
菌床|連作短編③
あらすじ
山に入ったのではない。山を連れて帰ってきた。
環境コンサルタントの綿貫は、山林調査中に未知の菌糸を発見する。
豪雨による土砂崩れの中、菌糸が張る場所だけが崩れずに残るという異常な光景。
採取を終え、会社へ戻った綿貫は、自分の靴に白い菌糸が付着していることに気付く。
それは山の中だけに存在するものではなかった。
人は知らないうちに、それを運んでしまう。
菌床
山へ入る仕事は嫌いじゃない。
……好きでもない。
自然が好きだから今の会社に入ったわけじゃない。大学で環境科学を学び、そのまま環境コンサルタント会社へ就職した。仕事は開発予定地の自然環境を調査し、希少な動植物の有無を報告することだ。
工事を止めるためではない。工事を進めるために、止めなくてもいい理由を探す仕事。そんな言い方をすると聞こえは悪いが、これが現実なのだから、どうしようもない。
今日も山北町の山林へ来ていた。来年には物流施設が建つ予定らしい。調査員は俺と後輩の二人だけだった。
「綿貫さん、キノコってどうです?」
後輩の佐伯がリュックを背負い直しながら聞いた。
「専門外」
「ですよね」
「植物屋が来る予定だったけど、向こうも人手不足だってさ」
そう答えながら林道を歩く。七月初旬。昨日まで降っていた雨のせいで地面は柔らかかった。
湿った土の匂い、落ち葉、沢の音。毎年見ている景色だ。違和感に気付いたのは、尾根を越えたあたりだった。
「……白いですね」
佐伯が立ち止まる。斜面一面に、小さな白いキノコが生えていた。一本や二本じゃない。
何百、何千と。数えるのは無理だ。地面から雪が染み出してきたような光景に、全身が粟立つ。俺は集合体恐怖症……とまではいかないが、無理なのだ。小さなものの集まりが。なぜこの職についてしまったのか。
「こんなの、見たことあります?」
「さあ」
俺はしゃがみ込む。傘は五百円玉くらいで、柄は細い。どこにでもありそうな姿なのに、名前が浮かばない。
スマホで撮影し、図鑑アプリを開く。検索結果は、該当なし。
調査を進めると、木の根本以外に、岩の上にも映えているようだ。不自然なほどに、倒木には一本も生えていない。それどころか、なぜか、狭い林道だけに集中して群生している。
「こいつら、人間好きなんですかね」
佐伯が笑って言う。
俺と佐伯は事務所へ戻り、写真を拡大してみた。ある一枚で違和感を覚える。
地面に写っている白い線。菌糸だ。菌糸なんて、普通なら一本ずつの状態では、なかなか肉眼で確認することは難しい。それなのに写真を確認する限り、これらは一本一本が、地表を血管のように走っている。
「何だこれ」
「気持ち悪いっすね」
「一旦、上に報告しよう」
「そっすね。天気も怪しいし」
低く垂れ込めた厚い灰色の雲に、明るさを奪われ始めている。俺たちはこれらの写真を手早く撮って、急ぎ帰社した。
所長の小林さんに、見てきたものをありのまま報告する。
「図鑑にも載っていませんでした。珍しい菌かもしれません」
小林さんは、少し興味を示す。
「悪いんだけど、明日また改めてサンプルを採ってきてくれないか。大事にはならないと思うが、念のため専門家に回そう」
その夜、神奈川県西部で記録的な大雨が降った。風呂上がりにタオルで髪を拭きながらそれとなくつけたテレビでは、ニュースで土砂災害警戒情報が出ている。
「マジかよ……。明日は無理だな」
俺は缶ビールのプルタブに手を掛ける。その時、ローテーブルの上のスマートフォンが震える。佐伯からの着信だった。
「綿貫さん、今ニュース見てます?」
「見てるけど」
「ちょっと、変なこと言っていいですか」
「どうした?」
「綿貫さん、明日の調査なくなるかもしれません」
「やっぱり、流石に雨で崩れた?」
「いや……逆です」
「は?」
「土砂崩れで林道が全部埋まったらしいんですけど、今日キノコが生えてたところだけ道が残ってるそうです」
「え?」
「しかも、崩れた斜面、全部キノコが生えてたところを避けるように崩れてるんですよ」
「……いやいや、流石に偶然だろ」
「土木事務所の人から小林さんに電話があったらしいです」
「こんな大雨なのに? 何で?」
「さあ……細かい事情までは聞いてません。でも」
