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第8章|トウマが見ていたもの

    永遠の手前に立った夜のあとも、世界は普通に続いていく。
    けれど帰り際、ルナとトウマだけが少し残る。
    指先の小さな傷、貼られた絆創膏、変な夢の話。
    大きすぎるステージ、雨上がりみたいな光、そしてピンクの髪。


    永遠の手前に立った夜のあとも、
    世界は普通に続いていった。

    学校では相変わらず授業があり、
    私は相変わらず時計を見て、
    終礼が終わるとギターケースを背負って走った。

    渋谷の街も、
    何も知らない顔で夕方を迎えていた。

    コンビニの自動ドア。
    センター街の音楽。
    信号待ちの人混み。
    雨の跡が乾いた路地。

    どれも、昨日と同じだった。

    だから私も、
    全部が昨日と同じように続くのだと思っていた。


    その日も、私たちはいつもの場所に集まった。

    ユイナは学校帰りのまま段差に座り、
    ユウは少し遅れて、ベースケースを肩から下ろした。

    トウマは最後に来た。

    「今日、歌う?」

    「歌う」

    「いい返事」

    「歌うために来てるし」

    「えらい。初期ファンとして誇らしい」

    初期ファン。

    その言い方に、少しだけ笑ってしまった。

    たしかにトウマは、
    私の最初のお客さんだった。

    誰も立ち止まらなかった日に、
    一人だけ拍手をした人。

    その事実は、
    たぶん私の中でずっと消えない。

    私たちは、
    いつものように音を出した。

    ユイナは手拍子。
    ユウはベースを小さく。
    トウマは段差の前で、足だけで拍を取る。

    スタジオの音ではない。
    雨上がりの夜の音でもない。

    いつものコンビニ前の音だった。

    でも、
    前より少しだけ迷わなくなっていた。

    私がサビ前で急ぎそうになると、
    トウマが少しだけ身体を沈める。

    それだけで、
    息を吸う場所を思い出す。

    ユイナの手拍子が前へ進める。
    ユウの低い音が後ろから支える。

    曲はまだ完成していない。

    バンド名もない。
    ちゃんとした約束もない。
    次のスタジオ予約だって、
    ユイナが勝手に入れると言っているだけだった。

    でも、
    何かは確実に進んでいた。

    一曲終わると、
    トウマが大きく拍手した。

    「いい」

    「短い」

    ユイナが言う。

    「すごくいい」

    「足した」

    「成長した」

    「トウマの語彙が?」

    「俺が」

    ユイナが笑う。
    ユウが少しだけ口元を緩める。

    私はギターを抱えたまま、
    その光景を見ていた。

    昨日と同じ。

    そう思った。

    昨日と同じように、今日も楽しい。
    今日と同じように、明日も続く。

    疑う理由なんて、
    どこにもなかった。


    少し暗くなった頃、
    ユイナがスマホを見て顔をしかめた。

    「やば。帰らないと」

    「門限?」

    トウマが聞く。

    「違う。妹の迎え。完全に忘れてた」

    ユイナは立ち上がり、
    スティックケースを肩にかけた。

    「ルナ、また明日ね」

    「うん」

    ユウも時計を見て、
    ベースケースを持ち上げる。

    「俺も帰る」

    「勉強?」

    ユイナが聞く。

    「勉強」

    「正論の人生だ」

    「学生だから」

    ユイナは笑いながら手を振った。

    「トウマ、ルナを変なとこ連れていかないでよ」

    「今日は優良市民」

    「自分で言う人ほど怪しい」

    ユウが横から言う。

    「今日は逃げるな」

    「逃げない」

    「今日は、って言った」

    「細かいな」

    ユイナとユウは、
    人混みに消えていった。

    残ったのは、
    私とトウマだけだった。

    コンビニの明かりが、
