誰かが自分の生活習慣に口を出す。
ちゃんと週二回、糸ようじして。
それは、愛している、よりもずっと生活に近い言葉だった。
だから、最後の日に利沙がその言葉を送ってきたとき、光貴は少し壊れた。
四ヶ月間ありがとう。楽しかった。幸せやった。あっという間やった。お互いに頑張ろうね。ちゃんと週二回糸ようじして、洗濯物回すんやで。
その文章には、二人の四ヶ月がそのまま入っていた。
大好きより先に、糸ようじが刺さった。
糸ようじ。洗濯物。
その二つの言葉だけで、光貴は思い出してしまう。
利沙がいた部屋。洗濯機の音。彼女の荷物。朝の慌ただしさ。夜のゲーム。炊いた米。薬を気にしてくれた声。体温計を買ってきた袋。彼女が眠っていた場所。
別れの言葉に、糸ようじを混ぜるのは残酷だった。
たぶん、利沙に悪気はなかった。
彼女は、光貴の生活を知っていた。洗濯も、だらしなさも、糸ようじの頻度まで。
それなのに、もう隣にはいない。
四ヶ月間という言葉も、重かった。
四ヶ月間。
彼女は、その関係に期間を与えた。
付き合っていたわけではない。それでも彼女は、四ヶ月間、と言った。
名前のない四ヶ月。
それは、終わってから初めて、名前の代わりに彼の中に残った。
第十二章 鶏と卵
終わったあとで、人は急に賢くなる。
渦中にいる人間は、自分がどこに立っているのか分からない。
光貴もそうだった。
利沙も、そうだった。
別れの後、二人は何度も言葉を交わした。終わったはずなのに、終われなかった。
光貴はスマートフォンを伏せた。
十秒も経たずに、また表に返した。
通知は来ていなかった。
黒い画面に映った自分の顔だけが、やけに疲れて見えた。
彼は、利沙の言葉がほしかった。
問いは、結局そこに戻った。
俺は、何だったのか。
利沙は、彼を好きだったと言った。
ほんまに大好きやった。本気で考えてた。都合のいい存在とは思ってなかった。利用してるつもりもなかった。
光貴は信じたかった。
信じようとするたびに、別の問いが出てきた。
利沙の言葉は綺麗だった。
綺麗だから、苦しかった。
彼女は言った。
私が森くんを選べない理由は、ロンドンで私の好きじゃない人と何回も関係を持っていたこと。私が出たあと、女遊びすると言ったこと。私と付き合う覚悟ができていないと言ったこと。
光貴は、その言葉を読んで黙った。
痛いところだった。
思い当たる場面はいくつもあった。飲み会で誰にでも近い距離で笑っていたこと。利沙が黙ったとき、気づいていながら冗談で流したこと。女遊びという言葉を、強がりのように口にしたこと。
本気でないから言ったのではない。本気だと見抜かれたくなかったから、軽い言葉に逃がした。それが相手にどう届くかまでは、考えきれていなかった。
彼にも、言い返せない部分はあった。
最初から、利沙を愛し切る覚悟を持っていたわけではない。
リュウセイとの関係を抱えた彼女に対して、俺のところへ来い、と強く言ったわけでもない。
利沙がいなくても大丈夫。
自分は大丈夫。
軽く笑っていられる。
そういう顔をしていた。
でも本当は、大丈夫ではなかった。
大丈夫ではないと認めるには、遅すぎた。
ロンドンの部屋では曖昧なまま過ごせても、日本の生活に持って帰るなら、何かしらの名前がいる。光貴はそのことを知っていた。知っていて、まだ先に延ばした。
帰任の話も、遠くに見え始めていた。いつまでロンドンにいるのか。日本に戻ったら、この関係はどこに置かれるのか。仕事のメールの合間に、そんな問いだけが残った。
利沙は、そこを見ていたのかもしれない。
彼女は彼に言った。
私への気持ちがほんまなら、ロンドンから離れる前に本気でぶつけてくれるなり、私の判断に委ねるんじゃなくて、自分の覚悟を伝えてくれてたはず。
光貴は画面を見た。
まっすぐな言葉だった。
まっすぐすぎて、腹が立った。
彼からすれば、順番が違う。
リュウセイとの旅行を決めている利沙。