佐伯は一拍置いた。
「『林道は土砂でほぼ埋まった。でも、お前らが歩いてた場所だけ、そこだけ残ってる』って」
「……は?」
思わず間の抜けた声が漏れた。
「俺も最初は聞き間違いかと思いました。でも、小林さんが『明日、自分の目で確かめる』って。しかも一人で行くって聞かなくて」
「いや、俺たちも行った方がスムーズだろ。俺からも小林さんに連絡しておくよ」
「ですよね。じゃあ、明日」
電話が切れたあとも、しばらく画面を見つめたまま動けなかった。
雨は夜になっても降り続き、窓を叩く音だけがやけに耳につく。
もし本当に、あの場所だけが残っているのだとしたら、それは偶然なのか。
電話を切ってからも、しばらくスマートフォンを握ったままだった。画面はとうに暗くなっている。佐伯の最後の言葉だけが、頭の中で何度も反芻された。
――林道はほぼ埋まったけど、お前らが歩いてた辺りだけ残ってる。
意味がわからない。
土砂崩れなんて、都合よく一部分だけ避けて流れるものなのだろうか。いや、考えなくてもわかる。そんなわけがない。窓の外では雨が降り続いていた。
◇
昨日より勢いは弱まったようにも見えるが、それでも地面を叩く雨音は絶えない。
ニュースでは県西部で記録的な大雨が続いていると繰り返していた。山間部では土砂災害への警戒を呼びかけている。画面の隅に映る地図は、昨日まで自分が歩いていた山を指しているように思えた。
眠れたのかどうかもよくわからないまま朝になり、佐伯から「九時に迎えに行きます」と短いメッセージが届いた。有無も言わさず決行するのか。気乗りしないが、それでも確かめたい気持ちがなかったとは言えない。
もし本当に、あの場所だけが崩れずに残っているのなら、何か理由があるはずだ。
車に乗り込むと、小林さんが運転席に座っていた。助手席には佐伯がいる。
「おはようございます」
いつもの調子で挨拶する佐伯とは対照的に、小林さんは左手を上げて短い挨拶を返しただけだった。表情が硬い。
車が走り出してもしばらく誰も口を開かなかった。ワイパーが一定のリズムで雨粒を払う。その音だけが車内を満たしていた。
「土木事務所の知り合いから朝一番で連絡が来た」
沈黙を破ったのは小林さんだった。
「夜のうちに応急で状況を見に行ったらしい。林道は途中から完全に埋まってるって」
「……やっぱり」
佐伯が小さく呟く。
「でも」
小林さんは続けた。
「一つだけ妙なことを言ってた」
ハンドルを握る手に力が入る。
「お前らが昨日歩いた場所だけ、避けるように残ってるって」
誰も返事をしなかった。言葉にしてしまうと、本当にそんなことが起きたような気がしてしまう。
「見間違いじゃないですか」
ようやく絞り出した声は、自分でも情けないほど弱かった。
「俺もそう思った」
小林さんは苦笑いを浮かべる。
「だから確認しに行くんだ」
その一言で会話は終わった。舗装道路を離れ、林道へ向かう細い道に入る。昨日まで見ていた景色が、今日は別の場所に見えた。
路肩には折れた枝が散乱し、ところどころ小石が転がっている。山肌からは細い滝のように濁った水が流れ落ちていた。やがて車が止まる。
「ここから先は歩こう」
昨日停めた場所よりずっと手前だった。その先には黄色いバリケードが置かれ、「通行止」の文字が赤く目立っている。雨は小降りになっていた。
レインウェアのフードを被り直し、三人で歩き始める。
湿った土の匂いが鼻につく。昨日あれほど鳴いていた鳥は一羽も見当たらない。川の流れる音だけが、やけに大きく聞こえる。
十分ほど歩いたところで、小林さんが立ち止まった。
「……あれだ」
顔を上げる。思わず息を呑んだ。山肌がごっそりと消えていた。木々ごと抉り取られた斜面が、むき出しの土を晒している。濁流の跡が帯のように続き、折れた杉が何本も横倒しになっていた。
「あちゃー。こりゃひどいっすね……」
佐伯が呟く。
昨日まで道だった場所は土砂に覆われ、どこが地面だったのかわからない。自然が一晩で景色を書き換えてしまったようだった。
「……え」
