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エピローグ|最高の夜に乾杯

    十三歳の夏を語り終えたルナは、照人のスタジオへ戻ってくる。
    渚と照人は、その話が Ghosted の奥にあった記憶だと気づく。
    戻らなかった過去、歌に置いた初恋。
    そして夜の終わりに、渚はアコギを手に取る。


    話し終えたあと、
    スタジオの空気が少しだけ重くなった。

    ゴーヤチャンプルーは冷めていた。
    オリオンビールの缶も、いつの間にか増えていた。
    渚が沖縄で買ってきたちんすこうだけが、
    やけに明るい箱のままテーブルの端に残っている。

    渚は、缶を両手で持ったまま黙っていた。

    照人も、ミキサーの前で何も言わなかった。

    さっきまであんなに沖縄料理を茶化していたのに、
    誰もゴーヤの苦さに文句を言わない。

    それが少しおかしくて、
    でも笑うほど軽くもなれなくて、
    私はグラスの氷を見ていた。

    「……そっか」

    最初に声を出したのは、渚だった。

    「それが、Ghostedなんだ」

    私は少しだけ首を横に振る。

    「全部じゃないよ」

    「うん」

    渚は頷いた。

    「でも、分かっちゃった」

    その言い方が、
    妙に渚らしかった。

    説明を求めるでもなく、
    答え合わせをするでもなく、
    ただ音の奥にあったものへ手を伸ばすみたいに。

    照人が静かに言う。

    「ユイナとユウは、知ってたんだな」

    「うん」

    「で、誰にも言わなかった」

    「言わなかった」

    私はグラスを置いた。

    「私が二人から聞けたのは、十六歳になってからだった」

    細かい言葉にはしなかった。

    でも、渚と照人には伝わったと思う。

    「たぶん、私が聞くまで待ってたんだと思う」

    「優しいな」

    「うん。優しすぎて、たまに腹立つくらい」

    渚が少し笑った。

    その笑いで、
    スタジオの空気がほんの少しほどけた。

    でも、すぐに渚は真顔に戻る。

    「ねぇ、ルナ」

    「うん」

    「トウマのこと、最後の日に戻って止めたいって思わなかったの?」

    照人が、少しだけ顔を上げた。

    私はすぐには答えなかった。

    その質問は、
    たぶん渚だから聞けた。

    渚は、消えるはずだった未来から戻ってきた人だった。

    だからこそ、
    戻らなかった人のことを、聞かずにはいられなかったのだと思う。

    渚は、自分の傷を確かめるみたいに続けた。

    「私の時は、戻れたじゃん。
     ルナが、戻ってきてくれたじゃん」

    「うん」

    「だったらさ。
     トウマの時も、どこかにそういう道があったんじゃないかって、少し思っちゃって」

    私は頷いた。

    「思ったよ。何度も」

    渚は黙った。

    「でも、戻れなかった」

    「……戻れなかった?」

    「うん」

    私は短く息を吐いた。

    「トウマがいる戻り先を、私は知らなかったんだと思う」

    渚は何も言わなかった。

    照人も、何も言わなかった。

    「渚の音が続いている景色は、知ってた。
     なくなっているのに、知ってた。
     だから、そっちへ手を伸ばせた」

    私は、グラスの氷を見た。

    「でも、トウマにはそれがなかった。
     あの人がどこかで生きている景色を、私は一度も知らなかった」

    「ルナ」

    「だからって、何もなかったことにはならないけどね」

    私は少しだけ笑った。

    うまく笑えたかどうかは、分からなかった。

    「たぶん、私は選んだんだと思う。
     選んだって言葉が正しいのかは、まだ分からないけど」

    渚が、小さく息を吸った。

    「でも、渚がここにいることを、後悔してるわけじゃない。
     そこは絶対に違う」

    グラスの氷が、小さく鳴った。

    「三年かけて、やっと気持ちの置き場所を見つけたと思ってた。
     でも、こうして話すと、まだ形が変わるんだね」