リュウセイとの関係を切り切れない利沙。
自分に一緒にいたいと言いながら、別の選択肢も残している利沙。
その状態で、どうして自分だけが覚悟を見せなければならないのか。
俺を安心させる行動を見せてくれたら、俺も覚悟できた。
そう思っていた。
けれど、利沙は逆だった。
森くんが覚悟を見せてくれたら、私もキャンセルできたかもしれない。
彼女はそう思っていた。
付き合う覚悟ができていないと言われているのに、全部キャンセルして森くんと歩んでいこうとは思われへんやん。
光貴は、その文章を何度も読んだ。
そんなこと、聞いていなかった。そんな可能性があったなんて、知らなかった。
二人はずっと、相手に先に覚悟を求めていた。
光貴は、利沙に行動で選んでほしかった。
利沙は、光貴に言葉で奪いに来てほしかった。
どちらも、相手が先だった。
二人は笑っていた。
米を食べていた。
ゲームをしていた。
湖を見ていた。
星を見ていた。
カツ丼を食べていた。
その下で、覚悟だけが宙に浮いていた。
光貴は、ついに送った。
覚悟はなかったよ。
正直な言葉だった。
利沙のことは好きだった。一緒にいる時間は幸せだった。彼女が自分の部屋にいることが嬉しかった。
それでも、覚悟はなかった。
彼女が彼を選んでいるように見えなかったからだ。
彼女の言葉は近かった。
行動は、まだ遠くへ伸びていた。
リュウセイの方へ。過去の方へ。別の選択肢の方へ。
その状態で人生ごと賭けるほど、光貴は強くなかった。
彼は続けた。
結局これ、鶏卵になるな。
書いた瞬間、笑いそうになった。
こんな時に、何を冷静に分析しているのだろう。
泣きたいのか怒りたいのか分からないまま、光貴は言葉を並べた。失恋の最中に構造分析を始める自分が、少しだけ嫌だった。
それでも、そうしないと自分の中のぐちゃぐちゃに名前をつけられなかった。
鶏が先か、卵が先か。
利沙が選ぶから、自分が覚悟するのか。
自分が覚悟するから、利沙が選ぶのか。
答えはなかった。
スマートフォンの画面が暗くなった。
光貴は、また指で画面を起こした。
まだ通知は来ていなかった。
部屋の中は静かだった。
以前なら、利沙が何かに文句を言っていた時間だった。
洗濯機の音も、ゲームの音も、関西弁もなかった。
その問いだけが、画面の明かりの中に残った。
彼女は答えを出したいのではなく、誰かに先に手を伸ばしてほしかった。そう思っている自分を、利沙自身が一番嫌だった。
利沙も、何度も画面を開いた。森くんといたい、という文章は打てた。でも、その先が打てなかった。森くんは本当に自分を選ぶのか。リュウセイを切ったあと、自分はどこに立てばいいのか。
*
第十三章 綺麗な言葉
でも、利沙との別れはそうではなかった。
それは、あまりにも綺麗だった。
だから、ひどかった。
その日、光貴は彼女にメッセージを送った。
一緒に暮らせてほんまに楽しかった。幸せでした。日本でまた新たな挑戦、頑張ってね。応援してる。元気でね。利沙大好き。
送ったあと、彼はしばらく画面を見ていた。
自分で書いた言葉なのに、どこか他人の文章みたいだった。整っていた。優しかった。大人だった。ちゃんと終わろうとしていた。
でも、胸の中は少しも整っていなかった。
一緒に暮らせてほんまに楽しかった。
その一文だけで、何度も息が詰まった。
それでも彼は、「一緒に暮らせて」と書いた。
米を炊いた。洗濯物があった。ゲームをした。部屋で眠る彼女を見た。だから、そう書かずにはいられなかった。
光貴は、それを手放そうとしていた。
手放すために、綺麗な言葉を選んだ。
応援してる。元気でね。大好き。
それは本心だった。
彼は本当に、利沙に元気でいてほしかった。日本で新しい挑戦を頑張ってほしかった。幸せになってほしかった。自分と一緒ではなくても、彼女がちゃんと生きていくことを願っていた。
利沙から返事が来た。