さらに先を見て、言葉を失う。土砂はそこで途切れていた。ぽっかりと、誰かが長方形に切り抜いたように。幅にして十四、五メートルほど。俺たちが昨日調査した周辺だけが、アンバランスに残っていた。ぬかるんではいるが、かろうじて道のような形を保っている。
「おかしいだろ……」
小林さんがゆっくり近づく。足元を見て、斜面を見上げ、また地面を見る。何度も首を振った。
普段は落ち着いている小林さんの声がわずかに震えている。
「あり得ないんだよ、こんな崩れ方は」
その言葉を聞いた瞬間、背中を冷たいものが這い上がった。偶然じゃない。そう思ってしまった。あの奇妙なキノコが群生していた場所。俺たちは確かに、そこを歩いていた。
視線が自然と地面へ落ちる。湿った土、散らばる落ち葉、そして、その奥。
昨日見たものが、また土の隙間から顔を覗かせていた。白い菌の帯だけが、一本の道のように山を貫いている。崩れた斜面との境界は、不自然なくらいはっきりしていた。そこから先だけに、昨日見た景色がそのまま残っている。
倒木も、下草も、白いキノコも。誰かが定規を当てて土砂崩れを止めたかのようだった。
「……写真」
小林さんが我に返ったように言う。
「まず記録を残そう」
俺たちは黙って頷いた。こういう時、仕事というものは便利だ。目の前の異常を”調査対象”に変えてしまえば、恐怖を考えなくて済む。
俺はカメラを取り出し、位置情報を記録しながら何枚もシャッターを切る。
全景。崩落との境界。菌類の群生。昨日と同じように撮っているつもりなのに、ファインダー越しの景色は別世界だった。
「綿貫さん」
佐伯がしゃがみ込んで地面を指差した。
「昨日より増えてません?」
「……何が」
「菌糸です」
近付いてみる。昨日は気のせいかと思った白い線が、今日は誰の目にもわかるほど太くなっていた。落ち葉の隙間を縫うように、幾重にも枝分かれしている。
雨で土が流されたから見えているだけ。そう考えようとしたが、違う。一本一本が、昨日より明らかに太い。まるで植物の根ではなく、血管のようだった。
「それも写真に残しておけ」
小林さんが言う。
「サンプルを採るぞ。同定に出そう」
「図鑑にも載ってませんでしたしね」
「餅は餅屋だ。菌類は専門家に見てもらうのが一番早い」
俺は接写に切り替える。シャッターを押すたび、妙なことに気付く。
菌糸が途切れていない。一本一本が必ずどこかへ続いている。切れ端が一つもない。目で追えば追うほど、地面の下へ潜っていき、また別の場所から現れる。どこまで続いているのか見当もつかない。
「採りますか」
佐伯がリュックから採集用のナイフを取り出す。
「予定どおり頼む」
小林さんは短く答えた。佐伯は一番手前のキノコをつまみ、軽く引っ張った。
「……あれ」
抜けない。
「根が深いのか?」
「ですかね」
今度はナイフを差し込もうとする。刃先が土へ入った瞬間だった。カツン、と硬いものに当たる音がした。
「石?」
佐伯は場所を変える。また同じ音。少し離れた場所で試してみても、やはり入らない。
「そんなわけ」
俺もスコップを借りて掘ってみる。表面の柔らかい土はすぐに崩れた。だが三センチほど掘ったところで、金属音が止まる。
岩盤ではない。妙な弾力がある。押し返してくるような感触だった。
「……何だこれ」
さらに力を込める。その瞬間だった。
ぐにっ。
足の裏から妙な感触が伝わった。思わず顔を上げる。地面が動いた。というより、動いたように見えた。
キノコ一本の話ではない。群生している一帯が、呼吸するみたいにわずかに波打った。
「見ました?」
佐伯が青ざめた顔でこちらを見る。
「……見た」
小林さんは何も言わずに、足元だけをじっと見つめている。
雨粒がレインウェアを叩く音だけが聞こえた。やがて小林さんは低い声で言った。
「採取は中止だ」
「でも」
「中止だ」
その口調に反論はできなかった。十年近くも 一緒に仕事をしてきたが、小林さんがあんな声を出すのを初めて聞いた。
「写真だけ持って帰ろう」
小林さんの一言で、その場は終わった。誰も採取の話はしなかった。車へ戻るまで、三人ともほとんど口を利かなかった。雨は上がり始めていた。空はまだ鉛色なのに、林道だけが妙に明るく見えた。あの白い帯がこちらを見ているような気がした。
◇
会社へ戻ると、俺たちは撮影データをパソコンへ取り込んだ。
