
第12章|出発点
不安が消えたわけじゃない。
ただ、期待の方が少しだけ大きかった。
そういう朝だけ、人は未来を信じられる。
エンジンは、一度だけ喉を鳴らしてから目を覚ました。
「起きた」
助手席のカイが言う。
その声が少しだけ柔らかい。
配信ではもっと喋るくせに、こういう時は必要最低限しか言わない。
車に対してだけは、妙に優しい。
ユウは何も返さず、ハンドルを握る。
指先だけが、ほんの少しだけ固い。
後部座席は狭かった。
ギターケースの角が脚に当たる。
絢音の荷物が少しだけルナの肩に触れる。
ユイナは「せまっ」と言いながら笑っている。
「こういうの、ちょっといいね」
絢音が窓の外を見ながら言う。
「何が」
ユイナが聞く。
「始まる感じ」
それを聞いて、ルナは少しだけ笑った。
始まる感じ。
たしかに、そうだった。
ナビの画面には、目的地。
名古屋。
Aosagi主催ツアー初日。
三バンド。
トップバッターはSlowRush。
文字にすると急に重いから、誰も読み上げない。
「行くぞ」
ユウが言う。
車がゆっくり動き出す。
住宅街が流れていく。
派手な見送りも、出発式もない。
花束もないし、歓声もない。
でも、それでよかった。
こういう始まり方の方が、自分たちらしい気がする。
「トップだよな」
絢音がぽつりと言う。
「白い空気を最初に汚す係」
カイが言った。
「汚すって言い方どうなの」
ルナが聞く。
「でも分かる」
ユイナが笑う。
「最初って、そういう感じじゃん」
白い空気。
まだ誰のものでもない時間。
そこに最初の一音を置いて、自分たちの色に変えていく。
ルナは、その瞬間が昔から好きだった。
十三歳の頃、渋谷の路上でもそうだった。
誰も立ち止まらない夜に、自分の声だけを置く。
最初は白い空気。
でも、歌い始めると少しずつ景色が変わる。
そういう瞬間を、何度も信じてきた。
高速道路に入る。
エンジン音が少しだけ落ち着く。
窓の外の景色が伸びる。
ビルが減って、空が少し広くなる。
「今日、勝とうぜ」
ユイナが言う。
「誰に」
カイが聞く。
「空気に」
誰も笑わなかった。
たぶん全員、それで意味が通じたからだ。
Aosagiのファンが多いだろう。
SlowRushの客もいる。
カイのフォロワー経由で来る人もいる。
ワンマン配信を見て気になった人もいる。
でも、その全部をひっくるめて、最初に空気を掴めるかどうか。
今日の勝負はそこだった。
「ルナ、緊張してる?」
ユイナが聞いた。
「してる」
ルナはすぐ答えた。
「でも嫌じゃない」
それは本当だった。
怖い。
でも、逃げたい怖さではない。
走る前の、ちょうどいい熱に近い。
名古屋が近づく。
車の中は少し静かになった。
緊張、というより集中だった。
ユウは前だけを見ている。
たぶん頭の中では、搬入の順番とか、機材の動線とか、タイムテーブルのズレを考えている。
そういうことを考えてる時のユウは、話しかけてもあまり意味がない。
カイはナビを見ているふりをして、たぶん何かフレーズを反復している。
足先が、かすかにリズムを刻んでいた。
絢音は目を閉じていた。
寝ているように見えるけれど、たぶん違う。
こういう時の絢音は、頭の中で鍵盤を弾いている。
ユイナはスマホを見ながら、時々こっちを見る。
空気が重くなりすぎないようにしている顔だ。
ルナは、自分の膝を指で叩く。
五人。
その響きはもう少し特別でいたかったのに、
最近はだんだん自然になってきた。
それが、少しだけ嬉しい。
名古屋に着くと、会場前にはもう列ができていた。
Aosagiのロゴタオル。
SlowRushのTシャツ。
知らない顔。
知っている顔。
「ちゃんといるな」
ユウが呟く。
その声に、少しだけ安堵が混じる。
SlowRushはもう、無名ではない。
でも、まだ主役でもない。
