
第9章|君のいない夏が始まる
「また明日」と言った声だけが、次の日の渋谷に残っていた。
ルナはまだ、遅れているだけだと思おうとする。
けれどリオたちの言葉は、トウマが自分たちの知らない場所で、知らない何かに触れていたことを少しずつ浮かび上がらせる。
七月の終わりが近づいていた。
夏はもう、とっくに始まっていたはずだった。
それなのに私は、まだその入口に立っている気がしていた。
何かが始まる前の、
それでいて、もう戻れないところまで来てしまったような、
そういう季節だった。
放課後、私はいつものように走った。
終礼の声が終わるより先に、心だけが教室を出ていた。
昨日、トウマは言った。
また明日。
たぶんじゃなくて、ほんと。
だから私は、渋谷に向かった。
約束というものは、紙に書かなくても人を走らせる。
そのことを、私はその時初めて知った気がする。
コンビニ前に着くと、ユイナが先にいた。
段差に座り、スティックケースを膝に乗せている。
髪の先が、湿った風に少しだけ揺れていた。
「早いね」
私が言うと、ユイナは顔を上げた。
「今日は学校、早く終わった」
「トウマは?」
名前を出した瞬間、ユイナの目がほんの少しだけ止まった。
まばたき一回分くらいの、小さな停止。
「まだ」
「ユウは?」
「来るって。ちょっと遅れるらしい」
「そっか」
私は隣に座った。
ギターケースを横に置く。
留め具に指をかける。
開けようと思えば、すぐ開けられる。
でも開けなかった。
ギターを出したら、今日が始まってしまう気がした。
まだ始まらない方がいい日もある。
十三歳の私は、そういう日があることを知らなかった。
コンビニの自動ドアが開き、冷たい空気が外へ逃げた。
すぐに湿気がそれを飲み込む。
街は、いつも通り騒がしい。
人の声。
信号の音。
どこかの店から漏れる音楽。
通り過ぎるスニーカーの底。
その中に、トウマの足音だけがなかった。
「遅いね」
私が言うと、ユイナはスマホを見た。
「うん」
「いつも遅いし」
「うん」
「来るよね」
ユイナはすぐには答えなかった。
その沈黙に、私は少しむっとした。
返事くらい、すぐできるはずだった。
来る、の二文字なんて、箸でポテトをつまむより簡単だ。
「来るでしょ」
私はもう一度言った。
今度はユイナが、私を見た。
「来るといいね」
それは優しい言葉だった。
優しい言葉は、たまに人を不安にする。
大丈夫、よりもずっと。
三十分ほどして、ユウが来た。
「遅れた」
いつもの言い方だった。
でも、私たちの間に空いている一人分の隙間を見ると、すぐに表情を変えた。
「トウマは」
「まだ」
ユイナが答える。
ユウはベースケースを下ろし、私の隣ではなく、少し離れたところに立った。
そこに立たれると、まるで何かの現場検証みたいだった。
私は余計に嫌になった。
「連絡は?」
「送った。既読つかない」
ユイナが言う。
「充電切れてるんじゃない?」
私が言った。
言ってから、自分でも下手な言い訳だと思った。
前にも聞いたことがある。
充電が切れていた。
寝ていた。
電車を間違えた。
道端で知り合いに会った。
トウマは、遅れる理由をいくらでも持っていそうな人だった。
「トウマなら、そういうことあるよ」
私は続けた。
ユウもユイナも、否定しなかった。
肯定もしなかった。
肯定しないことが、否定より怖い時がある。
私たちは待った。
一時間が過ぎた。
コンビニの前にいた高校生の集団がいなくなり、別の集団が来た。
スーツ姿の人が缶コーヒーを買い、外国人の観光客が地図を見ながら笑った。
自転車に乗った配達員が、誰かの夕食を運んでいった。
世界は、だいたい時間通りに動いていた。
トウマだけが、どこかで止まっているみたいだった。
「今日は帰ろうか」
ユウが言った。
「もう少し」
私は言った。
「ルナ」
「もう少しだけ」
ユイナがユウを見る。
ユウは小さく息を吐いて、何も言わなかった。
さらに少し待った。
それでもトウマは来なかった。
帰り道、私は何度も後ろを振り返った。
人混みの向こうから、黒いキャップが現れる気がした。
ごめん、遅れた。
そう言って、笑ってほしかった。
いつも通りに。
あたりまえみたいに。
私が怒る隙を先に潰すみたいに。
でも、声はしなかった。
その日が、あとから考えれば最初の日だった。