小林さんは土木事務所へ連絡し、崩落状況を確認している。佐伯は撮影位置を地図へ落とし込んでいた。
俺は写真を一枚ずつ拡大していく。全景、境界、菌糸。どれも現場で見たとおりだった。異常なのに、写真になると現実味が増す。
「綿貫さん」
佐伯がモニターを覗き込む。
「これ、見てください」
画面の端だった。俺が地面を撮った一枚。そこに、自分の長靴の先端が少しだけ写り込んでいる。
「……それが?」
「昨日、この白い線ありました?」
靴底から地面へ伸びる一本の線。いや。違う。地面から靴底へ伸びている。
「写り込みじゃないかな」
「そう思ったんですけど」
佐伯は昨日撮った写真を並べた。昨日はない。今日だけだ。
偶然だ。菌糸が靴に触れていただけ。そう考える方が自然だ。
「こんなの、よく気がついたな。佐伯って、本当に環境コンサル向いてるよ」
「いや、でもこれ違和感半端ないっすよ」
「きーにーしーすーぎー」
何となく佐伯をいじることで誤魔化した。佐伯は不服そうに俺を見ている。
そうだ、大抵の不安や心配ごとは現実には起こらない。きっと、そうだ。
◇
事務所のカビ臭い男子更衣室で長靴を脱ぐ。泥だらけだ。早く着替えたい。
いつものように長靴をホースで洗おうとして、手が止まる。
溝に、白いものが詰まっていた。泥じゃない。細い糸が集まった綿のようなものだった。
「……」
指先で摘まむ。思ったより強い。引っ張っても切れない。するりと抜けて、十センチほどの白い糸が一本、俺の手に残った。
さっきの菌糸だろうか。現場で付着しただけだろう。水道で洗い流そうとした。流れない。
排水口へ落ちたと思った糸は、水の流れに逆らうようにシンクの縁へ張り付いた。
「気持ち悪いな……」
ティッシュで包み、そのままゴミ箱へ捨てると、革靴に履き替えた。
翌朝、出勤しようとして違和感を覚えた。革靴の爪先に、ほんのりと白い埃のようなものが付着している。昨日の菌糸だろうか。いや、用具室で靴は履き替えたはずだ。
「何だよ……」
慌てて裏返す。菌糸は靴底だけじゃなかった。中敷きの隙間や、靴紐、縫い目にまで入り込んでいた。
スマートフォンが鳴る。佐伯だった。
「もしもし」
『綿貫さん』
声が震えていた。
『変なこと聞くんですけど』
「どうした?」
『靴、何ともありませんでした?』
心臓が一つ、大きく鳴った。
『俺、昨日ちゃんと事務所で履き替えたんです』
佐伯が息を呑む音が聞こえた。
『なのに、朝見たら……ローファーにも生えてるんですよ、アレが』
その瞬間、玄関のたたきに置いた革靴の先から、一本の白い糸がゆっくりと床へ伸びた。まるで、新しい地面を探すように。
「……嘘だろ」
俺は革靴を持ち上げた。
白い糸はぷつりと切れ、床に残った先端だけがゆっくりと丸まり、畳の縁へ這っていく。反射的にティッシュで拭き取る。
それでも気持ち悪さは消えなかった。電話の向こうで佐伯が言う。
『これ、報告した方がいいですよね』
「だろうな」
そう答えたものの、会社へ何と説明すればいい。
――靴から菌糸が生えてきました。
そんな報告書を書いたところで、誰が信じる。
◇
その日、出社すると事務所は妙に騒がしかった。
「綿貫」
小林さんに呼び止められる。
「急ぎで悪い。来週の沼津の案件、お前行けるか」
「沼津ですか」
「ああ。物流センター予定地だ」
「また、山ですか」
「悪いな」
俺は頷いた。断る理由はない。その横で、佐伯が固まっていた。
佐伯の視線の先を見る。車の荷室に調査道具が積まれている。その一番下に、昨日洗った俺の長靴が置いてあった。
靴底から伸びた白い糸が、荷台のゴムマットへ静かに絡みついている。俺と佐伯以外、誰も気付いていない。
山の中で見た菌糸は、一本も途切れていなかった。全部、どこかへ続いていた。
あれは山の中だけの話じゃない。俺たちは採取しなかった。持ち帰らなかった。そう思っていた。違う。運んでしまった。靴で、車で。人間が歩く限り、あれはどこへでも広がる。
物流施設予定地、道路、工事現場、次の山。そして、また次の山へ。
俺は荷台の長靴から目を離せなかった。白い糸は、静かに、次の現場を目指していた。
靴底には、まだ白い土がこびり付いていた。