    路地の端を白く照らしている。

    夜になりきる手前の渋谷は、
    少しだけ輪郭が柔らかい。

    「帰らないの?」

    私が聞くと、
    トウマは同じことを聞き返した。

    「ルナこそ」

    「ギターケースの紐、直してる」

    「直ってるよ」

    「確認してる」

    「確認も終わってる」

    「うるさい」

    トウマは笑った。

    私は本当に、
    ギターケースの肩紐を意味もなく触っていた。

    帰ればいい。

    帰らなきゃいけない。

    明日も学校だし、
    もう十分歌ったし、
    ユイナもユウも帰った。

    それなのに、
    足が動かなかった。

    帰りたくない。

    そう言いそうになって、
    私は肩紐を握り直した。

    言葉にしたら、
    この時間が急に本物になってしまう気がした。

    トウマは段差に座ったまま、
    私の方を見ずに言った。

    「もうちょい、いる?」

    その言い方が、
    ずるかった。

    私が言えなかったことを、
    先に言われてしまった気がした。

    「……少しだけ」

    「うん」

    トウマはそれ以上何も言わなかった。

    それが、
    少し嬉しかった。


    「ルナ」

    「何?」

    「指、赤い」

    言われて初めて、
    私は左手の人差し指を見た。

    弦を押さえていた指先が、
    少しだけ切れていた。

    血というほどではない。
    薄く赤くなっているだけ。

    「平気」

    「平気じゃない」

    「大げさ」

    「ギターボーカルの指は重要文化財だから」

    「何それ」

    トウマは立ち上がり、
    コンビニへ入っていった。

    私は段差に座ったまま、
    自分の指を見た。

    本当に、大したことはない。

    でも、
    トウマが気づいた。

    それだけで、
    指先より少し奥の方が熱くなった。

    しばらくして、
    トウマは小さな袋を持って戻ってきた。

    「一枚でいいのに」

    「一箱しか売ってなかった」

    「無駄遣い」

    「重要文化財の修復費」

    「言い方」

    トウマは隣に座り、
    絆創膏を一枚出した。

    「自分で貼る」

    私はそう言ったけれど、
    袋がうまく開かなかった。

    指先が痛いせいだ。

    たぶん、そうだ。

    「貸して」

    トウマが絆創膏を取る。

    指を取られた瞬間、
    心臓が変な鳴り方をした。

    痛かったからじゃない。

    そう思いたかった。

    トウマの指は少し冷たかった。

    ダンスをしているからなのか、
    手のひらには細かい硬さがある。

    その指が、
    私の指先に絆創膏を巻いていく。

    思ったより丁寧だった。

    ふざけたことばかり言うくせに、
    こういう時だけ妙に優しい。

    私は、
    自分の指を見ているふりをして、
    トウマの横顔を見ていた。

    近い。

    近すぎる。

    でも、
    離れてほしくなかった。

    「できた」

    私は自分の指を見る。

    白い絆創膏が、
    少しだけ斜めに巻かれていた。

    「下手」

    「味」

    「絆創膏に味いらない」

    「ある方がいい」

    私は笑った。

    笑ったら、
    指を取られていた時の変な音が、
    少しだけごまかせた気がした。

    「ありがと」

    そう言うと、
    トウマは一瞬だけ目を丸くした。

    「ルナが素直」

    「失礼」

    「いいことです」

    「もっと失礼」

    トウマは笑った。

    その笑い方が優しくて、
    私は少しだけ困った。

    どうして困るのか、
    その時の私はまだ知らなかった。

    知らないふりをしていたのかもしれない。

    ただ、
    もう少しこのまま座っていたいと思った。

    それだけは、
    はっきり分かっていた。