けれどその時の私は、まだそれに名前をつけなかった。
名前をつけると、物事は急に本当になる。
次の日も、私は渋谷へ行った。
今度は、ギターを弾くためではなかった。
待つためでも、少し違う。
確かめるため。
そう言うと大人っぽいけれど、実際はもっと情けなかった。
怖いものを見ないようにしながら、怖いものの近くまで行く。
それだけのことだった。
トウマからの返信はなかった。
ユイナのメッセージにも、ユウの連絡にも、何も返らない。
既読もつかない。
SNSも動かない。
「アカウント、消えてないよね」
私が聞くと、ユイナは画面を見たまま答えた。
「消えてない」
「じゃあ大丈夫じゃない?」
「消えてないことと、大丈夫なことは別」
ユイナの声が少し硬かった。
私は言い返せなかった。
ユウが眼鏡を直した。
彼がそうする時は、たいてい言葉を選んでいる。
「ダンサーの方、聞いてみる?」
「リオたち?」
ユイナが顔を上げる。
「トウマ、最近そっちにいたんでしょ」
その言い方が、少しだけ私の胸に引っかかった。
そっち。
私たちの知らないトウマ。
ダンスをするトウマ。
リオたちと話すトウマ。
私の歌を聴いている時とは別の顔を持つトウマ。
私はまだ、その全部をうまく並べられなかった。
「行く」
私が言うと、ユイナは一瞬だけ迷った顔をした。
「ルナは、ここで待っててもいいよ」
「行く」
もう一度言った。
子ども扱いされたと思った。
でもたぶん、ユイナは子ども扱いをしたのではない。
守ろうとしたのだと思う。
当時の私は、守られることと仲間外れにされることの違いを、まだよく知らなかった。
ダンサーたちが集まる広場は、いつものコンビニ前から少し歩いたところにあった。
音楽が鳴っている。
地面に置かれた小さなスピーカーから、低い音が跳ねていた。
誰かがステップを踏み、誰かが笑い、誰かがペットボトルの水を飲む。
その場所には、その場所の空気があった。
私たちのコンビニ前とは違う。
少し速くて、少し硬くて、少し大人びている。
リオは、壁際にいた。
前に見た時と同じように、姿勢がきれいだった。
髪を後ろでまとめ、片手にスマホを持っている。
私を見ると、すぐにトウマのことだと分かったような顔をした。
「来てないよ」
リオは、挨拶より先に言った。
ユイナが足を止める。
「いつから?」
「三日くらい。こっちにも来てない」
「連絡は?」
「つかない。既読もない」
同じ言葉が、別の口から出る。
それだけで、急に重くなる。
ユイナはリオの近くへ行った。
私は少し後ろに立った。
聞きたいのに、近づきたくない。
そういう面倒な距離を取った。
「最近、何か言ってなかった?」
ユイナが聞く。
リオは、すぐには答えなかった。
スマホの画面を消し、ポケットに入れる。
その動作が、妙にゆっくりに見えた。
「変だった」
「変?」
「もともと変だけど、そういう意味じゃなくて」
リオは苦笑した。
その笑い方に、少しだけ救われた。
トウマを知っている人の笑い方だったから。
「夜中に急に連絡してきた。『ピンクって、ありだと思う?』って」
私は息を止めた。
ピンク。
その色は、あの夜からずっと頭のどこかに残っていた。
大きすぎるステージ。
雨上がりみたいな光。
ピンクの髪。
トウマの変な夢。
「何の話?」
ユイナが聞く。
「分かんない。聞いたら、『似合うと思うんだよな』って。誰がって聞いたら黙った」
リオは私を見なかった。
見ないようにしたのかもしれない。
「それだけ?」
ユウが低く聞く。
「それだけじゃない」
リオの声が、少し小さくなった。
近くでステップを踏んでいた男の子が、音楽を止めた。
たまたまなのに、そこだけ空気が抜けたみたいに静かになった。
「知らない人たちといた。ダンスの知り合いじゃない。渋谷にいる、変な大人っていうか、半端に若い人たち」
「何してたの」
ユイナの声が鋭くなる。
「分かんない。でも、一人が言ってた。ないものが見えるとか、蜃気楼みたいに先が揺れるとか」
蜃気楼。
その言葉だけ、街の音から浮いた。
私は意味が分からなかった。
薬の話なのか、冗談なのか、怪談なのか。
どれにも聞こえるし、どれでもないようにも聞こえた。
リオは続けた。
「トウマ、そういうの馬鹿にするタイプだったじゃん。『未来なんか見えたら、明日の電車賃くらい当てたい』とか言って」
言いそうだった。
