
第4章 | 小さな警告
音は、いつだって無防備だ。
だから守る人がいる。守り方が歪んだ人もいる。
そして危険は、笑って近づく。
ライブハウス〈スパーク〉のフロアは、すでに本番の空気をまとっていた。
天井の高い箱。
五百人が入るフロアは、まだ空なのに広く感じない。
音が満ちているせいだ。
「――はい、そこまで!」
ユイナがスティックを掲げる。
最後のクラッシュが天井に跳ね返り、ゆっくりと消えた。
「通し、問題なしだな」
ユウがベースを肩から下ろす。
「あとは本番で思いっきりやろう」
「珍しく意見が合った」
ユイナが笑う。
緊張はあるが、空回りはしていない。
ルナはステージ中央で、ギターを抱えたまま息を整えていた。
音は出ている。
バンドも噛み合っている。
それでも、胸の奥が落ち着かない。
――本番前特有のものだ。
そう思おうとした。
カウンターの向こうで、バーテンダーのカズマがグラスを磨いていた。
手は止めない。視線だけが、フロア全体をゆっくり巡回する。
彼の目は監視カメラより静かで、監視カメラより厳しい。
「音、仕上がってる」
ステージを見たまま、カズマはそれだけ言った。
励ましじゃない。確認だ。
確認って、信頼の別名でもある。
そのとき、フロア後方のドアが開いて入ってきたのはスーツ姿の二人組だった。
一人は二十代半ばの女性。すらりとした体つきにまとめ上げた髪、真っ直ぐな視線が印象的だった。もう一人は五十代前後の男で、皺の刻まれた表情が渋い。
「警察の者です。少しお話を伺ってもよろしいでしょうか」
女性は手帳を差し出した。宮本刑事と名乗り、隣の男は佐久間刑事だという。
「少し、バーテンダーの方にお話を」
カズマはグラスを置いた。
動きは自然で、慌てた様子はない。
「最近、この界隈で“ミラージュ”という薬物が出回っています。ライブハウスやクラブを狙って、若い子に知らないうちに飲ませるケースが多発してるんです」
宮本の声は硬いが、どこか切迫感があった。
「幻覚を見る薬です。強烈で、時には現実と区別がつかなくなるほどだと聞いています。先週も、ここからそう遠くない場所で若者が倒れて救急搬送されました」
ルナの胸がひやりとする。――幻覚。
昨夜の“幽霊”が思い出され、思わず背筋がのびた。
「もし怪しい客を見かけたとか、そういう噂でも構いません。何か心当たりはありませんか?」
宮本はカズマに向き直り、さらに畳みかけるように質問する。
「ドリンクに勝手に混ぜられることもあるんですよ。スタッフや常連さんの中に、不審な行動を取っていた人はいませんか?」
その一生懸命さに、ルナは少し好感を抱いた。若さゆえの真っ直ぐさ――危なっかしいけれど、嘘はないと感じられる。
「心配ない。少なくともこの店じゃ、そんな勝手は絶対にさせない」
淡々と言い切る声に、不思議な重みがあった。
佐久間が鼻で笑う。
「大口叩くなよ。お前の目の届かないところで、何が起きるか分からん」
「届くさ」
カズマは淡々と返した。
「俺はここにいる。ステージも客席もカウンターも、全部見てる。音楽を汚す奴がいたら、必ず気づく」
宮本は少し目を丸くして、軽く頭を下げた。
「……協力、お願いします」
二人が引き上げ、フロアに静けさが戻る。
ユイナが顔をしかめる。
「薬とか、最悪」
ユウが肩をすくめる。
「ライブハウスとは相性いいからな。光と音で、全部ブーストされる」
私は黙っていた。
“幻覚”という言葉が、胸の奥で何度も跳ねる。
カズマは、私にだけ聞こえるくらいの声で言った。
「ルナ。余計なものを背負うな」
「……余計なもの?」
「全部、薬のせいとは限らない」
その一言は警告だった。
そして、どこか“知っている側”の言い方だった。