    胸の奥が少し痛んだ。

    でも、もう言葉にできない痛みではなかった。

    渚は缶を握る指に力を入れて、
    それからゆっくり抜いた。

    「ごめん。少し意地悪だったね」

    「分かってる」

    私は首を横に振った。

    「だから、話せた」

    照人が、ふっと息を吐いた。

    「三年かけて、歌にしたんだな」

    「うん」

    私は頷いた。

    「全部が平気になったわけじゃないけど、
     あの夏の気持ちを、そのまま音の中に置くことはできた」

    渚が小さく頷く。

    「で、あれは恋じゃないって歌った」

    私は苦笑した。

    「そこ拾う?」

    「拾うでしょ」

    「渚、そういうとこ鋭いよね」

    「ギタリストなので」

    「関係ある?」

    「ある。たぶん」

    たぶん。

    その言葉に、
    私は少しだけ笑えた。

    渚も笑った。

    照人も、コーヒーカップを持ち上げながら笑っていた。

    重かった空気が、
    完全ではないけれど、少しずつ別の形になっていく。

    その時、渚が壁に立てかけてあるアコギへ目を向けた。

    「じゃあ、歌おう」

    「急だね」

    「急じゃないよ。
     今だから、でしょ」

    照人がミキサーの前で目を丸くする。

    「いや、待て。何を?」

    渚は、壁に立てかけてあったアコギを手に取った。

    「分かってるくせに」

    照人が私を見る。

    私も、渚を見る。

    渚はもうギターを構えていた。

    「Ghosted」

    「……今?」

    「今」

    「飲み会だよ」

    「だからいいんじゃん。
     ライブじゃない夜にしか鳴らない音もあるでしょ」

    照人が小さく笑う。

    「これ、外に出したら普通に騒ぎになるやつなんだけど」

    渚は軽く笑って、
    私にギターを渡すような目をした。

    私は一度だけ迷った。

    この曲を、渚とこうして鳴らすのは、
    あの夜以来だった。

    「……あの時以来だね」

    渚が言った。

    「Re:Light?」

    渚は頷いた。

    それだけで充分だった。

    停電したZephyr Tokyo。
    アコギ一本で始めた Ghosted。
    途中から隣に入ってきた渚の音。

    私は息を吸って、頷いた。

    「じゃあ、やる」

    渚が嬉しそうに笑った。

    「そうこなくちゃ」

    照人は、ミキサーの前で一瞬だけ録音ボタンに手を伸ばした。

    指先がボタンの近くまで行って、
    そこで止まる。

    少しだけ迷って、
    彼は手を引っ込めた。

    「……録らないの?」

    渚が聞いた。

    照人は苦笑した。

    「これは今しか鳴らない音だから。
     あとで聴いたら別のものになる気がして」

    渚は小さく頷いた。

    「分かるよ。
     残さないことで残るものもあるでしょ」

    照人は何か言い返そうとして、
    結局やめた。

    「勿体無いけど……残ると後々面倒だしな」

    「照人、そういうところは信用してる」

    「そういうところは?」

    「大事なところ」

    私は笑った。

    その笑いのまま、
    ギターを構える。

    渚がイントロを鳴らした。

    柔らかい音だった。

    バンドのGhostedとは違う。
    強いドラムも、厚いベースも、歪んだギターもない。

    ただ、
    渚の指先と、
    私の呼吸と、
    吸音材に囲まれた小さな部屋だけ。

    私は声を乗せた。

    “Ghost, my first love in the rain——”

    歌った瞬間、
    胸の奥にあった古い痛みが少しだけ揺れた。

    でも、崩れなかった。

    十三歳の渋谷が戻ってくる。

    誰も立ち止まらなかった夜。
    一度だけ鳴った拍手。
    コンビニの自動ドア。
    雨上がりの路地。
    水たまりを踏むスニーカー。
    明日また来る、と笑った顔。