    「変な夢見た」

    トウマが言った。

    「夢?」

    「うん。ルナが、でかいステージで歌ってた」

    「夢かよ」

    「夢だよ」

    「スケールだけ大きい」

    「ほんとにでかかった。人がすごいいて、奥が見えないくらい」

    トウマは、
    少し遠くを見るように言った。

    「ライトもすごくてさ。
     雨上がりみたいに光ってた」

    雨上がり。

    その言葉で、
    昨日の横断歩道を思い出した。

    濡れた道路に伸びる街の光。
    赤信号の前で息を切らしていた四人。
    トウマの「ずっと覚えてたいよな」という声。

    「昨日の夢見ただけじゃない?」

    「違うと思う」

    「どう違うの」

    「もっと遠かった」

    「遠い?」

    「うん。遠いのに、近かった」

    「何それ。夢っぽい」

    「夢だから」

    トウマはそう言った。

    でも、
    その声は少しだけ夢っぽくなかった。

    「私、何歌ってたの?」

    「分かんない」

    「そこ分かんないんだ」

    「でも、声は分かった」

    トウマは私を見る。

    「すごい声だったよ。
     街じゃなくて、もっと広いところに届く声」

    私は少しだけ照れた。

    夢の中の話なのに、
    本物みたいに言われると、
    なんだか変な感じがした。

    嬉しい。

    たぶん、
    そうだった。

    でも、嬉しいと言うには、
    胸の中が少し落ち着かなかった。

    「あとさ」

    トウマが続ける。

    「髪、ピンクだった」

    「は?」

    思わず変な声が出た。

    「私が?」

    「うん」

    「ピンク?」

    「ピンク」

    「似合わないよ、そんなの」

    即答だった。

    トウマは笑った。

    「似合ってたよ」

    「絶対嘘」

    「嘘じゃない」

    「私がピンクって、ないない」

    「あると思うけど」

    私は自分の髪を指でつまんだ。

    その時の私は、
    まだ黒髪だった。

    学校の規則もあるし、
    そもそも髪を染めるなんて考えたこともない。

    ピンクなんて、
    もっとない。

    「夢の中の私、センス変だね」

    「センスよかったよ」

    「トウマの夢でしょ」

    「でも、似合ってた」

    それを言われると、
    返しに困った。

    ふざけている時のトウマなら、
    いくらでも言い返せる。

    でも、
    たまに彼は、
    まっすぐすぎる声で変なことを言う。

    そういう時の私は、
    いつも少しだけ弱かった。

    「……ピンクはないよ」

    結局、
    それくらいしか言えなかった。

    軽い会話だった。

    ただの夢の話。
    ただの冗談。

    たぶん、そういうものだった。

    それなのに、
    ピンク、という色だけが、
    妙に頭の中に残った。

    コンビニの白い明かりの下で、
    その色だけが少し浮いて見えるみたいだった。


    「ルナは行けるよ」

    トウマが言った。

    「どこに?」

    「すごいところ」

    私は笑った。

    「急に雑」

    「じゃあ、ルナの声がちゃんと届くところ」

    私は黙った。

    それは、
    少しだけずるい言い方だった。

    「そんなの、分かんないじゃん」

    「分かるよ」

    「なんで」

    「俺、最初に聴いたし」

    その言葉で、
    何も言えなくなった。

    最初の日。

    スクランブル交差点の端で、
    誰にも聴かれないまま歌っていた私に、
    トウマだけが拍手した日。

    もう一曲歌ってよ。

    あの一言がなかったら、
    たぶん私は次の日、渋谷へ行かなかった。

    ユイナにも会わなかった。
    ユウとも音を出さなかった。
    スタジオにも入らなかった。
    雨上がりの横断歩道で、
    四人で息を切らすこともなかった。