無事に着いた? ほんまに四ヶ月間ありがとう。楽しかったし、幸せやったし、あっという間やった。お互いに頑張ろうね。ちゃんと週二回糸ようじして、洗濯物回すんやで。利沙ももりくん大好きでほんまに愛おしいよ。残りのロンドン、楽しんでね。
光貴は、その文章を読んだ。
一度読んだ。もう一度読んだ。何度も読んだ。
優しい文章だった。
あまりにも優しい文章だった。
彼女も、その時間を数えていた。
それだけで十分だった。十分すぎて、壊れた。
ちゃんと週二回糸ようじして、洗濯物回すんやで。
その一文だけで、遠くへ置こうとしていた四ヶ月が、部屋に戻ってきた。
利沙ももりくん大好きでほんまに愛おしいよ。
もう無理。気持ちはない。ごめん。忘れて。
そう言われた方が、まだ分かりやすかった。
でも彼女は、大好きで愛おしいと言った。
その言葉を、光貴は信じた。信じてしまった。
利沙は、自分を好きだったのだと思う。
同じ日の夜、利沙はまた言った。
もりくんと一緒にいたい。
光貴の中で、何かが揺れた。
さっき終わったはずだった。四ヶ月間ありがとう、と言ったはずだった。元気でね、と言ったはずだった。大好きで愛おしいけど、別々の場所へ行くはずだった。
それなのに、彼女は一緒にいたいと言った。
そして少し後に、もっと強い言葉を送った。
もりくんと生きていきたい。
光貴は、その言葉を見て、しばらく動けなかった。
それは、あまりにも強い言葉だった。
付き合いたい、よりも。一緒にいたい、よりも。また会いたい、よりも。ずっと重い。
彼は、その言葉をずっと欲しかった。
でも、その言葉が届いたとき、彼はもう素直に受け取れなかった。
なぜなら、彼女はそのあとリュウセイと合流する予定だったからだ。
言葉は光貴の方を向いていた。行動は、まだ別の場所へ向かっていた。
その矛盾に、彼は耐えられなかった。
光貴は聞いた。
リュウセイといつ合流するの?
その問いは、冷たかったかもしれない。でも、彼にはそれしか聞けなかった。
生きていきたいと言われた直後に、別の男との合流時間を聞く。
それはひどく滑稽で、ひどく残酷だった。
利沙は答えた。今からマツエクに行って、終わったら荷物を取って合流する、と。
*
利沙は、店の鏡の前でスマートフォンを伏せた。まつ毛を触られている間、目は閉じているのに、頭の中だけがうるさかった。
光貴の名前が画面にある。リュウセイからの通知もある。どちらか片方だけを見なければよかったのに、彼女は何度も両方を見た。
荷物を取りに戻る道で、利沙は「一緒にいたい」と打った。消した。もう一度打った。送った。
送った足で、別の待ち合わせに向かっていた。自分でも、その順番が分からなかった。
*
光貴は、画面の文字を見た。
もう家を出たんだな、と思った。自分の知らない場所へ、彼女は進んでいるのだと思った。
その瞬間、さっきまでの綺麗な別れの言葉が、全部違う意味に見え始めた。
四ヶ月間ありがとう。幸せやった。大好きで愛おしい。一緒にいたい。生きていきたい。
どの言葉も、嘘には見えなかった。
画面の明るさだけが、部屋の中で浮いていた。
第十四章 返事の来ない部屋
終わりは、一度で終わってくれなかった。
あの綺麗な言葉のあとも、画面は何度か光った。
一緒にいたい。
生きていきたい。
欲しかった言葉だった。
でもその時、利沙はリュウセイと旅行しているようだった。
もう伏せることにも疲れていた。光貴は、ただ画面が暗くなるのを見ていた。
洗面台の端に、利沙のヘアゴムが残っていた。
黒くて、細くて、どこにでもあるようなものだった。
それがあるせいで、部屋だけがまだ別れを知らないみたいだった。
LINEの文字だけが、画面の中で明るかった。
やがて、旅行中に利沙がまたリュウセイと体の関係を持ってしまったと聞いた。
光貴は泣いた。引くほど泣いた。怒りなのか、悔しさなのか、寂しさなのか、もう分けられなかった。