くだらないことを、真面目な顔で言う。
それで相手を笑わせて、自分は少し遅れて笑う。
「でも、その日だけ違った。目が、遠かった」
「遠い?」
私が思わず聞いた。
リオが、初めて私を見た。
「今ここを見てるのに、ここじゃない場所を見てるみたいな目」
私は、トウマが話した夢を思い出した。
遠いのに、近かった。
あの時の言葉が、今になって変な形で返ってくる。
冗談だと思っていたものが、冗談ではなかったかもしれない顔で。
「それで?」
ユイナが促す。
リオは唇を噛んだ。
「そのあと、トウマが言った。『あいつ、ちゃんと届くんだな』って」
「誰が?」
「分かんない。聞いても答えなかった。『俺がいなくても、届くんだな』って」
私は、足元の影を見た。
自分の影なのに、少し知らないものみたいだった。
俺がいなくても。
そんな言い方をする理由が分からなかった。
分からないのに、胸の奥だけが先に痛くなる。
「リオ」
ユイナが言った。
「他にもある?」
リオは迷った。
迷ってから、近くにいた男の子たちを少し見た。
誰もこちらを見ていないふりをしていた。
「あるけど、ルナちゃんには」
その瞬間、私の中で何かが熱くなった。
「私に言えないこと?」
声が思ったより大きく出た。
リオは驚いた顔をした。
ユイナも私を見る。
「私、トウマの仲間だよ」
そう言ったら、余計に子どもみたいに聞こえた。
でも、引っ込められなかった。
「知りたい」
私は言った。
知りたい。
本当にそう思った。
でも同時に、知りたくなかった。
その二つは、喧嘩をしない。
人の中で、平気で同じ椅子に座る。
リオは少し目を伏せた。
「ごめん。知らない方がいいこともある」
それは大人の言葉だった。
そして私は、大人の言葉が嫌いになった。
ユイナがリオに近づき、小さな声で何かを聞いた。
私は聞こえないふりをした。
本当は聞こえなかっただけだ。
ユイナの顔から、
血の気が引いた。
その瞬間、
私は何かを聞く前に、もう分かってしまった。
具体的なことは何も分からない。
どこで、いつ、何が起きたのか。
誰が何を言って、ユイナが何を知ったのか。
何も分からない。
それなのに、
分かってしまうことはある。
トウマが来なかった日から、
本当はずっと、胸の奥にあった。
遅れているだけ。
充電が切れているだけ。
どこかで踊っているだけ。
明日になれば、また笑って来る。
そう思おうとするたびに、
胸の奥で、別の答えが浮かんでいた。
違う。
私はその予感を、何度も押し戻していた。
形にしてしまったら、
もう立っていられなくなる気がしたから。
だから、
ユイナの顔を見た瞬間、
初めて分かったのではなかった。
分かっていたことが、
もう逃げられない形になっただけだった。
ユイナが戻ってきた。
「最近、あっちにも来てないって」
彼女はそれだけ言った。
私はうなずいた。
ユウは何も言わなかった。
何も言わない人が二人いると、世界は急に狭くなる。
「スマホは?」
私は聞いた。
「繋がらない」
ユイナが答える。
「家は?」
「知らない。トウマ、そういうの言わなかった」
「学校は?」
ユウが首を振った。
「ちゃんとは聞いてない」
私たちはそこで、初めて気づいた。
毎日のように会っていた。
一緒に歌った。
笑った。
走った。
逃げた。
アイスを食べた。
夜の横断歩道で息を切らした。
それなのに、トウマの帰る場所を誰も知らなかった。
どこの学校なのか。
家がどの辺なのか。
誰と暮らしているのか。
本当は何に手を伸ばしていたのか。
何を見てしまったのか。
何も。
仲間という言葉は、便利だ。
でも便利な言葉ほど、たまに中身を確認し忘れる。
私はトウマのことを、知っているつもりでいた。
最初に私の歌を聴いてくれた人。
変な冗談を言う人。
遅れて来る人。
踊る人。
私の指に、下手な絆創膏を貼った人。
でも、それはトウマの全部ではなかった。
トウマは、私たちの知らないところで、知らないものを見ていた。
それから何日も、私は渋谷を歩いた。
学校が終わると走る。
電車に乗る。
駅を出る。
人の流れに逆らう。
探す。
コンビニ前。
センター街。
ダンサーが集まる広場。
駅前。
路地裏。
前に警備員から逃げた道。
裏の駐車場。
大きなビジョンの下。
誰かが座っていた階段。
雨の跡が残りやすい細い道。