    そう考えると、
    トウマは本当に最初だった。

    私がまだ何者でもない時に、
    最初に立ち止まってくれた人。

    「最初に聴いたら、分かるものなの?」

    「分かる」

    「どうして」

    トウマは少しだけ考えた。

    「孤独の形って、声に出るから」

    私はトウマを見る。

    彼は、
    コンビニの明かりでも、
    街灯でもない方を見ていた。

    「ルナの声、ひとりだったけど、
     誰かを呼んでた」

    「何それ」

    「だから、届くと思った」

    「……よく分かんない」

    「分かんなくていいよ」

    トウマは笑った。

    「俺が分かってるから」

    その言い方が、
    優しくて、
    少しだけ胸が痛かった。

    私はたぶん、
    その言葉をずっと欲しかった。

    自分でも知らないうちに、
    誰かにそう言ってほしかった。

    大丈夫。
    届く。
    君はここだけで終わらない。

    そんな言葉を。

    それをトウマが言うから、
    余計に困った。

    嬉しいのに、
    泣きそうになる。

    近くにいるのに、
    もっと近くにいてほしくなる。

    私は、
    ギターケースの肩紐をぎゅっと握った。

    「トウマってさ」

    「うん」

    「たまに、ずるい」

    「何が?」

    「そういうこと言うところ」

    トウマは少しだけ驚いて、
    それから笑った。

    「褒めてる?」

    「褒めてない」

    「じゃあ、怒ってる?」

    「怒ってもない」

    「難しいな」

    「うん」

    本当に、
    難しかった。

    この気持ちに名前をつけたら、
    それまでの全部が変わってしまいそうだった。

    だから私は、
    名前をつけなかった。

    ただ、
    隣にいるトウマの肩が、
    少しだけ近いと思った。

    それだけでよかった。

    その時は、
    それだけで。


    そろそろ帰らなければいけない時間だった。

    分かっているのに、
    どちらも立ち上がらなかった。

    コンビニの前を、
    制服姿の高校生たちが笑いながら通り過ぎる。

    信号の音が遠くで鳴る。
    自動ドアが開く。
    冷たい空気が漏れる。

    夜の渋谷は、
    いくらでも理由をくれる。

    もう少しだけ座っていてもいい理由を。

    「明日」

    トウマが言った。

    「今日の曲、もう一回やって」

    「最後のやつ?」

    「うん。サビ前で、ちょっと止まるやつ」

    「あれ好きなの?」

    「止まりそうなのに、止まらない感じがする」

    「それ、褒めてる?」

    「褒めてる」

    「じゃあいい」

    トウマが笑う。

    その笑い方は、
    やっぱりいつも通りだった。

    だから、
    さっきの変な夢も、
    ピンク髪の話も、
    大きすぎるステージも、
    全部ただの冗談みたいに思えた。

    思いたかった。

    「明日も来る?」

    私が聞いた。

    「来るよ」

    「たぶん?」

    「たぶんじゃなくて」

    トウマはそう言って笑った。

    「ほんと?」

    「ほんと」

    私は安心した。

    してしまった。

    駅へ向かう道を、
    二人でゆっくり歩いた。

    会社帰りの人。
    制服姿の高校生。
    どこかへ急ぐ人。
    どこにも急いでいない人。

    トウマはその人混みの隙間を、
    いつもより少しゆっくり進んだ。

    私はギターケースがぶつからないように、
    その少し後ろを歩いた。

    駅の近くで、
    トウマが立ち止まった。

    「じゃ、俺こっち」

    「うん」

    「また明日」

    「また明日」

    そう言うと、
    トウマは軽く手を上げた。

    それから、
    人混みの中へ歩いていった。

    走らなかった。

    ふざけて振り返ったりもしなかった。

    ただ、
    いつもの背中のまま、
    ゆっくり人の流れに混ざっていった。

    黒いキャップ。
    細い背中。
    少しだけ斜めになった肩。

    何度か、
    人の影に隠れた。

    そのたびに、
    私はまた見えるのを待った。

    一度、
    トウマが振り返った気がした。

    気のせいだったかもしれない。

    それでも私は、
    小さく手を振った。

    トウマはもう、
    人混みの向こう側にいた。

    やがて、
    完全に見えなくなった。

    見えなくなってからも、
    私は少しだけそこに立っていた。

    大きすぎるステージ。
    雨上がりみたいな光。
    遠くまで届く声。

    そして、
    ピンクの髪。

    似合わないよ、そんなの。

    そう思ったのに、
    なぜかその色だけが、
    夜の中に残っていた。


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    総目次|SlowRush

     
     
    📘 Novel × 🎵 Music × 🎥 MV すべてAIで創り続けるプロジェクト。 小説「Parallel Lights」を元にした楽曲 『Before the World…』を公開中。 小説・作詞・作曲・アレンジ・MVをSuno / Sora2 / Canva など

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