    全部が戻ってくるのに、
    私はもう、そこに閉じ込められてはいなかった。

    渚のギターが、
    私の声をそっと支えている。

    サビに入る少し前、
    渚が小さく息を吸う音がした。

    そして、薄くハモる。

    その声が重なった瞬間、
    私は少しだけ泣きそうになった。

    あの夏の気持ちは、
    今でも名前をつけられない。

    恋じゃないと歌った。
    でも、恋じゃなかったと言い切れるほど、軽いものでもなかった。

    だから私は、
    それを答えにしないまま、歌の中に置いた。

    渚の声が入ってきたのは、
    閉じた傷を開くためじゃない。

    あの夜と同じように、私に寄り添ってくれる。

    ギターソロに入ると、
    渚の指先が急に、曲の外へ跳ねた。

    本来は、その音がなくても成立する。
    むしろ、なくてもきれいに終われる。

    それなのに渚は、
    わざとそこへ琉球音階のワンフレーズを差し込んだ。

    沖縄の空みたいに明るくて、
    少しだけいたずらっぽい音だった。

    私は一瞬、歌うのを忘れそうになった。

    照人もミキサーの前で、
    ほんの少し口元を上げた。

    たぶん、渚なりのお礼だった。

    今日の沖縄料理と、
    照人の抜け目ない優しさへの。

    最後のフレーズを歌い終えると、
    音はゆっくり消えていった。

    スタジオに沈黙が戻る。

    でもそれは、
    さっきまでの沈黙とは違っていた。

    照人が、一度だけ拍手をした。

    ぱん、と。

    その音に、
    私は思わず顔を上げた。

    照人は自分でも気づいたみたいに、
    少し困った顔で笑う。

    「ごめん。
     なんか、一回だけでいい気がして」

    私は首を横に振った。

    「ううん」

    一回だけの拍手。

    あの春から、ずっと胸の奥に残っていた音。

    それが、
    二十歳の夜にもう一度鳴った。

    今度は、
    私を過去に戻すためじゃなくて、
    ここまで来たことを確かめるために。

    渚がギターを抱えたまま言った。

    「ほらね」

    「何が?」

    「話せたじゃん」

    私は少し笑った。

    「うん」

    「歌えたじゃん」

    「うん」

    「じゃあ、今日は勝ち」

    「何に?」

    「分かんない。
     でも勝ち」

    照人が笑う。

    「判定が雑すぎる」

    「雑な勝利も大事なんです」

    「名言みたいに言うな」

    私は笑った。

    ちゃんと笑えた。

    トウマのことを話して、
    Ghostedを歌って、
    それでも笑えた。

    それが、自分で思っていたよりずっと大きかった。

    渚がグラスを掲げる。

    「じゃあさ。
     今日の総括、いく?」

    「総括?」

    「最高の夜に乾杯」

    私は少しだけ目を伏せて、
    それからグラスを持った。

    照人もコーヒーカップを持ち上げる。

    「コーヒーで参加していい?」

    「いいよ。照人っぽいし」

    「どういう意味だ」

    渚は笑った。

    二つのグラスとカップが、
    軽く触れた。

    小さな音がした。

    「最高の夜に」

    そう言って、
    私たちは乾杯した。

    戻ってこられた人がいる。

    戻ってこなかった人がいる。

    選べたのかもしれない夏がある。

    それでも、戻らなかった夏がある。

    十三歳の夏は、戻らない。

    トウマも戻らない。

    あのコンビニ前の段差も、
    もう秘密基地ではない。

    でも、
    なかったことにはならない。

    誰かがいなくなっても、
    その人が最初に鳴らしてくれた音は、
    形を変えて残る。

    歌になって。
    記憶になって。
    誰かの胸に、少しだけ引っかかって。

    そしてまた、
    別の夜に鳴る。

    スタジオの外では、
    夏の夜がまだ続いていた。

    でも、
    それでよかった。

    こういう夜の方が、
    あとで長く残る。

    記録に残らなかった音の方が、
    本人たちの中でだけ、長く鳴り続けることもある。

    私はもう、
    そのことを知っている。

    十三歳の私は、そう思った。

    二十歳の私は、
    その続きを知っている。

    そのどこかで、
    私はまだ歌っている。

    最初に届いた、
    あの一拍を胸の奥で鳴らしながら。

    君がいなくても、夏は終わる。
    秋が来て、
    冬が来て、
    春が来る。

    そしてまた

    君のいない夏がはじまる。


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    総目次|SlowRush

     
     
    📘 Novel × 🎵 Music × 🎥 MV すべてAIで創り続けるプロジェクト。 小説「Parallel Lights」を元にした楽曲 『Before the World…』を公開中。 小説・作詞・作曲・アレンジ・MVをSuno / Sora2 / Canva など

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