トウマがいそうな場所を、思いつく限り歩いた。
黒いキャップが見えた気がして走る。
笑い声が聞こえた気がして振り返る。
少し猫背の背中を追いかける。
曲がり角で立ち止まる。
全部、違った。
街には似た人が多すぎる。
似ている人は、希望ではなく罠だった。
見つけるたびに、見失う。
私はトウマを探していた。
でもたぶん、見つけたかっただけではない。
探している間だけ、トウマはまだどこかにいる人でいられた。
来ない人ではなく、まだ見つかっていない人でいられた。
それは大きな違いだった。
ユイナは私に付き合った。
ユウも来た。
私が歩けば、
二人も少し後ろを歩いた。
私が立ち止まれば、
二人も立ち止まった。
それが心配だからだということは、
分かっていた。
私がどこかへ行ってしまいそうに見えたのだと思う。
トウマみたいに、
急に見えない場所へ行ってしまうのではないかと。
そう思われていることに、
少し腹が立った。
でも、もっと奥では、
少しだけありがたかった。
一人だったら、
たぶんもっと遠くまで行っていた。
「そっちはだめ」
ユイナが言った。
「なんで」
「今日は、だめ」
「理由になってない」
「理由にしたくない」
ユイナはそう言って、
私の前に立った。
いつものみたいに雑に笑って、
冗談にして、
無理やり引っ張っていく声ではなかった。
「お願い。今日は、こっちにしよう」
その言い方がずるかった。
怒ることも、
押し切ることも、
できなくなった。
私はだいたい分かっていた。
二人が何かを隠していること。
それを言うべきかどうか、
ずっと迷っていること。
そしてたぶん、
私がもう分かっていることも、
二人は分かっていた。
それでも誰も、
決定的な言葉を口にしなかった。
私も聞かなかった。
聞けば、認めるしかなくなる。
認めれば、少しは楽になるのかもしれない。
でもその楽になる場所へ行くのが、
怖かった。
だから私は、
まだ探しているふりをした。
ユイナは、まだ止めきれないふりをした。
ユウは、まだ何も知らないふりをした。
三人とも、
少しずつ嘘をついていた。
誰かを騙すためではなく、
その夕方を終わらせないために。
「今日は、ここまでにしよう」
ユイナが言った。
その声は、
いつものユイナの声ではなかった。
明るくて、雑で、すぐ笑って、
人のことを勝手に決めて、勝手に引っ張る。
そういうユイナの声ではなかった。
壊れそうな声だった。
私は頷いた。
本当は頷きたくなかった。
でも、頷いた。
ユウが少しだけ息を吐いた。
誰も何も解決していなかった。
何も分かっていないことにして、
何も終わっていないことにして、
その日は駅の方へ歩いた。
時間が過ぎるのを待つしかなかった。
本当のことを言える日が来るまで。
本当のことを聞ける私になるまで。
それまで、
私たちは三人で、
知らないふりを続けるしかなかった。
一週間が過ぎた。
ユイナは、私の前ではなるべく普通にしていた。
「ルナ、今日ちょっとだけ歌う?」
「ううん」
「じゃ、座るだけ」
「うん」
「座るのも活動です」
「何の?」
「わかんない。部活っぽいやつ」
私は少しだけ笑った。
笑った瞬間、笑ってしまった自分に驚いた。
笑える。
トウマがいなくても、笑えてしまう。
そのことが、ひどい裏切りみたいに思えた。
ユウは、帰る前に必ず聞いた。
「明日は?」
私は答えた。
「来る」
行かないと、本当に終わってしまう気がした。
だから通った。
コンビニ前の段差に座る。
ギターケースを横に置く。
誰もいない路地を見る。
トウマがいないだけで、秘密基地はただの店の前に戻っていった。
石の段差は冷たい。
コンビニの明かりは白すぎる。
通行人の足音は全部よそよそしい。
あんなに安心できた場所が、急に他人の場所みたいになった。
「ルナ」
ある日、ユイナが言った。
「もう、探すのやめようとは言わない」
私は彼女を見た。
「でも、一人で遠くまで行くのはやめて」
「遠くって、どこ」
「分かんない。でも今のルナ、帰ってこない顔してる時がある」
「そんな顔してない」
「してる」
ユイナはすぐに言った。
強い言い方だった。
でも、怒っている声ではなかった。
「トウマみたいに、急にいなくなったら嫌なんだよ」
その言葉で、
私は何も返せなくなった。
ユイナはすぐに目を逸らした。
「……ごめん。今の、言い方悪かった」
