
第1章|鍵のかかったピアノ
入学して数日。放課後の音楽室は、楽器より人の声でいっぱいだった。
ギターの前には、もう自分が弾いている姿まで想像していそうな一年生が集まっている。ベースの前では男子が二人、ギターとの違いを先輩に聞いていた。
ドラムの前で、先輩がスティックを回す。
床に落ちた。
先輩は何事もなかったように拾う。
見ていた一年生も何事もなかったように前を向いた。
高校では、こういう種類の優しさも必要になるらしい。
去年まで部員は少なかったと聞いたのに、今年は窓際まで人で埋まっている。
周りの話をつなげれば、理由は分かる。
Aosagi。
全国から五千組以上が応募する高校生バンド大会、`TEENAGE OVERDRIVE`で優勝したバンド。
そのメンバーらしいリアム先輩は、騒がしさから少し外れた窓際にいた。
椅子に浅く腰かけ、膝の上のベースを指先で鳴らしている。潮と陽射しで少し色の抜けた茶色い髪。眠そうにも、退屈そうにも見える顔。
低い音が一つ、床へ落ちる。
「リアム先輩、本当にいる」
近くの女子が囁いた。
「話しかけたら?」
「無理。見るだけでいい」
「返事されたら逆に困るよね」
笑い声は小さいのに、視線だけが何度も窓際へ向かう。
私は窓際ではなく、部屋の隅を見た。
グランドピアノがある。
ギターにもベースにもドラムにも説明する先輩がいるのに、鍵盤の前には誰もいない。しかも鍵盤蓋には小さな鍵がかかっていた。
軽音部では使わないのだろうか。
近くにいたギターの先輩へ聞く。
「ピアノって、軽音部でも使えますか」
先輩はアンプのつまみから手を離し、部屋の隅を見た。
「使えなくはないと思うけど。弾いてる人、あんまり見ないな。鍵もかかってるし」
「あ、そうなんですね」
予想どおりの返事で、少しだけ肩が落ちた。
やっぱり、ピアノは軽音部の外側なのかもしれない。
「使えるよ」
窓際から声がした。
私に向けられた言葉だと分かるまで、一拍かかる。
リアム先輩がこちらを見ていた。
「そこにあるし」
ギターの先輩が笑う。
「いや、鍵かかってるだろ」
「ある」
リアム先輩は制服のポケットから、小さな銀色の鍵を出した。
周囲が少しざわつく。
「なんでお前が持ってんの」
「使うから」
「答えになってるようで、なってないんだよな」
返事はない。
リアム先輩が立ち上がると、人の輪が自然に開いた。
「試す?」
「今ですか」
「今じゃないと、いつ?」
それはそうかもしれない。
でも、そういう問題ではない。
「ピアノ、使いたいんだろ」
私はうなずいた。
「使いたいです」
言ってから、心臓が一段遅れて騒ぎ始める。
リアム先輩はグランドピアノの前へ行き、鍵を差し込んだ。
かちり。
アンプの音よりずっと小さいのに、その音だけ妙にはっきり聞こえた。
鍵盤蓋が開く。
白と黒の鍵盤に、夕方の光が落ちた。
リアム先輩が低い音を一つ鳴らす。
床へ沈んだ音が、窓ガラスに触れて戻ってくる。
いいピアノだ。
「名前は?」
「シオンです」
「じゃあ、汐音」
初対面で、確認もなく名前で呼ばれた。
距離の取り方がよく分からない人だと思う。
「弾ける?」
「弾けます」
「どれくらい?」
「答え方が難しいです」
「じゃあ、弾いた方が早いな」
雑な結論だけれど、たぶん正しい。
椅子へ座り、鍵盤に指を置く。
見られている。
新入生も先輩も、さっきまでアンプやドラムを見ていた人まで、こちらを向いていた。
リアム先輩だけは、私の顔ではなく、手元と肩と呼吸を見ている。
「緊張してる?」
「してません」
即答した。
リアム先輩が少し笑う。
信じていない顔だ。
何を弾くかは決めていない。
こういう時の正解なんて知らない。でも、ここまで来て何も鳴らさない方が不自然だった。
最初の音を選ぼうとした時、リアム先輩が隣へ座った。
「え」
「連弾」
「リアム先輩、ピアノも弾けるんですか」
「弾けなかったら鍵持ってないだろ」
理屈としては分かる。
納得していいかは分からない。
「俺が下。汐音が上」
椅子は二人で座るには少し狭かった。
頭の中に並べていた音が、一度全部逃げる。
リアム先輩が低音で短い進行を置いた。
知らない曲。
たぶん、曲ですらない。
四つの和音が輪のように戻ってくる。
二周目、その上へ音を乗せる。
最初は安全な音だけ。
リアム先輩は何も言わない。
三周目で、少し外へ出た。
それでも低音は崩れない。
高い音へ上がると、その着地点に必要な和音が先に置かれる。
下がろうとすれば、戻る場所ができている。
悔しい。
試されているからではない。
私が何をするか、私より先に知っているみたいだからだ。
次の周で、直前まで考えていた音をやめた。
別の鍵盤へ指を落とす。
リアム先輩の左手が、ほんの少し止まった。
半拍にも満たない。
それでも、止まったのは分かった。
すぐに私の音を受ける和音へ変わる。
初めて追いつかせた気がした。
もう一度、予定を変える。
今度はリアム先輩が笑った。
「そう来るんだ」
「駄目ですか」
「全然」
低音が強くなる。
私はさらに外へ出た。
音楽室にいた人の気配が、少しずつ遠くなる。
見られていることを忘れたわけではない。
同じ鍵盤の上で、次にどちらが道を変えるか。それだけが残った。
私が短いフレーズを置く。
リアム先輩が形を変えて返す。
一音余らせる。
低音が空く。
そこへ入る。
言葉では何も決めていないのに、音だけは会話になっていく。
終わり方も決めていない。
最後に高い音を選んだ。
その下へ、リアム先輩の和音が同時に入る。
一つの音みたいに重なった。
残響が消える。
誰も話さない。
最初に息を吐いたのは、たぶん私だった。
後ろから拍手が起きる。
急に音楽室へ人が戻ってきた。
「ピアノって軽音でも使えるんだな」
ギターの先輩が言った。
「最初からそう言った」
リアム先輩は立ち上がった。鍵盤蓋は閉じない。
「入る?」
「軽音部にですか」
「ピアノ使いたいんだろ」
開いたままの鍵盤を見る。
軽音部にピアノの居場所があるのかは、まだ分からない。
でも、使ってはいけないと決められているわけでもなさそうだ。
「考えます」
「うん」
勧誘はそれで終わった。
リアム先輩は窓際へ戻り、またベースを膝に置く。
私はピアノの前に残った。
気になるのは、名前の呼び方でも、急に隣へ座ったことでもない。
最後の和音。
私自身も直前まで決めていなかった音に、どうして同時に辿り着けたのだろう。
窓際で、低いベースが一音鳴った。
答えにはならなかった。