冷めたマグカップが机に置かれていた。いつ淹れたのか覚えていない。飲むつもりだったのに、気づけば表面に薄い膜が張っていた。
第十五章 アイスランドで泣いた男
アイスランドは、失恋した人間に優しくなかった。
というより、自然はそもそも、人間の失恋に興味がない。
空は広すぎた。風は冷たすぎた。大地は黒く、滝は大きく、道はどこまでも続いていた。
世界は、光貴の胸の中で起きていることなど少しも知らない顔をしていた。
それが、ひどく腹立たしかった。
あんなに自分の中では全部が壊れているのに、景色は平然と美しかった。車の窓の外では、見たことのない地形が次々に流れていく。黒い溶岩の大地。苔の緑。遠くに見える山。空の低い雲。風にあおられる草。灰色の海。
どれも、すごかった。
景色を見るたびに、利沙のことを思い出した。車に乗るたびに、利沙を乗せていた助手席を思い出した。遠くへ来るたびに、海沿いの遊園地の町や湖の地方まで走った道を思い出した。寒いと言う声を聞くたびに、利沙が寒いと文句を言っていた顔を思い出した。
アイスランドに来ているのに、彼の中ではずっとロンドンの部屋が鳴っていた。
米を炊いた夜。ぷよぷよテトリス。体温計。ハム。レモネード。洗濯物。糸ようじ。薄汚れる前のナイキ。利沙の寝顔。利沙の声。利沙の言葉。
大好きで愛おしいよ。
もりくんと一緒にいたい。
もりくんと生きていきたい。
その言葉たちは、旅行鞄に入れてきたわけでもないのに、彼についてきた。
どこへ行っても、ポケットの中で鳴っていた。
アイスランドは、もともと楽しみにしていた場所だった。
念願だった。
そして本当は、利沙とも行きたい場所だった。
いつか一緒に行きたいね、と何度も話していた。オーロラが見たいとか、滝がすごいらしいとか、レンタカーで回ったら楽しそうだとか。細かい計画があったわけではない。けれど、アイスランドはいつの間にか、二人の会話の中の「いつか」になっていた。
一緒に行きたいねと言っていた場所に、二人は結局、別々に行った。
光貴は、利沙ではない人たちと来ていた。
その事実が、景色を見る前から痛かった。
利沙は、出発前にそう言っていた。
アイスランドは念願やったんやから、ちゃんと楽しんで。大自然を感じてきて。楽しめなかったら、リラックスの旅行にし。
車は走っていた。
誰かが話していた。誰かが笑っていた。誰かが次の目的地を調べていた。車内には旅行の空気があった。
身体だけがアイスランドにいて、心はロンドンのどこかに取り残されていた。
友達と旅行に来ているのに。念願のアイスランドなのに。目の前にはこんなにすごい景色があるのに。自分は三十一歳にもなって、何をしているのか。
光貴は、景色を見ながら、何度も息を整えようとした。
大丈夫。旅行中だ。みんながいる。泣くな。今じゃない。帰ってから泣け。
けれど、涙はそういう指示を聞かない。
ある瞬間、ふっと出た。
何がきっかけだったのか、彼はよく覚えていない。
車窓の景色だったのか。誰かの何気ない言葉だったのか。スマートフォンを見てしまったのか。利沙の文章を思い出したのか。ただ、疲れていたのか。
全部だった。
目の奥が熱くなって、鼻の奥が痛くなって、胸の中で堰き止めていたものが、急に決壊した。
涙が出た。
みんなの前で。
光貴は、人前で泣くタイプではないと思っていた。
少なくとも、自分ではそういう人間だと思っていた。しんどい時でも、笑う。悲しい時でも、冗談を言う。真面目になりすぎそうな場面では、少し茶化す。自分の弱さを、なるべく軽い言葉で包む。
そうやって生きてきた。
なのに、その時は何も包めなかった。
涙は、ただ出た。
笑いに変えられなかった。冗談にもできなかった。茶化す余裕もなかった。
ただ、泣いていた。
肝太は、静かに寄り添ってくれた。
「なんか嫌だな、おれ」
そんなふうに、光貴の悲しみに無理やり結論を出さず、ただ一緒に嫌がってくれた。その言葉は不思議とありがたかった。慰めよりも、正論よりも、共感に近かった。