「別に」
別に、ではなかった。
でも、そう言うしかなかった。
ユイナはスティックケースの持ち手を握りしめていた。
指の関節が、少し白くなっている。
私はその手を見て、
ユイナも怖いのだと分かった。
私だけが怖いわけじゃない。
私だけが、何かを失った顔をしているわけでもない。
それなのに私は、
ずっと自分だけが立っていられないみたいな顔をしていた。
「トウマはさ」
私は言った。
「明日また来るって言った」
「うん」
「ほんとって言った」
「うん」
「たぶんじゃなかった」
ユイナは黙った。
私はそこで初めて、自分の目に涙が溜まっていることに気づいた。
涙は、気づかないふりをしている時ほど勝手に集まる。
「たぶんじゃなかったのに」
声が震えた。
ユイナは何も言わず、私の隣に座っていた。
手を握るでもない。
肩を抱くでもない。
大丈夫とも言わない。
ただ、隣にいた。
それが一番ありがたかった。
大丈夫ではない時に、大丈夫と言われるよりずっと。
その週の終わり、私は一人で渋谷へ行った。
ユイナには言わなかった。
ユウにも言わなかった。
二人が嫌だったわけではない。
二人といると、私はまだ誰かに守られている人でいられた。
でもその日は、守られない場所に一人で座らなければいけない気がした。
夕方の街は、もう夏の匂いがした。
湿気が濃い。
空はまだ明るいのに、路地の奥だけ少し暗い。
遠くで、誰かの笑い声が跳ねる。
ビルの壁に反射した光が、妙に白い。
私はいつものコンビニ前に座った。
ギターは持ってきていた。
でも、すぐには出さなかった。
しばらくして、自動ドアが開いた。
誰かが出てきて、誰かが入っていく。
ただそれだけなのに、胸が詰まった。
最初の日も、街はこうだった。
誰も立ち止まらない。
誰も私の声を聴いていない。
私はギターをしまうことさえうまくできなかった。
あの日は、トウマがいた。
もう一曲歌ってよ。
それだけで、世界は少しだけ私の味方になった。
今は、いない。
その事実だけが、どうしようもなく本当だった。
私はギターケースを開けた。
留め具が小さく鳴る。
その音が、やけに大きく聞こえた。
ギターを抱える。
指先に弦が触れる。
絆創膏はもう貼っていない。
傷もとっくに消えている。
それなのに、指先だけが覚えていた。
トウマの冷たい指。
少し斜めに貼られた白い絆創膏。
下手、と言った私。
味、と返したトウマ。
記憶は、便利な順番では出てこない。
今いらないものほど、先に並ぶ。
私は弾いた。
誰も聴いていない。
通り過ぎる人は、やっぱり通り過ぎる。
立ち止まる人はいない。
それでも弾いた。
声は震えた。
途中で止まった。
歌詞なんてなかった。
ただ、一つの言葉だけが胸の奥で回っていた。
君のいない夏が始まる。
それは曲ではなかった。
まだ歌でもなかった。
泣き声に、たまたま音がついただけだった。
でも、その言葉は私の中に残った。
まだ名前のない傷みたいに。
夏が始まった。
梅雨明けのニュースを、どこかの店のテレビで見た。
アナウンサーは明るい声で言っていた。
今年も暑い夏になりそうです。
その言葉を聞いて、私は変だと思った。
夏は始まるものではない。
落ちてくるものだ。
上から、音もなく。
気づいたら、もうそこにある。
こちらの準備など聞かない。
トウマのいない夏が、何の断りもなく落ちてきた。
私は、まだ何も分かっていなかった。
トウマがあの夜、何を見たのか。
どうして未来みたいな話をしたのか。
どうして、俺がいなくても、と言ったのか。
誰といて、何に手を伸ばし、どこまで知ってしまったのか。
何も。
ただ、知らないのと、気づいていないのは違う。
十三歳の私は、それを知らなかった。
知らなかったことにした。
二人が本当のことを話してくれたのは、もっと後のことだった。
十六歳になった頃、
私はようやく自分から聞いた。
「あの時、本当は何を知ってたの」
ユイナはすぐには答えなかった。
ユウも、目を伏せた。
その沈黙で、私はほとんど分かってしまった。
本当は、十三歳の夏からずっと分かっていたのだと思う。
ただ、分かってしまう自分を止めていただけだった。
それでも、一番最初の音はここにあった。
十三歳の夏。
渋谷の片隅。
誰にも届かない声。
そして、もうどこにもいない人。
君のいない夏が、始まってしまった。