それが今の立ち位置だった。
会場の裏口から入り、楽屋へ向かう。
壁に貼られた古いフライヤー。
独特の湿った匂い。
ライブハウスの空気は、どこも似ていて、でも少しずつ違う。
楽屋の前で、ルナは一度だけ深呼吸した。
ノックする。
「失礼します」
中にいたのは二人だった。
渚とノエル。
Aosagiは三人組のはずだから、一人足りない。
でも、その違和感より先に、空気の強さが入ってきた。
「よろしくお願いします」
ルナが言う。
「こちらこそ」
渚が穏やかに笑う。
目が合う。
一瞬だけ、変な感じがした。
懐かしい、というほど輪郭はない。
でも、心のどこかに薄い影が落ちる。
気のせいだと片付けるには、少しだけ残る。
「リアムは?」
ユウが聞く。
「ちょっと席外してる」
ノエルが答えた。
「すぐ戻ると思うけど」
ノエルは思っていたより柔らかい声をしていた。
もっと飄々としているのかと思っていたけれど、言葉の端にちゃんと気遣いがある。
「ワンマン配信、観ました」
渚が言う。
「すごく良かった」
短い言葉だった。
でも、適当な褒め方じゃないのが分かる。
「ありがとうございます」
ルナは少しだけ息を詰めながら答える。
Aosagiのリハは、短くて鋭かった。
すごい、と思うより先に、
ちゃんとしている、と思った。
迷いが少ない。
音の置き方に無駄がない。
広いのに、散らからない。
それだけで十分だった。
細かく比べるまでもなく、
自分たちが今から入る夜の基準が、少しだけ上がる。
楽屋へ戻ると、さっきまでより少しだけ全員の口数が減っていた。
悪い空気じゃない。
それぞれが、ちゃんと食らったものを自分の中で噛み直している感じだった。
ユイナはスティックを指の間で回し、
ユウはセットリストをもう一度だけ見て、
カイは何も言わずにギターのボリュームを確かめる。
絢音は壁にもたれたまま、目を閉じていた。
ルナはペットボトルの水を一口だけ飲む。
緊張はしている。
でも、さっき車の中で感じていたものとは少し違った。
もう始まってしまっている夜の中へ、自分たちも入っていく前の緊張だった。
「行こうか」
とユウが言う。
誰も返事はしなかった。
その代わり、全員が立ち上がった。
照明が落ちる。
ざわめきが一段下がる。
五人の呼吸だけが揃う。
初めての、五人でのツアー初日。
ユイナがスティックを鳴らす。
カウント。
ユウのベースが低く入る。
カイのギターが空気を裂く。
絢音の鍵盤が、その隙間を満たす。
ルナが歌う。
音が立ち上がる。
厚い。
三人だった頃より、明らかに厚い。
でも、ただ詰まっている感じではない。
選べる余白が増えた感じだった。
サビ。
客席が揺れる。
Aosagiのタオルを持った腕も、ちゃんと動いている。
見慣れない顔が、SlowRushの音に反応する。
成功だ。
間違いなく。
五人の音は、強くなっている。
表現も、確実に自由になっている。
なのに。
歌いながら、ルナは思ってしまう。
私は、進めている?
五人の音は前に走る。
カイのフレーズが刺さる。
絢音のコードが景色を変える。
ユウのベースが全部を支える。
ユイナのドラムが熱を煽る。
自分だけが、一歩遅れている気がした。
最後の曲が終わる。
拍手。
悪くない、どころじゃない。
かなりいい。
客席の熱も、手応えも、ちゃんとある。
でも、胸の奥に残るものは、達成感だけじゃなかった。
袖に戻る。
「いけるな」
ユウが言う。
「やばいじゃん」
ユイナが笑う。
カイは静かに頷く。
絢音は短く息を吐いて、少しだけ微笑む。
全員、前を向いている。
ルナだけが、ほんの少しだけ静かだった。
ツアーは始まった。
最高の滑り出し。
期待と、うまく名づけられない不安を抱えたまま。
そして、その“名づけられないもの”が、
少しずつルナの中を占めていくことを、
この時の彼女はまだ知らない。