健太は少し微妙な顔をしていた。彼自身の恋愛も当時複雑で、どちらかというと利沙に近い場所で悩んでいたからかもしれない。責めきれない。分かってしまう。でも、光貴が傷ついていることも分かる。そんな顔だった。
失恋でこんなに泣いたのは、初めてだった。
涙を拭きながら、光貴は少し笑いそうになった。
普通に泣いてるやん。
そんな自分へのツッコミだけが、かろうじて残っていた。
米を炊いた夜。利沙が力尽きたように寝た夜。体温計を買ってきてくれた夜。湖の地方の星空。海沿いの遊園地の町の遊園地。カツ丼。寿司。洗濯物。糸ようじ。
滝はただ落ちていた。風はただ吹いていた。山はただそこにあった。
車は進んだ。
涙が出ても、次の目的地には着く。泣いても、腹は減る。泣いても、夜は来る。泣いても、朝は来る。
好きだった。
それだけだった。
アイスランドの空は、相変わらず広かった。
光貴は涙を拭いて、息を吐いた。
景色はまだ美しかった。
美しいと思えたかどうかは分からない。でも、目の前にあることだけは分かった。
彼はそこにいた。
利沙はいなかった。
ずっと後になって、光貴はその旅行を思い出して少し笑うようになる。
名前のない四ヶ月は終わった。翌朝も、腹は減った。
終章 名前のない四ヶ月
光貴は今でも、あのナイキを履いている。
白かったはずのスニーカーは、もうずいぶん薄汚れている。
つま先には小さな擦れがあり、ソールの端には落ちない汚れがある。
それでも、履きやすい。
だから彼は、今日もそれを履く。
特別な日ではない。
誰かに会うためでもない。
どこか遠くへ行くためでもない。
ただ、外に出るために。
靴紐を結ぶとき、海沿いの遊園地の町のことを思い出すことがある。
アウトレットのこと。
カツ丼と寿司のこと。
ロンドンから遠すぎる場所まで、何度も車を走らせたこと。
湖の地方の星空。
寒い夜。
利沙が隣にいたこと。
思い出そうとしなくても、足元から勝手に戻ってくる記憶がある。
けれど、もう痛みは鋭くない。
昔は、その靴を見るだけで胸の奥がざらついた。
今は、少し汚れてきたな、と思う。
それだけで済むようになった。
同居人でもなかった。
約束でもなかった。
未来でもなかった。
米を炊いた夜。
仕事終わりのぷよぷよテトリス。
罵り合いながら笑って、力尽きたように眠った夜。
首に瘤ができて、体温計を買ってきてもらった夜。
ハム。
レモネード。
歯磨き粉。
縮んだセーター。
洗濯物。
糸ようじ。
海沿いの遊園地の町。
湖の地方の星。
アイスランドで泣いた自分。
どれも、少しずつ遠い。
でも、消えてはいない。
利沙は、光貴を好きだったのだと思う。
今でもそう思う。
あの四ヶ月が全部嘘だったとは思わない。
光貴も、利沙を好きだった。
でも、最初から愛し切る覚悟を持てていたわけではなかった。
あんなに壊れていたのに、どこかで言葉にしようとしていた。
怒りだけで終わらせたくなかった。
利沙が今どこで、誰と、どんな生活をしているのか、光貴は詳しくは知らない。
風の噂は、風の噂のままだった。
幸せに暮らしていてほしいと思う。
強がりではなかった。
光貴は靴紐を結び終える。
薄汚れたナイキのつま先が、玄関の光の中にある。
あの日の痛みも、同じ形ではない。
玄関で避けなくなった。
靴箱の奥に隠さなくなった。
汚れた白を、汚れたまま履けるようになった。
光貴はドアを開ける。
外の空気が入ってくる。
ロンドンではない。
海沿いの遊園地の町でもない。
湖の地方でもない。
アイスランドでもない。
今の場所だ。
あの四ヶ月は、ここにはない。
でも、ここまで来る道のどこかに確かにあった。
運命の人ではなかった。けれど、偽物でもなかった。今は、それで十分だった。
光貴は外へ出る。
薄汚れたナイキで、一歩を踏み出す。
あの場所へ戻るためではない。
あの場所を通ってきた足で、今日の道を歩くために。